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Cocco

Heaven's hell
 Coccoは引退した後「愛する沖縄」のためにたった一人で海岸のご みを拾い始めた。ごみを拾いながら彼女は「Heaven's hell」を歌っていた。ところが拾っていくそばからごみが捨てられることに憤る。けれど一人で怒っていることよりも、みんなで歌を歌うことに彼女は決め た。
 県内の全ての中学高校、アメラジアン・スクールを回って人を集め、ボランティアも募り、八月十五日、「十分足らずの」コンサートが開 かれるまでのCoccoの活動を追ったドキュメントが今回発売されたDVD「Heaven's hell」である。
 始めは意識の低かった中・高生が日を追うごとに演奏や合唱への熱を高めていく流れもさることながら、ぼくがこのドキュメントを見て一 番感じたのは、Cocco自身の変化だった。歌の中であれだけ自らの傷を吐露し、「寒くて歩けない」と救いを求め、絶叫していた彼女が、沖縄への愛、一度 やめても押さえられない歌への愛を通じて他者へ語りかけることを始めたその変化の過程だ。
 筑紫哲也のインタビューに対して答えた言葉が印象的だった。例えば校庭を100週したら、1週くらいは付き合ってくれる人が出てく る。でも、その1週のためには自分が100週走らなければならないんだと。それを確かめたかったのだと。
 何度かドキュメントのなかでCoccoは自分よりも若い人々に向かってメッセージを発している。そのいちいちはここに書かないけれ ど、ぜひとも確かめて欲しい言葉だ。マイクを持って「みんな」に向かってしゃべっている姿はかつて自らを傷つけていた彼女ではなく、ぼくが言うのもおこが ましいけれど、大人としてのCoccoだった。自分より後の世代に向けて言える言葉を持っているという事は、その言葉に対する責任を負うことができるほど 自分の人生を真摯に生きてきた証拠なのだ。
 こうして欲しい、こうする必要はない、ということをどれだけ自分より後の世代に対して言えるのか。これはとても重い問題だ。そこでは 自分の経験の質が問われる。どれだけ自分の人生に対して真摯に取り組んできたのか。例えば出身高校に戻って教育実習をする時に、ぼくはどれだけ自分の言葉 を制服を着た彼らに言うことができるのか。
 自分だけ生きていればいいと考えていたとしても、誰も罰しはしない。幸福に死ぬこともできる。100週走るなんてまっぴらごめんだ よ、という人がいたって全くかまわない。けれど、そういう人はたぶん他人に語る言葉を持たないだろう。少なくともそういう人にはなりたくない、というのが 今のところ正直な感想である。
03/12/23

強 く儚い者たち
 似たモチーフで作られた歌は多いけれど、例えば Mr.Childrenの「ゆりかごのある丘から」と比較すると「強く儚い者たち」の世界観が明確になってくると思う。
 「ゆりかごのある丘から」では主人公の男が「戦場」に行っている間に恋人が他の男のもとへ行ってしまい、二人で過ごした「ゆりかごの ある丘」の美しさが歌の大半で語られる。
 ここでは、完全に二元的な世界観である。本当に卑近な例で言えば、仕事という戦場と家庭というゆりかごという構図である。こういう構 図はなにも「ゆりかごのある丘」だけでなく多くの詩、歌に取られている。
 ところが、「強く儚い者たち」では事情が違ってくる。「愛する人を守るため」主人公の男は戦いをくぐりぬけて「宝島」に着く。「宝 島」は「いい所」で「住みつく人もいる」。「宝島」の女主人である(らしい)歌の語り手はその男に向かって誘いをかけ、恋人はもう他の男のもとへ行ってし まっていると諭し続ける。
 「戦場」は「宝島」に着くまでの海である。「強く儚い者たち」で新しいのは「宝島」の存在もさることながら「宝島」のに到着したこと が獲得なのか喪失なのか最後までわからない点である。
 前者ならば宝物を恋人のもとへ持ち帰るハッピーエンドが想定される。そしてこれは「ゆりかごのある丘」でも主人公が思い描いていた物 語であった。
 ところが後者では、「宝島」の女主人が言うように恋人はもう「誰かと腰を振っている」かもしれないとしてもなお、女主人の誘惑に乗る こともできる。そしてそのまま「宝島」に住み着いてしまってもいい。
 戦いをくぐりぬけて着いた先に、置いてきた過去よりも美しいものがあってそこに鞍替えするのは「強い」ことなのか「儚い」ことなの か? 勇者は「お姫様」のもとへ宝物を持って帰らなければならないのか?
 これから先は各人にゆだねられる価値観の問題だろうと思うし、作詞者であるCoccoも結論は出していないからぼくもここで筆を置こ う。
03/11/15

