主のいない場所(五)
終業式の行われた三月二十一日は長い一日であった。正門から校舎に至
る長い坂の両脇に整然と植えられている桜は既に満開である。その
下をバスから降りた生徒が登っていく。桜の花に映じた光が辺りを暖かくしている。季節は春である。
「この桜も入学式のころには大分散ってしまっているでしょうねえ」
園山が前を歩いていた杉田に向かって挨拶代わりに言った。ああ、と声にも言葉にもなり損ねたような音を口から出して杉田は振り返った。そして園山に言わ
れて初めて気がついたように上を見上げた。彼はバスを降りてからの上機嫌が、学年変わりの事務が終わったことの解放感のみによるのではないことを理解し
た。
「今年は校長があれですから、単位を買いに来るばかな親もいなくてね。ああいう人はごく少ないですけど、必ず毎年現れるから不思議ですよ。とにかく余計な
仕事が増えなくて良かった」
そう言って彼は笑った。園山は理由はどうであれ彼の笑った顔は好きだった。
「私はあと教室の修理を頼まないといけないのよ」
「ロッカーが焼けたんですって?」
「煙草だけはねえ、気をつけてほしいですよ」
自動車の警笛が鳴った。二人は振り返らずともそれが佐々木のオープンカーであるとわかっていたので会話を続けながら道の端に寄った。坂道は車三台並んで
もなお余りある幅員だが生徒も道幅一杯に広がるので車は人を掻き分けるようにしてしか進むことができない。近くを歩いていた生徒が振り返って「教授だ」
「佐々木だ」と口々に言うのが二人にも聞こえた。
「そのうち職員室も禁煙になるんじゃないですか? そういうところ増えているらしいですよ。教師も吸わないことにしたからお前ら生徒も吸うな、てわけです
よ。何かおかしくないですか? 全然非論理的ですよ」
自分が上機嫌であれば相手も上機嫌であると疑いも無く思ってしまうような状態で杉田は饒舌になっていた。感情が自分の中から溶け出していくように、相手
も驚くほど杉田の口からは次々と話題が飛び出した。やがて佐々木の車が二人の横をゆっくりと追い抜いていった。今だけは彼は佐々木のことがさほど気にかか
らなかった。成績会議の時のようにわざわざ窓を開けてまで挨拶をしてこなかったものの、減速して佐々木は二人に会釈をした。車を追いかけて一群の男子生徒
がかばんを車の後部座席へ投げ入れながらわらわらと走っていった。
朝の職員室は相変わらずコーヒーと煙草との匂いが立ち込めていたが、今日が終われば春季休業に入るという期待がいつもの授業前のあわただしさと取って代
わっていた。
誰かが窓を開けた。途端に春の強い風が入ってきて積んであったプリントが舞った。窓は急いで閉められ遠くまで散らばった紙へ複数の手が伸びる。「やあ、
これはどうもすみません」と最初に窓を開けた誰かが言う。「このプリントはそっちでしたかねえ」と別の誰かが言う。
子供のいる教師たちは互いに育児の話に花を咲かせている。休みにはどこそこへ連れて行くだの何歳のなっただのと部屋の一隅でにぎやかである。そして最後
には「うちの高校にだけは通わせたくないよな」と口を揃えて言って大笑いするのだった。
数学科の教師たちはホワイトボードに数式を羅列してしきりに何か言い合っている。彼らにとっては問題を出し合ってああでもないこうでもないと考えるのが
格好の暇つぶしなのだ。「こういう面白い問題もいつかは教えてみたいもんですね」と誰かが言えば「いやあ、ここにいる限りは何年経っても無理だろうな」と
答えが返ってくる。お決まりの問答である。
こうした自然発生的な職員室の光景はこれから先も続くように思われた。「いつもと変わらぬ朝」は永久に続くように思われた。先日の会議で花岡が突然言い
出した「教師の通知簿」なるものを本気にしている者はほとんどいなかった。「また一人でいきり立ってるよ、あのおばさん」という声がいたるところで聞かれ
た。しかしいきり立っているのは花岡一人ではなかった。佐々木を中心とする若手の集団は学校の体質を変えようと本気で考えていた。大学を出たばかりの熱血
