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>>> エッセー(音楽)
小谷美紗子
彫刻
小谷美紗子はレコード会社を移籍してからにわかに化粧が濃くなってし
まいましたが(アレンジが派手になってしまいましたが)彼女の真骨頂はやはりピアノによる弾き語りにあると思います。この「彫刻」もシングル「虹色の吹
雪」の三曲目に入っている曲で、ピアノと彼女の声だけでしんしんと語られていきます。
いったい、幸せとはなんでしょうか、といきなり太宰治口調ではじめる必要もありませんが、本当に、いったい幸せとはなんなのでしょう
か。この「彫刻」という歌は、心に負う傷のひとつひとつを彫刻の一のみととらえてポジティブに捉えていこうゼ、なんていう学校の教師が言いそうなゲロゲロ
の道徳を持ち出したりはしません。彼女の視線の先は他人にあります。「誰かの幸せの裏で 誰かが泣いていたかもしれない」と。「誰か」とは「自分」のこと
を暗に指していることが歌の文脈からあきらかです。自分がへらへらと笑っていたとき、他人それに傷ついていたかもしれない。自分が言った言葉に、相手は何
にも感じていないように見えても、本当はすごく傷ついていたかもしれない。その、他人の「彫刻」をもっと見よ、「彫刻」を与えている自分を見よ、というこ
となのでしょう。
そのうえで、いったい、幸せとは、なんでしょうか。なおそういう問いがこだまする。
04/01/27
Off you go
なかなかあきらめきれない。けれど強いてあきらめる必要も理由もな
い。とはいえこれ以上関係が進展する見込みもない。そういう時いっそ自分のことを嫌ってくれたなら、とさえ思う。それが「Off
you go」という言葉にこめられた思い。
そうだ、今すぐにでも君の前から立ち去りたい。もう一生会えないくらいがちょうどいい。君のいない世界でこれからぼくは生きよう。そ
ういう決意。
でも、本当の孤独さえ今は難しい。ケイタイがありネットがあり……なかなか「さようなら」の重みを感じられる機会が少なくなった。で
も、それはまやかしかもしれない。いつでも会える、という期待は機械が作り出したもので、人間関係はそれほど変化していないはず。ほんとうにいつでも会え
るの? いやだなあ、そんなのは。
それも含めて「Off you
go」。そう言って欲しいけど、本当に言われたら、本当に何もなくなってしまう。それに気づかされるのも怖い。「行ってしまえ!」なんて言って欲しくな
いってことを知って欲しいのかもしれない。
04/02/05
僕
の絵
ファンの間ではアルバム収録曲ながら相当の人気曲です。ぼくも「僕の
絵」を含むアルバム『Then』は小谷美紗子の中では一番好きなアルバムです。それどころか自分の持っているCDの中で一番好きな一枚でもあります。一度
ラジオの公録でこの曲を生で聴いたことがありますが、「もし人々が愛することを忘れてしまうなら/すべてを自然に返し 人類に終わりがくればいい」という
ところなど鳥肌ものでした。
絵の中では「君」がピアノを弾いています。「君」の周りにはあらゆる人がいます。あらゆる人――「大切な人」、優しい人に、美しい人
に、すばらしい人にだけ囲まれているわけではありません。そしる人、意地悪な人、「無関心な人」、「裏切る人」もいるのです。その「君」に向かってどんな
言葉をかけることができるだろうか? 「私」は「私の唄」で安らぎを得て欲しいと思いながらも「何時かこの唄が君に届くといい」と言う。唄はまだ届いてい
ない。もし、いま自分が例えば「苦しい愛」の中にいたとしてもそれを二十億光年の彼方から見守る視線を感ずること、それによって救いが得られるかもしれな
い、けれどなかなか気づけない――おそらく「宇宙のママ」と通底するものがあると思います。