「南の島の星の砂」(絵本)
 Coccoが故郷である沖縄から東京へ歌手としてやってきたきっかけ は、夢の実現や大都市への憧憬といった平凡な上京者のそれとは全く逆のものであった。
 彼女が引退した後、沖縄限定でCDを出すにあたり琉球新報に全面広告として掲載した「愛する沖縄様」という彼女から沖縄へ宛てた手紙 の中で、沖縄は自分にとって目も開けていられぬほどまぶしすぎる存在であり、そこへ歌手である「Cocco」を持ち込んではならない、沖縄へ帰るには沖縄 人である「こっこ」として帰らなければならいということを書いている。
 だから生まれた場所から逃げるために、そして再びそこへ帰るために彼女は東京へ来た。
 沖縄について明確に言及した歌は少ない。「珊瑚と花と」も沖縄のまぶしさが自分の目をつぶしたことを歌うのみで、「愛する沖縄様」の 内容の一部分を先取りするにとどまっている。
 当時は沖縄出身の歌手が次々と売れ始めた時代で、沖縄出身であるCoccoが故郷について語らないのは不自然にぼくには思えた。「愛 する沖縄様」の中でやっと彼女は沖縄について歌うことは自分には不可能だ、それほど沖縄は深いものだと語った。
 さて、その上で昨年河出書房より発売された絵本「南の島の星の砂」を読み解いていく。
 「南の島の星の砂」の「南の島」とは言うまでもなく沖縄のことで、「珊瑚と花と」の中でも同じ表現で語られている。また、主人公であ る赤い髪の人魚も「ラプンツェル」に収録された「海原の人魚」の文脈、そして「Raining」の中の自己描写で「赤毛」という言葉を用いていることから Cocco自身を象徴していることは間違いないだろう。
 絵本はCoccoを語る上で必須のキーワードが散りばめられた内容である。
 書き出しは「珊瑚と花と」の歌い出しとほぼ同一である。この曲は彼女にとって「始まり」を意味する重要な要素として定位置にあるよう だ。
 島にはがじゅまるの木が生えている。「がじゅまるの樹」という歌が一枚目のアルバムにあるが、そこでは家族が姿を消した衝撃を抑えつ けるためにがじゅまるの木に縛り付けてほしいという鎮静剤としての役割を担っている。
 沖縄に成育するがじゅまるがCoccoの中でマイナスの意味合いを帯びることはないだろう。これは一貫して念頭においておくべきこと で、同じことは珊瑚礁にも言える。雨もまた、「やわらかな」「やさしい」という形容詞を付していることからもわかるようにプラスの意味を帯びる。彼女自身 インタビューで傘もあまりささないほど雨は好きだと言っている。
 絵本の中で嵐の前、満天の星空の中に描かれた絵はこれまでCoccoを聴いてきた者にとっては馴染み深いものばかりである。象は言う までもなくピンクの象から取られたものであり、他の動物はそこから派生したものだろう。バラのは彼女の好きな花であるし、絵本製作中に歌が次々と浮かんだ と語っている彼女にとって音符も過去のものではなく現在でも愛するものである。
 しかし、ここで異質なものが入り込んでいる。工事用車両や自動車、プロペラ機、そして電話である。電話に至っては彼女は部屋に電話を 置いていなかったし、ベスト盤に収録された「幸わせの小道」ではマイナスの意味を付せられている。この謎は残したままにしておく。
 嵐の後、星が海へ落ちたために南の海は「真っ暗な闇の世界」になる。太陽が昇ろうとする。星は島に打ち上げられる。そして語り手はそ の島を「美しい」と称する。星はやがて舞い上がり再び島を照らす。
 絵本は沖縄を語っているのだろうか。なるほど素材の中心にある「南の島」はCoccoの故郷である沖縄には違いない。しかしメタ ファーとしてすら現実の沖縄は描かれていないと私は考える。ぼくは「沖縄」に縛られすぎたようだ。
 なぜCoccoが「沖縄を飛び出せという匂い(インタビューより)」を感じてしまったのかと言えば、沖縄だからというよりは生まれた 場所だからと答える方が正確である。自分の生まれた場所を愛することは間接的に自己を愛することである。だから出生地である沖縄は彼女自身と思い切って 言ってもそれは間違っていない。
 まぶしすぎた沖縄から逃げたのは土地と癒着した自身の姿からの逃避であったと考えることもできる。ここのところの事情はわからない し、あるいは「故郷は遠きに在りて思ふもの」ということなのかもしれない。歌の世界から引退し沖縄でライヴを行い沖縄限定でCDを出したことは「私の中で /やっと境界線がなくなりました」と「愛する沖縄様」で語られたように過去の自分との仲直り、過去の自分も自分であると認識することに成功した証拠であ る。
 したがって絵本の中の「南の島」もCocco自身として読んでもいいだろう。むしろいまや「南の島」こそが彼女の過去も現在も包含し た最も等身大の彼女自身を象徴している。人魚はそれを見つめるもう一人の自分に過ぎない。そして夜空は彼女の内面世界である。
 そこに浮かぶ星々は過去と現在の様々な自分自身の象徴である。決して好きではないもの、過去の自分を象徴するものをもCoccoがそ こに描いたことは注目に値する。それらを内面に一度認める必要が実はあるのだ。
 夜空の外部からやってくる嵐によって心の中が「真っ暗な闇の世界」になっても星は島に集まり再び島を照らすべく夜空に舞い上がる。そ の過程で太陽が登場するが、昼間の場面はとうとう描かれない。つまり、嵐と同じように夜空の外部からやってくる太陽は「真っ暗な闇の世界」を「真っ白な昼 の世界」にすることができてもやがては沈み、もとの「真っ暗な闇の世界」に戻してしまうことをCoccoはとっくに知っているのである。
 例えば悲しみという闇を払うために自分の外へ何か楽しそうなものを探しに行っても結局それが通過してしまえば再び悲しみに支配され る。待っていれば太陽はいつか必ず現れるかもしれない。けれど太陽は結局悲しみを一時的に見えなくしてくれることしかできないのだ。
 自分を最後に照らすものは何か――自分自身でしかない、ということだ。より明るく照らすためにはなるべく多くの星を空に浮かべなけれ ばならない。そのためにも自分自身の汚いところも認めて夜空に星として浮かべなければならない。「心に太陽を持て」ならぬ「心に星を持て」――これが彼女 のメッセージではないだろうか。
 その後、沖縄でのCoccoの活動はご存知の方も多いが、砂浜のごみを無くそうと訴え続けている。故郷を愛すればこそ、己を愛すれば こそ……。
02/10/20 初稿
03/11/15 改稿

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