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〈カタチ〉の行方 =第三章=

  第三章 谷崎潤一郎の〈カタチ〉

第一節 理論面から見た谷崎の〈カタチ〉

 まず谷崎が「筋」を主張する根拠であるが、それは「話の筋論争」の谷崎の意見発表の場ともなった「饒舌録」に次のように書かれている(以下、谷崎作品の 引用は全て中央公論社『谷崎潤一郎全集』昭和四一〜四三年より)。

現在の日本には自然主義時代の惡い影響がまだ殘つてゐて、安價なる告 白小説體のものを高級だとか深刻だとか考へる癖が作者の側にも讀者の側にもあるやうに思ふ。此れは矢張一種の規矩準縄と見ることが出來る。私はその弊風を 打破する爲めに特に聲を大にして「話」のある小説を主張するのである。

 これは谷崎が「日本的リアリズム」に対抗して「筋」を主張しているということの確認である。それでは谷崎の〈カタチ〉とは具体的にどういうものなのか。 同じく「饒舌録」から適宜引用しながら概観してみたい。
 まず谷崎は「主義」ではなく「癖」であり「趣味」であると断った上で小説の虚構性への志向を開陳する。

いつたい私は近頃惡い癖がついて、自分が創作するにしても他人のもの を讀むにしても、うそのことでないと面白くない。事實をそのまゝ材料にしたものや、さうでなくても寫實的なものは、書く氣にもならないし讀む氣にもならな い。

事實小説でもいゝものはいゝに違ひないが、たゞ近年の私の趣味が、素 直なものよりもヒネクレたもの、無邪氣なものよりも有邪氣なもの、出來るだけ細工のかゝつた入り組んだものを好くやうになつた。

 さらに「そこで私は成るべく現代に縁の遠い題材のものを讀むことになる」と、「題材=素材」についても「日本的リアリズム」と逆行する立場を明確にす る。そして「筋の面白さは、云ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに藝術的價値がないとは云へない」と小説の「筋=構 造」の価値を説く。ここに反日本的リアリズムの意味を読み込むことができるのは「日本的リアリズム」が「あるがまま」に出来事を起きた順番に忠実に言葉で 再現することを指向するのに対して、「筋=構造=形式」を意識するということは「題材=内容」の劇的な効果を計算することであり、なんらかの形で「題材= 内容」に能動的な加工を施すことだからである。能動的な加工とはこの場合、起承転結を意識した展開に始まり、出来事の起こる順番を差し替えたり、故意に書 かない部分を設けたり、伏線を張ったりといったことが一般的に考えられる。
 さて、谷崎は「筋」のある小説として中里介山の『大菩薩峠』とスタンダール『The Charterhouse of Parma』(谷崎は英訳で読んでいる)とをあげている。前者については「大衆文藝」ながらその文章が持つ「品格」を賞賛するにとどまっているが後者につ いては次のように言っている。

筋も隨分有り得べからざるやうな偶然事が、層々壘々と積み重なり、ク ライマツクスの上にもクライマツクスが盛り上がつて行くのだが、かう云ふ場合、餘計な色彩や形容があると何だか嘘らしく思へるのに、骨組みだけで記録して 行くから、却つて現實味を覺える。小説の技巧上、嘘のことをほんたうらしく書くのには、――或はほんたうのことをほんたうらしく書くのにも、――出來るだ け簡淨な、枯淡な筆を用ひるに限る。此れはスタンダールから得る痛切なア訓だ。

 「筋」というものを小説において重視したとき、「色彩や形容」のような「技巧」は、その「題材=内容」が「ほんたう」であれ「嘘」であれそれを「ほんた うらしく書く」のには「餘計」になる、と言っている。確認のため次に大岡昇平の訳になる『パルムの僧院』の一部を掲げる。引用は第七章の冒頭である(引用 は新潮文庫より)。

 続く四年間を物語るとすれば、これまで書いたようなつまらない宮廷 の細目で埋めねばならない。毎年春になると、侯爵夫人は娘を連れ、ふた月ばかりサンセヴェリーナ邸かポー河ほとりのサッカの別荘の客となった。滞在は楽し く、みなファブリスのことを話しあった。しかし伯爵は彼に一度もパルムへ来るのを許さなかった。

 こうした要約的な状況説明文は章の冒頭だからなされているわけではない。全編を通じて作者スタンダールの記述は「筋」を語ることに傾斜している。そして 時折「若い読者は私がこういう伯爵の美行を賞めるのを見て、気を悪くするかもしれない」と語り手が顔を出してくる。これは明らかに「語る者/語られるモ ノ」=「主体/客体」という関係性を意識した創作態度であることを示すものであり、「主体=客体」という癒着を許さない反「日本的リアリズム」的態度と 言ってよいだろう。「骨組みだけで記録して行くから、却つて現實味を覺える」という言葉は、「あるがまま」によって「ほんたうらし」さを追求するという私 小説の方法と真逆の方法によっても「ほんたうらし」さが実現されることを物語っている。このように谷崎の主張は非常に明確である。問題は「饒舌録」で語ら れた理論が実作においてどれほど実現されているかである。

第二節 なぜ「日本に於けるクリツプン事件」か

 さて、実作としてどの作品を分析に選択するかであるが、やはり「新潮合評会」において芥川が言及し「話の筋論争」の発端となった「日本に於けるクリツプ ン事件」(『文藝春秋』昭和二年一月)を取上げるのが適当であろう。そこでまず「日本に於けるクリツプン事件」の梗概を紹介する。

