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>>> エッセー(音楽)
GARNET CROW
call
my name
幸せを幸せとして描くというのはかなり難しい。ガーネットクロウの詞
を読んでいていると、その難しさが映像という形で見事に実現されてしまっていることにいつも感心してしまう。抽象的な言葉を並べて「幸せってほらこんなに
言葉にはしにくいけれど、目に見えないけれど、確かにここにあるよね」という方向へ逃げない。
「白い壁」、その壁にかかった「レンブラント」、「日曜の朝」という明るいイメージが冒頭で歌われる。部屋の様子が想像される。その
中に二人。そういう「何もない時を一緒に過ごせる」幸せが「幸せ」という言葉を使わずに歌われていく。
何よりも「四六時中君の事ばかり考えているわけもなく」という一フレーズがあることで詞の世界がずっとリアルさを帯びる。オンリー・
ユーと叫び続け、はじめからありもしない永遠の愛とやらに裏切られて勝手に慟哭する歌が多い中で、このリアルさは貴重だ。多くのポップスで語られる「永
遠」を追究することが愛ならば、愛を求める誰もが絶望するだろう。けれども「call
my
name」のリアルさは決して幸せとは永遠に続くものではないという認識から出発して、それじゃあどうしたらいいのだろうという部分で共感者を集めてい
る。
そこにきらめく稀有壮大な理想はない。けれど、「日曜日の朝君とただ並んでいた」というきっと誰もが知っている身近な幸福を、そして
その貴重さを作詞者AZUKI七は提示してくれている。
03/11/30
千以上の言
葉を並べても…
「call my
name」と同様に「千以上の言葉を並べても…」においても、そのタイトルが示すように「言い尽くせないこと」を無理矢理抽象的な言辞を弄して「ほらほ
ら、こんなにわけがわからない詞になっちゃった、私の気持ち汲み取ってよ」という風にならない。あくまで、AZUKI七は現実から出発する。イメージでは
なくシーンから出発する。
この歌で印象深いのは冒頭の「公園で髪を切る」シーン、そして「バスを待つ」君を「見送る」「最後」の日のシーンだ。前者は青空の下
で恋人に髪の毛を切ってもらう、けれどもそれは「穏やかな終わり」のシーンなのだ。想像してみれば公園の光景はこれ以上ないほど幸せな恋人の図だ。けれど
もそれは別れのシーンとして提示される。後者もまた、バスを見送ること自体は出会ったときと全く同じで、けれども明日からはそれがなくなってしまう、今日
が最後のお別れなのにどうして出会ったときとこうも同じ情景なのか、という「穏やかな終わり」のシーンだ。
けんか別れではない別れ。
それは「千以上の言葉を並べても言い尽くせないこと」なのだろう。この歌を聞き終わって胸の内側から何かが膨れ上がってくる。苦しく
なる。それはきっと全く新しい名前をつけてあげなくちゃならない気持ちなのだ。
03/11/30