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〈カタチ〉の行方 =第五章=

  第五章 吉本ばななの〈カタチ〉

第一節 多層化する〈カタチ〉

 結論を先に述べてしまうと三つの〈カタチ〉はそのままの形ではないがいずれも現代に引き継がれている。そしてこのうちのいくつかを兼ね備え(ようとし) ている作品というのも存在する。その全てを紹介することはできないので、ある程度先に論点をしぼったうえで紹介していきたい。
 三つの〈カタチ〉の行方のうち、とくに説明を要さないのが谷崎の〈カタチ〉である。これは大衆文学が常に「筋」のおもしろさを追求してきたことからも明 らかなように、現代においても衰えることのない文学のある一面である。そもそも「谷崎の」〈カタチ〉と言ったところで「筋を語る」ことそのものを谷崎が発 明したわけではない。谷崎は「日本的リアリズム」に対して「筋」を主張したのみで、「饒舌録」より前にも後にも小説のおもしろさの一つとして「筋」のおも しろさ、「語り」のおもしろさは存在し続けている。
 したがってこの章で特に説明しなければならないのは横光および芥川の〈カタチ〉の行方である。そして現代文学においてこれらの〈カタチ〉を備えた作品を 紹介するのに有用なのが辻邦生のエッセイである。必要な箇所を次に引用する。

 現代文学の混乱の大きな要素は、文章が形象(映像〈イマージュ〉) であるという認識が薄れ、情報伝達のレベルに落ち、何か事件を伝えようと書いていることだろう。吉本ばななの新鮮な衝撃は、小説散文が本来持つべき形象性 (映像〈イマージュ〉性)を純粋に取り戻した事から生まれている。『キッチン』『TUGUMI』以来、一貫して、文章は何も表現していない。文章の背後に は、どんな伝達内容も存在せず、一種の観念的具体物の関係項が、ついたり、離れたりしているだけだ。(「映像〈イマージュ〉に達すること」『群像』平成六 年三月)

 辻は(小説の)文章が持つ機能として二点をあげている。一つは映像という機能。言い換えれば、ここにはないなにかを文章を読むことによって読み手の目の 前にあらわすという機能である。もう一つは情報伝達という機能。これは引用文中にもあるように、事件や出来事を読み手に伝えるという機能である。辻は現代 文学の混乱の原因を、後者の機能に小説が偏向したために前者の機能が忘れられてしまったためであると分析する。ただ、こうした類いの指摘はいつの時代にも あった。三島由紀夫の『日本文学小史』(昭和四七年)もそうであるし、なにより第一章で紹介した述べた内容がまさにそれである。映像という機能は横光の 〈カタチ〉であり、情報伝達という機能は谷崎の〈カタチ〉に他ならない。ここで、「筋を語る」ことによって情報が伝達されるのだから後者については特に説 明は不要と思われるが、横光の〈カタチ〉がなぜ映像と結びつくかは若干の説明が必要であろうから次にそれを述べる。
 辻は「横光利一からの光」(新潮日本文学アルバム『横光利一』平成六年)という別のエッセイで次のように述べている。

横光のいう「内面の光」とは直接日常で経験した事柄からくる知覚・感覚のことであり、いわば現実に基づく狭義のリアリズムを指している。それに対して「外面の光」とは、直接の経験ではなく、ある想念に基づき、そこから呼び出される映像〈イマージュ〉のことを意味している。

彼は経験に基づく実感主義、私小説的リアリズム(「内からの光」)を 排除し、想念が呼び起す自由な映像の奔出(「外からの光」)を小説の主流と考えようとした。明治以来の伝統にしたがえば、私小説として書くべき病妻物も、 横光は『花園の思想』のごとき作品に結晶させる。

 右の論は横光のエッセイ「笑はれた子と新感覺――内面と外面について」(『文藝時代』昭和二年二月)の次の内容を前提にしている。

言葉とは外面である。より多く内面を響かせる外面は、より多く光つた 言葉である。此の故に私は言葉を愛する。より多く光った外面を。さうして、光つた言葉をわれわれは象徴と呼ぶではないか。此の故に私は象徴を愛する。象徴 とは内面を光らせる外面である。此の故に私はより多く光つた象徴を愛する。より多く光つた象徴を愛する。より多く光つた象徴を計畫してゐるものを、私は新 感覺派と呼んで來た。

 たとえば「花園の思想」において「内面」とは素材である妻の死である。しかしこれを「あるがまま」に描くことを横光は意図していない。妻の死という素材 を「より多く」「響かせる」ために「より多く光つた」「言葉=外面=象徴」を使用するのである。肺病院という「内面」が「白い背骨」「白いマント」「坂に 成つた果實」といった「言葉=外面=象徴」によって、妻の死という「内面」が「花束」「鮮麗な曙」といった「言葉=外面=象徴」によって「新感覚」的に表 現されていることは、既に分析した通りである。
 辻の指摘を「花園の思想」に則して繰り返すならば、この「白い背骨」「白いマント」「坂に成つた果實」「花束」「鮮麗な曙」といった「言葉=外面=象 徴」が「ある想念に基づき、そこから呼び出される映像〈イマージュ〉」なのである。言うまでもなく「ある想念」とは「總ゆる心の暗さを明るさに感覺しやう と」(「花園の思想」)する新感覚のことであり、あげられた「言葉=外面=象徴」はいずれも明るいイメージを持っている。今、図らずも「イメージ」という 言葉を使ったが辻はこれを「映像〈イマージュ〉」と呼んでいるのである。
 横光の意図がどうであったかはわからないが、新感覚的表現は結果として映像性という特徴を備えている。視覚にうったえる表現によって現実を異化すること に成功しているという言い方もできよう。現実に取材することで常に作家の経験から出発していた「日本的リアリズム」とは対照的に、横光は現実を「言葉=外 面=象徴」によって「あるがまま」とはまったく異なった見方が可能なように読み手の前に提示するのだが、そのために使われる言葉は視覚に訴える鮮やかな映 像表現なのである。
 話を「映像〈イマージュ〉に達すること」に戻すと、辻が「吉本ばななの新鮮な衝撃は、小説散文が本来持つべき形象性(映像〈イマージュ〉性)を純粋に取 り戻した事から生まれている」と言っているのは、「筋」を語ることに偏向していた当時の日本文学に、吉本の作品によって言葉が本来持っているもう一つの性 質、すなわち映像性が復活したということである。つまり辻は吉本の作品が横光と同様に映像的な表現を特徴とすると見ているのである。「横光利一からの光」 でも「横光利一はシェイクスピアに熱狂し吉本ばななを支持する現代の読者によってこれから真に読まれてゆく小説家といわねばならない」としめくくってい る。
 さらに辻は「文章の背後には、どんな伝達内容も存在せず」と言う。つまり吉本の作品にはメッセージが存在しないと言うのである。ところが吉本自身は 『キッチン』(昭和六三年、福武書店)のあとがきで次のように書いている。