 作品冒頭で「マゾヒスト」に関する簡単な説明がなされた後、「マゾヒストにして彼の細君又は情婦を、殺した實例」としてクリップン事件が紹介される。マ ゾヒストたるホーレー・ハーヴィー・クリップンは細君であるコーラを殺し自宅の地下室に隠した後、情婦エセル・ル・ネーヴとともにアメリカへ逃げようとし たところを捕らえられた、というのがそれであるが、語り手はこれに「マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びは何處までも肉體的、官能 的のものであつて、毫末もlb的の要素を含まない」と付け加える。ここまでが作品の前半で、後半では日本で起きた類似の事件、すなわち「日本に於けるクリ ツプン事件」が、主犯小栗由次郎、その隣人、妻巴里子の死体の第一発見者の三人の証言によって紹介される(作品の題名と紛らわしいので以降、作品の後半で 語られる事件を「由次郎事件」と呼ぶことにする)。小栗由次郎は妻巴里子に折檻されるのをマゾヒスティックな快楽として享受していたのだが、飼い犬のエス が、折檻される由次郎を助けようと誤って巴里子を噛み殺してしまうというのが事件の概要である。しかし後日、首の部分に牛肉が付着し噛み痕のたくさん付い た女の人形が入った行李が発見されるという記事が出る。語り手は「私は讀者に、此れ以上説明する必要はあるまい」と行李についてはそれ以上言及しない。小 説は、逮捕されたときに由次郎にも情婦がいたということを明かして終わる。

 梗概の紹介は以上であるが、記述について指摘しなければならないのは語り手の存在である。作中の事件とは直接の関わりを持たない、いわば神の視点を持っ た語り手が事件を語っていく体裁をとっている。「私は茲にホーレー・ハーヴィー・クリップン事件を敍述するのが目的ではない」「私は讀者諸君に向つて、此 の事に注意を促したい」「そこで私は、讀者諸君に今一つ此れと似た事件、――日本に於けるクリツプン事件とでも云ふべきものを、以下に紹介しようと思ふ」 「ところで、讀者諸君のうちには、〔中略〕讀まれた方もあるであらう」というように、『パルムの僧院』同様「讀者諸君」に対して「聞き手」という役割を与 えてくる。まさに「日本に於けるクリツプン事件」は「事件=モノ」が語られる「モノガタリ」なのである。
 作品の選択の次に問題になるのはいかなる分析方法をとるかである。分析によって明らかにしなければならないのは谷崎の〈カタチ〉である。谷崎にとっての 〈カタチ〉とは、その理論である「饒舌録」を踏まえるかぎり「筋」と仮定することが最も妥当である。したがって「日本に於けるクリツプン事件」を分析する ことによって「筋」というものが見えてこなければならない。そうした目的に適う方法としてここでは構造分析を使用したいと思う。そこで、具体的な分析に移 る前にその理由を構造分析について説明しながら述べてみたい。

第三節 構造分析について

 最初に構造分析について全般的なことを三点確認して置く。
 ロラン・バルト「天使との格闘」(『物語の構造分析序説』)によると構造分析には三つの型がある。一つ目は「物語に出てくる登場人物たちの、《心理 的》、伝記的、性格的、社会的属性(年齢、性別、外面的特質、社会的地位または勢力状態、など)の目録作成と分類をおこなうこと」。二つ目は「登場人物た ちの機能の目録作成と分類をおこなうこと」、三つ目は「行為の目録作成と分類を行うこと」。そして前の二つを「行為項分析」、後の一つを「シークェンス分 析」と呼んでいる。したがって構造分析には行為項分析とシークェンス分析との二種類の分析方法が存在するということになる。これが一点目。
 二点目は構造分析が「物語」に対してのみ有効であるということである。この場合の「物語」の意味するところであるが、バルトは次のように述べている(以 下、引用は全て『物語の構造分析序説』みすず書房、一九七九年より)。

 物語においては、あらゆるものが、さまざまな程度に意味するのだ。 これは(語り手の)技術の問題ではなく、構造の問題である。ディスクールの秩序においては、表記されて〈ノテ〉いるものは、定義上、注目に値いする〈ノ ターブル〉ものである。たとえある細部が、どうしようもないほど無意味でどんな機能にも向かないように見えたとしても、最後にはそれが、まさに不条理や無 用性という意味をおびることに変わりはなかろう。(「物語の構造分析序説」)

 「物語」においては書かれたものの全てが機能を持つ。書かれたものはかならずなんらかの伝達内容を持つのである。そして「物語のなかでは、あとからやっ て来るものが結果として読みとられる」(同書)ために未解決の問題は残らない。問いが投げかけられれば必ず答えが後からやって来る。「物語」とはそれ自体 で自己完結する記号的表徴の集合なのである。因果性が完結されなければ「物語」は終わることを許されない。構造分析とはまさにそうした因果性を暴き出すた めの分析でありしたがって「物語」に対してのみ有効なのである。
 三点目は構造分析によって「物語」内部の因果性の骨組みを取り出すことができるということである。これは通常「要約」と言われる作業で、つまり構造分析 とは要約の具体的な方法の一つなのである。そこで「物語の構造分析序説」の「要約」に関わる部分を検討してみる。先に注釈しておくと次に引用する文中の 「シークェンス」とは「互いに連帯性の関係によって結ばれた核の論理的連続」(同書)のことで、たとえば「飲物を注文する、それを受け取る、代金を払うと いう、これらさまざまな機能体は、明らかに閉じた一つのシークェンスを構成する」(同書)。

