ネット上の公私、スタイル
前々から書こうとは思っていたけれど時期を見計らっていました。
いったい個人サイトを運営していくというのはどういうことなのか? そもそも「個人サイト」の定義とは何だろうか?
私はこのサイトを立ち上げる前に自分への試金石として「個人でwebサイトなんてやめておけ」(梶充生著・エスシーシー2003)と
いう本を読みました。そこで個人サイト管理人に問われているのは以下のようなことでした。
- そのサイトにしかない情報があるのか?
- 初めからつまらない自己を肥大させていないか? 自己顕示に終始していないか?
- 「弱さ」を「繊細さ」とかん違いしていないか? 「感覚」という魔法の言葉でごまかしていないか?
- 「役に立った、ありがとう」と言われるサイトなのか?
- 出版も放送も相手にしてくれないからwebで遊んでいるだけという後ろ向きな動機になっていないか?
自分の話をするなら、このサイトを、ある程度文章というものに自覚的に関わる時期を経てから始められたというのは幸運でした。もし高
校生の自分にインターネットなんぞに手を出していたらひどい結果に終わっていたでしょう。
上の五点は結局自分の書いた文章に自覚的にあれ、ということだろうと思います。自覚的というのは、それを読んだ人間がどういう反応を
示すのかを計算に入れるということです。それは福田和也のように「悪」と取り立てて言うほどのものでもなく「こういうことを書いたら読んだ人のためになる
かもしれない、笑ってくれるかもしれない」とか「こういうことを書いたら不快だろうな、読む人によっては怒るだろうな(もちろんそれを逆手に取ることもあ
りますが)」とかいう判断であって、それは不特定多数がアクセスできるネットという環境の中で守るべき最低限のマナー(という言葉は嫌いですが)だろうと
思います。
ネット上の公私、という問題がそこにどうしても関わってくると思います。ただし、ここでは無意識に私生活を垂れ流している個人サイト
は論外とします。
「ネット上の公私」という言葉もおかしなもので、ネット上は「公」なのであって厳密な意味の「私」なんてものはないのです。「私」は
アップロードのクリックをする一歩手前までです。しかし一歩手前と一歩後とで管理人から見てなんの変わりもないという技術的な問題が「ネット上の公私」と
いう問題提起につながると思うのです。
「私」に価値があるとしたらそれは有名人、あるいは常人ではなかなかできない経験をした人です。個人サイトでアクセスが集中するとし
たらそういう場所でしょう。けれど、普通の人なのにアクセスが集まるサイトというのは確かにあって読んでいて本当に面白いサイトはたくさんある。あるいは
ココロ系の日記も、ネガティヴに満ち溢れているけどあ
あいうものは一度書いてみればわかるけれど相当エネルギーを消耗する。あるいは、書かなきゃやってられない、というのも正直ある。
読者の多い個人サイトというのは結局「公」のなかで勝負しているのだと思う。「私」をちゃんとフィルターにかけて「公」にしている。
そのフィルターこそスタイルということなのだと思う。
文学で言えば、日本の自然主義は現実をありのまま書こうとしたけれど結局ネガティブな方向にばかり行ってしまった。あれはやっぱり感
情というのは低い方に流れていってしまうから「ありのまま」という意味では失敗した。「ネガティブ」をスタイルとして提示したのは太宰であり、「ポジティ
ブ」をスタイルとして提示しようとしているが保坂和志だ(このことについては卒業論文でしつこく考えています)。
だから例えば面白おかしい日記を読んで「この人は毎日楽しいんだろうな」と思うだけでは読者としては不遜で日々を面白おかしく読み取
るスタイルというのは誰にでも訓練によって身につくはずだ。逆もまたそうで、ネガティブを保ち続けて何年も日記を書けるのはそれは無自覚に感情を垂れ流し
ているのとは違って相当なスタイルの持ち主だと思っていい。
「公」というのは人と関わるという大条件がある。「公」を鍛錬しなければコミュニケーションは不毛に終わる。「公私混合」するなと
言ってしまえばそれだけのことなのだけれど、こういう小学校で習うような道徳をどうしてだかいつも大人は忘れてしまう。
念のため最後に一言。「公」に対して攻撃したからといってそれは「私」への攻撃にはならない。与野党の政治家が私人として酒を酌み交
わすのはよくある話。
03/11/29