拝啓 上手に生きているあなたへ
自分のことしか考えていなかったようで見ず知らずの他人の悩みまで抱
え込んでいたときのことを久しぶりに思い出した。いつのまに
か、他人の悩みも抱え込んでいるようでその実、自分のことしか考えていない人間になってしまっていた。
十代の頃は、――なんて昔話を始めるような二十一歳をあなたはどう思うかわからないけれど、とにかく語らせてほしい。冒頭の三行が鼻についたならあやま
る。けれど、最後まで読んでほしい。特にあなたがまだ二十歳の面影を残しているか、あるいは十代のど真ん中で愛を叫んでみることに躊躇しているなら。
人生の美しさというものは、実現しなかったことに対する思いによって、
担われて
いるんじゃないだろうか。(片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』)
なんて、じじいの余計なおせっかいに耳を貸すようになったらおしまいだよ、なんていうまた余計なおせっかいを、どうしてぼくははたらいてしまうのだろ
う。
あるいは、人生をフルコースの料理にたとえて、それを深く味わうためにスパイスか用意されているんだよ、みたいなこれまたおせっかいな歌があるけれど、
「やっぱりフルコースの料理って独りでは食べないよな」なんて言ってテーブルの向かいがわに座っている「かわいい彼女」「かっこいい彼氏」の予定調和に
「ボクもワタシも大人になった」なんてつぶやきながら「ヒーロー←→ヒロイン」の二項対立で窒息してしまう、妙に保守的なこの時代を、ぼくはこの文章で破
壊してやりたいと思っている。
と、思っているだけなのだが、さて、人生は確かにフルコースで、食べるものが決まっているらしい。食べる順番まで決まっていて、マナーもあると聞く。小
学校に入って友達と夕方遅くまで走り回ってけんかと仲直りを1日サイクルで回し、中学校に入ると今度はエロ本を回してクラスの女の子のランク付けに精を出
し、高校に入ると勉強より大事なものをうっかり見つけてしまい「人間は中身だよ」と叫んでせっかく作ったランキング表を破り捨て、大学に入ると酒とセック
スにおぼれる自分に美学を感じて部屋とワイシャツとキャンパスを往復し、会社に入ると急に「忙しいから」と言わないと社会人でないような気がしていつの間
にか恋と愛と結婚を区別して若くないふりをし、結婚すればやれマイホームだ子供だ親の老後だと資本主義の奴隷になって負け犬の遠吠えも耳に入らず髪を黒く
染め、会社を退職すると自分の子供が金をせびるのもまんざらでもなさそうにしてアームチェアでテレビをながめて一億総白痴化する。
そこで聞こえてきそうなのが、「おい、そんなフツウの生活も、これはこれで大変な苦労をともなうのだ」という声。そう、それこそが「上手に生きている
人」の声。
心を乱すは、言葉の欠如、身体の欠如。「生きるのが下手でもいいじゃない」と言う男の人生を、ここに全部もってこい!
ぼくは言葉を尽くして何に一体憤っているというのだろう。そもそも、この文章で死体のようなぼくは何を言おうとしたいのだろう。「言いたいことなんてね
えんだってことを言いたいですね」なんていう、言いたいことを全て言い終わったかのようなセリフはきざでぼくにはとても言えないけれど、ぼくはキーボード
を叩くことで明らかにしていくしかないようだ。話をもどそう。
十代の頃は、そんな人生のフルコースのメニュー、自分に関係ないと思っていた。やりたいことをやって、それで、やりたいことができなくなったら自殺でも
すればいいと思っていた。それはやりたいことが明確にあったからだ。ところが、ヘッドホンをして大音量で音楽を聞き、サングラスをかけ、ケータイの画面に
見入り、底の厚い靴でアスファルトの上を歩く――これは比喩だけれど、そんな人生にいつの間にかなっている。自分に夢中になっているかと思えば、聞いてい
るのは流行歌だし、サングラスは似合わないのにかっこつけているつもりで、ケータイもメールを打って友達のいるふりだ――これは比喩だけれど、そんな人生
にいつの間にかなっている。
レトリックは続く。
水底。視界はぐにゃぐにゃに歪曲し、音もよく聞こえない。誰かが「よく聞こえないよ!」とぼくに連呼するのだけはわかるのだけど、いざ口を開けようとす
ると海水が入ってきて開口一番も何もありゃしない。毒を持っているらしい魚が肌に触れて、急に痛み出してついに膨れ上がる。「これ以上膨れたらどうしよ
う」と思うたびにはれ上がる患部を、「これもぼくの一部なんだ」と無理矢理思い込ませる。
屋根の上。ここから下を見ると人々の様子が手に取るようにわかる。上手に生きている人々の様子が。恋人と金と名声を手に入れてステキに着飾ってステキな
街を靴音高らかに闊歩する。その後ろをカメラが追いまわす。「あなたの夢はなんですか?」「あら、そんなお決まりの上昇志向、もう捨ててしまったわ」そん
なインタビュー。愛と資本主義。
