主のいない場所(二)
携帯電話が鳴った。机の上で液晶画面が橙色に点滅する。自宅のアパー
トに引きこもり、英語の答案を一日かかって学年二百人分のうち、
四分の三を見終わったところだった杉田はその日の労苦を缶ビールで洗い流そうとしているところだった。彼はプルタブを上げようとしていた手をしぶしぶ止め
て腕を伸ばし、その電話を取った。「もしもし」とこれから相手との会話が始まることに全く気乗りせぬ様子を露骨にしながら彼は言った。
「――杉田先生?」
不自然な間の後、男の声でそういうのが聞こえてきた。「先生」と自分のことを呼ぶのだから生徒に違いないと杉田は思いながら椅子から立ち上がり、壁にか
けてある時計を見上げた。十時半。よほどのことが無ければこんな時間に教師へ電話をかけてくることは無いだろう。「そうだが?」と言いながら彼は不審に
思った。今度は誰がどんな事件を引き起こしたのか。
「あの、坂口です」
「なんだ、こんな時間に学級委員が電話よこすなんて不穏だな」
それ以上に問題の無い生徒から接触があるというそのことに杉田は何か安心できぬ要因を感じていた。
「ごめんなさい、でも……。」
坂口の声の調子が下がった。語尾を濁したが、濁したまま彼は句点を打った。それを言い直そうという意志を放棄した証拠である。それは杉田にも敏感に感じ
られた。彼は坂口が自分にそれを引き出してほしいと考えているのではないかと思ったが、そのような芸当ができる自分ではないことは重々承知していた。そし
てそれは坂口だってわかっているはずだ。
不意に途切れた言葉の後に、永遠に続くのではないかと思わせるような沈黙。それを埋めるには言葉を発さなければならぬ、電話だから。その言葉をを探すため
に彼らは言葉の塵芥を頭の中でもうもうと煙らせ手を振り回した。間が沈黙に変わろうとしたとき、杉田は自分から一番便利な言葉を見つけ出して沈黙を間にゆ
り戻した。
「用が無いなら切るぞ」
「あ、待ってください。先生、試験の採点が終わったらいつもの……」
「ああ、そのことか。それじゃあ明々後日――」
「先生ごめんなさい。やっぱり話します」
坂口は杉田の言葉を半ばから覆い被さるように言った。杉田はこれはただ事ではないのではないかと、机の上の答案用紙とその上に置いた缶ビールを見ながら
思った。缶の表面には既に水滴がびっしりと埋まり、その缶をどかすと一番上の答案用紙には底の丸い跡が湿ってついていた。指先でなぞって拭いた。
「なんだよ?」
杉田は缶ビールを冷蔵庫に戻し、買ったばかりの赤いシングルソファーに腰を下ろして電話を持つ手を左から右へ変えた。彼なりの臨戦態勢と言えよう。
「実はその――校長先生のことなんですけど。花岡先生ではなくて」
「じいさんのほうか」
「はい、岩代先生のほうです。それで……その……」
再びの沈黙。杉田は時計の秒針を見ながら待った。六、七、八、九……。彼は受話器の向こうの音を聞き取ろうとしたが呼吸の音すらせぬ。そうしている彼自
身も息を殺していた。十を数えたところで彼のほうから切り出した。
「なんだ、もういいじゃないか。死んでしまったんだし」
「いや、その……あれは、ぼくなんです」
その言葉の持つみなぎった緊張感は十二分に杉田の耳に届いてしまった。言葉の持つ空気がその意味よりも先行した。
「え?」
坂口は次のようにようやく語り始めた。
「あの時、前の時間が化学で、実験室で授業があったんですよ。でも次の時間の数学が小テストで数学のノートとかを実験室に持って行っていたんですね。でも
化学の授業が終わってB組の教室に戻ってからそのノートを実験室に置いてきた事に気がついたんです。机の下に入れておいたからつい忘れてしまったんです。
休み時間はまだ少し残っていたんですが、佐々木先生、時間ぴったりにいつも来るしやっぱり見直しておきたかったんで急いで取りに行こうと思ったんです。そ
れで四階の教室から一階の実験室までかなり急いで駆け下りていったんです。それで、それで――」
坂口は途中何度もつっかえながら話し進め杉田もそのつど相槌を打ってやった。しかし最後には言葉を続けることができなくなった。杉田が彼の代わりに語を
