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テクストとしての人生

 人生をテクストにたとえるならば、スタイルとは文 法であ る。

 と、唐突に結論から述べてしまう書き方をぼくはあまりしないのだけれど、唐突に今、思いついたのだ。と言って、車を運転しているときにふと、とか、風呂 につかってリラックスしているときにふと、みたいな「平凡の中の非凡」的な美しい物語を期待されても困るし、徹夜で考え事をして朝の黎明の中で「ユリイ カ!」と叫び出したわけでもなく、ルソーよろしく湖畔を歩きながら思索にふけりニーチェ的に「大いなる午後!」と神の啓示を受けたわけでもない。

 ただ、ここのところ自分の思考方法のオリジンを探ってみようと思って高校時代お世話になった伊藤和夫(駿台英語科主任にして功罪相半ばする「伊藤神話」 の爆心地)の著作を読んでいたら(「お世話になった」はもちろん「著作」を修飾します)次のような文章にぶち当たって、お得意の「これってこういうことだ よね」という声が頭の中で響いて、結論から先に口から出て、それが消えないうちにキーボードで打っておこう、と、こういうわけなのだ。で、その文章なんだ けど。

 数多くの書物を読み、多くの英文にふれて英語に慣れる ことによって、形式に対する考慮はしだいに意識の底に沈んでゆく。やがては、形式上特に難解な文章にぶつからぬかぎり内容だけを考えていればよくなる。そ の時、つまり、本書の説く思考法が諸君の無意識の世界に完全に沈み、諸君が本書のことを忘れ去ることができたとき、「直読直解」の理想は達成されたのであ り、本書は諸君のための役割を果たし終えたこととなるであろう。(伊藤和夫『英文解釈教室(改訂版)』研究社1997「あとがき」より)

 未知のテクストを読み解く、もしそれが人生だとしたら、というとてもドキドキする比喩を使って遊んでみよう。そうだ、ぼくらはなにも知らないでこの世に 産み落とされた、生きる方法もわからないままに。けれど、時間だけは容赦なく流れ、気がつくと読んだつもりになっているだけで実は字面を追っていただけの 本が積まれてしまっている。それじゃまずい。いやもちろん、俺はこれだけの量を読んだんだと、立派な本棚に一回しか読んでいないまだピカピカの本を並べて 自己満足にひたるって人がいてもいい。けれど、ぼくは何度も何度も読み返してそれでも未知であり続ける本をいつでも取り出せるように小さな本棚にいとおし く並べて背表紙をなぜる人生を送りたい。

 未知のテクストを読むために、まずは文法が必要だ。そして、人生というテクストはもっと魅力的なことには自分で文法を構築していける内容を持つのだ。そ れについてはこれまでに書いてきたスタイル論で述べてきたからもうこれ以上言わない。問題は、じゃあどうして「文法」という比喩が必要なのか。

 学 校英語の文法軽視の反動として、〔中略〕一文一文、 一語一語について分析的な教え方をすることが、意外に深くひろがっており、〔中略〕一部の学生に結構受けているのである。彼らのテキストは、記号や各種の カッコでいっぱいであり、時には美しく色分けまでされていて、原文が判読できぬくらいである。彼らにとって英語を読むとは、まず(色)鉛筆を取り出して、 与えられた英文を、あとも先もない、とにかく自分にわかる箇所からカッコや記号をつけてゆくことなのである。He is a clever boy.のような単純な文にまでこういう分析を行うことによって、彼らは曖昧模糊とした英語を読み解く手がかりを得たとはじめて感じ、学習の充実感を味わ う。(伊藤和夫『予備校の英語』研究社1997

 さあ、比喩だ、うがって読もう。たとえばシャープペン一本買うのに自分のスタイルを過剰に意識してあれもだめこれもだめ気に入ったものが無いとわめきた て文房具会社やブランドに過度の記号論をあてはめてあれはリッチこれはプアと色分けして世界をわかった気になり無印良品に走る愚かさは、きっと「直読直 解」可能な簡単な英文にもSVOCと振り仮名をつけて名詞動詞冠詞形容詞名詞で形容詞は名詞を修飾、と分析する愚かさと同じなのだろう。手段が目的に転化 したとき、ぼくらはもうそれ以上歩みを進めることをやめてしまう。