漢を中心に花岡は面接で採用し、絶対数を増やそうとしていた。一度は社会に出て挫折を経験している、特別「教育熱心ではない」人々が主な古参組とは対極に
ある人事だった。岩代幹二が全ての第一線から身を引いたところにこの高校の教員を二つに分断する深い溝が引かれた。
「おはようございます」と部屋の隅のまで響く声で言いながら大またで入ってきたのは他でもない花岡であった。「煙草くさいわねえ」と大声で独り言を言っ
た。自分の席で煙草を吸いながら新聞を広げていた久保田は「うるせえな」と花岡には聞こえないものの彼の周りにいる数人の人間には十分聞こえる声で言っ
た。腕を一杯に広げて大げさに新聞をたたみ、手のひらでやはり不必要に音を立てながら叩いてしわを伸ばした。
花岡の後から佐々木が、佐々木の後から背広姿の若い男女が一列に並んで入ってきた。視線は彼らに注がれた。無言のざわめき。
「少し早いんですが、皆さんには紹介します」
花岡は横一列に並んだ十人の若者に名前と来年度から受け持つ科目、出身大学を言わせていった。余りに唐突な、そして場違いとも思われかねない彼らの自己
紹介の儀式を人々は始め白昼夢を見ているかのようにぼんやりと眺めていたが、彼らの口から次々と飛び出してくる人間の名前、実在する大学の名称を聞いてい
るうちに彼らと自分たちが同じ現実の中にいるのだということを認識していった。人々の顔はゆがみ、引き締まり、あるいは緩んだ笑顔が消えていった。十人目
の自己紹介が終わっても歓迎の拍手は起こらなかった。一人佐々木が手を打って「ようこそ!」と声を上げた。若者たちは異様な職員室の雰囲気に当惑の表情を
隠さなかった。
「本当に皆さん優秀でいらっしゃるんですよ。この高校の新しい、力強い戦力になることに間違いございませんわ」
花岡はその様子を見てあわてて言った。けれども空しくその言葉は実を結ばず霧となった。
「お前らなあ」
立ち上がったのは久保田だった。その目は充血し、立ってからよろめいて机に手をついた。
「おやめなさい!」
花岡が間髪入れず叫んだ。しかし久保田は覚束ぬ足取りで前へ進み出て行った。佐々木が近づいていき、彼の行く手を遮った。彼は久保田の肩を大きな手でつ
かんで「先生、しっかりしてください」と小さな声ながら諭すような強い調子で言った。佐々木は久保田を同じような調子の視線で見つめていたが久保田は十人
の方しか見ようとしなかった。佐々木に抑えられてさすがにそれ以上前進することを彼は諦めたが首を傾けて言い放つのだった。
「お前らな、よく聞けよ。十七人だぞ、お前らのほかにまだ七人だ。お前らが入るおかげで追い出されるやつがいるんだ。それだけは覚えておけよ」
「誰が誰を追い出すと言うんです!」
花岡ももはや自分が黙っていようとも相手を黙らせようとも思わなかった。佐々木は目をつむって俯いた。彼はもう事態の収拾をどうつけるかということに気
を回していた。「花岡の右手」の異名がささやかれ始めていた。しかし彼自身は花岡こそが自分の右手なのだと考えていた。
「あんたが」
と久保田は花岡をねめつけた。
「俺をだよ」
その言葉の最後は息が漏れて声にならなかった。職員室は静まり返った。事情を知らぬ教員らは一校の長と一介の化学教師との二人の間に視線を泳がせた。彼
らにとっては信じられぬ事態が目の前で起きているのだった。一体久保田の言っていることが本当ならばこれはただ事ではない。しかし一向に要領を得ぬ言葉だ
けが次々と二人の間で取り交わされる。
「人聞きの悪いことをおっしゃるのはよしてください。罪があるのはあなたの方であって私ではないんですよ」
「罪は罪だが、もう、あんたのやっていることもほとんど罪に等しいじゃないか」
「わけのわからないことをおっしゃらないでください。もう少し話の通じる人だとあなたのことは思っておりましたよ」
この不毛な言い争いを誰もがこれ以上続けられることを希望していないのは明らかだった。誰かが二人の間に割って入り、ひだをむいて全ての事実をむき出し
にすることを望んだ。もちろん自分がそれをやるのではない。矛先は常に佐々木へ向かう。そしてちょうどその時八時三十分を告げるチャイムが鳴った。