物語〈イストワール〉の意味を変えることなしに、シークェンスを核に 還元し、シークェンスの階層組織を上位の諸項に還元することも可能である。〔中略〕言いかえれば、物語は要約(かつて梗概と呼ばれたもの)の対象となるの だ。一見したところでは、どんなディスクールもそうである。しかし、それぞれのディスクールには、それぞれ要約の型がある。たとえば、抒情詩は唯一の記号 内容の果てしない隠喩にすぎないから、抒情詩を要約するということは、この記号内容を示すということになるが、この操作はあまりに抜本的なので、詩の自己 同一性を消し去ってしまう(要約されると、抒情詩は「愛」と「死」という記号内容に還元されてしまう)。詩は要約できないという確信は、ここから生まれ る。これに反して物語の要約は(構造的基準にしたがっておこなわれるかぎり)、メッセージの個性を保つ。

 (「詩」と異なり)「物語」は「要約」いう作業によって「メッセージ」を取り出すことができると述べられている。「メッセージ」という言葉をバルトは特 に定義づけを行っていないから「語り手が物語ることを通じて聞き手に伝えたい内容のこと」ぐらいの一般的な意味で解釈してよいだろう。「物語」内部の因果 性・契機性を整理するという「要約」によってその「物語」固有の「メッセージ」があらわれる、というわけである。同じことを別の角度から言えば語り手の持 つ「メッセージ」を「物語」の因果性・継起性によって提示することが「要約」をするということである、ということにもなる。そして構造分析はそれを実現す る。
 繰り返しになるが「物語」は決して無意味には書かれない。語り手の「メッセージ」を伝達する媒介として「物語」は必然的に展開される。「物語」を理解す るとは、語り手が聞き手に向かって伝えようとしている「メッセージ」を「物語」内部の完結した因果関係によって理解するということであり、「要約」や「構 造分析」はそのための手段なのである。
 後の分析にも関わる部分のなので「要約」についてはもう少し徹底して定義付けを行ってみたい。同じく「物語の構造分析序説」から引く。

ある指標的表記が《何のために役立っているか》を理解するには、上位 のレベル(登場人物の行為や、物語行為〈ナラション〉)に移らなければならない。というのも、指標が解明されるのは、そうしたレベルにおいてだけだからで ある。

 「ある指標的表記が《何のために役立っているか》を理解する」こと、すなわち「物語」において「あらゆるものが、さまざまな程度に意味する」その正体 (シニフィエと言ってもいい)を明らかにすることが「物語」を理解することに必要であることは既に述べた。右の引用では同じことを「上位のレベルに移らな ければならない」と表現している。ひとつ前に引用した部分では同じことを「シークェンスの階層組織を上位の諸項に還元すること」と述べている。さらにこれ を「物語は要約の対象となる」と言い換えていた。つまりある指標的表記のシニフィエを理解するためには「上位のレベル」に移ることが必要なのだが、その 「上位のレベル」に移ることを「要約」と言い換えているのである。「上位」というのはもちろん記述レベルより上位ということだ。たとえば「私はあふれる涙 を抑えることができなかった」という記述が「物語」にあったとき、「主人公の『私』は悲しんでいる」というふうに書けば上位のレベルに移行している。結 局、「要約」とは記述よりも「上位のレベル」に移って「物語」で語られた指標の表徴する意味を因果関係の中で俯瞰的につなげ直すことなのである。その意味 で、先に筆者が書いた「日本に於けるクリツプン事件」の紹介は「要約」ではない。なぜなら因果関係の説明をせず、単に記述の順に出来事を並べただけだから である。
 さて、谷崎の〈カタチ〉は「筋」と仮定されていたが「筋」については定義をまだしていなかった。次節ではこの節で述べた構造分析に関する事項を踏まえた 上で「構造」と「筋」との関係、あるいは「要約」と「筋」との関係について考えてみたい。そこで述べることは構造分析を分析方法として選択する理由に該当 する。

第四節 「筋」とはなにか

 「構造」と「筋」の関係について考えるのに有用なのが河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』(文藝春秋、平成一四年)における「話の筋論争」の分析で ある。本書は専門書ではないが河野がある程度構造主義的な考え方を前提にしているため、構造分析と「話の筋論争」との橋渡しには最良の参考文献であると思 われる。
 さっそく用語の定義づけから見ていきたい。河野は「構造」について次のように述べている。

「構造」とは、もちろん作品によって数には大差はあっても必ず幾つか ある、〈区分〉間の関係、呼応の様相である、と私は思っている。

 「と私は思っている」と言うがこの定義はまさに構造主義における「構造」の定義と同一である。「幾つかある」と言うがいったい幾つあるのかをロシア民話 をもとに調査・分類したのがプロップである。部分間の関係性を考えることによって全体を把握しようという構造主義の考え方が、河野においては作品という全 体を〈区分〉という部分間の関係性からとらえようとしているところに応用されている。もっと言ってしまえば河野の言っている内容はシークェンス分析と寸分 たがわない。前節の最初に、構造分析にはシークェンス分析と行為項分析との二種類があるというバルトの説明を紹介した。シークェンス分析がシークェンスと いう部分間の関係性に着目することで作品全体をとらえようとし、行為項分析が作中人物という部分間の関係性に着目することで作品全体をとらえようとしてい るものだとしたら、河野の言う「構造」とはシークェンス分析の結果あらわれるものを指していることがわかる。なぜなら河野の言う〈区分〉とはシークェンス のことだからだ。それは次のような記述からも明確である。

先行のブロックとの間に飛躍や断絶があろうと(あるいはなくても)、 「筋」「起承転結」指向ではあり得ない、本質的な脈絡、呼応が存在する。念のために付記すると、私は仮に〈ブロック〉という言い方をしておいたが、〈一区 分〉と思ってもらってもいい