 文法は確かにテクストを読むための道具だ。しかしそれはどこまでいっても結局道具でしかない。テクストの意味内容に到達することが目的ならば、文法を自 己目的化してはならない。スタイルが先にあるのではなく、生きることが先にある。生のあらゆる局面を瑣末なものに至るまで(それこそ、「ひげ剃りにも哲学 はある」式の思考はひげを剃っている本人によるというよりはむしろ外から俯瞰した思考だ)スタイルで塗り替えることが生きることでは、決してない。スタイ ルを体系として構築することが目的となってはいけない。あくまでもそれは、よりよく生きるための方便にとどまるべきだ。

 言語は変化する。文法もそれに合わせて変化する。ぼくらは大人たちが言う「間違った日本語」「美しくない日本語」を話し、「破格」という文法的例外で分 析不能なものを片付けてしまう。けれど、そのテクストと文法との間にあるアソビ、人生とスタイルとの間にあるアソビが、きっとぼくらにとっては救いなのだ と思う。変化へのきっかけが、よく目を凝らすとそのすきまにあるはずだ。「こんな自分なんていやだ」そう思ったら、探そう、そのズレを。きっと変化へのヒ ントになるはずだ。

 文法としてのスタイルは固定化された「構造」であってはならない。「構造」を固定したものとして読み誤ったところに構造主義の限界があるとすれば、齋藤 孝がそのスタイル論においてポスト構造主義者であるメルロ・ポンティを大いに参照しているのは決して偶然ではないだろう(ただし、齋藤のスタイル論は身体 性を強調するあまり障害者への視点が欠落していると個人的には思う。たとえば盲人が『声に出して読みたい日本語』を点字で読む場合に、齋藤の身体論はどこ まで有効なのかは検討する必要がある。ちなみにぼく自身は村上春樹のニヒリズムを超克すべくドゥルーズの哲学をスタイルにどう応用できるか目下思案してい るところだが、今回の論考もそれへのアプローチの一つだ)。

 スタイルとは「構造」である。これもまた魅力的な比喩。

 たとえば構造主義は人間の主体性を否定する。歴史は人間の主体性によって進歩する、という考え方は否定される。だって2004年の今、人間は古代ローマ やギリシャの時代の人間たちよりも進歩しているなんていったい誰が考えるだろう。人間の一生も同じ。今ここでぼくが文章を書いているのは、決してぼくの主 体性がなせる業ではないし、ぼくが大学に入って就職をするのもぼくの主体性が働いたからではない。たくさんの間違った選択や偶然の出来事が重なってぼくは いつのまにかここまで運ばれてきた。今の環境の一つ一つを僕は積極的に選んできたわけではない。もしそんなことが可能なら、人生はなんとつまらないものに なるだろう。もちろん成長ということは大切だ。ぼくはその時々で全力を上げて生きることに専念したし、努力もした。けれど、環境の変化は成長と言いくるめ ることはできない。変化は変化であり、それ以上でもそれ以下でもない。差異は差異として認識すること。そして、それでいいのだと思う。これは決してニヒリ ズムでも悲観論でもない。サルトルのように生きる必要はないし、ポスト・モダンに生きるぼくらにとっては主体性という幻想よりも「いま・ここ」のスタイル が、構造が大事だ。人生をどこに運んでいくかにあくせくするよりも、いかなる場面に遭遇しようとそこに自分らしさの足跡を残すことが大切なのであって、い い大学に入っていい企業に入ることがすなわち成長なのだという物語はもはや無効なのである(と言いながらぼく自身がいわゆるいい大学を出ていい企業に入ろ うとしているのは、むしろ捨てられつつある大きな物語に新たな意味を付与したいから、サラリーマンというどことなくたよりない物語に新しい風を吹き入れた いと思っているから、もちろん文学をやっている人間として)。だから、記号論で覆い隠された真っ赤なうその成長は(それは年収の増加が人間の成長に置き換 えられるおぞましい資本主義の一画)笑い飛ばせばいい。近代的な文脈でなおもほえ続ける「負け犬」は胸をはって生きればいい、そこに「負け犬」としてのス タイルがあるならば。