継いでやった。
「車は急に止まれません、てわけか。お前はじいさんの背中に体当たりした。その勢いでじいさんは階段から落ちて――でもお前が一応第一発見者というか、目
撃者になっているのに警察の人と話したときなんて言ったんだ?」
「警察の人には、確かにぼくは駆け下りていたのだけれど、ぼくが岩代先生を見たのは踊り場からで、先生が階段を降りている途中にご自分でつまずかれて転落
したと、そう話しました。真っ赤なうそなんです」
その真っ赤なうそが岩代幹二の死亡証明書に記載されている。彼は足が悪かった。エレベーターの設置されていない校舎だっから、三階の職員室、校長室と昇
降口との間を杖をつきながら階段を上り下りしなければならなかった。その不安定な姿は余りにも良く知られていたため、坂口の証言が疑われることは無かっ
た。
「お前の後ろで見ていた生徒はいなかったから目撃者はお前一人だった。俺たち一階の廊下にいた連中は転落してきたじいさんの姿しか見えなかったんだ。要す
るに、お前がなんと言ってもそれが事実になる」
杉田は一気に押し寄せてきた坂口の言葉をその順番で頭の中に積み上げることができないと思い、自分の言葉で古い積み木と新しい積み木とをもう一度積み直
すように努めた。しかし事実が直接坂口にとって重要ではないのだった。彼が杉田に電話したのはひとえに救いを求めるためであり、杉田のような人物に電話を
したことがその混乱ぶりを逆に露呈していた。
「先生、僕はこれからこのことを隠し通す勇気が無いんです。一生これを引きずらなければならない、と言ったら大げさかもしれませんがそれくらいの気持ちで
いるんです。先生に初めてこのことは話すんです。どうしたらいいですか、ぼくは……」
その話し振りからすると坂口は悩み、苦しみ尽くした様子であった。既に葬儀が終わって一ヵ月半が経過する。その間、雪が融けていくのとは逆に彼の心には
苦しみが降り積もり一人寒さに凍えていた。殺人と言えば大げさであるし殺意は明らかになかった。けれども彼の正義感、潔癖な性質が自らを殺人者と断定して
止まなかった。さらに彼を苦しめたのはそれを偽るために虚言をしてしまったことであった。二重の罪悪感が彼をさいなんだ。一つ目の罪に故意は無いにして
も、二つ目の罪は不可抗力でなされるものではない。
しかし杉田には事の深刻さそのものは理解できても坂口の苦しみを汲み取ってやれるほどの想像力は残念ながら欠如していた。なるほど事実は誰にでも理解で
きるだろうが、その渦中にある人物の苦しみというものは共有することが難しい。むしろ他人の苦しみが他の人間の感情に漏出するなどということはありえぬ。
しかし想像力はそれを助ける。積極的に、能動的に働きかければ苦しみも分かち合うことができる。ただし自ら苦しみを得ようとする人間がどれほどいるかは疑
問であり、杉田はそういう人間ではなかった。杉田もまた坂口の話から苦しみを受け取っていた。しかしその苦しみは「杉田の」苦しみ、つまり事実を受け止め
た上で彼の中に派生した苦しみであった。それをまず彼は除外しようとした。
「いいか、あのじいさんは遅かれ早かれもうそろそろ死ぬはずだったんだ。脚も腰も頭も悪くなっていたしな。だからじいさんが死んだことを気にする必要は無
い。いいな? それから嘘をついたことも気にする必要は無い。お前の嘘は正しかった。つくべき嘘だったんだ。本当のことをもしも言ってみろ、お前は退学ど
ころか家裁送り、果ては担任の俺にも監督不行き届きとか何とかで責任が巡り巡って来る。ところがお前がついた嘘のおかげで誰も責任を取らないで済んでい
る。それどころか花岡さんもめでたく校長にのし上がることができたわけだしな。もう、そうやって現実は回り始めているんだ。そうなったらもうお前の罪は時
効さ。それでいいだろう?」
「でも、……でも先生――」
杉田の視点に坂口個人の苦しみは完全に欠如していた。