自分が気づいていないものがあるかもしれないという世界への期待。それが少しだけ、希望をくれる。
04/02/03
眠
りの歌
アルバム『宇宙のママ』の最初と最後を飾る、あるいはベストアルバム
『Quarternote』の最後も飾る、小谷美紗子にとってはひとつのたどり着くべき頂点としてこの一曲を位置付けるのもあながちまちがいではないだろ
う。その中心となる概念「宇宙のママ」とはなにか? それはすべてを肯定する神様のような存在と言ってもいいし、癒しと言ってもいいし、大きな海のように
何もかもをそこに吸い込んでしまうカオスと言ってもいい。
人々のつぶやく「空しい」という言葉が大気に満ち満ちている。空をおおい、雨を降らす。ムナシイ、ムナシイ。「夕日」はビルとビルと
の間に沈む。コンクリートが空を切るその鋭い輪郭線に、自分も一緒に切り裂かれて死んでしまいたい。夕日はでも、海の彼方に沈んでいく。むなしいと言う呼
気を吐き続ける人間たちから「逃げてい」く。その後に人間を襲う「眠れぬ夜」。「明日の苦しみを枕に」して人々は同じ苦しみを、決して共有できないのに、
驚くほど似通った苦しみを、それでもその苦しみは自分一人のものだと思いながら味わう。
その時、小谷美紗子はなんと言うか。「眠れ」と言い続ける。いや、もうそれしかない。「君が寝付くまで唄うから」「私があなたを分か
るから」「眠れ」と歌い続ける。もう、それしかない。それしかない。彼女の歌声を「宇宙のママ」の子守唄のように誰しもが思うはずだ。
04/01/30
こ
んな風にして終わるもの
あの時間、あの場所にいたということ、あの場所でぼくが話した言葉、
笑顔、あれはどこへいってしまったんだろう。ぼくの発した言葉は空気の響きとしてまだ大気のどこかでこだましているのだろうか。ぼくの目に映った景色は脳
のどこかにしまいこまれているのだろうか。
「お願いあの場所だけには新しい彼女を連れて行かないで」と切々と訴えるこの歌はそんなことを思わせる。記憶は他者に依存されるそう
だ。だから人に会って初めて、その人と一緒にいたときの自分を思い出す。その場所に行って初めて、その場所にいたときの自分を思い出す。だからその人に会
わなければ、その場所に行かなければもう、その人との、その場所との思い出は自分の記憶の奥底に、深海の海底に静かにうずもれる。
逆に言えば、その場所に行けば必ずその場所にいたことを思い出すわけで、例えばそこが恋人と一緒に過ごした場所なら記憶のよりどころ
として一種の聖地になる。そこに新しい記憶を持ち込んで欲しくない、そこだけは自分のものにしておきたいという願いが、この歌にある。
とはいえ、諸行無常である。場所は変わっていく。渋谷の映画館は取り壊され、いや、あと百年もすれば跡形も無く人々の記憶のよりどこ
ろは様変わりしていくだろう。もちろん人も変わっていく。あたりまえだ。自分さえ変わっていってしまうのだ。ノスタルジーすら不可能になる現代のめまぐる
しさを、けれどもぼくはかえって歓迎したくなることもあるのだけれど……。
04/01/28
自
分
この歌でぼくは小谷美紗子という歌手を知りました。初めて「自分」を
耳にしたのはドリアン助川の……と言えば分かる人も多いあの深夜の番組です。この歌は解説を必要とするような歌ではありません。自分の弱さから目を背けて
「社会が悪いんだよ」と言うことの、あるいは、悲しいできごとを目にして自分も悲しいと思う、そこまではいいのだけれど、それを他人に吹聴して回ること
の、その自分の醜さを冬の朝の寒さのようなピアノの音とともに聴く者の心をえぐります。
例えば悲しい感情を抱いている自分がいたとする。そこにはそれを客観的に見ようとする、つまり悲しみに沈んでいるぼくってどんなふう
