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シンデレラになる方法

 『tokyo.sora』(2001年、石川寛監督・板谷由夏、井川 遥、仲村綾乃、高木郁乃、孫正華、本上まなみ出演)という映画をレンタルビデオで見た。あんまりおもしろかったからDVDも買ってしまった。フィルムブッ クも買ってしまった。この映画が持つ面白さについて、ちょっと書いておこうと思う。

 映画や小説を読むとき、ぼくたちは強烈な物語を求めてきたように思う。面白い映画、面白い小説というのは大抵その筋の面白さを言うのであって、たとえば 最近小説をさえ一種の「コンテンツ」として扱ってしまう見方というのはその最たるものなのだと思う。話の筋だけは表現媒体に依存せずに抽出することが可能 だからだ。小説を要約するというのはそういうことだし、面白い映画を見たことを人に伝えるときはまず話の筋を紹介するところから始まる。だから「ネタバ レ」ということが警戒される。趣味の問題と言ってしまえばそれまでだけど、ぼくはこういう種類の「面白さ」に対してはあまり反応ができない。

 『tokyo.sora』では六人の女性のエピソードが次々と展開されていくが、彼女たちの間には強いつながりは無い。それぞれのエピソードが独立して いて、登場人物はたまたま同じランジェリーパブの店員同士だったり、同じアパートに住んでいるだけであったり、電車の同じ車両にたまたま乗り合わせていた だけで あったりする。個々のエピソードは実に古典的な筋をそれぞれに持っているけれど、全篇を貫く物語の始まりも終わりも無い。じゃあ断片的な場面が脈略も無く 挿入されていくのかと言えばそうではなくて、そこに鳴り響いて いる一貫性はちゃんとあるし、もしそうでなかったら一本の映画として鑑賞することができない。そしてその一貫性というのは保坂和志の言葉をもじれば「二○ 代のせつなさやさびしさ」なの だと思う。何度も東京の空が映される。それぞれの空がたくさんのことを語りかけてくる。

 主人公がいてどたばた事件を起こして何らかの解決があるような、意味にあふれた物語 が展開されるわけではない。すべての人が主人公で、すべての人 が脇役で、すべての人がそれぞれに一生懸命に生きている。それが、実は最もリアルなのではないか。

 この映画のリアルさをさらに完全なものにしているのは脚本が無いということ。すべてリハーサル無しのアドリブで撮られている。だから人々の言葉は正確に 相手に聞き取られず、二人で違うことを言い合うために台詞は重なり、無意味な沈黙が散乱する。でも、それは映画というあちら側の制度の中では不自然であっ ても、こちら側の日常ではごく普通に頻発している現象だ。一体なにが不自然で、なにが自然で、なにがリアルなのかという従来の約束事がここで解体す る。脚本の台詞は引用符に囲われて息苦しそうだ。台詞は一つを言い終わらないと次の台詞に移ることが原則として出来ない。二人が同時に違うことを言い合う という場面 を、引用符で表すことはできない。なぜなのか? 脚本という書き言葉を経由しては決してリアルを得ることができないということを『tokyo.sora』 は見事に証明している。

 だからすごく退屈な映画だ。でもそれは、意味や物語を求めたら退屈ということであって、その退屈さを味わうための映画であると考えたい。

 ひるがえって、ぼくたちは自分の人生をどうやって眺めているのかという問題。かえって、ぼくたちの方こそ日常を物語で汚してはいないのか。ぼくたちの方 こそ、物語に依存してたとえば偉人伝を読んでは自らを鼓舞するようなことをしてはいまいか。それが悪いというのではない。ただ、それは自分の人生を生きて いることにはならないということだ。もともと生まれてきたことに意味は無いし、死んで行くことにも意味は無い。

 でも、無意味なのはやっぱり怖い。

 その恐怖が、逆にぼくたちを映画館や書店に向かわせているとしたら、こんな馬鹿げた話は無い。ぼくたちはむしろ映画や小説を読むことによって現実の無意 味さをその都度確認すべきだ。自伝を書くのは死んでからで十分だ。

 と言って、ぼくは物語に対してひどい偏見と憎悪を抱いているわけではない。本当ならば、ぼくたちがしなければならないのは常に新しい物語を書いて行くと いう途方も無くわくわくする作業。そして自分が固執する物語を間テクスト性にゆだねて常に新しい可能性に対して胸を開いておくこと。書き換えられ、塗り替 えられることを歓迎する気概。でもそれはとても難しいと思う。大変な痛みを伴う人生だと思う。

 成井豊は下手な役者ほど台詞回しに気を使うと言う。「演技しない演技」こそが本当の演技なのだと言う。物語もそう。本当の物語とは「物語ではない物語」 のはずだ。サクセスストーリーもシンデレラストーリーも、それを意識した途端に死ぬ。自分がシンデレラだと思い込んだとたん、全ての動作が嘘になる。シン デレラは自分が最後まで「シンデレラ」であることを知らない。そう思えば、少し勇気が出てくる。無意味さの真ん中で叫ぶのも悪くないように思えてくる。

 ペシミズムの憂愁でもなく、四六時中ダンスダンスダンスのネアカでもなく、無意味の真ん中で腕を振り回したい。人生に意味があるのか無いのか、そんなこ とさえ本当はどうでもいいと思う。ぼくたちに今のところできそうな一番大切なことは、無意味さの真ん中で精一杯生きること。

 その勇気を、『tokyo.sora』という映画は教えてくれる。

03/11/17 初稿
04/11/25 改稿
05/02/08 改稿

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