 〈区分〉〈一区分〉〈ブロック〉と河野は色々な言い方をしているが結局は「飲物を注文する、それを受け取る、代金を払うという、これらさまざまな機能体 は、明らかに閉じた一つのシークェンスを構成する」(「物語の構造分析」)と言ったときの「シークェンス」と同じ意味で使われている。
 もちろん河野がどれほど構造主義を意識していたかはわからない。『小説の秘密をめぐる十二章』では構造主義についてはまったく言及されておらず、あたか も河野の発明であるかのように語られているからだ。しかし結果として定義づけがシークェンス分析と同じである以上、河野の論にバルトの論を代入して、ある いは逆にバルトの論に河野の論を代入して読解していくことは可能である。
 その上で「筋」の話に移る。河野は「筋」と「構造」との関係についてかなりの量を割いて説明しているが、「筋」を直接的に定義していないので「構造」と の関係から間接的に「筋」の定義を探ることとする。河野の論を見ていこう。

 仮りに、谷崎の「異端者の悲しみ」と志賀直哉の「和解」とを比較し て言うならば、どちらも構造性は乏しい。が、前者は「筋」にも乏しいのに反し、後者はまことに「筋らしい筋」がある。こういう次第で父親とこういうように 不和になり、その親子の間柄がこうなって、ああなって、それから又こうなって、ああなって、ところがそれがこうなって、どんな具合に和解したという小説だ からである。「異端者の悲しみ」が筋に乏しいのは、大学生である主人公の内的、外的の幾つかの部分を取り合わせて、ある状況を描き出した小説だからであ る。

 「構造性」が「乏しい」というのはどのような事態を指すのだろうか。河野の論において「構造」とは各シークェンス間の関係性を言うものであっから「構造 性」が「乏しい」というのは各シークェンス間の関係性が薄いということになる。それは具体的にどういう事態を指すのであろうか。この問題を具体的に考える ために、「構造性」が「乏しい」例として提示されている志賀直哉「和解」についてシークェンス分析を簡単にしてみたい。もちろんここで作品全体を分析する わけにはいかないので冒頭のみ、分析をほどこすこととする。次に箇条に書き出すのは、シークェンスを構成する行為の「核」にあたる部分である。

・「自分」が我孫子から亡くなった長男の墓参りのために上京する。
・上野から麻布の家へ電話をかける。
・電話に女中が出る。
・女中に母親を呼び出してもらう。
・「自分」は母親に祖母の加減をたずねる。
・母親は祖母の代わりに自分が墓参りに行ったと答える。
・「自分」はこれから墓参りに行くと言う。
・「自分」と母親とが黙り込む。
・母親が今日は墓参りだけをするのかと「自分」にたずねる。
・「自分」は友達のところにも寄ると答える。
・母親は父親が在宅であることを「自分」に告げる。
・「自分」は麻布の家には寄らないと答える。
・母親は「自分」の妻や子供についてたずねる。
・「自分」は元気だと答える。
・「自分」は電話を切ろうとする。
・母親は父親が出かけるかもしれないからまた後でかけろと「自分」に告げる。
・「自分」は承知する。
・「自分」は電話を切る。
・「自分」は電車で青山へ向かう。
・「自分」は青山三丁目の駅で降りる。
・「自分」は墓地へ向かう途中の花屋で花を買う。
・「自分」は花屋で電話をする。
・「自分」は父がまだ在宅であることを母親から知らされる。

 「天使との格闘」にならって言えば、「上京」は単に「自分」が東京にやって来るというだけでなく、ディスクールが始まるという意味に解さなければならな い。最初のシークェンスは「電話」である。「かける―話す―切る」という各機能体によって構成されている。しかしこのシークェンスは、仲の悪い父親が家に いるということを「自分」が知る以外にも祖母との関係や母親、妻、子供、死んだ長男などの多くの情報を提示してくる。読者はそれらの情報の優劣をつけられ ないため、シークェンスの持つメッセージが冗長で希薄なものになってしまっている。また「一度目の電話」というシークェンスと「電車での移動」というシー クェンスとの関係は、電話をした後には電車に乗らなければならないという因果関係があるわけではなく単なる時間的な経過である。「電車での移動」と「花屋 での電話」との関係も、「毎時よりその日自分は祖母に会いたかった。一つは祖母が自分に会いたがっていそうな気がしたからであった」と小説文中に書いてあ るように「自分」の祖母への恣意的な感情を表すのみである。以上からわかるようにシークェンスの持つメッセージが曖昧な上に各シークェンス間の因果性・継 起性も必ずしも明確ではない。こうした事情を河野は「構造性」が「乏しい」と表現しているのである。
 それでは「筋」についてはどういうことが言えるだろうか。河野は「和解」が「筋らしい筋」を持っている理由として「こういう次第で父親とこういうように 不和になり、その親子の間柄がこうなって、ああなって、それから又こうなって、ああなって、ところがそれがこうなって、どんな具合に和解したという小説だ からである」と述べていた。この「ああ」とか「こう」を埋めるとたとえば次のようになる。

主人公順吉は父の京都来遊に面会を拒絶し、長女の誕生とその死をめ ぐって父の処置を憎んだ。しかし、次女に祖母の名をかりて命名したころから、父への気持ちの少しずつほぐれ、祖母や義母の不断の好意も身にしみ、ついに父 と快い和解をとげた……。(新潮文庫『和解』内容紹介文)

