なにを「待ち受け」ているのさ
なんで携帯電話の画面のことを「待ち受
け画面」と言うのだろう。電話をかけたりメールを打ったりしていない時のことを「待ち受け中」と言うのだろう。携帯電話を持っている誰もが電話がかかって
くるのを待っていたら、誰にも電話なんてかかってこないじゃないか。
ぼくは携帯電話というものを手にしたのが大学に入ってからだったからこのツールに対しての警戒心というのはある程度自覚的に持っているつもりではあるの
だけれど、たとえば時々夕方のニュースで女子高生から携帯電話を取り上げて一日過ごさせる追跡取材なんかやっていて、大抵最後はカラオケボックスなんかで
泣き出すその女の子の携帯電話への依存を目の当たりにするとやっぱり背筋が寒くなる。かといって携帯電話は自分から用のあるときにしか電源を入れないとい
う(こういうのは「偉い人」に多い)のも逆の意味で依存しているような気もする。
携帯電話を持つ前と後とで一番変わるのは、それで多くの人とつながることができるという安心感では決してないと思う。もちろんそういう面もあることには
あるのだけど、その代わりに払う代償が大きい。その代償こそが四六時中「待ち受け」ているという精神状態に自分を飼いならさなければならないということな
のだと思う。「待ち受け」ているのは決して携帯電話ではない、それを所有する人間であって、主語を読み違えてはならない。こうなったとき人間はどんな反応
を示しどう変化するのかという問題はけっこう前から気になっていました。
まず「待ち受け」ることからの逃避。つまり、互いにメールなり電話なりを用もないのに送り合うという共依存(携帯に依存している二人の人間が互いにまた
依存し合うという入れ子関係の依存になっているのがまたおもしろい)の関係を作り上げるというのが一つ。「おはよう」なんてことをメールでわざわざ送るの
は、それがたとえば愛情表現の代弁でないかぎりはこれにあたるでしょう。参加人数が多ければ多いほど「待ち受け」る状態を縮小できるから、結局メル友とか
出会い系メールとかもこの延長上にあるのだと思います。ただ、返信の有無や遅速で一喜一憂するようなコミュニケーションの先鋭化に向かうのでなければこれ
も一概に批判できるものではなくて、ぼくの自身メールも一つのコミュニケーションと考えてやたら長いメールをやりとりしていた時期はありました(そういう
ときは「待ち受け」るのが楽しい)。共依存という言葉自体には良い意味も悪い意味もなくて、たとえば夫婦関係は立派に共依存ですし、共依存的な要素のまっ
たくない人間関係を他人同士と言ってもいいと思います。ケースバイケースなんでしょうね。
もう一つは「待ち受け」ることを日常化する。これはぼく自身もふくめ多くの人が採用している(せざるをえない)方法。「待ち受け」ることから完全に離脱
するためには携帯電話を解約しなければなりませんけど、今やそうすることで得られるメリットをかんがみれば必ずしも得策ではないということはわかります。
これは個人サイトのアクセス数と似ているかもしれないけれど、携帯を持つことによって知る自分の凡人さというか、特に誰が自分のことを特に必要としている
わけではないということを実感するには絶好の機会だと思います。たぶんそれが携帯電話を手にしたところで変わらない人間の姿であって、学校の英語の教科書
に書いてあった話なんだけどインターネットが普及して学校なんかなくなるんじゃないか、調べたいことは全部自宅で調べられるじゃないかという危惧に対して
「そんなことする子供がどこにいるのさ」という強烈な反論。携帯電話がツールとして固有に持つ可能性が人間によって隅々まで実現されるかといったらそんな
ことはなく、たぶん古代ローマ人や江戸時代の町人に携帯電話を持たせたって結果はそんなに変わらないのでしょう。携帯電話は常に誰かとつながっていること
を可能にしてくれるもの、というのは電話会社の宣伝文句でしかなく、たまに誰かとつながれれば御の字、というのが庶民の正しい感覚。
あるいは「オレの携帯、目覚まし時計だから」というちょっとした開き直り。最近はラジオが聞けたり、音楽が聴けたり、カメラがついていたりゲームができ
たりといろいろ「電話」以外の機能が充実しています。こういう機能は結局「待ち受け」ているという感覚をまぎらわしてくれるものなのだという見方もでき
て、どうして目覚まし時計付きのMDプレイヤーや、ゲームのできる小銭入れや、地図情報を受信できるライターや、英和辞書のついた懐中時計がないのかとい
う問いに対する一つの回答でもあります。めったに鳴らない電話だからこそ、いろいろ関係のない機能を付けないと「待ち受け」るという精神状態を強要するこ
とになる。互いにメールを送り合う共依存がユーザー側の逃避であるとすれば、最近の多機能携帯電話はあらかじめ機械の方が電話という機能から逃避している
点がおもしろい。
そう考えると逆にシンプルな携帯電話を持つということがひとつのステータスになるのは必至で、携帯電話は電話だけできればいいという強い意志、自分は
「待ち受け」る精神状態なんかとっくに超越しているよという強さを表現するための携帯電話も一方で求められるはず。たぶんauのデザインプロジェクトから
出ている携帯電話を買う人というのは(実際その人がそうであるかは別にして)そういうステータスをデザインによって表したいのだと思う。ぼくもね、あれ欲
しいけどなかなか手が出せません、庶民ですから。
結局「待ち受け」ることに対してどんなスタイルを持つのか、ということなんでしょうね。あるいはどんなスタイルで「待ち受け」るのか。一考を要する問題
です。
05/02/13