に他人の目に映るのかということを冷静に見つめる自分も一緒にいることだろう。そしてその客観視している自分をまた外側から見ている自分がいる。悲しみに
沈んでいる自分を他人からどう思われているのかを考えようとしている自分っていったい何なの? というような。そうやって自分の周りに幾層にも無限に自分
を見つめるまなざしを形成する。それにがんじがらめになって何も言えない状態と、言いたい事は歯に衣着せず言いたいときに言ってしまえる状態と、その間を
ぼくたちは往復していると思う。けれど案外言うべきときに周りを気にして、周りを気にすべきときにずけずけと言ってしまうことが多いようにも思う。
ぼくは寡黙が苦手だ。だからいつも反省ばかりしている。そして、「いつも反省ばかりしている」とこんなところに書いてさらす自分を
もっと見つめなおしなさい、と「自分」という歌は諭す……。
04/01/27
見
せかけ社会
政治家の汚職事件が起きるたびにこの歌を思い出します。「正直にな
れ」と「政治屋さん」によびかけながら「正直になろう 自分自身にも」と己にも刃を剥く。
自由恋愛がほとんど宗教のように持ち上げられているこの日本にあって、「お見合い結婚」でも「晴れた」んだから結果オーライで「良し
とする」、あるいは同じことを逆に言えば「恋愛結婚」だから「飽きても」すばらしいのだとするゆがんだリアリズム。「正直になれ」ば、「お見合い結婚」で
も「恋愛結婚」でも、今、幸せであることの方が大切なのにそれが隠蔽されている。「お見合い結婚」の人は自由恋愛に対して妙な疎外感をおぼえ、「恋愛結
婚」の人は「お見合い結婚」に対してどこか見下した態度を取る。それはどう考えても不幸なことだ、おかしなことだ。
小谷美紗子はそうやって「見せかけ社会」のなかの「NIPPON人」をあばいていく。その上で、そう言いながらもやっぱり「偽善者か
もしれない」「自分のほうが大切」な自分自身に絶望する。けれども彼女は一つのヒントをくれる。時代という共同体だ。
「正直になれ」と呼びかけながら彼女はその理由として「同じ時代一緒にいたのだから」と歌う。今、全世界中の人間が共有できるものは
時という感覚だけだ。この時代に生きているという感覚だけだ。けれども時々刻々に死にゆく人がいて、生まれ来る人がいる。時代という共同体の構成員は秒単
位で変わっていく。そう考えると、この一秒さえいとおしくなる。貴重に思う。だったら、そのいとおしさを粗末にするなと言っているようにぼくには思える。
04/01/25
Care
me more, Care me
小谷美紗子のファンクラブは「かけこみ寺」と言いますが、彼女の歌が
苦難のある人にとって一つの「かけこみ寺」であることは確かです。けれどもそれが決して現実逃避にはならない、視線の先は必ず未来に向かっているという面
は強調しておきたいと思います。
この歌はどのような「かけこみ寺」となっているのか? 例えば、どうしようもなく絶望的な恋をしているとき、それはつまり、決して振
り向いてくれない人を好きになってしまった場合のことですが、そういうとき、文字通り手も足も出ない、ただ、相手が自分に何か声をかけてくれるのを待って
しまいます。時にはそんな自分をとても嫌いになってしまうと思う。けれど、恋は決して告白しなければならないものではないし、告白することを目標に進める
のが片恋とも限りません。
「Care me more, Care
me」は髪を切ったのに大好きなあなた気づいてくれない、もっと気にしてよ私のこと……という歌です。その視線は「あなた」を非難する視線ではない。むし
ろ、片思いがなかなかうまくいかない自分に対して温かいエールを送っている。うじうじ悩んでいる自分がいとおしくなってしまう。そんな恋があっても一向に
かまわないと思う、そんなのは「本当の」恋じゃないと多くの人は言うだろうけれど。
04/01/25