 私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き、そのことを もう言いたくなくなるまでは何が何でも書き続けたい。この本は、そのしつこい歴史の基本形です。

 これを読む限りでは吉本はなんらかのメッセージを持って小説を書いているように受け取ることができる。それでは辻の言うことはまったくの勘違いかという とそうとも言い切れない。それは吉本の作品におけるメッセージの有無が同じように問題にされてる同時代評が存在するからだ。それを紹介する。
 『群像』昭和六三年三月の「創作合評」(出席者は竹田青嗣、日野啓三、川村二郎)において日野啓三が「満月」(『海燕』昭和六三年二月)について次のよ うな発言をしている。

 読み手としての感じですけれども、今まで僕らが親しんできた小説、 特に短篇の場合、光源が一つあるわけね。〔中略〕あらゆる場面の描写とか動きとかいうのは、その光源に収斂させていくとよくわかる〔後略〕
 この(=「満月」の)場合は、さっきもいいましたけども、非常にキ ラキラした、おもしろいあれがあっちこっちにあるわけです。でもそれを一々たどっていっても、一つの光源に行き着かないのね。(括弧内引用者)

 日野の言う「光源」はその作品が持つ固有のメッセージと解釈していいだろう。「今まで僕らが親しんできた小説」では作品内の全ての要素はそのメッセージ に従属する。ところが「満月」には「光源」が無い、つまりメッセージがないと日野は言う。
 しかし竹田青嗣は「一番ひどい状態にあったときに、こうやって自分の生き方の形を自分なりにつかんだ、それがこの小説で一番言いたいことだと思うんです よ」と述べ、メッセージの存在を主張する。それに応じて川村二郎は次のような発言をする。

 ただ、その伝えようとすること自体に、作者が思っているほどの意味 があるかな、その疑問ですね。〔後略〕
 つまり、ここで、もっともらしくといっては悪いかな、非常に真剣な 調子でいわれていること自体は、人間の生き方においてごくごく真っ当といってもいいし、当たり前といってもいいし、そういうものなので、そこに特別なメッ セージが込められているようには、僕には読めないということです。

 日野はそもそもメッセージはないと言い、竹田はあると言う。それに対して川村はメッセージの存在は認めながらそのメッセージ自体にどれほど「満月」とい う小説の価値があるのかに懐疑的になっている。ここには作品の持つメッセージそのものが即作品の価値には結びつくわけではないという問題があらわれてい る。テーマやメッセージがどれほど陳腐であろうとも、作品の価値はまた別に存在する。その価値とは一体なんなのであろうか。たとえばそれを辻は「イマー ジュ」という言葉で語ろうとしているのではないだろうか。
 いずれにせよ、このような議論は芥川の〈カタチ〉に関わる議論、つまり「筋」がないことから「要約」の不可能性とメッセージの不在を導出するのではなく 「詩」として「要約」することによってメッセージを現出させるという仕組みに関わる議論とかなり重複する問題を抱えている。
 以上から吉本の作品と横光、芥川それぞれの〈カタチ〉との関係を考えてみる必要が出てくる。論点は次の三点にしぼることができるだろう。
・「キッチン」「満月」における「形象性(映像〈イマージュ〉性)」とはどういうものか。
・「キッチン」「満月」にメッセージはあるのか。
・「キッチン」「満月」に「筋」はあるのか。

第二節 「キッチン」「満月」の分析から見えてくる吉本の〈カタチ〉

 取上げる作品は「キッチン」(『海燕』昭和六二年一一月)およびその続編である「満月」(『海燕』昭和六三年二月)である。辻の「『キッチン』 『TUGUMI』以来」という表現と、『群像』の「創作合評」が「満月」を取上げていることから、「キッチン」「満月」を分析の対象とすることに問題はな いと思われる。
 一点ずつ検討していきたい。まずは「形象性(映像〈イマージュ〉性)」についてである。これをひとまず横光の〈カタチ〉と同じ定義のものとしてとらえる とすると、「キッチン」「満月」にはどのような表現がそれにあたると考えられるだろうか。
 「花園の思想」で新感覚的表現がもっとも機能していたのは死に関わる場面であった。もし「キッチン」「満月」に同じようなシチュエーションがあれば、そ してもし横光と同じ用法であるならばそこにまず注目しなければならない。実は「キッチン」にせよ「満月」にせよ強烈なモチーフとなっているのは身近な人間 の死である。前者では主人公みかげの祖母が死に、後者では雄一の母えり子が死ぬ。肉親の死という私小説的な素材がどのように描かれているかを見ることで 〈カタチ〉の作用を確認することができるものと予想を立てることができる。
 しかし「キッチン」における祖母の死も「満月」におけるえり子の死も、作品内の時間の中で起きる出来事として描かれているわけではない。それらは作品外 の時間に起きた出来事として、回想や伝聞の形で次のように描かれている(以下、「キッチン」「満月」の引用は全て単行本『キッチン』より)。

 私、桜井みかげの両親は、そろって若死にしている。そこで祖父母が 私を育ててくれた。中学校へ上がる頃、祖父が死んだ。そして祖母と2人でずっとやってきたのだ。
 先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。
 家族という、確かにあったものが年月の中でひとりひとり減っていっ て、自分がひとりここにいるのだと、ふと思い出すと目の前にあるものがすべて、うそに見えてくる。生まれ育った部屋で、こんなにちゃんと時間が過ぎて、私 だけがいるなんて、驚きだ。
 まるでSFだ。宇宙の闇だ。(「キッチン」)

 秋の終り、えり子さんが死んだ。
 〔中略〕
 ……私、桜井みかげがそのことを知ったのは、もう冬に入ってから だった。すべてが終ってからずっとたって、やっと雄一が電話をよこしてきたのだ。(「満月」)

