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金原ひとみと村上春樹

 「蛇にピアス」、読みました。途中まではすごくワクワクしながら読み 進めたのですが、「ああ、やっぱり最後はここにきちゃうのか」 というちょっと残念な気持ちで読み終わりました。でも現代文学が(あるいはポスト村上春樹の作家群が)共通して考えているとぼくが勝手に思っている問題 が、結構露骨に出ているのでそれについて書いてみたいと思います。

 ぼくもしつこくここで書いてきたことなんですが、結局、意味があんのかないのか、というところにとどまっている、あるいはそこにこだ わり続けているのです。もともとこの世に生まれたことになんて意味なんてないのですが、それではどうも生きづらいので意味というものを人間は生み出しま す。

 てゆうか、最初から宿命なんかに縛られてたまるかっていう気もしますが。で、そのうち日々のルーティーンワークに疲れて「生きる意 味」を求めて苦悩する人がいたり(イソジンのシーエムでさえ!)、「それはナンセンスだよ」という言葉がどうしてか非難めいて聞こえたり、逆に前衛芸術に 触れるとその無意味さに圧倒されたり、なんてことになってきます。やっぱり意味があったほうが生きやすい。

 恋愛なんかその際たるものでしょ。あなたのためなら死ねる、なーんて目的をでっち上げて突き進む! サア行け、守るものがあるから強 くなれるんですなんてほざいてリングの上で敵と格闘だ。ああすばらしきかな、意味のある人生。メデタイメデタイ。けれど逆に意味に毒されるとすべてが予定 調和めいて見えてきちゃいます。よーするに役をふるんだよね、相手に。こいつは味方、こいつは敵、こいつはストレンジャー、みたいに。そうすると全部必然 に書き換えられて、偶然の持つドキドキハラハラがなくなっちゃう。これはこれで悲惨な人生。――そんなことを書いてきました。

 まず村上春樹さんの文章から引用してみます。

 ガラス窓に映った僕の顔をじっと眺めてみた。熱のために目が幾 らかくぼんでいる。まあいい。午後五時半の髭が顔をうす暗くし ている。これもまあよかろう。でもそれは全く僕の顔には見えなかった。通勤電車の向かいの席にたまたま座った二十四歳の男の顔だった。僕の顔も僕の心も、 誰にとっても意味のない亡骸に過ぎなかった。(村上春樹『1973年のピンボール』)

 「まあいい」をたたみかけて彼は徹底して意味のなさを強調します。あるいは「無意味」という記号の中に埋没して、そこに引きこもっ ちゃいます。「これでいいんだよ、そこそこ金はあり女もいて地位もあって、このさき生活にも困らないだろう。人並みの葛藤があって、人並みの顔があって、 十分さ。なにも問題はない。実に居心地がいいよ」――そんな声が聞こえてきませんか、あるいは自分でそんなこと言っていませんか。いや、もちろんそれでい いってんならいいんですが……少なくともぼくはそういう人とはお友達になりたくないです。

 引用した『1973年のピンボール』は1980年の作品です。この無意味さがかもし出す喪失感は70年代のものとはいえ、現在にも続 いていて解決されずにいます(でも、だいぶ一つのモードして定着しているかもしれません。森田童子さんの曲なんかそれほど切実な自分の問題として聴かれる ことはもうあんまりないのでは?)。

 82年生まれのぼくですが、安保闘争、安田講堂攻防戦、バブル崩壊、リストカットは時代の気分として全部一つの線でつながっているよ うな気がしてなりません。家族を養うために頑張るなんて言っているモーレツ社員(最近また増えていませんか? これから増えてきそうな予感がするんです が)の笑顔は、もうたくさんって感じです。
 
 さて、1999年に発表された『スプートニクの恋人』には次のようにあります。

 ぼくはベッドを出る。日焼けした古いカーテンを引き、窓を開け る。そして首を突き出してまだ暗い空を見上げる。そこには間違 いなく黴びたような色あいの半月が浮かんでいる。これでいい。ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。 ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。(村上春樹『スプートニクの恋人』)