「もう遅いんだ。誰もお前が嘘をついたなんて思ってやしない。それならばそれは嘘ではないんだ。悩む暇があったらな、『自分は嘘などついていない、あれは
勝手に校長がずっこけたんだ』って十回でも二十回でも自分に言い聞かせるんだな」
杉田が焦って破綻した論理を展開し坂口の話を十分に聞いてやろうとしなかったのはこの電話を無かったことにしたかったからだった。彼はこの電話さえなけ
れば今ごろは心地よい睡眠についていただろうにと、後悔さえし始めていた。それはもう少しで坂口への敵意へ変化しようとしていた。彼にとっては生徒の相談
事も答案の採点も同じ重さの仕事であった。無ければ無いに越したことはない瑣末な事務。
「来年一年間だけ黙って過ごして卒業しちまえばもうこの学校の生徒じゃなくなるんだ。たったそれまでの我慢だよ。なあに、そのうちそんなこと忘れてしまっ
て一年なんてあっという間に過ぎてしまうよ、大丈夫だ。最大多数の最大幸福って麻生さんに倫理で習っただろう? あれだよ、まさにあれだよ」
と杉田が言ったところで電話は切れた。
「なんだあいつ、自分から電話してきておいて自分から勝手に切って」
杉田は携帯電話に向かって毒づいた。しかしそうしながら内心穏やかでなかった。大波が打ち寄せる。何度か打ち寄せる。その間隙を狙ってさざなみが打ち寄
せる。そんな不安を坂口は残していった。彼が最後、一方的に電話を切ったことがなによりも杉田を波に溺れさせた。どういうつもりなのか? 杉田への何らか
のメッセージを込めての行為だったのか? 杉田はそんなことを繰り返し考えながらも答えを出すことができずにいた。それも当然の話である。坂口はごく自然
に担任の無能さにあきれて電話を切ったと考えるのが通常である。それが、杉田にはできぬ。彼は物事をとにかく異常な形で歪めて考え抜いてしまうところが
あった。感情的で非論理的な思考である。
彼はソファーから立ち上がった。早まる鼓動が耳元で聞こえるかのようだった。彼は言葉を失ったかのように同じ問いを百遍も千遍も繰り返した。彼は突然机
の引き出しを引っ掻き回し始めた。目当てのものはすぐに見つけられた。彼の手にはクラスの名簿が強く握られていた。自分の組の頁を開けて坂口の番号を見つ
けると彼は右手に持ったままの携帯電話でそれを打とうとした。
「いや、だめだ! こんなことをしてどうするというんだ」
我に返って杉田は電話をソファーの上に放った。ソファーから跳ね返って電話は床を滑った。名簿も机の上に投げつけられ、その拍子に鉛筆が何本か床に転
がった。杉田はデスクチェアに半身で座り、深く息を吐いた。
「待て、落ち着け……」
わざと声を出して杉田は自分にそう言い聞かせた。「悩む暇があったらな、『自分は嘘などついていない、あれは勝手に校長がずっこけたんだ』って十回でも
二十回でも自分に言い聞かせるんだな」という坂口に言ったことを今度は自分に向かって実行しなければならなかった。落ちた鉛筆を拾い上げ、採点途中の答案
用紙を持ち上げて角を揃えた。携帯電話も拾って充電器につないだ。そうして机の上を整理することで心の整理につながらないかと彼は思ったのだ。
――なに、大丈夫だ。万が一花岡に知れたところで坂口は罰せられはしないだろう。なにしろ学級委員も務める成績優良児だ。花岡の一番好きな類の生徒なん
だ。坂口が罰せられないのなら俺が罰せられる道理は無い。そのはずだ……大丈夫、どうせあの小心者のことだ、もう他の誰にも告白はしまい。俺の言うことを
聞いて一年間黙っているに違いない。全ての大人が俺と同じ事を言うに違いないと邪推するだろう。それに、案外その通りかもしれないしな。それで十分だ、そ
れで。もう済んだことだ。全てはもう終わったことなんだ。
小心者は杉田のほうであった。彼は坂口に向かって言った支離滅裂の言葉を自分に繰り返しながら決してたどり着くことの無い合理的解決にたどり着こうとあ
がいた。
――しかし、何も俺がびくびくすることはないではないか。俺が殺したわけではないんだ。殺したのは坂口であって俺ではない。いや、それどころか誰を殺し
たって言うんだ? 事故ではなかったのか、事故!