 これが「和解」の「筋」なのである(河野は「筋」と「筋らしい筋」とを使い分けているがこの問題はむしろ芥川の〈カタチ〉に関する問題であるのでここで は「筋らしい筋」も「筋」と同じものとして扱うこととする)。先のシークェンス分析と比較して明らかなように、ここには因果関係がはっきりと示されてい る。父子の不和、和解の継起、そして和解への道筋がはっきりと示されている。これは普通「要約文」と呼ばれているものだが、バルトによる「要約」の定義は 「記述よりも『上位のレベル』に移って『物語』で語られた指標の表徴する意味を因果関係の中で俯瞰的につなげ直すこと」であった。確かに右に引用した新潮 文庫『和解』紹介文の記述は作品の記述レベルよりは上位にある。小説中では「順吉」が「主人公」であるなどとは一言も書いていない。「順吉」に「主人公」 という「役割=意味」を付与するためには記述よりも上位のレベルに移行しなければできないことである。ここから「筋」とは「要約」によってあらわれるも の、とひとまず定義することができる。構造分析とは要約の具体的な方法の一つであるから「筋」は「構造分析」によってあらわれるものといってもいい。
 河野は「筋」について次のようにも述べている。

 小説の「筋」の主たるものとしては、時間的筋、作中人物の因果関係 筋、主人公の内的成長過程の筋が考えられる〔後略〕

 河野が言っているのは「筋」の種類である。この種類はなによって生じるのだろうか。「筋」が「要約・構造分析」によって生ずるものであることが明らかに なった今、この問いに対して次のように答えることができる。すなわち、時間的筋は時間にしたがって「要約・構造分析」された「筋」、作中人物の因果関係筋 は作中人物の因果関係にしたがって「要約・構造分析」された「筋」、主人公の内的成長過程の筋は主人公の内的成長にしたがって「要約・構造分析」された 「筋」である、と。たとえば引用した「和解」の「要約文=筋」は「作中人物の因果関係」にしたがって要約された「要約文=筋」である。したがって「要約」 の方法を変えれば他にも「筋」の記述はありうるのである。もちろん厳密に「時間」のみにしたがって、あるいは「作中人物の因果関係」「主人公の内的成長過 程」のみにしたがって要約することは現実的には考えにくい。先の「和解」の「要約文=筋」は確かに「作中人物の因果関係」に焦点を置いてはいるのだが、か といって出来事の起こった順番を完全に無視しているわけではない。現実にはそれぞれの基準が拮抗しているのではなく、ある程度互いに重なる部分を共有して いるのである。
 以上述べてきた河野の、「筋」と「要約・構造分析」との関係に関する論、および前節で述べた、「要約」によってその「物語」固有の「メッセージ」があら われるというバルトの論とを踏まえて「筋」を定義すると、「時間、作中人物の因果関係、主人公の内的成長過程などのある特定の方針に従って要約された文章 で、作者のメッセージがあらわれているもの」とまとめることができる。
 ここまで考えてくると谷崎の「異端者の悲しみ」が「構造」も「筋」も乏しい作品の一例としてあがっているのは、シークェンス間の因果関係が希薄であるば かりでなく、なにか一つの方針に従って「筋」を「要約」しようとしても「大学生である主人公の内的、外的の幾つかの部分を取り合わせて、ある状況を描き出 した」断片的な作品であるためにうまくシークェンス間に有機的な連関を持たせることができないという事情をあらわしていることがわかる。「異端者の悲し み」はある一つの出来事が小説が始まるとともに始まり小説が終わるとともに終わるという類いの小説ではなく、恣意的に設定された一定期間の生活が描かれた もので、作品全体として「異端者=賞三郎」の「悲しみ」をメッセージとして持っていることには違いないのだが「これがこうなって、次にあれがああなって、 次にそれがそうなって、その結果として章三郎は悲しい」(=時間による筋の型)とか「誰それががこうなって、そのために誰それががああなって、そのために 誰それがそうなって章三郎は悲しい」(=作中人物の因果関係による筋の型)とかいうかたちではあらわすことができないのである。

第五節 「日本に於けるクリツプン事件」の構造分析

 懸案にしておいた分析方法の選択という問題に戻りたい。構造分析には行為項分析とシークェンス分析との二種類の分析方法が存在し、どちらの方法を使用す るかが問題であった。
 行為項分析についてだが、蛇足ながら説明しておくとA・J・グレマスによって唱えられた分析方法で、作中人物という部分間の関係性に着目することで作品 全体をとらえようというものである。その方法として「主体」や「対象」といった役割を作中人物に割り振って左図のような構造を明らかにする(図はグレマス 『構造意味論』紀伊国屋書店、一九八八年より)。