 いずれも、〈カタチ〉という点から見ると横光のそれが使われているとは言いがたい。「花園の思想」では妻の死に対する苦しみを苦しみとしてまずとらえ、 その上で表現形式によって印象の転換を図るという手順がとられたのに対して、「キッチン」では死に対してまず「びっくりした」「驚きだ」という反応がなさ れる。死という素材に固有の悲観的な態度や感傷がこの部分を読む限り見られないのである。それは「満月」においても同様で、えり子の死を聞いてみかげが最 初に考えるのは自分がえり子と最後に会ったときに笑顔で別れることができたかということである。そして「ああよかった、笑顔で別れた。あれが最後だ。」 と、かなりコミカルな雰囲気にしてしまう。死に対するこのコミカルな態度が感傷や悲観の入り込む余地を与えない。
 しかし作品全編が同じような表現で埋められているかと言うと、決してそうではない。身近な人間の死を体験した者の抱く感情であるとはっきりとわかる表現 が随所に出てくる。

 私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しま しな思想だと思う。
 本当につかれはてた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がき たら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、だれかがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。 (「キッチン」)

ほとんど初めての家で、今であまり会ったことのない人と向かいあって いたら、何だかすごく天涯孤独な気持ちになった。
 雨におおわれた夜景が闇ににじんでゆく大きなガラス、にうつる自分 と目が合う。
 世の中に、この私に近い血のものはいないし、どこへ云って何をする のも可能だなんてとても豪快だった。
 こんなに世界がぐんと広くて、闇はこんなにも暗くて、その果てしな いおもしろさと淋しさに私は最近はじめてこの手でこの目で触れたのだ。今まで、片目をつぶって世の中を見ていたんだわ、と私は、思う。(「キッチン」)

 足を進めることを、生きてゆくことを心底投げ出したかった。きっと 明日が来て、あさってが来て、そのうち週末がやって来てしまうにちがいない。それをこれほど面倒だと思ったことはない。きっとその時も自分が悲しい暗い気 分の中を生きているだろう、そのことが心からいやだった。胸の内が嵐なのに、淡々と夜道を歩く自分の映像がうっとうしかった。(「満月」)

 えり子さんの死を告げられて以来、ずっと私が彼に感じているこの心 細さは電話≠ノ似ている。あれ以来の雄一はたとえ目の前にいても電話の向こうの世界にいるように感じられた。そしてここは、私の今生きている場所よりも かなり青い、海の底のようなところだという気がした。(「満月」)

 もちろんこれが全てではないが、右の引用と先の引用と比べてその相違は明白である。「台所」「雨におおわれた夜景が闇ににじんでゆく大きなガラス、にう つる自分」「胸の内が嵐なのに、淡々と夜道を歩く自分の映像」「電話」「青い、海の底」といった表現はいずれも具体的で映像的である。映像的という言葉 は、実際の死に際した時のコミカルな場面ではなくむしろこうした心内描写に使うことができる。辻の言うように、映像性という点においては確かに横光の〈カ タチ〉との類似を指摘することができる。問題は横光の〈カタチ〉とはどこが違うかということである。その点について述べてみたい。
 辻は「映像〈イマージュ〉に達すること」で吉本の作品について「一種の観念的具体物の関係項が、ついたり、離れたりしている」と言っていた。また、「横 光利一からの光」では同じ内容のことを「ある想念に基づき、そこから呼び出される映像〈イマージュ〉」「想念が呼び起す自由な映像の奔出」と表現してい た。「具体物」「映像〈イマージュ〉」については特に説明を加えるべきこともないが、問題は「観念的」「ある想念に基づき」「想念が呼び起す」という表現 をどう解釈するかである。
 もちろん「台所」や「電話」が作品内のある特定の具体物を指しているわけではない(たとえばみかげ自身が使っていた台所でなければならないとか、雄一の 部屋にある電話でなければならないとかいうわけではない)という点で「観念的」であるという面もあるだろう。横光にしても「白い骨」という比喩を使ったか らといってその場に白い骨が具体物として存在するわけではない。その場にない具体物をたとえレトリックとしてでも描写に取り込むことを「一種の観念的具体 物の関係項」「想念が呼び起す自由な映像の奔出」と辻が表現しているという説明は確かに納得できる。しかしこれでは横光と吉本との相違点が見えてこない。
 実は筆者は「横光利一からの光」を最初に引用した時に「『ある想念』とは『總ゆる心の暗さを明るさに感覺しやうと』(「花園の思想」)する新感覚のこ と」であると既に述べていた。つまり具体物はまったく恣意的に選択されるわけではなく「ある想念」に基づいて選択されるのである。その意味で「観念的」で あるとすれば横光と吉本との相違は指摘することができる。横光が暗さを明るさに転換するために具体物を選択するのに対して吉本は暗さをより読み手に印象的 に伝えるために具体物を選択する、という仮定を立てたくなるのだが吉本は特別、死に関わる部分にのみ「観念的具体物」を並べているわけではない。たとえば みかげがえり子と初めて会ったときの描写は次のようになされている。

心の中にあたたかい光が残像みたいにそっと輝いて、これが魅力ってい うものなんだわ、と私は感じていた。はじめて水っていうものがわかったヘレンみたいに、言葉が生きた姿で目の前に新鮮にはじけた。大げさなんじゃなくて、 それほど驚いた出会いだったのだ。(「キッチン」)

 「光」「残像」「ヘレン」といった観念的具体物があることで出会いの驚きが、単に「驚いた」と書くだけの場合よりも効果的である。あるいは雄一とその元 恋人とのすれちがいは次のように表現されている。

 さっき宗太郎(=みかげの元恋人)は言っていた。田辺(=雄一)の 彼女は一年間つきあっても田辺のことがさっぱりわかんなくていやになったんだって。田辺は女の子を万年筆とかと同じようにしか気に入ることができないの よって言ってる。
 私は、雄一に恋していないので、よくわかる。彼にとっての万年筆と 彼女にとってと、全然質や重みがちがったのだ。世の中には万年筆を死ぬほど愛している人だっているかもしれない。そこが、とっても悲しい。恋さえしていな ければ、わかることなのだ。(「キッチン」)

 「万年筆」という観念的具体物のおかげで、男女の意識の違いというきわめて観念的な主題が明確に読み手に伝わってくる。「満月」においても事情は同じ で、みかげの心内描写は観念的具体物によって印象的になされている。

 ……ところで、さっきのこわい彼女にも雄一はドアを開けてやってい たのだとふと思ったら、私はふいにわけもわからずシートベルトが苦しくなった。そして、おお、これがしっとというものか、とわかり愕然とした。幼児が痛み を学習するように、知りはじめている。えり子さんを失って、2人はこんなに暗い宙に浮いたままで、光の河の中を走り続けていながらひとつのピークを迎えよ うとしていた。(「満月」)