「皆さん、朝のホームルームに参りましょう。この問題……と言うか誤解は改めてあとできちんと説きましょう。今日は岩代先生の追悼式もあるんですから暗い
顔なさらずにお願いします。なあに、簡単なことですから大丈夫ですよ、心配なさらなくとも」
佐々木が言った。一時の決まりはそれでついた。ため息が漏れる。ばたばたと出席簿やら配布するプリントやらを支度して担任するクラスを持つ教師らは職員
室から出て行く。杉田は立ち尽くしている久保田に近づいて「行くぞ」と肩を軽くたたいて促した。
「誤解」という言葉を佐々木は使ったが教師らの頭の中ではおおよその解決はなされていた。最初に血祭りに上げられたのは久保田だった、と。花岡が人員整
理を行おうとしている。十人の新人が肩を並べてやってきた。口を聞く人間だ。その現実が次第に浮かび上がり、久保田の一件でいよいよ影が濃くなり輪郭が明
確になった。明日はわが身か――職員室から教室へ向かう人々の顔は概して曇っていた。
二年B組の教室の扉を開けて、席が三分の二も埋まっているのを見ると杉田は変な気分だった。ただでさえ授業に出てこない生徒たちが式の日に学校に来るな
どということは珍しいことで、年度の変わり目に「来なければ落っことすぞ」と言ったのを真に受けているとしか考えられなかった。
「あのなあ、来なければ落とすとは言ったけど来れば上げてやるとは言ってないからな」
生徒は不満の悲鳴を上げる。比喩ではなく文字通り悲鳴である。杉田はすばやく教室の隅から隅へ目を走らせた。坂口は窓側の列、中央付近の席で隣の生徒と
笑い合っている。本多は雑誌を丸めて隣の男子生徒とチャンバラに興じている。いつもと変わらない朝の大騒ぎ。これも、いつまで続くのだろうか? 杉田は
思った。後ろのドアから駆け込んでくる者がいる。杉田が入ってきたことに今ごろ気がついて慌てて猥褻な写真週刊誌を机の中に隠す者がいる。手鏡とにらみ
合ってまつげの手入れを念入りにしている者がいる。杉田は不思議に思った。いつからこの教室の弛緩した雰囲気が心づくようになったのだろうか。いつから目
の前にいる生徒たちはこんなにも――自由、と言ったら平凡だ。杉田は目の前にいる者たちと同じ年の頃の自分を思ってみて、その余りの乖離に驚くことしばし
ばであった。彼は常に自分の義務を全人類の義務とでも思ってしまうようなところがあった。物事に対する感じ方、考え方も、自分が持っているそれらを普遍的
なものとみなし、他人の気持ちを推し量る際もその人間の事情など最初から無いかのように「自分はこう考える、したがって彼もそう考えるはずだ」という式の
考え方以外できなかった。それで、彼は坂口や本多の顔を見て不信に思わざるを得ないのだ。
――俺だったら押しつぶされる。笑顔は引きつって誰がどう見てもうちに何か抱えているように見えるようになるだろう。もうだれかれ構わずそれをぶちまけ
たくなるだろう。
やはりそう思わずにいられなかった。同時に権力や権威というものに対して臆病な杉田が、少なくとも権力はあるクラス担任として教壇に立つと自分が場違い
なところにいる感覚に陥るのは自然なことであるにしても、自分が生徒の一人であるかのような安堵感を覚えてしまうのは疑問であった。彼は職員室で一人でい
るよりも教室で放課後遅くまで生徒たちと油を売る方を好んだ。なるほど彼らは互いに人生の核に関わる問題、将来のことやいかに生くべきかということやを話
し合うわけではない。しかし「教師」がそうするであろうことを誰もが嫌う、その「誰も」の中に教師である杉田は何の疑問も無く溶け込んでいた。あるいは彼
はそれが「よき教師」の一つの像であることさえ知らない。「知らない」ということは生徒と同じである。彼らは杉田に対して彼が「よき教師」であることを望
んだことなど一瞬も無い。いわば、岩代高校という真空地帯に彼らは落とされた。そして彼らがよりどころとするのは――これこそが杉田の抱いた疑問を全て解
決する鍵である。