受け手       反対者
 ↑          ↓
客 体(対象) ← 主 体
 ↑          ↑
送り手       補助者

 前節で述べた内容の上に立って考えると、シークェンス分析が「時間」にしたがって「要約」するための構造分析であるとすれば、行為項分析は「作中人物の 因果関係」にしたがって「要約」するための構造分析である。いずれにせよ「要約」によって「筋」があらわれる。そのための構造分析である。
 そこで分析方法の選択基準であるが、「和解」の例でわかるように作品によってシークェンスに着目するか人物に着目するかで分析の様相がかなり異なってく る。「和解」ではシークェンス分析をしてもシークェンス間の関係性が希薄であるために「筋」にまでたどりつかなかった。逆に人物に着目すると引用したよう な「要約文=筋」を記述することができる。たがらもし構造分析によって「和解」の「筋」を検討したいのであればシークェンス分析よりは行為項分析を選んだ 方がいいのである。結局どちらの分析方法を選ぶかは作品の性質によるということだ。
 そこで「日本に於けるクリツプン事件」であるが、梗概で紹介した通りこの作品は語り手が故意に説明を省いたりする部分があること、作中人物の役割がかな りはっきりと出ていることから行為項分析を経由して「筋」にたどり着きたいと思う。さっそくそれを述べていく。
 作品は前半と後半とに分けることができる。前半ではクリップン事件が語られる。この部分に出てくる人物はクリップン、妻のコーラ、愛人のネーヴの三人で ある。この事件は「マゾヒストにして彼の細君又は情婦を、殺した實例」であるのでクリップンにはマゾヒストとしてだけでなく殺人者としての意味も付与され ているので両義性を持つということになる。サディストであるならば殺人者であってもおかしくはないが、マゾヒストが同時に殺人者であるところにクリップン の両義性がある。このことを語り手は「マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びは何處までも肉體的、官能的のものであつて、毫末もlb 的の要素を含まない」と説明している。これを整理すると次のようになる。

 クリップンの両義性
  ・マゾヒスト = 肉体の支配は受ける
     ⇔
  ・殺 人 者 = 精神の支配は受けない

 多くの場合、物語の主体は両義性を有している。矛盾をはらむだけに物語を押し進めるエネルギーを多分に持ち合わせているためであろう。
 このクリップンがなぜ妻を殺したのかというと「細君に飽きが來てゐて、此のタイピスト(=ネーヴ)を情婦に持つてゐた」(括弧内引用者)ためである。マ ゾヒストというのは「より良き人形、より良き器具に出遇つた場合には、その方を使ひたくなる」ので、「マゾヒストが一たびさう云ふ願望に燃え、何とかして 古き相手役、古き人形を遠ざける必要に迫られた時には、マゾヒストであるがために、却つて恐ろしい犯罪に引き込まれがちであ」ると語り手は説明する。つま り、新しい人形への願望が殺人者としてのクリップンの顕現させたと言える。そしてネーヴを獲得したとき、その両義性は再び安定を取り戻すという構造であ る。グレマスの神話的行為項モデルに当てはめれば次のようになる。

マゾヒストクリップン(受け手)  妻コーラ(反対者)
 ↑                   ↓
ネーヴ(対 象)  ←  殺人者クリップン(主 体)
 ↑
新しい人形への願望(送り手)

 筆者の目的はこの行為項モデルを完成させることにはない。クリップン事件の諸要素に意味を付与しそれらを因果関係によって「説明可能=要約可能」にする ことにある。意味という必然によって事件が完結することを示すための行為項モデルである。
 右に見てきたようにクリップン事件は決して偶然の殺人事件ではなくクリップンの持つ「マゾヒズム」という性質によって合理的な説明が可能であった。しか し、一点だけ語り手は未解決の問題を残している。それはクリップンのコーラ殺害の手段である。「クリップンは最後まで自白しなかつたので、彼がいかなる時 と場合に、いかなる手段でコーラを殺したかは、遂に今日に至るまで知られてゐない」と語られる。しかし「刑事が再び彼(=クリップン)の留守宅を捜索した ところ、石炭を貯藏してある地下室の床の煉瓦の下から、首と手足のない一個の人間の胴であらうと思はれる肉塊を發見した」(括弧内引用者)。この「肉塊」 が作品の後半の由次郎事件を語るための伏線となっている。
 作品後半で語られる由次郎事件の登場人物を列挙すると、小栗由次郎、妻巴里子、飼い犬の猛犬エス、人形、由次郎の情婦、である(事件の証言者は「証言 者」以上の意味を付与されていない単なる事件の傍観者であり、語り手と一体化している部分もあるのでここでは分析の対象からはずす)。二人の証言者の証言 と由次郎の自白から組み立てられる事件の梗概は次の通りである。
 マゾヒストの由次郎は妻巴里子に折檻されることで性的快楽を享受していた。巴里子は「婦人が戸外を散歩する時の缺く可からざる裝飾」として「成るべく剽 悍な、獰猛な犬」を求めていた。それまでに「土佐犬と狼との混血犬」や「グレート・デン」を飼ったがどれも気に入らなかった。そして「獨の狼犬」を買う ことになる。その犬が頼んだ犬屋から到着する前に女優である巴里子は地方巡業のため半月ほど家を出てしまうのだが、その間に家に届いた「獨の狼犬」は由 次郎によってエスと名づけられ飼いならされる。巡業から帰ってきた夜に巴里子が由次郎を折檻していると、エスは巴里子を「主人を虐げる悪魔」と勘違いし噛 み殺してしまう。
 これを行為項モデルとして提示することは不可能である。なぜなら右の説明による限り巴里子の事故死と由次郎のマゾヒズムとは直接の因果関係が無いからで ある。その意味においてこの事件は偶然事であり、クリップン事件のようにマゾヒズムを起点にした因果関係によって説明することはできない。
 しかし注意しなければならないのは右の事件概要が由次郎の供述によって説明されたものだということである。読者は既に「日本に於けるクリツプン事件」が 「マゾヒストにして彼の細君又は情婦を、殺した實例」として提示されることを予告されている。であるならば最終的に語り手は由次郎の両義性(マゾヒスト/ 殺人者)を証明しなければならない。この段階ではマゾヒストという一面しか語られていないため、事件の真相は由次郎の自白とは別の場所にあることが予想さ れるのである。それを語り手は一つの新聞記事を通じて読者に伝達する。その新聞記事は事件後五ヶ月経った八月にある人形が入った行李が発見されたという内 容のもので、その人形には「なまめかしい香水とお白粉の匂ひが沁み込ませてあ」り、また頸部に牛肉が付着していてそこを何度も噛まれた痕があった。語り手 はその人形が由次郎のもので、巴里子が殺された後その人形が「巴里子の死體であるかの如き恐怖を感じ」て由次郎によって捨てられたことを明かす。また、巴 里子の殺された時に由次郎には新しい情婦「大阪のカフェエ・ナポリの踊り兒」がいたという。
 この人形と情婦との存在を踏まえて事件を語り直すとどうなるだろうか。まず人形の存在によって明らかになるのは由次郎の殺害の手口である。クリップン事 件では明かされなかった殺害の手口を、由次郎事件を通じて語り手は推測しようとしているのである。由次郎は巴里子が巡業で家にいない間に新しく買った「獨 の狼犬」を手なずけて、巴里子が普段つけている香水や白粉を塗りこんだ人形を犬に噛ませては殺害の予行演習をしていたことが予想される。とすれば、エス が巴里子を噛み殺したその理由は飼い主を助けようとしたのではなく巴里子を人形と間違えたからだということになる。そして間違えるように由次郎は訓練をし たのであるから間接的に由次郎が巴里子を殺したという因果関係がここに成立する。そしてマゾヒストである由次郎の殺害動機は新しい情婦を見つけたために巴 里子が必要なくなったことだ。これを行為項モデルにあらわすと次のようになる。

