「Less is
More」という言葉をどこかで(手帳にメモっておいた言葉なのですが、今その出所がどこだったか忘れてしまいました)聞いたことがあります。直訳すれば
「少ないことはよいことだ」ぐらいの意味でしょうが、もっと深い深い掃除哲学が秘められているよう思います。
年末から年始にかけて本の整理をしました。中学から買いつづけて来た本の置き場が無くなってきてしまい、この先も相変わらず本を買いつづけるということを
考えるとさすがに本棚を増やすよりも本を捨てなければ対処し切れないと考えたからです。本を捨てるなんてことはこれまで一度もやったことはありませんでし
た。どんなに気にいらない本でも「本だから」「せっかく少ない小遣いの中から買ったから」というブレーキがかかって本棚に置いておいたのです。たぶんそれ
は、本がほかの「モノ」とはちがって単に印字された紙を束ねてのりでとめたもの以上の意味をどうしても持ってしまうからで、そういう意味ではぼくも古き良
き日本人の典型ではあったわけです。ごく最近まで畳の上に新聞を置くことさえ無作法だとされていたわけですから、印字されたものの持つ物神性(と言ったら
大げさですけど)の呪縛は今でも根強く残っていると思います。でも、もう置き場所がない! 本棚を買ってこれ以上部屋をせまくしたくない! ということで
思い切って処分を考え始めたわけです。
本の処分の問題と同時に、何を読むべきかという問題がしばらくぼくの心を占めていました。というのも、高校生の時はわりと岩波文庫や新潮文庫でもいわゆ
る「日本近代文学」に属するものをよく読んでいたのですが、大学に入ってだんだん読書の幅が広がりお金や時間にも余裕が出てきて色々な本を――たとえばま
だ価値の定まらない現代文学、哲学の専門書、単行本、日々量産される新書――読むようになりました。ところが今、本を大量に処分した本棚を見回すとことご
とくそれらが無駄な買い物であったことに気付かされます。いつでも本棚一番いい所を占めているのはこつこつ買い集めた岩波文庫や文学選集の類いです。もち
ろんいい本も新刊にはあるのですが、やっぱり買った量に比べて残るものの比率が圧倒的に低い。なにより本はお金もさることながら時間を奪いま
す。くだらない本を買ったときに一番悔しいのは、それがくだらないということが分かるためだけに費やしてしまった読書の時間です。これから社会人になれ
ば、いよいよプライベートな時間は減り読書に充てることのできる時間は限られてくる。いつまでもくだらない本ばかり読んでいては死ぬまでに世界の名著を読
み尽くせない……生まれてきたかいが無いというものです。なんだかそういう焦燥感も手伝って何を読むべきかという問題が持ち上がってきたのです。
この二つの問題がリンクしているのは、処分すべき本は読むに値しない本、もうこの先一度も読まないであろう本であるという基準と、買うべき本はこの先何
度も、何度も何度も読み返したくなる本であるという基準とが同じ事の表裏になっている点にあります。そこでぼくが参考にした先人の名言を一気に紹介してみ
ましょう。
すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。(小泉信三
「読書論」)
優れた本だという評判のものでも、私の頭に現に問題となっていることに関係のないものは読まない。(長谷川如是閑「私の読書法」)
私はまず一冊の本にかじりついてそれをものにするようにといいたい。その一冊はもちろんそれに値するものでなければならぬ。
(三木清「哲学はどう学んで行くか」)
個人の責任で、めいめいの古典を決定する。〔中略〕いくら間違った選定をしても、とにかく、これこそわが生涯の書ときめた本があって、それを絶えず読み
返していれば、かならず、それなりの成果はあげられるはずである。(外山滋比古「読書の方法」)
いずれもいわゆる「読書論」の「古典」からの抜粋です(上には引用しませんでしたが渡辺昇一『知的生活の方法』も名著ですね)。これらからどういう本を
読んだらいいのかが伝わってきます。とにかく読み返す価値のあるものを読み返すということ。そしてどんなに文学史的に有名な本であっても、現に自分の持っ
ている問題意識と重なるところがない状態で読んでも実に成らないということ。だからぼく自身も、漱石を味わうのは30、40代にとっておいてあります。よ
く中学生のときに夏休みの読書リストなんてもらいますけど、あれをまじめに理解できるまで読もうと思ったら中学の三年間どころかかなりの人生経験が必要な
気もします。人生のその時その時で本当に必要なものって考えてみると案外少ないように思います。欲しいものはたくさんあっても必要なものは結構限られてい