「式は十時からだ。それまでに成績表と配布物を配るからなあ」
杉田は浮かぬ顔をして言った。
職員室に残った教師たちは手持ち無沙汰に部屋を出たり入ったりしていた。花岡は校長室に引き戻り、佐々木も立ったまま腕組みをして唇をなめていた。それ
から彼は不意に思いついたように新人たちに向かって言った。
「校内見学でもしよう。ここの校舎はずいぶん意匠を凝らしてあるんだ。十時までに講堂に行けばいいから少し案内するよ」
彼は十人を職員室から外へ導き出した。
「本当なら、君たちには盛大な拍手が贈られて然るべきなんだ。せっかく新しい仲間が加わるんだから……」
佐々木は考え考えゆっくりと言った。彼を先頭に新人たちは階段を上っていった。
「この階段の手すりもね、チェコの立体派を模しているんだ。へんてこだろう?」
と佐々木が多面体を寄せ集めたような手すりを叩きながら言えば皆笑った。佐々木もまた良くしゃべる男ではあったが、その全てに意味を含ませることをし
た。誰もがするような無駄話もその先にある重要な話への布石となっている場合が多かった。逆に言えば、彼は会話の純粋な楽しみというものを持たなかった。
それを必要としないのだった。彼は常に一人である。彼にとって会話は、相手を自分の方へ導き入れるか排斥するかの手段である。
三階の職員室から四階、五階の教室を抜けさらに佐々木は階段を上っていった。その先には小さな空間と厚く重い扉が一つだけあった。彼は屋上へ出るつもり
らしかった。
「本当はいけないんだけどね」
彼は背広の内ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。重い扉がきしみながら開けられると彼らの足元に沈んでいたほこりが舞い、非常口への案内表示
と火災報知気の赤いランプとしか光源の無かったところへ太陽の光が差し込んだ。舞い上がった細かなほこりが光を反射して霧のように彼らを包んだ。手で口を
抑えながら急いで彼らは外へ出た。
屋上へはコの字型になっている三辺のそれぞれに異なる階段から上ることができ、三辺の間を行き来することはできない。コの字の開いた先にある正門から見
て右翼の一端に佐々木たちはいた。
「校舎ができた当時はここも開放していたらしいんだ」
ベンチと小さな東屋とが残っていることがそれを物語っていた。既に十年近く雨ざらしになっているために白いペンキで塗られていたらしい木製のベンチも一
蹴りすれば崩れてしまうのではないかと思わせるほどに腐ってしまい、東屋の鉄筋の骨組みもすっかりさび付いてしまっていた。人がいることを想定されて作ら
れた場所に人がいない、目的を失った建造物は廃墟と呼ばざるを得ない。
新人の十人は例外なくフェンスに張り付いて子供のように眺望を楽しんでいた。各々指さして何事か言い合っていた。「あれ、多摩川ですよね」と振り返って
佐々木に聞く者がいる。「そうだ」と言って彼は目を細めた。彼は強い風に手をかざし、乾いた唇をなめた。
「あの河川敷の広場の端から、そっちのトラックがたくさん停まっている工場があるだろう、あそこまでの土地、それから左の方に見えるゴルフ場、その向かい
にある大きなホテル――全部岩代幹二のものだ。もちろんこの学校もな」
佐々木は雨水に黒く汚れた打ちっぱなしのコンクリートの床を革靴の底で叩きながら言った。彼が何事かを語り始めようとしていることを敏感に感じ取って新
人たちは一人また一人と話者へ向き直っていった。
「屋上が閉鎖になったのは、飛び降り自殺があったからなんだ」
佐々木は極力新人の顔を見ずにその向こうにある岩代グループの敷地の方を見た。聞き手は佐々木の顔を凝視した、顔をこわばらせて。
「このフェンスも高いだろう。あとで作ったんだよ。それでも上るやつはいたがな」
佐々木はフェンスに近づいていった。十人は二つに分かれて彼に道を開けた。フェンスに手をかけ、新人たちから表情を悟られないように彼はそれへ顔を近づ
けた。
「死のうと思った人はみなグループの社員だった。岩代の下で働いていた人達だ。この屋上に来るとやつのやっていることが全部見えるようになっている。わざ