そこで彼は一つの安堵を手に入れた。事故という、自らの嘘を信じ込むことによって。椅子から立ち上がってわざとらしく背伸びをすると先刻は電話のおかげ
で飲むことのできなかったビールを冷蔵庫から再び取り出し、今度は気持ちよく飲み干した。彼はソファーにもう一度座り、机上に積まれた答案の山を眺めた。
その日一日の労苦である。その満足の方へ彼は自分の頭を領せんとした。その快感に浸ったまま眠ってやろうと彼は考えビールの軽い酩酊が体中に行き渡るのを
感じながら手早く顔を洗い歯を磨いて蒲団の中にもぐりこんだ。部屋の明かりを消すとビデオデッキのデジタル表示が鮮やかな緑色を放ち、時計の秒針が規則的
に音を立てるのみとなった。
しかしすぐに坂口のことがよみがえった。アルコールが妄想という底なしの落とし穴へ彼をいざなう引き金となったのである。
――坂口のやつ、今ごろ教師という教師に電話をかけて「俺が殺しました」なんて触れ回っているんじゃないだろうか。ついでに杉田はひどい教師だ、あれは
起こるべくして起こったことだから別に対した問題ではないと言って全然取り合ってくれないなどとしゃべり散らかしているんじゃないだろうか。まさか! し
かし俺になんの恨みがあるというのだ……いや、全くありえないことではない。むしろ十分ありうることだ。坂口は俺に個人的に相談しようとして電話してきた
のではない。教師に助けを求めて、とりあえず始めは担任に電話したに過ぎないのだ、きっと。そうしたら当の俺はこのざまだ。となれば単純に考えて学年主任
の園山さんに俺の後電話したことになる。そして、今ごろは……。
杉田は無理してつむっていた目を開けた。そしてベッドから這い出すと部屋の電話線を引き抜いた。携帯電話も電源を切った。誰かから呼び出されるように気
がしたのだ。今にも電話の呼び出し音が鳴るような気がしたのだ。
「待て待て! どうもおかしい。落ち着くんだ、とにかく落ち着くことだ」
杉田の神経は病的に震え上がっていた。事実を冷静に見ようと努力できる彼ではなかった。ひたすらその震えを押しとどめようとするのみであった。彼は台所
に行ってコップに水を並々と注ぎ、口からコップの方へ吸い付くようにして飲み干した。何度も深呼吸をして酔いを覚まそうとした。ごく軽くとも酩酊が妄想へ
の吸入口になっていることはさすがに彼も自覚していた。
――さすがにこんな時間だ。電話がかかってくることはないだろう。しかし問題は明日だ。朝早くに花岡からモーニングコールだ。「ちょっとお聞きしたいこ
とがございますの」なんて例の、聞いているこっちの頭蓋骨の裏まで響くような声で言われて……いや! 深く考えないことだ。考えすぎないことだ。もう寝よ
う。今はとにかく眠ることだ。明日のことはまた明日考えればいい。
杉田はベッドに戻った。目をつむり、今日の疲れが眠りに落としてくれるのをひたすら待った。
子供時代、杉田は教師に叱責せられることを一番の恐怖と感じた。しかし小学生の時分ならまだしも、中学、高校と上がっていくに連れてそれは変わることな
くむしろ強まっていった。教師という大人に対する反抗心という当然通るべき通過儀礼のようなものを彼は今でも知らないでいる。模範的を目指し成績も抜群で
なければ教師に目をかけられることはないと信じ、実際そういう生徒である、そういう生徒であり続けることを心がけた彼をかわいがる教師は多かった。それが
彼の「常識」を強化していった。彼は自分をかわいがる教師だけを教師とみなした。それが今でも彼の教師像の一つとして根深く巣食っている。彼の自己は常に
他者からの承認を必要とした。それが大前提であった。ところで、彼はなぜ教師という職業に就いたのか? 大学を卒業した後「親父かお袋の葬儀通知が来るま
で戻らない」と言い放って青森を飛び出して上京し岩代高校の英語教師の地位にありついた杉田には特別教師になりたいという思いがあったわけではなかった。
自分が教師になるなどとは思いもよらなかった。だが、彼にはその当時何一つできることがなかった。彼にあったのはそこそこの学歴と受験英語の知識の残存と
