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>>> エッセー(音楽)
中島みゆき
わ
かれうた
「さよならだけが人生だ」というのは誰かが誰かの漢詩をべらんめえ口
調に訳したもので、それが誰だったのかは今思い出せないのだが言葉だけはしつこく頭に残っている。「さよならだけが人生だ」、である。もう一つぼくは好き
な言葉があって、「出会いの数と別れの数は一致する」というのがそれで、生涯を誓い合った仲でもいつかは必ず(どちらかが先に死ぬ)別れる。それも含めて
言えば「さよならだけが人生だ」という言葉は人生を逆から照射する言い方だ。
出会いにだけときめいていてはいけない。出会いの責任は別れの責任でもある。中島みゆきの「わかれうた」に描かれているのは出会いだけを堪能して別れに
責任を果たしきれない二人の姿である。
「わかれはいつもいつもついて来る 幸せの後ろをついて来る」というのはペシミズムか、いや違う。別れを意識せずんば出会うべからず、ということの警句
である。
04/05/08
り
ばいばる
二度三度失恋を繰り返せば、デジャヴュを感じることもある。それが歌
というかたちで表れることは多いだろう。久しぶりにひっぱりだして泣きながら聴いた曲は前にも誰かにふられたときに聴いた曲だったりする。そしてまた、そ
の曲はしまわれる運命にある。
同じ旋律、同じメロディー、同じ言葉がCDには焼き付けられているはずなのに、その時々によってばかばかしいと鼻で笑ってしまったり涙を誘われたりする
のは不思議だ。
「やっと忘れた歌が もう一度流行る」という「りばいばる」に初恋のさわやかさはないけれど、人間くさい失恋のリアリティーを感じさせる。
04/05/08
悪
女
中島みゆきの中では一番好きな曲。別に「悪女」を描いた歌ではない。
主人公の女性は周りから悪口ひとつ叩かれたことのないイイヒトなのだ。イイヒトであるがゆえにいつでも男の言いなりなって、都合のいいように扱われて、そ
うして最後にはやっぱり失恋する。そしてそ
のたびに決心するのだ、イイヒトはもうやめよう、イイヒトは割に合わない、少しは悪い女になってやろう、と。でも、なれない。なることなんてできない。
「悪女になるなら 裸足で夜明けの電車で泣いてか
らと決心を先延ばしにしても、結局イイヒトは「悪女」になんかなれっこないのだ。
友達も「もてるようになるには悪いやつになることだよ」なんてことを言っていた。その言葉の無力さは今でも変わらない。
04/05/08
おまえの家
小説的な場面を描く詞は最近のヒット曲には皆無だけれど、中島みゆき
の持ち味の一つは現代の流行歌にはない描写力だと思う。
新しい恋人のできたらしい元恋人の部屋を訪ねると、自分が知っていた頃の部屋の様子とどこか違う。「ギターは やめたんだ」と「あたし」に言いながら
も、彼は
新しい恋人のために歌を歌うらしい――「あの頃」と違ってギターがぴかぴかに磨かれているのを見て「あたし」はそう邪推してしまう。「あの頃」と変わらな
い彼の部分を探して、変わってしまった部分に今の恋人の影を感じて、「あたし」は家を後にする。そんな情景が静かに弾き語られます。
この、元恋人の部屋を訪ねるモチーフは他の曲にも描かれていて、中島みゆきの強い磁力の元になっています。同曲収録のアルバム『愛していると云ってく
れ』は
それこそ「りばいばる」的な曲がつまっていて、折に触れて愛聴盤になります。
04/05/08
世
情
中島みゆきに入れ込むきっかけになった曲。ちょうど「地上の星」が長
くヒットして、ラジオで中島みゆき特集をやっていたときに耳にして完全に参ってしまい、その後調べたら「金八先生」の挿入歌に使われてやはり当時の視聴者
を参らせたとか。
いまさら歌詞を引く必要もないけれど、学生運動と言う宴の後の白けを表すという文脈に入りきらない何かがあって、例えばMr.Childrenの「タガ
タメ」のように時代状況が生み出したようでありながら普遍的な問題へすっと抜けていくところがある。そういう作品は文学においても稀有で、ぼくが言うのも
おこがましいかぎりだが「世情」はこれから先も聴かれ続ける、「名曲」という仮面をかぶっていない名曲である。
04/05/08