 2人の気持ちは死に囲まれた闇の中で、ゆるやかなカーブをぴったり と寄りそって回っているところだった。しかし、ここを越したら別々の道に別れはじめてしまう。今、ここを過ぎてしまえば、2人は今度こそ永遠のフレンドに なる。(「満月」)

 以上より、「キッチン」「満月」にあらわれている右のような表現は横光の〈カタチ〉と映像性や具体物という点では同一と考えていいが、横光が一貫して明 るいイメージの具体物を選択して「内容=素材」(横光の言葉で言えば「内面」)由来の暗さを明るさに転換していたのに対して、吉本はどんな「内容=素材」 であれそれをより印象的に効果的に読み手に提示するために具体物を選択しているという点で両者は異なっていると言うことができる。ここからどのような結論 が導き出せるだろうか。
 意地悪な見方をすれば横光がはっきりとした目的に基づいて新感覚的表現を(理論上は)用いているのに対して、吉本は場面場面で個別対応的に観念的具体物 を並べていると言うことができる。身近な人間の死に対する淋しさというのはこれらの小説の重大なモチーフになっていてそれに関わる部分には観念的具体物が 高い割合で登場するものの、たとえば引用した部分で確認したように特に死とは関わりのない他の場面でも観念的具体物が登場する。このことを横光の方法とは 異なった使われ方がされているという意味で否定的に見るならば、個別対応的と言うこともできる。しかしあくまでもそれは横光の〈カタチ〉と比較した場合に ついてのみ言えることであり、「キッチン」「満月」における固有の価値というのは別に存在するという可能性も充分に考えられる。つまり、一見するとどんな 「内容=素材」であれそれをより印象的に効果的に読み手に提示するために具体物を登場させているように見えるのだが、実は横光同様に吉本も「ある想念」に 基づいて選択された「内容=素材」に対してのみ観念的具体物による表現を施しているのではないか、という可能性である。もう少し正確に言うと、横光とは異 なる「想念」にしたがって吉本は観念的具体物を選択しいるのではないか、という可能性である。このことを検討するためにはメッセージとの関係に触れなけれ ばならない。なぜなら横光は新感覚的表現よって「總ゆる心の暗さを明るさに感覺しやう」というメッセージを読者に届けようとしたからだ。表現とメッセージ とが直結しているのである。吉本がその表現によってどのようなメッセージを実現しようとしているのかは、またが明らかになっていない(ここでは映像性につ いての分析に限るからくわしくは次に譲る)。
 話を表現に限って言うと、少なくとも「想念」があるとした場合それがなんであるかは、吉本の場合表現されているものを見てもわかりにくいことは確かであ る。それは一読した限りでは表現に一貫性が無いためで、そのために観念的具体物による表現も「効果的」「印象的」というきわめて曖昧な言い方でしか評価す ることができなかった。日野も結局「満月」については「メッセージ」ではなく「気分」をあらわしたい小説であるとしながら「基本的な価値判断は、僕はまだ 保留ですね」「技術的には意地悪く見てゆきたい」と締めくくってしまう。一体、メッセージはあるのだろうか。あるとすれぱそれはなんなのだろうか。
 そこで第二点目、すなわちメッセージの有無に関する分析に移る。これは第一、第三の論点にも大きく関わるところなので筆者の総合的な判断も下していきた いと思う。ここでは作品論的アプローチをする必要があるので「キッチン」と「満月」とはそれぞれ別に論ずることにする。
 「キッチン」の「筋」を要約する作業から始めたい。その準備として次に「キッチン」の大枠のシークェンスを列挙する(今から行うのはシークェンス分析を 経由した要約である。「要約」を厳密に定義づけしている本稿の性格上、一応断っておく)。次に箇条に書き出すのは各々完結した一つのシークェンスである。

・みかげの祖母が死ぬ。
・みかげは、一人で暮らすには広すぎる部屋を引っ越そうと考える。
・祖母の知人である雄一がしばらく家に来ないかと誘いに来る。
・夜、みかげは雄一の部屋へ行き、そこの台所を気にいる。
・雄一の母親だというえり子と出会う。
・えり子は実は男だと雄一から聞かされる。
・翌朝目覚め、みかげはえり子と話をする。
・居候生活が始まる。
・元恋人の宗太郎から電話をもらって会う。
・宗太郎からみかげと雄一のことが大学で噂になっていること、雄一が恋人にそのことでひっぱたかれたことを聞かされる。
・その日の夜、雄一がワープロを買って帰ってくる。
・ワープロでみかげの引越しはがきを作り始めるが、宗太郎から聞いたことについて話をする。
・雄一はかまわないと言うがみかげは雄一の部屋を出て行くことを決心する。
・えり子がジューサーを買って帰ってくる。
・別の日、雄一の部屋に戻るバスの中で、おばあさんにぐずる子供をうらやましく思い、バスを降りて泣く。
・雄一の部屋に戻るとみかげはすぐに寝てしまい、引き払った部屋の台所を掃除していたところへ雄一がやってきていっしょに歌を歌うという夢を見る。
・目が覚めると雄一がいて、同じ内容の夢を見ていたことに驚く。
・「ここにだって、いつまでもいられない」とみかげは改めて思う。

 これを読んでわかるのはシークェンス間の因果関係が極めて希薄だということだ。しかし芥川のように「筋」そのものを否定しようとしているのではない。個 々のシークェンスを見れば、みかげが引っ越そうとしているところに雄一があらわれるという設定や、宗太郎の話を聞くことによって雄一の恋人とのけんかを 知ったり、同じ夢を見るくだりなどは非常に物語的である。だがそれら個々のシークェンスの間に「筋」としての必然的な展開を見ることはできない。物語的な 場面は複数あるのだが、それらを包括する大きな物語としての「筋」が描きにくいのである。みかげと雄一とその恋人との間のいざこざが終始描かれるわけでも なければ、みかげが雄一の部屋に祖母の死から受けたショックを癒すために居候し、そこから出て行くプロセスが追跡取材風に展開されているわけでもない。 「キッチン」は全体としてなにかある事件なり出来事の一部始終が語られる小説ではないし、始まりがあって終りがある一つの「筋」を語ることによって何らか の目的を達しようという(たとえば「メッセージ」を読み手に伝えるとか)小説ではないのだ。「キッチン」は谷崎のような「筋」志向の小説ではないと言え る。
 しかし本当に考えなければならないのはこうした書き方によってなにが達成されるのかということである。「筋」の問題と切り離せないのが「メッセージ」の 問題であったが、「筋」の否定が「メッセージ」の否定に直結しないことは芥川の分析によって証明されている。芥川の手法は一見ばらばらに見える場面のそれ ぞれに共通のメッセージが隠されており、一つのメッセージがシチュエーションを変えながら反復されるというものであった。当然、ここで「キッチン」もまた 同じ仕組みになっているのではないかという疑問が浮かぶ。まして吉本自身の「私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き、そのことをもう言いた くなくなるまでは何が何でも書き続けたい」という言葉を尊重するならば、このことを確認する必要はある。
 メッセージの反復ということを意識して作品を読むと、二つの要素が繰り返されていることに気がつく。
 一つは「さびしさ」「悲しさ」という感情だ。亡くなった祖母との生活についてみかげは次のようにその「淋しさ」を吐露する。

