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現在のための未来

 優等生のぼくたちは好きな言葉と言われれば、夢とか希望とか目標とか があが ると思いますが、あるいは大抵の人がそう言うためにかえってそんな言葉は嫌いだと言うひねくれた人も いますが、でもそういうのって結局小学生が好きな女の子をわざといじめるようなものだから、ともかくそういった「明るい未来」の代名詞について、ちょっと 言っておきたいと思う(なんてヘタクソな文章だ……)。
 
 今あげた美しい言葉のおしりには必ず「ために」がつく。 そうするとそこから「今」をどうするかという問題がむっくりと起き上がって来る。そして彼らはドナドナを踊りながら皮がはちきれんばかりに大太鼓をぶった たいてぼくたちをニンジンを目の前にぶら下げられた馬車馬にさせる。「甲子園に出るという夢のために毎朝走っています」とか「とにかく大学に受かるという 目標があるので今は遊ぶことを我慢します」と か。

 でも、ほんとうにそれでオッケーなんだろうか。

 本当は、毎朝走ることが好きな人だけが甲子園に行くのだろうし、大学だって、別にいい大学に行けばいい就職口があって一生安泰なんていう神話に説得力が 無くなった(ここ微妙。説得力がなくなった「だけ」、とも言える)今、勉強する理由なんて「好きだから」以外にない。勉強が大嫌いな人が貴重な「今」を我 慢して我慢して勉強して行ったところで、悲惨な結果になることは目に見えているし(スーフリ事件その他を見るにつけ)。

 だから、逆なんだ。
 現在のために未来があるのだ。

 たとえばぼくはある日突然「小説家になる」という稀有壮大な目標を立ててそれを紙に書いて壁に張り付け、遊ぶことも我慢して日夜原稿用 紙に向かっているわけでは決してない。 こうして書くことが好きなので書いているのであって、もしそういう目標を持ってしまったらそれにしばられて何にも書けなくなるだろう。 小説よりもこういうエッセイみたいなものの方が面白ければそれを書くし、だから「小説家になるんだから小説以外のものを書く余裕など ない」ということもない。 実際、エッセイを書きたくてしょうがない時期、小説しか書きたくない時期、なんにも書きたくない時期、というのは確かにある。そういう欲望に忠実であれ ば、ぼくたちはありもしない美しい何かに向かって一番貴重な「今」を犠牲にしてしまうなんてことをしないですむだろう。

 いまやりたいことをやって、それがおのずと未来につながる。それが本当だ。未来を固定化して、そこから現在を見ていては常に現在は否定され犠牲にされ る。
 そうではなくて、現在から未来を見る。
 このまま行くと未来はどうなるだろうか。
 このまま行けばどういう方向に今自分は向かうのだろうか。

 この考え方にぼくは受験生の時に非常に助けられた。世界史の研究家になるわけでもないのに世界史を暗記する、大学に入ったら数学なんて勉強するつもりは ないのに加法定理の証明をしなく ちゃならな――こういう考え方はやはり未来から現在を見ている。あのときの一番大きな欲望は、いま通っている大学に入ることだった。現在から未来を見れ ば、「この勉強をしておけばあの大学には入れるけどしなければ入れない」という判断にならざるをえない。だからこの場合「現在を犠牲に する」というのは「未来のために身を粉にして勉強する」ことではなくて「楽をしたいから受験科目を減らしてしまう」ということなのだ。

 現在の欲望。その中でも最大の欲望に忠実であること。そして未来なんてわからないものをつぎつぎと塗り替えていこうと、思うのだ。

03/10/09 初稿
04/11/26 改稿

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