ると思うのです。そしてそれに答えてくれる本というのはもっと限られてくるし、その結果本屋で買う本が洗練されてくるというわけです。買う量を減らせば後
で捨てる量も減りますし、買う量を減らしたからといって読む量が減らないのが本のいいところ。葦編三絶の言葉のように、何度も読み返すことで見えてくるも
のがありますし、何度読み返しても汲み取りきれないものがある本と出会うのはなによりもうれしいことです。
とは言え、現代は情報化社会です。やっぱり時には「すぐに役立つ本」も買わなくてはならない(就職活動のための本とか自動車の免許を取るための試験問題
集とかパソコン雑誌とか)のでお役御免になった本の処分についても考えなくてはなりません。そこで、本に限らず捨てることについての名言。
古い物を捨て、新しい物を入れる余地があるということは、あなたの人生
に新たな出来事が起こりうるということでもあるのです。(ローター・J・ザイヴァート、ヴェルナー・ティキ・キュステンマッハー『すべては「単純に!」で
うまくいく』)
新聞や雑誌や本は、気前よく処分しましょう。/計算してみてください。2センチの厚さの雑誌をきちんと読むには、およそ4時間かかります。〔中略〕「あ
れを読まなくちゃなあ……」という気持ちはプレッシャーにもなります。(同書)
「理解できる本」や「理解できる講義」、「有用な情報」は世にあふれています。「義理で情報につき合う」意味はありません。(諏訪邦夫『情報を捨てる技
術』)
ペーパーバック形式の廉価な本(文庫や新書)は、どんどん購入してどんどん読んで、気に入らなければ捨てて、気に入ったものだけ手元に残すことをくり返
しています。(同書)
これらの言葉を参考にしたら300冊以上を捨てることになりました。その中にはもちろん「古典」として名だたるものもあるのですが今のぼくには必要がな
いということで捨てることにしました。また、新潮文庫は装丁の悪さから読み返しがきかないため(ぼくは開いたページをギチギチと押し広げて読むのでのり付
けがヤワな本だとページが根元からはずれてしまうことがよくあるのです)ほとんど捨てました。その意味では岩波文庫、講談社文庫、文春文庫の製本の良さに
は目を見張るものがあります。河出文庫、角川文庫はたまにカバーが大きすぎる寸断になっていて困ります。ついでだから言ってしまうとちくま文庫と中公文庫
はかなり当たり外れがあります、お気をつけ下さい。やっぱり岩波文庫はカバーの寸断から背糊、紙質、価格にいたるまで(個人的には紙の匂いも好き)どこを
とってもパーフェクトですね、べつに教養フェティシズムというわけではなくて。
チャペックが本を捨てることを「どこかにある」という本棚にしまうことだと書いているのをなにかで読んだことがあります。絶版本は捨てるわけにはいきま
せんが、大抵のものは本屋にありますから本屋の棚も自分の本棚の一部と思えば(他の商品と違って高くて買えないという本はほとんどありませんからね)捨て
ることに対する抵抗も減ります。大型書店もなかった昔は本を買って手元に届くまでに長い時間がかかったので、流通が発達してインターネットでも本が買える
今は本当にいい時代だと思います。
処分の結果、本棚が引き締まりました。棚にあるどの本も捨てるわけにはいかない、という状態がベストですからまだまだ減らす必要がありますが、具体的に
数として減らさなくても「減らすぞ、無駄なものは買わないぞ」という意識で本を眺めれば自然と買うべきものを買い捨てるべきものを捨てるようになると思い
ます。まさに「Less is More」ですね。「モノ=物+者」で
書いたことと重なるかもしれませんが、本というのは本当に不思議な「モノ」で、自分の脳みそとかなりダイレクトにつながるので本を捨てることによって自分
の脳みそも整理されるというか、昔買った本を捨てることで過去へのこだわりを減らすこともできたように思います。本棚は保管庫では無く常にアクティブな状
態にして空気の入れ替えをできるようにしておくべし、この意識が一番大切なんだと思います。神経症の患者の手記にも、とにかく本棚の整理からはじめよとい
う提言があったことを思い出しました。本棚の整理とは過去の自分の整理、そして同時に未来の自分へ可能性を開くこと――特に読書が生活の大半を占めている
ような人にとっては。でもなんにでも当てはまることだと思います。MDの整理とかパソコンのファイルとか……会社のリストラは困りますが。
なんだか新年から中野孝次みたいなことを述べてきましたが、大学生活四年間を振り返ってみて無駄なことばかりやってきてしまったと痛感していて、その無
駄をなんとか未来につなげたいと思っているところです。「Less is More」――二○○五年最初の提言です。
05/01/07 初稿
05/01/14 改稿