 どんなに夢中な恋をしていても、どんなに多くお酒を飲んで楽しく 酔っぱらっていても私の心の中でいつも、たったひとりの家族を気にかけていた。
 部屋のすみに息づき、押してくるそのぞっとするような静けさ、子供 と年寄りがどんなに陽気に暮らしていても、うめられない空間があることを、、私はだれにも教えられなくてもずいぶん早くに感じ取った。

 田辺家に初めて行った時にもみかげは「何だかすごく天涯孤独な気持ちに」なる。また、雄一に対しても自分と同じ「淋しさ」を感じる。次の引用は右の引用 のすぐ後に続く部分である。

 雄一もそうだと思う。
 本当に暗く淋しいこの山道の中で、自分も輝くことだけがたったひと つ、やれることだと知ったのは、いくつの時だろうか。愛されて育ったのに、いつも淋しかった。

 えり子に対してもみかげは「淋しさ」を感じる。

 彼であるところの彼女は、にこにこしていた。よくTVで見るNYの ゲイたちの、あの気弱な笑顔に似てはいた。しかし、そう言ってしまうには彼女は強すぎた。あまりにも深い魅力が輝いて、彼女をここまで運んでしまった。そ れは死んだ妻にも本人にさえ止めることができなかった、そんな気がする。彼女には、そういうことが持つ、しんとした淋しさがしみこんでいた。

 宗太郎と会ったときにも同様である。

 それ、その健全さがとても好きで、憧れで、それにとってもついてい けない自分をいやになりそうだったのだ。昔は。
 彼は大家族の長男で、彼が家から何の気なしに持ってくる何か明るい ものが、私をとてもあたためたのだ。
 でも私はどうしても――今、私に必要なのはあの田辺家の妙な明る さ、安らぎ――で、そのことを彼に説明できるようには思えなかった。別に、する必要もなかったけれど、彼と会うといつもそうだった。自分が自分であること がもの悲しくなるのだ。

 雄一とその恋人のことについても「万年筆」にたとえながら「とっても悲しい」と言う。バスの中で見かけたおばあさんにぐずる子供をうらやんで思わず涙を 流す場面もある。指摘すべきは、いずれも「淋しさ」「悲しさ」という表現で語られながらもまったく同じ「淋しさ」や「悲しさ」が繰り返されているわけでは 無いということだ。祖母との生活で感じた「淋しさ」とえり子に対して感じた「淋しさ」とは違うし、宗太郎と会ったとき自分に対して感じた「悲し」さと雄一 と恋人とのことに対して感じた「悲し」さとはやはり違う。同じ言葉で語られながらもそれらは互いに微妙に異なっている。しかし吉本のメッセージはさまざま な「淋しさ」「悲しさ」を描き出すことにはない。それは、もうひとつ反復される要素があるからだ。
 二つ目は「台所=厨房=キッチン」の存在である。そしてその登場にはある法則がある。

 本当につかれはてた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がき たら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、だれかがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。

 右のような「思想」を持つみかげは「田辺家にひろわれる前は、毎日台所で眠っていた」というから、彼女にとってまず台所はそこでなら死んでもいい場所、 つまり究極の安らぎの場所である。祖母の死によって失意の底にあったみかげを台所が救う。
 雄一の部屋に初めて行った時も、家と住人の好みをどこで判断するタイプかと問われてみかげは「台所」と答える。

 うんうんうなずきながら、見て回った。いい台所だった。私は、この 台所をひとめでとても愛した。

 この表現は台所が気に入ったという次元で終わる話ではなく、住人である雄一とえり子に対する愛情表現でもある。「信用できるのか、何かまだひそんでいる のか、この人たちのことは聞けば聞くほどよくわからなくなった」と雄一とえり子に対する不安を感じながらも「しかし、私は台所を信じた」と決意するのは、 突然の出会いに対する不安を台所が救っていることの証しである。
 バスの中で見かけたおばあさんにぐずる子供をうらやんで思わず涙を流したあとの場面にも「台所」が登場する。

 ふと気がつくと、頭の上に見える明るい窓から白い蒸気が出ているの が闇に浮かんで見えた。耳をすますと、中からにぎやかな仕事の声と、なべの音や、食器の音が聞こえてきた。
 ――厨房だ。
 私はどうしようもなく暗く、そして明るい気持ちになってしまって、 頭をかかえて少し笑った。そして立ちあがり、スカートをはらい、今日は戻る予定でいた田辺家へと歩き出した。
 神様、どうか生きてゆけますように。

 そもそも台所は食べ物を作る場所であることを考えれば(ここでのみ「厨房」と表現されているのも、ものをつくる場所という意味合いをより含ませたい意図 のあらわれであるととれる)、ここでの「台所」が再生の象徴として使われている予想がつく。祖母の死に対する悲しみをここでも台所が救っている。
 このように、繰り返し出てくる「台所=厨房=キッチン」はくり返される「淋しさ」「悲しさ」を救い、癒す機能を持っている。「キッチン」という小説では 「淋しさ」「悲しさ」という言葉で繰り返されるマイナスの雰囲気が、「台所」「厨房」「キッチン」という言葉で表されるプラスの雰囲気によって毎度救われ ているのである。ここに吉本のメッセージがあると考えてよいだろう。「もっともっと大きくなり、いろんなことがあって、何度でも底まで沈みこむ。何度も苦 しみ何度でもカムバックする。負けはしない。力は抜かない」というメッセージである。小説の末尾は次のようになっている。

 夢のキッチン。
 私はいくつもそれをもつだろう。心の中で、あるいは実際に。あるい は旅先で。ひとりで、大ぜいで、ふたりきりで、私の生きるすべての場所で、きっとたくさんもつだろう。

