ウェブログなどでかなり書きなれている人の日記やエッセイを読んでい
るとどうにもやりきれなくなるときがある。彼らは、とても頭が
いい。適確な論理で文章を構築していく。そして、いち早く最新の情報を集め、自分の中でろ過し、面白いと思うものを次々とリンクを貼り付ける形で紹介して
いく。パソコンに精通し英語も読める彼らの張るリンクにはぼくのような素人にはとても理解できないサービスがあったりする。それが悪いというのではない。
そういうサロン的なつながりはあったほうがいいと思うし(ただし、それがある程度閉じられた「円環=リンク」であることの自覚は欲しい)、トラックバック
で個人を超えた有機的なテキストの構築がなされていくのはこれまでになかったことだと思う。
けれど、どうしても気になるのは、彼らのフェティッシュなまでの論理性への傾斜、そして世界の全てを「情報」という断片とみなしてしまう視線だ。このこ
とについて少し触れておきたいと思う。
論理は何のためにあるのか。それは分析のためにある。分析というと読むことだけに当てはまることで書くことは関係ないかというとそうではなく、文章を書
いているときは書いている本人が最初の読者だから、書き手は自分の文章を読んでまず分析し、それから言葉を選ぶ。これまでの日本人の文章や思考形式がはな
はだ論理性に乏しかったことはよく指摘されることである。小林秀雄の文章が日本の評論をだめにしたとまことしやかに言われることがある。理由は、「論理性
に乏しい」からだ。しかし果たしてそうなのだろうか。
小林(秀雄―引用者注)の場合は、省略というか、飛躍が読者に明確
に意識されるように書かれています。/(中略)ですから、理解するためには、読者は、自分の頭で、その飛躍している部分を補わざるをえないのです。/つま
りは、読者に、考えさせるように書かれている。/(中略)人をして、その想像力と思考力を働かせる、そうした力に満ちているのです。/その力は、非常によ
く計算された飛躍と、強いイメージを喚起する想像力によってつくられたものなのです。(福田和也『一月百冊読み、三百枚書く私の方法』)
小林の日本語をその論理性の欠乏から排撃するのは読者の怠慢でしかない。確かに、書き手のイイタイコトを正確に読者に伝えるためには論理性は必要だ。し
かし、あまりにそれを強調しすぎると、それは単なる読者自身の読書の効率を言っているに過ぎなくなる。論理は決して速読の手段ではない。
書店に行くとビジネス書の一角は論理的思考を身につけるための方法論に占められている。けれど、論理がしょせん観念の世界でしかないということを忘れて
しまってはいけない。野矢茂樹『論理トレーニング』は大変に有用な本で、ビジネスマンにも読まれているらしいが、ぼくの耳にするこの本の感想で多いのが野
矢による巻末の「注」が楽しい、というものである。実際、ぼくもそう思った。この本における「注」とは本文の論理を補てんするという注釈本来の役目だけで
なく、本文の大きな川の流れからはみ出した水しぶき、その飛まつを丁寧に掬い取る役目も果たしている。例えばこんな具合に。
老婆心からの忠告であるが、「なぜそんなことが言えるのか」という
問いを友人や家族に向かってみだりに発すると人間関係を損ねる恐れがあるので注意されたい。しかし、なぜ、論証を求めると人間関係が悪化するのだろう。お
そらく、ある主張に対して論証を求めると、それは、その主張に疑いを表明したものとして受け取られてしまうのである。(野矢・前掲書)
書くという行為は決して論理に従属するものじゃない。けれど、論理は情報伝達の手段でしかないというのもちがう。じゃあなんなのか、という問いはあまり
に論理的だからぼくはしない。かわりに、論理よりも大切なことについて言いたい。それがこの文章でぼくがイイタイコトだ。
「卒論の素材」で紹介した辻邦生の「映像
(イマージュ)に達すること」を読んでから、言葉の
持つ役割(正確に言えば「論理」以外の役割)についてずっと考えていた。
現代文学の混乱の大きな要素は、文章が形象(映像)であるという認
識が薄れ、情報伝達のレベルに落ち、何か事件を伝えようと書いていることだろう。吉本ばななの新鮮な衝撃は、小説散文が本来持つべき形象性(映像)を純粋
に取り戻したことから生まれている。『キッチン』『TUGUMI』以来、一貫して、文章は何も表現していない。文章の背後には、どんな伝達内容も存在せ