マゾヒスト由次郎(受け手)    妻巴里子(反対者)
 ↑                   ↓
踊り兒(対 象)   ←   殺人者由次郎(主 体)
 ↑                   ↑
新しい人形への願望(送り手)  飼い犬エス(援助者)

 クリップン事件と由次郎事件とはここにおいて同じ構造を持っていることが明らかになる。エスの存在が唯一の相違点だが、クリップン事件において援助者す なわち殺害の手口が伏せられていることには語りのレベルにおける必然性がある。語り手はクリップン事件と由次郎事件とを読者の前に単に並べて見せることを 目的としているのではない。クリップン事件においては伏せられていた殺害の手口を類推するために由次郎事件を語っているのである。もしクリップン事件が完 全に語られて、その後由次郎事件というまったく同じ構造の事件が同じように語られたとしたら、そこにはまったく語りの必然性がない。クリップン事件におけ る殺害の手口が伏せられているからこそ、読者は日本で起きた同様の事件である由次郎事件を読んでその真相を知りたいと思うのである。殺人事件という出来事 のレベルだけではなく二つの事件を語るという語りのレベルにおいても「日本に於けるクリツプン事件」は必然性=因果関係=意味を持っていると言える。

第六節 「筋」から見えてくる谷崎の〈カタチ〉

 右の行為項分析をもとに「筋」を描く作業に移りたい。もちろんここでの「筋」は「作中人物の因果関係筋」を意味する。さっそく次にそれを掲げる。

 一九一○年二月一日、マゾヒストであるクリップンは妻のコーラを殺害する。しかしコーラの死をクリップンは転地先での病死として嘘を言っていた。刑事に 問われると彼は妻コーラは夫婦喧嘩の果てにアメリカへ行ってしまったことを告白する。それから刑事を家へ案内して捜索させる。クリップンはその翌日に姿を くらますが、三日後、刑事が再びクリップンの自宅を捜索すると地下室の床の煉瓦の下から首と手足のない人間の胴の肉塊が発見される。コーラの失踪から五ヶ 月後のことである。姿をくらましたクリップンはアントワープからアメリカへ向かって出帆する船において捕縛される。その時、クリップンと一緒にいたのが ネーヴというタイピストで、彼女にクリップンが入れ揚げたために結果として妻コーラは殺されることとなったのである。しかしクリップンがいかなる方法で殺 害を行ったのかはついに立証されない。
 さて、日本にも「日本に於けるクリツプン事件」とでも言うべき事件がおきている。
 兵庫県に住む会社員小栗由次郎はマゾヒストで、妻巴里子から折檻されることを楽しみとしている。一方巴里子は何匹か買い変えるほど猛犬が好きで、ある時 新しくドイツの狼犬を注文する。その犬が家に届く前に女優を生業としている彼女は地方巡業に出かけてしまう。その間に由次郎は犬にエスという名前をつけて 飼いならし、巴里子に似せて作った人形の首に牛肉を巻きつけてエスに人形を噛ませる訓練をする。巴里子が巡業から帰ってきた夜、いつものように由次郎が折 檻されていると階下の部屋におしこめておいたはずのエスが部屋に飛び込んできて巴里子の首に噛みついて人形と誤って殺害してしまう。結局この事件で由次郎 に罪が問われることはなくエスも射殺される。事件の後由次郎は訓練のために使った人形が巴里子の死体に思えて恐怖を覚え鎌倉まで行って捨ててしまう。人形 は事件から五ヵ月後に発見されるが由次郎事件との連関はついに明らかにされない。さて、事件が発覚した時、由次郎にも情婦がいた。この事件もまたマゾヒス トたる由次郎がその情婦に入れ揚げたために妻を殺害しなければならなくなったと言える。