さて、ここまで読んできたあなたはぼくをどんな人間だと思うだろう。村上春樹と岡崎京子に嫉妬して我こそは21世紀旗手としてリアリストたらん、そんな
風に思うのだとしたら、それは半分正解で半分誤解だ。何もドリアン助川を気取って人生相談をおっぱじめ、あらゆる人生の物語を脱構築して、「一生懸命であ
ればそれでいいんだ」とニヒリズムを持ち出しながら一方で福田和也バリに「一生懸命なのは最低限のことだ」と真実めいたことをつぶやき、こんな文体(スタ
イル)で全てを茶化すつもりなんてない。といって「我以外全て師」と急に襟を正すでもなければ、もうこんだけ書いたし夜も遅いし酒飲んで寝ようという思考
停止に走るでもない。
ただ、ただぼくは21歳で、まだ10代の不器用さを備えていると思っていたらいつの間にかそれを忘れていて、生きることの技巧を磨き始めている自分に気
がついて愕然としているだけなのだ。目標という言葉の代わりに手段という言葉を使ってさも上昇志向を捨てたかのような涼しい顔をしながら「会社も金も恋愛
も手段だよ」と目標を明らかにしない詐欺師になっている自分に気がついて愕然としているだけなのだ。
21歳。それは、いったい何なのだろう。「17才」
という映画があったけれど、21歳は物語にならないのだろうか。もう、死んだ友達のことを思ってトイレの中で泣いたり、子供の生意気に付き合ってくれる大
人の存在に色めいたり、大人が案外子供っぽい夢を生きるよりどころにしていることに気がついて驚いたり、そんなことをしている21歳は、いませんか、いて
はいけませんか。
北沢。約束を忘れるなよ。お前だけが頼りだ。お前が直美のことを忘れた
ら、この
地上から、直美の思い出が消えてしまう。憶えていろよ。そして、百まで生きろ。(三田誠広『いちご同盟』)
あの一生懸命さは、なんだったのだろう。物語と現実の区別もつかずに他人事を一生懸命に考えていたのはなんだったのだろう。
言いたいことがたくさんありすぎるのか、言いたいことがあるのにそれを必死に避けているのか、どっちかだろう、ぼくがこんなにまどろっこしい書き方をす
るなんて。テキストの快楽も捨て、おどるポンポコリンの替え歌も歌えないぼくは、ジェイズ・バーでビールを飲んでいる時に隣に鼠が座っていても、もう驚か
ないだろう。ここは2004年なのだ。新しい表象、新しいニヒリズム、新しい資本主義、それが必要だ。
ん? ……ぼくは、どこまでやって来たんだ?
大団円への予感。けれど、ここに来て急にぼくは口をつぐむ。レトリックに生きるぼくは資料の不足に苦しむ。さあ、2004年の青春は、恋愛は、社会は、
国際情勢は、どんなだ。
全ては古びる運命にあるのか、この文章を書くのに使った時間さえも、それはどこへ行ってしまうのか。言葉で釘付けにしたと思ったとたんに、それはするり
と身をひるがえして空の彼方へ消えてしまう。
意味の過剰が、かえって心地いい。過剰とは美学であり、エネルギーの横溢であり、カルチャーだ。
でも、ぼくはそういうことで十代の残り香を濃縮還元しようとしている。詐欺行為を繰り返そうとしている。ぼくの知らないところで人生はずんどこずんどこ
進んでいるらしい。そんな気がする。水底で、あるいは屋根の上で、ぼくは座り込んでいるらしい。自分もまた時間の流れの中にいて、年をとるということも忘
れて。僕は十代のことを語ろうとしたのだけれど、既に言ったように、それはどうやら欺瞞に終わる予感がする。自伝を書く年齢ではない。物語を書く年齢では
ない。
それじゃあ、誰かに書いてもらおうか。いや、ぼくは
それさえ拒否しよう。ぼくの知らないところでならいいけれど、僕の目の前でぼくについて語るのはやめてもらおう。だからたとえば、あなたとフルコースを食
べに行く。東京駅の八重洲側にある眺めのいいフランス料理屋で向かい合わせに座って、あなたは慣れた手つきでナイフとフォークを動かして肉を野菜を切って
口に運ぶかもしれないけれど、ぼくはワインばかりおかわりしてろくすっぽ料理に手をつけずに終わるかもしれない。ぼくは酔っぱらって新幹線乗り場でうずく
まり、あなたはあきれ返ってさっさと終電に乗って行ってしまうかもしれない。そんなことも知らずぼくはいい気持ちで眠りの淵であなたのきれいなスカートの
揺れ方や声の響きや髪の毛の手触りや香水の残り香や笑顔の輪郭を思い返していることだろう。
翌朝、ベンチの上ですっかり風邪をひいて眠りから覚め、酔いも覚め、ぼくはなんと言うだろうか。それが問題だ。
人の気持をみようとするやうなことはつひになく
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我儘だつた!(中原中也「無題」)
とでも言うのだろうか。それが問題だ。それだけが問題だ。
けれど、一つだけ確かなのは、一生懸命大人ぶってみたぼくのこの文章は、上手に生きている人間があたかも書いたかのようだ、ということだろうか。
04/06/30