 だから、スタイルを主体性によって作り上げると言うことはできない。テクストを解読する文法はアプリオリに無限に広がっているわけではない。たとえば助 動詞があり関係詞があり分詞がある。英語という内容から決定される「形式=文法=構造=スタイル」はある程度の制限を受ける。けれど、何度も言うようにテ クスト自体が変化する以上、「文法=スタイル」も変化する。そしてそれは主体性という幻想によって全くのゼロから作り上げられるものではなく、間テクスト 性によって支えられるもの――すなわち、複数のあこがれる誰かの先行スタイルのアレンジであり日本(語)という枠の中で作り変えられてきたものなのだ。 DNAのように、ぼくらのスタイルにはさまざまな先行スタイルが知らず知らずのうちに、あるいは自ら選択して流れ込んできている(それで、そのオリジンを 探ってみようという気にぼくはなったのだが)。スタイルは、ある部分では模倣と反復とによって選択可能だが、ぼくらが日本語を母国語として操る日本人であ り、たとえばぼくが神奈川で生まれ育ち他でもないあの母親とあの父親に育てられたこと、あの先生に英語を習ったおかげで伊藤和夫を知り、この先生に現代文 を習ったおかげで構造主義を知り、ある日突然太宰治と出会って文学の恐ろしさを知ったことは選択することはできなかったのだ。けれども選択できないものに よってもぼくのスタイルは鍛えられただろうし、今はまだ意識に上っていない源流もあるのかもしれない。

 あるいは、デリダの言う「差延」。苦しいことも時間が経つと楽しいことに変わる。その時楽しかったこともあとで考え直すととんでもなく危険だったり恥ず かしかったりすることもある。ぼくらは時間の流れという歴史から抜け出すことはできないし、抜け出す必要もない。いや、抜け出してはならない、とさえ言っ てもいい。なぜなら、スタイルの変化は時間の経過による部分も大きいからだ。そして時間の経過だけが認識を可能にする。ぼくらは子供らしさという古代語を 学ぶことによって余裕(キャパシティ!)のない大人から脱出することができる。女という外国語を学ぶことによって余裕のない男から脱出することができる。 すべては文法なのだ、変化し生成する文法。少しずつ、話をもとに戻していこう。

 だれもに通用する文法――大きな物語は終焉を迎えた。ぼくらは自分一人一人に合った文法体系を構築していけばいい。それも、常に変化し続ける「構造」 を。けれど、その文法を振り回して瑣末なところにまで分析を企ててはいけない。文法を忘れて「直読直解」するに至ることが最大の目的だ。構造主義は構造を あばきだした。しかしポスト構造主義は「構造」に「力」を、「運動性」を見出した。この考え方の図式はそのまま「スタイル」にパラダイムシフトすることが できる。構造主義〜ポスト構造主義は決して遠い国の哲学ではない。ポスト近代に生きるぼくらにとって、スタイルを考えるぼくらにとって大いに示唆的だ。

 文法が初めにあって、それに従って英語ができたんじゃ ない。文法というのは、そういう考え方をしてゆくと、英語の中の大部分の事象が説明できるし、英語の使い方について特に我々外国人が迷ったときに頼りにで きる、という意味での便利な方法、「便法」なんだ。(伊藤和夫『伊藤和夫の英語学習法』駿台文庫1995)

 スタイルは常に結果論である。「私のスタイルは○○です」と言ったとたんに、そのスタイルはするりと時間に乗って、言葉という虫ピンで止められた昆虫標 本の中から抜け出す。それを救いと受け取ろう。スタイルですべてを説明しようとしてはいけない。すべてが説明されたとき、その人生はフィクションになる。 それはガチガチに固定された人生だ。新しい経験に対して「これはぼくらしくない」と自ら自分を閉ざす閉鎖的な人生だ。「自分らしさ」を主張するあまりに 「自分らしさ」を失うくらいドラマチックな人生経験を取り逃がす人生だ。そこではたしかに関数f(x)は間違うことなくはたらくことだろう。けれど、もう 未知の体験にドキドキすることはない。それはもう、死んでいることと同じじゃないか。

 音楽の理解の方法はただひとつ。音の流れに身をまか せ、最初からその順序に従って聞いてゆくことだけだ。音楽のテープを逆まわししたり、思いつきで飛び飛びに聞いたところで音楽が分かるはずはない。英語の 文だって、先頭からその流れに沿って読まなくちゃいけない。英文を眺めちゃいけない、読まなくちゃいけないと、僕がくどいほど言うのはそのためなんだ。 (伊藤和夫『伊藤和夫の英語学習法』駿台文庫1995

 だから、ぼくらは人生を前期・中後・後期などと分けて分析するのは伝記作者に任せておけばいい。ぼくらは識域下に沈んだスタイルという文法をたずさえて 未知のテクストを直読直解していけばいい。流れに身を任せてスタイリッシュにやりたいことだけをやればいい。けれど、全力で。もしスタイルを変化させて人 生という未知のテクストの快楽を味わいたいのであれば、逆説的だがスタイルについていつまでも考えていてはならないのかもしれない。

04/10/01

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