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最後のリニューアルはいつなんだ

 平野啓一郎さんに「最後の変身」という作品 があります。昨年の「新潮」九月号に掲載されたのをぼくは読んだのですが、今になってもう一度読み返してみると就活とオーバーラップして没頭してページを めくってしまいました。
新潮
 主人公は高学歴のサラリーマンで、会社を突然止めて自分の運営する個人サイトにアップする手記を書くという枠の中で、カフカの「変 身」をベースに「役割」という問題がしつこく繰り返される小説です。就活中で個人サイトを運営している人(って、まんまぼくですね)は必読です。

 俺は今更、この世は無意味だなどと、分かりきったことは言わな い。しかしだ、それを本当に実感する機会は、案外少ないのでは ないか? (中略)俺達は何かの拍子にガブリと虚無に噛みつかれて、初めてそいつをじっと見つめる。本当にゾッとするのはその時だ。(平野啓一郎「最後の 変身」)

 社会人や学生という役割からぼくたちは逃げようとする。でも高校中退が後ろめたく語られ脱サラがどうして英雄的なのかを考えたほうが いい。そこにある違いは「変身」を伴うかどうかなのだ。学校からドロップアウトしたとき、ぼくたちはどうなるか。学生ではなくなる。それでは何になるの か。虚無、である。役割のない存在になったのである。
 けれどどうだ、今では「フリーター」という言葉がある。役割がちゃんとある。学校をやめたくらいで「本当の」自分は見つからない。そ れじゃあフリーターをドロップアウトするか、そしたらどうなる。それが引きこもりか。じゃあ引きこもりをドロップアウトしろ。したらどうなる、フリーター か、サラリーマンか、ともかく新しい役割が付与される。

 ぼくたちは最後の最後まで入れ子の中にいて、むいてもむいても虚無に帰ることができない。けれど、「虚無」はでっち上げられた「本 当」でしかないはずだ。

 自室で独りでいる時間というのは、人間が、社会での役割を終 え、家庭での役割を終えた後に、翌朝再び家庭での役割を引き受 け、更にその入れ替わりに社会での役割を身にまとうまでの、束の間の切れ目なのかもしれない。(同書)

 就活はいわば「学生」という時限装置付きの意味から社会的「役割」へ「変身」するための活動だ。意味を否定した時点で「役割」は監獄 となる。そこへどうしてぼくが向かうのか。なんかヘンだ。

 社会的役割を社会(あくまでも「社会」とい う言葉は「学生」の対比語として今は使っています)の側から否定されたとき、ぼくという存 在はどう定義づけられるのか。定義が否定されるのか。いや、そもそもはじめから否定したかったのか。

 社会に受け入れられない役割は、とにかくも醜悪だ。そしてそれ は、悲劇的とすら言えない滑稽さを帯びている。(中略)だが、 俺のせいか? 俺が無能で、怠惰だったからか?(同書)

 それを決めるのはいったい誰なんだろう。どこまでも自分以外のものに(それは両親だって含むから恐ろしい世の中だ)否定され続けても 自分を守るのは自分しかいない。このことはCoccoに学んだ。しかし自己肯定だけでは飯が食えないのが社会というところらしい。やっかいだ。実にやっか いだ。やっかいさに頭を抱えていてもらちがあかないので別の話をしよう。

 日記という問題がある。もちろんネット上の日記のことだ。散々ぼくも矛盾したことを言ってきたけれど、「役割」という問題からもう一 度書き直してみたい。まずは「最後の変身」から。

 〈日記〉は、確かに人間が外の世界で引き受けている役割の記述 だけでは収まりのつかないものだ。そこには、きっと、その役割 からはみ出す中身が表れる。それはそいつの本来の姿だ。――俺はそれを、人に認められたくてしかたがない。
(中略)俺はまるで、俺の外での役割を維持するために、せっせとそれに不必要な自分を捨てているかのようだった。ネット空間は、そう いう言葉に満ち満ちて いた。それは、挫折したコミュニケーションの死骸の山であり、孤独なゴミ捨て場だった。(同書)

 「日記」と称して毎日のように数バイトの資源を費やして蓄積されるそれは何なのか。これはあくまでも公開用に外向きで書いたのだから 自分そのものではないと言ってみたり、これこそが自分なんだ、本当の自分なんだよ、みんなわかってないけど本当はこんなにさびしんぼうなんだよと言ってみ たり、わけがわからない。そういう一貫性のないのが人間なんだよとおせっかいな説教まで聞こえてきそうだ。

 南条あやさんの死後、関係者によって彼女の日記の背後でうごめいていたものが明らかにされました(「メモ・もう一つの南条あやについ ての記録」として保護室のサイトで読むことができます)。それを読むにつけ、いかに 彼女の日記が制約のもとにあったかが伝わ ります。彼女の日記を掲載していたサイト運営者との確執がありながらあれだけの量と質の記録が残されたことに、あらためて彼女の才能と努力とを思います。 南条あやさんはプロのエンターテイナーだったと思います。でも、そう言ってしまってはくくりきれない何かがある。「女子高生」という役割、「ネット物書 き」という役割、「ネットアイドル」という役割のどれからもはみだす何かが。たぶん、それが日記から伝わるならば、きっとそれが、「本当の彼女」なんだと 思う。こういう時にだけ「本当の」という言葉は使うことが許されると思う。

 ぼくたちは「最後の変身」にあるネガティブな見方に対してまずは反論を企てなければならないのかもしれない。もちろん、「日記」とい うかたちで。

 俺はもう一度だ! もう一度、そうした俺のあらゆる怯懦、あら ゆるシニシズムを乗り越えて、俺が本当の俺自身の現れとしての 変身を果たすことを夢想する! (中略)ああ、だがしかし、俺は結局、何もしないだろう。(中略)どっちにしろ、俺の役割は、このだだっ広い世界の中で、 悲しくなるほどちっぽけなものだろう。俺の存在は、そこに生活する大半の人間にとって何の意味もない。不毛だ! 無駄だ! ああ、その予感だけで、身の毛 もよだつ!(同書)

 問題は「金原ひとみと村上春樹」 でも書いたことに戻る。意 味を超えて「変身」は可能なのか? そして「変身」が成されたとして、それが「最後」になる保障がどこにあるのだろうか?

 それはネットというものが身近にある現代、ますます容易ならざる問題になろうとしていると思う。ネットは簡単にぼくたちを依存に落と し込む。嘘の変身を可能にする、幾度も、それも簡単に。

 そうなんだ、「リニューアル」をするたびにこれを「最後」にしたいとぼくはいつも願う。これで行く、押して行く、と思っても、そこに ある「役割」や「意味」についていけなくなる。逃げ出したくなる。そうしたらどうするか、HTMLをちょちょいと変えてやれば変身が果たされる。現実の世 界では何も変わらないというのに、あたかもそれで、そこから新しい役割を担った新しい人生が始まるかのようにぼくは期待する。意味に喰われている。役割に 喰われている。

 「最後の変身」の主人公は最後に自殺を企てる(そもそも「最後の変身」がそのまま意味するのは自殺だ)。それが成功するかどうかはわ からないまま小説は終わるけれど、たぶん主人公は自殺の苦しみを受け入れることはできないとぼくは思う。彼にできるのはネット上で自殺を演出し、ハンドル ネームに託された自分の一部を殺すことぐらいだろう。自殺もできない、(宮台氏の繰り返すように)まったり生きるのもきつい。そんな人はどうしたらいいの か、本当に考えなくちゃいけない……。

04/02/25

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