 二つの事件の「筋」は以上であるが、実はここに大きな問題が持ち上がる。今、筆者は「二つの事件の」という言い方をしたのだが、それではこの「筋」をそ のまま「日本に於けるクリツプン事件」という作品の「筋」と呼んでしまっていいのだろうか。
 ここで指摘すべきは右の「筋」に重大な捨象が行われているということである。つまり「日本に於けるクリツプン事件」という作品において重要な役割を果た している語り手の姿が見えないのである。もちろんどんな小説にも語り手は存在する。たとえば「和解」の語り手は「自分」である。しかしこの場合の語り手た る「自分」は作中の出来事にも直接関与する人物なので、「筋」を記述する場合には「自分」の行為を含めた出来事を対象化できる神の視点で語ることができ る。「和解」の「要約文=筋」は「主人公順吉は」という書き方をしていたが、これがそのことをあらわしている。一方「日本に於けるクリツプン事件」では作 中の出来事とは直接の関係がない神の視点を持った語り手があらかじめ存在しており、随所でその存在を主張してくるのである。たとえば作中には次のような表 現があった。

私はそれを探偵小説的に書くのが目的ではなく、記録に基いて事實を集 め、既に知られた材料を私一流の見方に依つて整理して見る、つまり、與へられた事柄の中心を置き換へて見る、さうして出來るだけ簡結に、要約的に諸君の前 へ列べて見ようと云ふのである。

 語り手ははじめから「要約的」に「筋」を語ろうとしている。そのようして書かれたものの「筋」を「要約」によって取り出すことは不可能である。なぜなら 記述のレベルにおいてそれは既に「筋」であるからだ。「日本に於けるクリツプン事件」という作品は既に事件の「要約文=筋」なのである。先にまとめた 「筋」はたしかに二つの事件の「筋」ではあるのだが「日本に於けるクリツプン事件」という作品を要約したことにはならない。単に既に書かれている「要約文 =筋」をもう一度要領よく語り直しているに過ぎない。同じことを別の言い方をすれば、要約とは「記述よりも『上位のレベル』に移」ることなのだが先にまと めた「筋」は作品の記述のレベル(ここでは語り手が事件を語るというレベル)にとどまっており、上位のレベルに移行していない。したがって「要約」が行わ れていない。
 このことからわかるのは「筋」とはあくまでも出来事のレベルを対象とする概念であるということだ。「和解」のように多くの私小説では出来事のレベルが記 述のレベルと一致する(記述を行う語り手が出来事にも関わりを持つということ)のに対し、出来事と関わりを持たない神の視点を持った語り手が存在する「日 本に於けるクリツプン事件」では作品そのものが「要約文=筋」になっているため、構造分析によって要約してみせても語りのレベルではなく出来事のレベルが 分析の対象になってしまうので語りのレベルの問題が完全に脱落してしまうのである。字義通りメタレベルへ移ろうとすれば、たとえば「〜と語り手は語ってい る」という表現を繰り返さなければならなくなる。それを「要約」と呼ぶことはある一面では出来るのだがもはや「筋」と呼ぶことはできない。
 ここまで考えてくると当初想定していた谷崎の〈カタチ〉が「筋」であるという仮定そのものを見直さなければならなくなる。筆者はこの章のはじめに「筋」 を主張することの反「日本的リアリズム」性について「『筋=構造=形式』を意識するということは『題材=内容』の劇的な効果を計算することであり、なんら かの形で『題材=内容』に能動的な加工を施すこと」であると説明した。この「能動的な加工」とは「語る」ことによって実現されると考えることができる。そ れは「饒舌録」のスタンダールについての記述を紹介した際に述べた「『語る者/語られるモノ』=『主体/客体』という関係性を意識した創作態度であること を示すものであり、『主体=客体』という癒着を許さない反『日本的リアリズム』的態度と言ってよいだろう」という筆者の分析からも同じことが言える。そう 考えると「日本に於けるクリツプン事件」においては殺害の手口を伏せることによって由次郎事件を語る必然性を生み出している部分にこそ作品の反「日本的リ アリズム」性があらわれていると言える。「饒舌録」では谷崎は「筋」そのものを主張しているのだが作品分析を通じて対私小説という文脈から厳密に〈カタ チ〉を定義し直すならば、「筋を語る」というところに谷崎の〈カタチ〉はあると言わねばならない。「筋」とは語らなければ存在しないのである。構造分析で 明らかなように谷崎はもちろん「筋」そのもののおもしろさ(それはむしろ「内容=素材」の問題である)も追求しているのだが、単に「筋」の順を追うのでは なく伏線を張り故意に語らない場所を作りそれによって語りの必然性を生み出していくように「語り」についても工夫を凝らしているのである。形式論として反 「日本的リアリズム」を論ずるとしたら、むしろ「語り」の方に目を向けるべきであった。
 最後に「語り」がなぜ「ほんたうらし」さを生み出すのかという問題についてもう一点だけ補足的に説明しておきたい。「日本に於けるクリツプン事件」では 語り手の存在が常に読者に意識されるように記述されていた。これにはどういう意図があるのだろうか。語り手の存在が読者に意識されたとき、読者は単に読者 ではいられなくなる。モノガタリというのは語り手だけの存在だけで成り立つのではなく必ず聞き手の存在が必要とされるため、語り手の存在によって読者には 聞き手という役割が付与される。いったん語り手の言葉に耳を傾け始めればそこには「語り手/聞き手」という明確な役割分担(あるいは権力関係)が発生する ため、真実は全て語り手が握っていることになる。そうなると聞き手は語り手に対して疑問をさしはさむことができない。聞き手は無知であり、語り手の言葉だ けが真実なのである。ここに「あるがまま」を追及せずとも「ほんたうらし」さを実現することが可能になるのである。したがって語り手は語り手という役割を 随所で聞き手に意識させる必要がある。単に叙述を繰り広げるだけでは「聞き手」は容易に「読者」に変わってしまうのである。

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「卒論の下書き(四)」

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