モノ=物+者
『文士の逸品』(矢島裕紀彦文、高橋昌嗣写真・文集ユネスコ
2001)という写真集を見た。ここには名作家たちの使っていた日常品
がいろいろ集められてなかなか迫力のあるモノクロ写真で収められている。『塩狩峠』の三浦綾子が使っていた手鏡、山田かまちの使っていたウクレレ、『深夜
の酒宴』の椎名麟三の使っていた鉛筆削り、『たけくらべ』の樋口一葉が使っていたくしなどなど、あげればきりがないけれど、なかなか味わい深い本だ。作品
を読んでいればなお一層想像力は書き立てられ、作品を読んでいなければこれを使っていた人間への興味が尽きない。
この写真集を見ていて、もちろん作家への興味もさることながらもうひとつ気になったのは、今に生きる人間を題材にしたらこんな写真集は一体作れるのだろ
うか、ということだ。つまり、勝手は捨て、捨てずとも買うという大衆消費社会の中ではモノの価値というのはそのまま値段に反映される。
写真集に収められているものの価値はもちろん作家が使っていたからこその価値であると同時に使い続けられたからこその価値だ。菊池寛の将棋駒だって、
買って蔵のすみにでも打っちゃっておいたものだったらその程度の価値だけれど、菊地が将棋愛好家であるからこそ価値がある。駒の下に映っている、磨り減っ
て目盛も見えなくなっているほど使い込まれた将棋盤を見ると、なにか忘れていたものを思い出させてくれる。
自分の机の周りを見回してみて、自分がいちばん古くから使っているものはなんだろうと思うとはなはだ心細い。十年と使っているものは一つもない。壊れて
から買い換えたものも一つもない。
いま求められているのは、まず人間=モノであることを認めることだ。そ
してその
上で「モノを大切にするフェティシズム」(中略)が望まれているのかもしれない。(霜栄『生と自己とスタイルと』)
人間が人間を大切にしない時代。それならば人間をモノとして見て、それからモノを大切にする心をよみがえらせ、人も物も、ともに大事にする。そんな面倒
くさいプロセスを経なければ人間はモノを(物を、者を)大切にすることができなくなってしまったのだろうか。あるいは、物を大切にしなくなった時点から、
者に対しても同じ態度を取るようになってしまうのだろうか。人間をモノ扱いすることが問題なのではなく、モノを大切にしないことの方が問題だ。物を大切に
すれば、人間を物扱いしてもいいし、者を物扱いする心もはたらく。「逸品」という言葉。「逸人(いっぴん)」という言葉はないけれど、それを「逸品」と一
緒に心にとめておくことだ。いずれにせよ、物を大切にする人間は者を大切にするだろう。
もう一歩踏み込んで、物を大切にするためにはどうしたらいいのか、という問題。
こういう事件があった。ある大手ファーストフードの子供向けセットに付いていたおまけのおもちゃのビニール袋包装を、実は東南アジアの貧しい子供たちが
労働基準など無いに等しい工場で行っていたということで摘発されたという。
こういう話を聞くときに感じるある種の生々しさが都市生活には完全に欠けている。 自分独りで生きているような顔をして、本気でそのつもりでいたり、あ
るいは自分独りで生きようなんて姑息に考えることはやめたほうがいいとつくづく思うのだ。どんなに「付き合い」を無くしていっても人の手にかかったものを
使わずに生きることはいまや不可能だ。
いま一度自分の周りにあるものを見渡してみると、全て、誰かが作ってあなたが買ってきたからそこに存在するのだ。作った誰かを大事にすること。それがモ
ノを大事にすることなのだろう。これは何も新しい問題ではなくて、マルクス主義が時代を席巻した頃から「労働疎外」とか「生産関係」とかいう名で言われて
いたことだ。マルクス主義は葬られたけれど、マルクスまで葬っちゃいけない。
だから、物を買うなら者の感じられるモノがいい(「本」というモノは一番人間を感じられる物だと思う。だから畳の上に直接置いたり枕にしたりまたいじゃ
いけなかったりするのだと思う)。値は張るだろうけれど、一生使うつもりでモノを選ぶべきだ。100円ショップには使い捨てのスタイルしかない。物の向こ
う側に連綿と連なっている人間を感じにくい時代だからこそをそういうものに敏感でありたいと強く思います。
03/12/06初稿
04/08/30改稿