ず、一種の観念的具体物の関係項が、ついたり、離れたりしているだけだ。(辻邦生「映像に達すること」)
先に引用した福田の文章の中にも「強いイメージを喚起する想像力」という言葉があった。もしあなたが(この書き方も乱用するとハルキ的なので抑えよう)
辻の文章を読んで「一種の観念的具体物の関係項」って何だよ、ちゃんとわかるように説明しろよ、と思ったのであれば、もしかしたらあなたは「お勉強」がで
きる人なのかもしれない。入試現代文の論理性を完璧に身に付け、ビジネスの世界でもそれを生かして説得力のあるプレゼンテーションをすることができるに違
いない。専修大学は実際下のような問題を出題している。
問六 傍線部D「一種の観念的具体物の関係項」とは、たとえばどのよう
なものか。もっとも適当なものを次の1〜5の中から一つ選び、その番号をマークし
なさい。
1 映像的に表現された美しい地球のイメージ
2 愛と死といった観念にかかわる基本的なことがら
3 読者にとってあまり意味のない架空の論理
4 孤独という観念と死という観念を結びつける情報
5 頭の中に浮かんだり消えたりする断片的な記憶
ぼくらが注意しなければならないのは、この問題が結局「たとえばどのようなものか」という聞き方しかできなかったという事実である(ちなみに答えは
2)。全ての言葉は論理によって等値に置換できるというのは一つの幻想でしかない。むしろ、言葉によって言葉を越える、その力。それを福田も辻も「イメー
ジ」という言葉で表現している。実はこれが非常に重要なことだ。
近代が科学的分析の時代だとすれば、現代はその分析したものを統合
していくことが求められている。それこそが現代はイメージの時代と言われることの本当の意味だと思う。電子顕微鏡や精神分析を用いてとらえられた物や人間
が、正しい姿だとは到底考えられない。しかしまた、僕らの文明がもはやそれらを捨て去ることができないのも事実だろう。いま僕らが手に入れなければならな
いのは、さまざまな分析像を一つのイメージに統合できる能力ではないだろうか。(霜栄『現代文読解力の開発講座』)
村上 ただ、あの人たち(オウム真理教の信者のこと―引用者注)の
提示したイメージというか、物
語は非常に稚拙なものですね。
河合 ものすごく稚拙ですよ。それはなぜかというと、イメージに関
わる訓練がなさすぎたというこ
とです。つまりオウムに入った人たちが習ってきたのはお勉強でしょう。お勉強ではイメージは離れるものなのです。イメージを豊富に持っている人は、お勉強
ができないんですよ。(河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
論理はしょせん分析である。しかし分析して断片化したものをもう一度組み立てるにはイメージの力が必要だ。「お勉強」(ちなみに「お勉強」と「勉強」が
違うというのはわが浅野高校の前校長がよく言っていたが、河合も同じ文脈で使っていると思う。どう違うかは想像してみてください)のできる人々は分析がう
まい。だからこそ、全てを情報とみなすのだと思う。情報とは加工可能な概念だからだ。むしろポストモダンに生きるぼくらは加工不可能性、例えば小説のあら
すじを要約したものを読んでも(そんな本が売れているらしいが言語道断である)小説を実際に読むプロセスからしか得られない感動に到達することができない
ことに思いをはせるべきだ。
もちろん、これはぼくがなにかを書くスタイルの一つのマニフェストでもある(つまり、論理性を前面に押し出した文章を絶対的に否定する意図はない)。ぼ
くは自分の書いたものを情報として読まれたくない、というただそれだけのことだ。だから非常にわかりにくい書き方をすることがあるし(文体実験という意味
もあるけれど)、なにより、人間くささを大切にしたいのだ。ネットという「情報」「論理性」「速度」が求められる場で、その反対を行く人間がいても一向に
かまわないと思う。
付記:「A⇔B」という二項対立を飛び越えるには「A=B」と考えてみるといい。たとえば「男⇔女」なら「男=女」と考えてみると男性の中にある女性性や
女性の中にある男性性に想像力が働く。同じように、大人の抱える子供らしさとか流行の中に不易を探すとか、なかなか面白い。
04/09/15