 この決意と確信は、幾度つらい目にあってもその都度「キッチン」が救ってくれたことに対する信頼から生まれている。その語に特有のコノテーションがまだ 乏しい外来語である「キッチン」という言葉が使うことでそこに既出の「台所」の意味も「厨房」の意味も含ませている。「失意→キッチンによる救い」という パターンをくり返すことによって「何度も苦しみ何度でもカムバックする」というメッセージがあらわれるというこの小説の仕組みは芥川の〈カタチ〉をかなり 忠実に引き継いでいると言えよう。芥川と微妙に異なるのは、芥川が各シークェンスに同一のメッセージが隠れていてそれが作品全体のメッセージにもなってい るのに対して、この場合はくり返されるモチーフがそのままメッセージとなるのではなくモチーフがくり返されるそのことによってメッセージが生み出されてい る。つまり、「失意→キッチンによる救い」のパターンが一度しかあらわれなかったならば、「夢のキッチン。/私はそれをいくつもいくつもそれを持つだろ う」という確信には至らない。何度か繰り返されることによって初めてそれは確信に変わるのである。
 ところで今、分析として引用した部分だけを読めば確かにこのメカニズムはくっきりと浮かび上がるのだが、しかし実際問題として、というのはつまり読者が 作品をページを追って読み進めるというプロセスを考慮するとこのメッセージは非常に読み取りにくい。その読み取りにくさに起因する混乱は『群像』「創作合 評」にもあらわれていた。その原因として考えられるのはやはり、芥川ほどメッセージに直結するシークェンスのみで小説が組み立てられているわけではないと いう点である。宗太郎の登場やえり子がおかまである必要性など、「何度も苦しみ何度でもカムバックする」というメッセージを最優先させたときどれほど有効 なのかは未知数であるし、仮に不要だったとしてもこの小説でえり子のキャラクターとしての存在価値は否定できない。あるいは「悲しみ」「淋しさ」も様々な バリエーションで描かれるために、(メッセージが反復されるものだとしたら)それが主題なのではないかと誤解してしまう可能性もある。また、「台所=厨房 =キッチン」も機能としての統一性はあるが表徴する意味は一つに収斂されない。住む人間の象徴であったり、食べ物を作る場所であったりする。
 このことは先の分析で保留にした表現とメッセージとの関係にも言える。もし横光にならって表現をメッセージに従属するものととらえるならば、「悲しみ」 「淋しさ」が「台所=厨房=キッチン」によって救われる部分にのみ「形象性(映像〈イマージュ〉性)」のある特徴的な表現がなされなければならない。もち ろんそういう部分のあるのだが、全てが法則どおりであるわけではない。そして法則から外れる部分にもかなり「非常にキラキラした、おもしろい」ものがある ためにそれをメッセージに関わるものだと勘違いしてしまうのである。結局そうした誤解を積み重ねても一つのメッセージに収斂されることはない。辻の「文章 の背後には、どんな伝達内容も存在せず、一種の観念的具体物の関係項が、ついたり、離れたりしているだけだ」という発言をはややこのことを拡大視して引き ずられすぎてしまっている感じがする。メッセージは確かにあるのだ。芥川の〈カタチ〉を骨格として「キッチン」は確かに持っているのだが、芥川がそのシー クェンスを全てメッセージに従属させていたのに対して吉本は必ずしも全てを従属させているわけではない。また、「筋」との関係を改めてここで言い直すと、 くり返される「失意→キッチンによる救い」というパターンにそれぞれ個別の「筋」が存在する、と言える。芥川の場合くり返されたのは「なぞかけ→種明か し」というパターンだったが吉本の場合「失意→キッチンによる救い」という「筋」を持つシークェンスだということである。そしてまた、横光の〈カタチ〉に ついては、(機能としてではなく)結果として(つまり映像性という点では共通項があるということ)「キッチン」は確かに持っているのだが、横光が理論上は (と、いちいち断るのは実作では川端の指摘するような結果になってしまったため)機能に統一性を持たせていたのに対して吉本は必ずしもそうしていない。結 論としてはこの程度にまとめられるだろう。
 もちろんこれは「キッチン」に対して否定的な見解を示しているのではなく、分析という性格上一義的な読み方を作品に対して押し付けているだけで、それが 右のような結論になるということは「キッチン」が多義的な豊かな小説であることを逆に証明している。
 それでは「満月」ではどうだろうか。同じ手順で分析していくことにする。まずはシークェンスを書き出してみる。

・みかげが雄一からの電話でえり子の死を知る。
・みかげは雄一の家へ行く。
・二人は話をする。
・翌日雄一は大学へ行き、みかげは台所で夕食の支度をする。
・雄一が帰ってきて二人で夕食をとる。
・翌日みかげの職場に雄一を好きだと言う女性が来てみかげを責める。
・翌日えり子の知人から雄一を旅行に行かせたという話を聞き、雄一の宿泊先を知らされる。
・翌日、みかげは仕事の取材で伊豆へ行く。
・夜におなかがすいたみかげは街へ出てカツ丼を注文する。
・カツ丼ができる間にみかげは雄一に電話をして話す。
・電話を切ってみかげはカツ丼を食べる。
・みかげはお土産にもう一つカツ丼を作ってもらう。
・みかげはタクシーを拾って雄一の宿泊先まで行く。
・雄一の泊まっている部屋に窓から侵入する。
・雄一はカツ丼を食べる。
・みかげは宿に戻る。
・仕事の最終日、みかげの泊まっているホテルに雄一から電話が入る。

 「キッチン」に比べるとかなりはっきりとした形の「筋」が描かれているのがわかる。「創作合評」で竹田青嗣は「話の全体の筋に、どこか現代コミック風の 運びがありますね。例えばカツ丼を食べて、そのおいしさに感動して、ちょっと微妙な形になっている恋人の所へそれを持っていって二人がつながる、そういう 筋立てが、ウェルメイドだなという感じもあるんですね」と言って「筋」を評価する。確かにそれはある面では真実なのだが、ある面ではやはり「キッチン」と 同じ性格を「満月」も持っていると言える。それは、「満月」全体として一本の「筋」を描くことができないという点である。もし物語が伊豆の取材旅行から始 まり雄一にカツ丼を届けるエピソードが語られ伊豆から戻ってくるところで終われば「満月」は全体としてある出来事の一部始終が語られる小説ということで谷 崎と同じ〈カタチ〉を使用していることになるのだが、そうではない。同じことの繰り返しに成るが「満月」もまた、始まりがあって終りがある一つの「筋」を 語ることによってなんらかの目的を達しようという小説ではない。
 メッセージの反復についてはどうだろうか。話の順番を追いかけながら引用していく。
 えり子が死んだことに対してみかげは次のような感想をもらす。