だけであった。上京すること自体が目的であった彼は東京駅に着いた時に野心も欲望も失った。しかし田舎に戻るわけにはゆかぬ、自分の全く知らぬ仕事をする
勇気もない。そこで彼の頭の中に浮かんだ選択肢はただ、教師の二文字だけであった。人気取りの職業である上に不安定な予備校講師を彼は諦め、新聞の求職欄
や教職系雑誌を隅から隅まで見て見つけたのが、まだ創設されたばかりの岩代高校であった。筆記試験は難無く通り、面接試験に臨んだ杉田と向かい合った時の
岩代幹二の姿を彼は今でも忘れることができない。目、鼻、口、耳という顔を構成するあらゆる部位が異様に大きく、口から時々除く歯は黄色で、それに似た黄
土色の派手なスーツを着込み赤いネクタイを締めていた。肘掛に乗せられた太い指には大きなトルコ石の指輪がはめられ、腕には金時計が巻かれていた。学校の
成立事情を知らなかった杉田はまるで成金社長を絵に描いたような岩代幹二を相手にどのような受け答えをして良いのか見当がつかなかった。
「私はね、あんまり教育というものに熱を上げていらっしゃる方は採りたくないんですよ」
独特な抑揚をつけた語り口で相手がそう言って面接を始めたとき、杉田は自分の前に光明が開けた気がした。この人物にならば洗いざらい話して雇ってもらえ
る気がしたのだった。そして事実その通りになった。教師というものになっても杉田は変わらなかった。自分自身を評価するにあたって自分の尺度ではなく他人
の尺度をもってしてでなければ相変わらず安心できぬのだった。彼は教頭や校長から叱責を受けることだけは最大限の注意を払って避けた。もちろん積極的に取
り入って機嫌をとるようなことはしない。優等教師、優良教師を目指した。だがそれによって上から誉められるようなことはもうなかった。彼は次第に平凡な教
師を目指すようになった。と言うより、波風を起こさぬことで上からなにも言われぬようなことというのは優れた生徒にはあてはまっても優れた教師にはあては
まらぬのだった。授業はごくごく一般的なものを行い、言いつけられた雑務も文句一つ言うことなく引き受け(その一部は彼の受け持つ生徒によって)完璧に成
し遂げられていった。
翌朝、杉田はほとんど眠ることのできなかったかのような疲労を覚えながら目を覚ました。ベッドから這い出すことはできても頭の中は枕の上に置き去りにし
ているようだった。本棚の上の電話機にも机の上で充電されている携帯電話にもなんら変わったところはなかった。それどころかカーテンを通して部屋に入って
くる朝の光も外からかすかに聞こえてくる小鳥の鳴き声も部屋の匂いも冷蔵庫の低い振動音も、これまで長い間繰り返されてきたそれらと何一つ違うところはな
かった。いつもどおりの朝である。
変になっているのは自分だけなのだと杉田は思い直してコーヒーを入れた。朝起き掛けのコーヒーを飲まないと彼は活動を開始することができぬ。それを飲み
ながらベッドに腰掛けて彼はこれからのことを考えた。学校へ行かなければならないのは明後日の成績会議である。その日までに試験の採点を全て終わらせコン
ピュータに入力し留年者や退学予定者のリストを作成しなければならぬことになっている。
杉田は昨日慌てて投げつけた名簿を取ってクラスの頁を再び開いた。留年に一歩手前の生徒を呼び出して強制労働させるというのが、杉田の毎回使っている手
段である。うまい具合にそういう生徒がいない場合は坂口を使っていた。それで、彼が杉田に電話をしてきた始めに「試験の採点が終わったらいつもの……」と
いうことを言っていたのだった。さすがに坂口を使うことは今度ばかりはできぬ。彼は名簿を上から下へ順番に眺めながらいつしか昨夜のおののきを忘れ支配者
の気分になっていた。彼の気分の移ろいやすさは稀に見るほどである。
「本多恵美、こいつがいい」
杉田は電話番号をメモ用紙に書き写し午前中に呼び出すことに決めた。カップの底に残った最後のコーヒーを飲み干すと彼は、坂口もさすがに自分で自分の首