わざこんな高台に学校を作らせたのも、あながち気まぐれでやっているわけじゃないんだ」
少しく彼は黙した。それから、彼の口から意外の言葉が出た。
「そして俺の友達も、ここから飛び降りた」
会話を先述したようにみなしている彼が告白というものをすることなどまずありえない。しかし彼は初めて告白らしいことをしようとしていたのだった。それ
も、学校の事情を何も知らない若者たちに向かって。
「何があってそうなったのかはわからない。だけど、俺はこの学校の頂点に立って、この学校をつぶすためにここに来た。俺ができる復讐はそれくらいのものだ
けど、あいつが死んだあの日に自分に課したこの使命を俺は果たさなきゃならないんだ」
と言って佐々木は俯いて肩を震わせた。周りにいる生きた者たちは彼にいかなる言葉をかけてよいのかわからなかった。彼らは黙って佐々木を守るしかなかっ
た。風が意のままに吹き荒れていた。髪の毛を抑えながら「先生……」と聞こえるか聞こえないくらいの声でつぶやく者が一人。
ところが突然佐々木は上体を起こし、空に向かって笑い声を上げた。
「冗談だよ、冗談」
新人はあっけに取られてただもう、相手が何を次に引き起こすのかを黙って受け取ることで精一杯だった。しかし彼らには彼が最後に言った言葉だけは嘘であ
ることくらい承知していた。佐々木は自分の真面目さに耐えられない。自分の性格を常に捏造して見世物にしている。ところがそのほころびは異様な鮮やかさを
もって人の目に映じる。
「会社はいつかはつぶれる。事実、このままだと向こう五年の間にグループの半分が黒字を出すことができないとする予測さえ出ている。そしてその半分の中に
――」
佐々木は振り仰いで、空になびいている岩代高校の校旗を見上げた。緑の地に白く抜いた校章は関連会社の社章と同じように「岩代」という文字が図案化され
た五角形の中心に鳥が上へ向かって飛んでゆく姿が描かれたものである。
「この高校も入っているんですか?」
一人が恐る恐る言う。彼らにとっては初めての職場である。佐々木はうなずいた。
「今、校長はグループの中央、と言っても親戚なんだろうが、そこから圧力をかけられている。いくら岩代幹二の娘とはいえ一度出奔しているんだ、快く思って
いない連中も多い。やつらのご機嫌取りのためなら俺までも赤坂の料亭まで駆り出される――そんなこと、やりたいと思うか?」
十人は首を縦にも横にも振らず、佐々木の口から次々と出てくる新事実を一つとして漏らすまいと集中していた。
「この高校が残るか残らないかは花岡さんにかかっている」
佐々木はもう一度振り返った。一人と十人とが向かい合った。
「そして君たちにも」
そこでやっと新人たちも首を縦に振った。
「君たちにだからこそこんなことも話すんだ。花岡さんにいい知恵を貸してやってくれ。あの人も今、せっぱ詰まる思いで毎日やりたくも無いお金の計算やら授
業案作成やら人員整理やらにあの小さな校長室で頭を悩ませている。ぼくなんかもお手伝いさせていただくけど、とても間に合わない。一方で岩代幹二のかわい
がっていた古参組の教師たちは疑心暗鬼になっている。彼らはもう自分が辞めさせられるものと思い込んで仕様が無いんだ。この高校は変わろうとしている。君
たちも授業を一度ここでやればわかる。ここは勉強するところじゃない。学校の機能を果たしていない。花岡さんは一生懸命変えようとなさっている。この真空
地帯を、学校という場所に。そんなときに採用されたんだ、せっかくだから大いに働いてくれ」
通常に戻った佐々木のそうした物言いがどれほど若い心に影響を与えるかは計り知れない。佐々木は確信犯的に「君たちにだからこそ」という言葉を使った。
彼のせりふは確実に十人に揺さぶりをかけた。ある者は大きく何度もうなずき、ある者は興奮の余り一歩前へ踏み出して何か自分の胸のうちに沸き起こったもの
を表そうとしたがうまく言葉にできずに口を半分開いて佐々木にたぎった視線を送るのみであった。佐々木は学校の事情を秘密裡に教えているのだという空気を