 これはほとんど作品の末尾にあるのですが、この文章を「発見」したときぼくはなんとも言えぬ気持ちになりました。だって全く同じこと が書いてあるではありませんか! 二十年かけてもこの問題はまだ解決されていないのか! なんだか暗澹とします。ああ、無意味の真ん中ではやっぱりこう やって斜に構えて「フッ、だって……そんなもんだろ、人生」みたいなこと言ってなくちゃならないんですか。いやだなあ、そんなのは。

 ときどき無意味をつらぬく苦痛から回避するように意味にあふれた「物語」が大流行します。ハリポタも、ロードオブザリングも、「世界 の中心でナンチャラ」も、そういう種類の面白さがあるということはわかるのだけれど、ふだん小説を読んでいると「意味」に対する警戒心が出てきてしまって こういうものに手放しで熱狂することはできなくなります(それはそれでけっこう悲しい)。

 それでは「蛇にピアス」ではどうか。はじめにぼくは途中まではワクワクして読んだと書きました。それはこういう表現があるからです。

 普通に生活していれば、恐らく一生変わらないはずの物を、自ら 進んで変えるという事。それは神に背いているとも、自我を信じ ているともとれる。私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。きっと、私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない。 (金原ひとみ「蛇にピアス」)

 いやあ、いいねえ、こうこなくっちゃ。意味なんかねーよ、クソお! この叫びです。何度ぼくも叫んだことか。

 でもきっと、本当に無関心でいることと「私は無関心です」とわざわざ人前で言うこととはぜんぜん違う。本当に意味なんかに無関心な人 はわざわざ「意味なんかいらねーよ」なんて言わない。そんなめんどくさいものにこだわっていないで淡々と生きていく(そういう人を実際見るとうらやましく てしょうがない)。

 「意味なんてない」と言うとき、その裏には意味が欲しいという思いが見え隠れする。じゃあそれからどうするの? どうやって実際生き ていくの? ていうところで現代文学の一角は頑張っているんだと、いやいや、人間は頑張っているんだと思います。(そういえば宮台真司さんが面白いことを 言っていて、いい大学に行けばいい企業に入れて幸せな人生がおくれるという神話が崩壊した今、虚無感にとりつかれた若者がその原因を「欠落が無い」という ところに求めて……自殺ですよ。東大生に多いんだってさ、たのむよ、東大生。ニヒリズムにおちいらずに虚無と闘うんじゃ。)話がずれまくりました。

 今、私はこの刺青には意味があると自負できる。私自身が、命を 持つために、私の龍と麒麟に目を入れるんだ。(同書)

 こんな風に小説は終わります。ああ、やっぱりそこに行ってしまうのか……。この小説では恋人の死が最後に意味を付与します。恋人の 死……物語にあふれまくってますね。恋愛とか死とか出産とか出世とかたいがいにしろと言いたい、って、ここで怒ってもしょうがないんですが。

 読者の要求なんて身勝手なものですから「蛇にピアス」は普通に読み物として読むのがいいのかもしれませんね。だから分析はしやすいん です。主人公の「ルイ」は自分はギャルじゃないと言う場面が四回もあることとか、神さまと悪魔の対比とか、名前の象徴性とかいろいろ材料はあります。でも それはいずれも物語の中で意味をどう配置するかという話になってしまってつまらないし言い尽くされています。

 意味は無いと言いながら意味を求め、偶然の事件が外から意味を与えてくれるのを待つしかないんでしょうか……。恋人もいないのに、 あー、恋人でも死なねえかなあって待ってないといけないんでしょうか。

 一つの回答は一瞬一瞬を「味わう」ということ。要するに始まりがあっと終わりがあるんだ、という風に枠を決めないでいつ終わっても大 丈夫です、というような生き方(書き方)をする。ストーリー性は希薄になるけれど、描写に厚みが出ることでしょう。という前提で同じく芥川賞受賞綿矢りさ さんの「蹴りたい背中」を読むとなかなか「味わい」があります。

04/02/14

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