 偉大な人物はいるだけで光を放ち、まわりの人の心を照らす。そし て、消えた時にどうしようもなく重い影を落とす。ささやかな偉大さだったかもしれないけれど、えり子さんはここにいて、そしていなくなった。

 そうして悲しみに飲み込まれそうになったみかげは台所に立つ。

みがき粉でシンクをごしごしこすり、ガス台をふき、レンジの皿を洗っ て、包丁をとぐ。ふきんを全部洗ってさらし、乾燥機にかけてごうんごうんと回っているのを見ているうちに、心がしっかりしてきたのがわかった。どうして私 はこんなにも台所関係を愛しているのだろう、不思議だ。魂の記憶に刻まれた遠いあこがれのように愛しい。ここに立つとすべてがふり出しに戻り、何かが戻っ てくる。

 「キッチン」の一場面にもあったように「満月」においても「台所」は再生の場所をまず意味する。ここに既に「キッチン」と同じ「何度も苦しみ何度でもカ ムバックする」というメッセージがあらわれている。それは「満月」の場合、闇と月の光によって象徴される。

 どうしても、自分がいつか死ぬということを感じ続けていたい。でな いと生きている気がしない。だから、こんな人生になった。
 闇の中、切りたった崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息を つく。もうたくさんだと思いながら見あげる月明かりの、心にしみ入るような美しさを、私は知っている。

 光と闇という対立関係は雄一にもあてはまってしまう。親であるえり子を無くして天涯孤独となった雄一が失意のどん底にある時にみた「光」は次のように書 かれている。

「電話が、光って見えてた。」彼も笑って言った。「夜道を、酔って 帰ってくると電話ボックスって明るく光ってるだろ。まっ暗な道で遠くから見ても、よく見えるだろ。ああ、あそこにたどりついて、みかげに電話しなきゃ、× ××―××××だって、テレホンカードをさがして、ボックスの中まで入るんだよね。でも今、自分がどこにいて、これから何を話すのかを考えると、とたんに いやになって電話するのをやめる。帰ってばたんと寝るとみかげが電話で泣いて怒る夢を見るんだ。」

……ここのところ、自分でもあんまりまともに食ってないんで、食事つ くろうかなと何度も思った。でも食べものも光を出すだろう。それで食べると消えちゃうだろう? そういうのが面倒で、酒ばかり飲んでた。

 決してみかげの境遇にのみメッセージが表現されているわけではない。そこにこの小説の持つメッセージの幅が証明されている。
 みかげの職場に雄一を好きだと言う女性が来てみかげを責めた時もみかげはその女性に対して次のように「いやな悲しさ」を感じる。

 それで恋がかなうわけでもないのに、朝のあの電話のあとですぐに私 のことを調べて、仕事場をつきとめ、住所をひかえ、どこか遠くからここまで電車に乗ってくる。そのすべてが、何と悲しくて救いのない暗い作業だろう。わけ のわからない怒りを駆りたててこの部屋に入ってきた彼女の頭の中や、毎日の気持ちを想像したら、私は心からもの哀しくなってしまった。

 この感情を救うのもまた「光」である。その日、置きっぱなしの歯ブラシとタオルを取りに田辺家に寄って雄一に自宅まで車で送ってもらう途中に次のような 描写がある。

 街は夜だ。信号待ちのフロントグラスの前をゆきかう人々は、サラ リーマンもOLも、若者も年寄りもみんな光って美しく見える。静かに冷たい夜のとばりの中を、セーターやコートに包まれて、みなどこかしらあたたかいとこ ろを目指してゆく時刻だ。

 わかる。空気の色や、月の形、今を走る夜空の黒でわかる。ビルも街 灯も切なく光っている。

 どんなに失意のどん底にあっても、いやどん底にあるからこそその深い闇の中で光るものが感じられる。誰もが光の射す方へ進みたいと思っているはずで、そ のことにおいて人間を区別することなどできない。そういうみかげの思いが右の描写にこめられていたことが、この場面の最後で明かされる。

 私が彼女よりも勝っているとか、負けているとか、だれに言えよう。 だれのポジションがいちばんよかったかなんて、トータルできないかぎりはだれにもわからない。しかもその基準はこの世にないし、ことにこんな冷たい夜の中 では、私にはわからない。全然、見当もつかない。

 なぜ「ことにこんな冷たい夜の中では、私にはわからない」のか。それは、本当に絶望した時というのは、人間は誰もが明るい方へ進みたいと願っているとい うことがいやでも感じられてしまい、誰が勝ったとか負けたとかいう問題が問題にならないからだろう。もちろんそれは単なる比喩ではなくみかげの状況説明に もなっている。引用した部分の「彼女」というのは昼間みかげの職場にやってきた女性のことを指しているのだ。
 同じメッセージはまだ繰り返される。生前のえり子がまだ男だったころにその妻がガンで死んだときの話をしたときのことをみかげは思い出す。その時、えり 子は次のように言っていた。

世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、いやなことがめぐっ てくる率は決して、変わんない。自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくした方がいい、って。

 その話をされたときにはみかげはその言葉の意味がわからなかったが、「今は、吐きそうなくらいわかる」と言う。

なぜ、人はこんなにも選べないのか。虫ケラのように負けまくっても、 ご飯を作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでゆく。それでも生きてゆかなくてはいけない。
 ……今夜も闇が暗くて息が苦しい。とことん滅入った重い眠りを、そ れぞれが戦う夜。

 自分では決められない、選べないマイナスの部分が人生にはある。それはえり子にとっては妻の死であったし、みかげにとっては祖母の死であり、雄一にとっ てはえり子の死であった。それでも選べる部分は、決められる部分は「明るくした方がいい」。厳密に同じメッセージが繰り返されているかと言われればそうで はないのだが、やはり光と闇という対立項はここにも生きている。
 そして物語のクライマックスであるカツ丼を届けるシークェンスであるが、ここはどうだろうか。みかげは取材先の伊豆で夜、めし屋から雄一に電話をかけ る。そしてたわいも無い会話をして受話器を置く。

 とたん、ものすごい脱力感がおそってきた。〔中略〕夜は今日も世界 中に等しくやってきて、過ぎてゆく。触れあうことのない深い孤独の底で、今度こそ、ついに本当のひとりになる。
 人は状況や外からの力に屈するんじゃない、内から負けがこんでくる んだわ。と心の底から私は思った。この無力感、今、まさに目の前で終わらせたくない何かが終わろうとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできな い。どんよりと暗いだけだ。
 どうか、もっと明るい光や花のあるところでゆっくり考えさせてほし いと思う。でも、その時はきっともう遅い。