強調し、学校の未来が新人の肩にかかっているということを言葉を変えながら幾度も繰り返した。屋上という場所も十二分にその演出を助けた。
「時間だ、行こう」
腕時計を見やると既に三十分以上も屋上にいたことに気がついた。彼らはそこを後にした。佐々木の後ろから列をなしてついてゆく者たちの顔は先刻職員室を
出てきたときのそれとは一転して意志に満ち使命感に燃えていた。花岡に見出された彼らは教育熱心という人間の部類に入るのだが、佐々木が「屋上の垂訓」に
よってそれにうまく焚きつける結果となった。佐々木は大いなる満足を得て講堂へ行進していった。
同じころ杉田も二年B組の教室で「時間だ、行こう」と生徒たちに言っていた。
「俺は一回職員室に戻ってこれをおいてから講堂に行くけど、いいか、帰るんじゃないぞ。かばんは持っていってもいいけど、帰るなよ……か、え、る、な、
よ。一応式が終わった自由解散ということにする。いい?」
杉田の言わんとしていることを生徒たちも理解してめいめいかばんの中に持ち物を詰め始めた。杉田は教室を出て階段を急いで下りていった。職員室に戻ると
久保田もちょうど回収物を置きに自分の机のところにいた。手をついてじっと机の上の一点を見つめている。部屋には他に誰もいなかった。
「おい、もう十時過ぎてるぞ。急がなくていいのか?」
杉田は何事もなかったかのように久保田に言った。
「お前はよく平気でいられるな」
そう言われて杉田はため息をつき、自分の席に持っていた封筒の山を置きに移動しながら「園山さんにも同じようなことを言われたよ」と言った。それから彼
は久保田に背を向け、机の上で書き物をしながら語を継いだ。
「俺はもう辞めているつもりでいるんだ。遅かれ早かれ俺も肩をたたかれるだろうよ。誉められるようなことなんて一つもしてないしな」
書き終わって杉田は開けっ放しの筆箱へ万年筆を放り込んだ。
「だけど、こればっかりはどうしようもねえよ。俺は佐々木みたくなりたくないし……宮澤みたくもなりたくない。と言うより、あんな能力は無い」
杉田が言い終わって久保田のほうに振り返ると相手は顔を上げて杉田をねめつけていた。久保田は吐き捨てるように言う。
「なんだそれ、強がりか?」
「強がり」は事実であった。杉田はそれを指摘されて恥部を一思いに突かれた思いがした。体中の細胞が汗を噴き出すようであった。しかしその感情のままに
言葉を放ち行動を起こすほど彼はまめな男ではなかった。要するに、彼はそれ以上久保田と付き合っている気になれなかった。自分自身の感情を整理する余裕も
無かった。彼は懸案について考える努力を最初から放棄していた。逃げることも戦うこともしない。今のところ影響は直接でない。その限りで彼は対岸の火事の
意識を払拭し得なかった。
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。杉田は部屋を出て行く。その後ろ姿が扉の向こう側に消えてから久保田は帰り支度を始めた。机の上のものを次々とか
ばんの底へ放り込んでいった。彼の目にはいつの間にか涙が浮かんでいた。かばんの底へは涙の粒も落ちた。大きく膨れて重くなったかばんを抱えて、彼は職員
室を出て行った。
講堂は正門からの坂道を右に曲がったところにある。左に曲がれば校舎である。中は正面に舞台が設けられ、腰を下ろす部分が跳ね上がる座席がその舞台に向
かって大きく三つの部分に分かれて固定されている。ほとんど映画館と同じ構造である。座席部分の一番後ろに外へ続く扉が三つある。したがって講堂の空間そ
のものは地下にある。
杉田が校舎から出て講堂の入り口に向かって赤レンガの敷き詰められた小道を急いで行くとまだ入り口付近に生徒がわだかまっていた。彼は速度を落としなが
ら近づいていって「なんでさっさと中に入らないんだ」と最後尾の生徒に尋ねた。
「制服を直させるんですよ」
別の生徒が答えた。彼は生徒を掻き分けて講堂の中へ入った。天井の明かり取り用の窓は閉められ、窓には全て暗幕が引かれていた。壇上だけが必要以上に照