を締めるようなことはしないだろうとさえ思った。彼は何かに思い煩わされると最初に悪い方へ妄想が先を急ぐように突き進み、それがある程度最悪の事態を想
定するところまでに行き及ぶとあっという間に開き直る。それほどに酷いことはまずもってあり得ない、という根拠の無い自信が伴う。それまでの彼の人生で、
想定していた最悪の事態というのが起きたことは数えるほどしかないのだが彼のそういう居直りはついそこにたどり着くまで支配的だった不安と同様に非常に突
発的なものである。したがっていつまたなんどき不信へ引き戻されるかはわからぬ。杉田の感情の波は常に大きく、楽観と悲観との両極端の間をせわしなく往復
する。その振動に彼自身が振り回され、疲れ切るまで揺さぶられる。疲れ切ると一日中抜け殻になる。考えることが億劫になるから行動することなどほとんど不
可能で、部屋に引きこもるか、外に出ていても人間らしい活動をしない。
午前中杉田は自分でも驚くような集中力で採点をあらかた終え、それから電話で呼び出した本多恵美が杉田の部屋を訪れた午後二時には二巡目の採点が終わろ
うとしていた。
「なんだ、また髪の色変えたのか」
ドアを開け、そこに立っていた本多の顔を見て杉田は言った。マッシュルームカットにオレンジ色の髪をした本多は口の端を少し上げただけだった。入れ、と
言ってドアを支えながら杉田は彼女を部屋の中へ導き入れた。
「今から仕事をしてもらう。留年したくなければ黙ってやれ」
本多は部屋に入ってから中をあちらこちら見回して、靴箱の上の卓上カレンダーや壁に張ってあるポスターや本棚に無理に押し込まれている書類やをいちいち
物珍しそうに手で触っていった。
「先生の部屋って結構小奇麗なんだね」
「おい、そんなもの触っていないでこっち来い」
本多はステレオからやっと手を離して杉田のほうへ鼻歌を歌いながら近づいていった。杉田は教師に呼び出されても全く飄然としていることができる彼女の様
子に声を荒らげなければならなかった。自分のおかれている立場を自覚しないのは杉田もまた同じであるが、そういう性向が岩代高校ではごく普通のものであ
る。不真面目なことさえ真面目にしかできないような生徒は少ない。
「簡単なことだ、このパソコンを使ってこの前やった英語の試験の点数を学年全員分打ち込んでもらう」
本多は相変わらず薄い笑みを浮かべながら、そういうのならアルバイトでも良くやっていると言ってさっさと自分でパソコンの電源を入れた。このことはもち
ろん絶対秘密だからな、外に漏れたらお前も俺もどうなるかわからない、と言う杉田に本多は二つ返事をした。とにかく交渉が成立した杉田はいささかミスキャ
ストではあったかと感じながらも机の上にあった答案の山を手にとって本多の手元に置いた。
「これ全部……」
独り言のように本多は言って紙の束を上から何枚かめくったり上から押さえつけたりした。杉田は作業の細かい点を指示し最後にもう一度言った。
「この仕事をやってもらう代わりにお前には進学できるのに十分な点数を与える。それが条件だ。このことが外部に漏れたら進学どころじゃないからな」
「先生も変わってるね……なあに、このソフト見たこと無い」
「佐々木が成績管理用に開発したそうだ」
「へえ……、うちの先生って変な人多いよね。あ、あたしも飲む」
「俺は変な人じゃない」
杉田はコーヒーを二つ入れた。こぼすなよ、と言って一つを本多に手渡した。杉田はその日四杯目のコーヒーである。彼はソファーに座りペーパーバックの小
説を開いた。視線を少しだけ右に傾ければ本多の背中が見える。キーを打ち始めてしばらくするとその叩く音にリズム感が生まれ、習得の早さに杉田は眉を上げ
て彼女の手元を感心して見つめてしまった。
「先生、教授のこと嫌いでしょ。なんで?」
「本当にそのことを知りたいと思って、全くそれが見当もつかなくて聞いているのか」
「難しい言い方しないでよ。――本当はね、私もあんまり教授って好きじゃない。私だけじゃないと思うよ。みんなあいつの先生ごっこに付き合っているだけ」
「だまってやっていろ」
杉田は少しの満足と自己肯定感とを彼女の言葉から得て、小説の頁に目を落とした。