 雄一とのことを、今こそなんとかしなければ「2人は今度こそ永遠のフレンドになる」というのに、みかげは無力感にさいなまれる。「もっと明るい光や花の あるところでゆっくり考え」てから雄一のもとへ行っては遅い。考えている余裕など無い。そこへ救いの手をさしのべるのが「カツ丼」という台所にまつわる要 素であり、そして光がここでも重要な役割を果す。カツ丼のおいしさに驚いたみかげは雄一にと思わずもう一つ持ち帰りように作ってもらう。そしてタクシーに 乗り込んで雄一のいるI市まで飛ばす。

 月は高く明るく、星をかき消して夜空を渡ってゆく。満月だった。雲 にかくれ、さらりとまた姿をあらわす。車の中は熱く、息でガラスがくもった。木々や畑や山々のシルエットが切り絵のようにゆきすぎる。トラックがときおり すごい音で追いこしてゆき、しんと静まるその後で、アスファルトに月が光る。

 道中を満月の光が見守っているようである。「どんよりと暗いだけだ」という言葉の後だけに、満月の存在は無視することができない。
 雄一の泊まっている宿につくと、みかげは雄一がどの部屋に泊まっているかがわからず「途方にくれて」しまう。しかし「なぜか私は確信」する。

 つくりものの欄干が岩に渡してあり、高くから細い滝がざあざあ音を たてて、こけむした岩へと落ちていた。冷たそうな水しぶきが闇に白い。その滝全体を、すごい明るさのみどり色のライトがあちこちから照らしていて、不自然 なまでにくっきりした庭木の色をきわだたせている。〔中略〕
 ライトを反射してみどりに光る、いちばん手前の角部屋が雄一の部屋 だ。

 そして実際そこは雄一の泊まっている部屋であった。庭のライトの光に導かれて、みかげは雄一と会うことができたのである。みかげは「旅館の屋根を見上げ て、その向こうに見える光る月や雲を見つめて」思う。

 人はみんな、道はたくさんあって、自分で選ぶことができると思って いる。選ぶ瞬間を夢見ている、と言った方が近いのかもしれない。私も、そうだった。しかし今、知った。はっきりと言葉にして知ったのだ。決して運命論的な 意味ではなくて、道はいつも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、くり返す日々が自然と決めてしまうのだ。

 なぜ、この時点でこのような確信を抱くのだろうか。それは、もし「道はたくさんあって、自分で選ぶことができる」のならばめし屋で受話器を置いたときの 無力感が正しかったということになるからだ。「目の前で終わらせたくない何かが終わろうとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできない」自分が もし道を選択するならば「2人は今度こそ永遠のフレンドになる」はずだった。しかしそうはならなかった。そしてそれは決してみかげの自由意志による選択で はなくて、カツ丼に導かれ、満月の光に導かれ、庭の光に導かれた結果である。その結果がみかげの最初から望むものであったのだから、みかげはもはや意志の 選択など信じない。「道はいつも決まってい」て、その道へ必ず光が導いてくれるはずだという確信だけがある。
 この確信を得てからのみかげにとって「闇はもう死を含んでいない」。そして雄一に対して「雄一さえもしよければ、2人してもっと大変で、もっと明るいと ころへ行こう」と言う。
 取材の最終日の夜、みかげは一人浜辺へ出る。

 きっとまだこれから、楽しいことも苦しいことも、いくらでもあ る。……たとえ、雄一がいなくても。
 しんと、私は思っていた。
 はるか遠くを灯台の明かりがまわっている。くるりとこちらを向き、 また遠ざかり、波の上に光る道を作る。
 うん、うんと納得して、私は鼻水をたらしながらホテルの部屋へ戻っ た

 「光る道」を見て「うん、うんと納得」する。同じ確信がここでも反復されていることがわかる。
 以上、話を追いながらメッセージのありかを分析してみたがその仕組みは「キッチン」とまったく同じであることがわかる。「キッチン」では「失意→キッチ ンによる救い」というパターンをくり返すことによって「何度も苦しみ何度でもカムバックする」というメッセージがあらわれたが、「満月」では「闇→光によ る救い」というパターンをくり返すことによって「道はいつも決まっている」というメッセージがあらわれた。しかし「キッチン」と比べて異なるのは、「キッ チン」ではパターンの繰り返しが「夢のキッチン。/私はいくつもいくつもそれをもつだろう」という確信に変わるきっけが明確に語られないのだが(あるいは くり返されるそのことが根拠であることは既に述べた)、「満月」では決定的な継起というものが存在する。カツ丼を届けるというシークェンスである。「キッ チン」ではくり返されるパターンにのみ「筋」がありメッセージへ昇華される段になると唐突さが否めなかったが、「満月」ではメッセージへ変化する継起にも 「筋」が存在するという手の込んだ作りになっている。カツ丼を届けることで光への信頼を獲得することで闇を肯定し「道はいつも決まっている」という強い確 信に至るというシークェンスはまことに筋らしい筋である。とはいえ、このシークェンスは「満月」という小説の全体ではなく部分であり「満月」そのものが右 のような「筋」に貫かれているわけではないから、このことで特に「キッチン」で下した結論と異なった結論が出てくるわけではない。したがって改めてここで 結論をまとめることはしない。
 一点だけ問題が残る。「創作合評」での川村二郎の発言をもう一度引く。

ここで、もっともらしくといっては悪いかな、非常に真剣な調子でいわ れていること自体は、人間の生き方においてごくごく真っ当といってもいいし、当たり前といってもいいし、そういうものなので、そこに特別なメッセージが込 められているようには、僕には読めないということです。

 「非常に真剣な調子でいわれていること」というのはまさに「満月」におけるメッセージの部分で、竹田青嗣はそれを「日常の関係の中で自分ができる最善の ことをしていれば、自分が何か選ぶとか選ばないとかではなくて、自分が抱えていたものが自分を選ばせてくれる」というふうにまとめていて、川村の発言もそ れを受けているのだが、しかし果たしてこのメッセージは「当たり前」なのだろうか。百歩譲って「当たり前」だとしても、「特別なメッセージが込められてい るようには、僕には読めない」というのは作品に則した意見ではなく単に個人的な意見を述べているのに過ぎないとしか思えない。「創作合評」はこの発言のあ と作品を色眼鏡にした「現代若者論」に傾斜してしまい、若い作家が若者を主人公にした作品を書いた場合の同時代評価がいかに難しいかを物語っているように も思われる。

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「卒論の下書き(六)」

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