明で照らされ、壁の中央に拡大された岩代幹二の遺影、その上には「岩代幹二追悼式」と筆書きされた横断幕が掲げられていた。終業式は岩代幹二の追悼式も兼
ねているのだ。講堂の千ある席のうち前の部分をグループ関係者が、後ろの部分を生徒が占めていた。背広姿の男たちはこの日のために作成された「岩代幹二の
業績」という小冊子を手に式の開始を待っていた。入り口で制服の乱れを直された生徒たちも席につけばネクタイを緩めた。
花岡にしてみればこの追悼式を成功させ賓客に大きな満足を与えて帰さねばならなかった。校長としての力量が「中央」の人間に試される貴重な機会の一つで
ある。彼女は朝からご飯粒一つ喉を通らぬのに下痢をするほど張り詰めていた。
杉田は坂口を探した。坂口のいつもと変わらぬ様子が杉田の心に不安と疑問とをもたらしたのは事実である。杉田は坂口から何か一言でも良い、新しい言葉を
引き出したいと思った。本来ならば、坂口が自分のしたことについて頓着せぬ表情でいることは杉田にとって都合の良いことであるはずなのだ。しかし彼の疑い
深さがどうしても納得させなかった。運良く坂口は壁側の一番端に座っていた。杉田はそこへ向かって下りていった。彼から言葉を引き出すためには杉田のほう
から何か言葉をかけなければならなかった。
彼はそっと坂口の横に腰をかがめた。坂口は特別驚いた様子も無く杉田の方へ顔を近づけた。
「今日で、この式で終わりだ」
何が終わりなのか、なぜこの式で終わるのか杉田自身もはっきりとはわからなかった。しかし坂口との間で岩代幹二という言葉を出さずにそれを話題にするた
めには彼でなくともそれくらいの言い方しかなかったように思われる。春休みをはさんで新学期が始まれば人々の記憶から死んだ校長のことが薄れていくことは
間違いないだろう。それを食い止めるために胸像が講堂の前に立つことになっているが、一体それがどれほどの効力をもつかは疑問である。ところが坂口にとっ
て、杉田にとっては事情が逆である。時間を経るにつれて色濃くなる記憶を、彼らが何も知らない人と同じように忘れることなど不可能に近かった。しかしこの
事実を知っている者はたった二人である。二人が忘れてしまえば事実は事実でなくなる――この世から永遠に、あったはずのことがなくなってしまう。杉田が願
うことができるのはそれだけだった。
「先生、ごめん。だけど、大丈夫です」
坂口は言った。杉田は「うん」と言ったがなおも不安を拭い去ることができなかった。もう二言三言続けたい気持ちもあったが「大丈夫」と言われた手前、う
まい言葉が見つからなかった。「ごめん」という意味も解しかねた。彼は立ち上がって教師が並んで立っているほうへ離れていった。これ以上坂口とは関わりた
くない、とさえ思いながら。
生徒が全員中へ入って席に座り終えるまでの時間を彼は壁に寄りかかりながら場内を見回して待っていた。佐々木が他の若い教師らと壇上で作業をしている。
マイクの導線を舞台の前に垂らしたり後ろへ戻したりの繰り返しをするかと思えばそのマイクの接触が悪く何度も他のものと取替えマイクの頭を叩いては調子を
合わせ、あるいは花束の角度を几帳面に直したりと忙しい様子であった。壇の前では花岡が席の最前列の男たちと談笑している。彼女は不必要に思われるくらい
相手の一言一言にうなずき声を立てて笑って見せた。饗応にいそしむ彼女の姿を杉田は見ていやな気分であった。
やがて場内が暗くなった。式はごくありふれたもののようであった。終業式を兼ねているのは表向きだけで、進行するプログラムは追悼式のために作られたも
のだった。最初に追悼式をやるよう学校側に打診したのは新しくグループの頭取になった人間で、彼はグループ全体の経営再建を打ち出し岩代幹二に対しては花
岡とほぼ同じことを常に言っていた。その彼が式を行うように言ったのもグループ内部に「古参組」が岩代高校と同じように存在し、その勢力の方が強いためで
あった。追悼式を都心の高級ホテルで行うのではなく学校の講堂で済ませようとしたところが彼にとってでき得る限り最大の抵抗だった。終業式を兼ねると言う
ことで生徒を集めたのは佐々木の工作である。
スピーチは花岡校長に始まってグループの会長、各社社長、友人代表、遺族代表、同窓会会長、PTA会長と、「代表」や「長」と名のつくあらゆる人間が際
限なく壇上に上って同じような話を繰り返した。岩代幹二がゴルフ好きで、どこそこの会長と三人でよく行ったという話の後で当の「どこそこの会長」がマイク
を握るなり「岩代さんは生前ですね、非常にゴルフがお好きで、ほれ、そこに座っていらっしゃる河田さんと三人でよく行ったんですが――」と始める場面も
あった。そのうちに決して少なくない数の話者の顔が見ている人間の目には皆同じように映ってきた。しかも、彼らの背中にしょっている遺影の中の人物とも実
によく似ているように思われてくる。繰り返される冗長な話に業を煮やして生徒たちは携帯電話を取り出してメールに興じ始めた。壇上では変化があった。関係
者との間で「藤原さんも一言どうですか」「いや、私は結構ですよ」「そう言わずにさあさあこちらへ」「いやあ、ではほんの少しだけ思い出話をさせていただ
きましょうか」というやりとりが次々と芋づる式に広がり、もはや花岡が作成したプログラムは無効となり、壇上へわざとやじを飛ばす者や手を打って笑う者が
現れた。生徒たちも空気が式の厳格さを失ったのを見て取ると話し声を上げ始めた。渦はゆっくり、着実に広がっていった。中央の一部の人間や花岡らは難色を
示した。頭の毛をそり落とした男が座席に花岡を手招いてしきりに何か言う。花岡は何度も頭を下げる。佐々木が二人に近づいていって何か言う。三人がしばら
く激しく言い合う。他の教師らがプログラムにはない話者が壇に登ろうとするのを制しようとするが、相手が相手なだけに強く出ることができない。
杉田は講堂の一隅でこの有様を目の当たりにして、その収拾の無さ、取り留めの無さ、統合へ向かうことへの意志の無さをどこか懐かしいものと感じていた。
それは不思議な感覚であった。そして彼は今が式の最中であり自分のいる場所が講堂であることを忘れた。その場の人々の動きや声がそれを忘れさせたと言った
ほうが正確だ。それはまるで教室のようで、朝の職員室のようで、……。彼は壇上の大きな遺影を見て妙に納得したような気分になった。それが、答えだった。
ばらばらになってゆく人々の頭の動きを目でゆらゆらと追い、人の口から出る一つ一つの言葉がたたみ重なってうねる空気の振動を鼓膜へ響かせた。彼も誰かに
話しかけたくなった! 岩代幹二はこの空気の中にまだ生きているとさえ彼は思った。作ろうとしなくとも、自然、岩代幹二は望むものを手に入れていた。彼の
もとに人が集まり、何も知らない彼らは岩代幹二を一つのよりどころとした。その結果が「場」に自然発生的に成立した岩代高校ではなかったか。――杉田はそ
んな風な結論に至った。なるほど、岩代幹二は世間一般の「校長先生」というイメージではなかった。一人の成金が追い果ててゆく様は十年近くを共に過ごした
古参組の人間にとってもっと強烈なものであった。まるで偉人の伝記の中に入り込んでそれを追体験しているかのようなイメージであった。彼は式というものを
ひどく嫌っていた。何かそういうものがあっても、列の前の方に座っている者たちとだけおしゃべりをしているだけであった。壇上からすぐ目の前に座っている
生徒に向かって言葉をかける姿が杉田のまぶたの裏に映ると同時に、目を開ければ同じ光景が講堂の中でも起きているのだった。しかし彼の出したその結論は恐
ろしいものである。岩代幹二が死んだ今、言葉の厳密な意味で彼に代わる人物はいない。それは、岩代高校に残された選択肢が死ぬか生まれ変わるかの二つしか
ないということである。花岡や佐々木のやろうとしているのは後者の選択肢である。そう思うと杉田は今まで抱いてきたいわれの無い彼らへの憎悪が和らぐのを
覚えた。そして自分自身にも二つの選択が迫られているのをやっと、現実味をもって感じることができた。なるほど、久保田は「死んだ」。宮澤は生まれ変わる
道を選んだ。
そして園山が選んだのは前者だった。