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時代の先端を行く「中学生日記」

 朝からこんな送信者不明のCメールがきました。以下のやり取りは実話 です。

相手 こんにちは(ハート)
私  どなたですか?
相手 ランダムにケイタイ番号おしちゃった
私  あー、そうですか…。ひまなんですねえ。
相手 男性?女性?
私  自ら身元を明らかにしない人間にそれを言う必要はありません。
相手 25才、サラリーマン、松本在住です。
私  そうですか。こちらは都内で大学生をやっているものですがオカマには興味ありません。

 ……な、なななな、なんですかこいつは!? 気持ち悪い! ――という感情は押し殺してちょっとばかしここからちょっとまじめな話を展開してみましょ う。

 同じようなシチュエーションを何年も前、まだ携帯電話が普及し始めた頃「中学生日記」で見たことがあります。学校で人間関係がうまくいかない女の子が、 夜中適当に番号を押して相手と「本音」をぶつけ合う――そんな内容でした。さっきたまたまテレビをつけたらたまたま「中学生日記」をやっていてネット自殺 やらリスカやら自殺掲示板やらてんこもりの内容で疲れました。しかも前編後編に分かれてるし……。民放ドラマでもあんな題材は扱わないですよ。さすが「中 学生日記」、あなどれません。

 ネカマ経験のあるぼくは二通目の「〜しちゃった」言葉で「ああ、絶対こいつ男だ」という予想を立て、男か女か聞いてきたところで男であることを確信しま した。だいたい、「〜しちゃった」なんてへんちきりんな語尾で話す女性なんていませんよ。現実において人間観察を怠っている証拠が見え見えです。ネカマと いうのはやるんだったら……って、そういう話じゃないですね。話が横道にそれるのを防ぐため先人の言葉を引用しましょう。

人がチャットにハマってしまうのは、どういう時か。つたない私の経験 からいくと「自分を変えたい」とおもっている時だと思う。〔中略〕変化を求める時に、人は否応なく他者を求める。逆に言えば、他者しか自分を変化に導くも のがないからだ。(田口ランディ「人はなぜチャットにハマるのか?」『できればムカつかずに生きたい』晶文社2000)

 自分の輪郭を形作るものは何か。三島にどっぷり浸かっている最近のぼくなら「それは筋肉だよ!」とか言ってしまいそうだけど、意識としてそれこそ「ぼく のかたち」を規定しているのは大半が言葉だ。言葉、言葉、言葉……すべては言葉だ。

 あなたはどんな人ですか? それにどう答えるのか。少なくとも言葉で答えなければならない。ところが――

「甘えん坊だけど好きな人には優しいの」とか「私って、わがままだけ ど、意外と頑張り屋なの」とか、よく自分で自分のことを恥ずかしげもなく言えるな。「頑張り屋」とは他人が言ってくれるセリフだろ。今はオーディションシ ステムが根付いていて、自分のことを自分で説明することが恥ずかしくない風潮があるんだろうな。(松野大介『ゼロ・ジェネレーション』太陽企画出版 1999)

 結局欲しいのは、他人から見えた自分の姿だ。自分のことをあたかも第三者が外から眺めたかのように語ることで、他者不在のままぼくたちはそれを手に入れ る。なんという詐欺行為。あるいはそのことのうすら寒さに少しでも気づいた人間は、冒頭で紹介した男のように安易にメールに手を出す、チャットに手を出 す。言葉集めだ。言葉の採集だ。そこではろくろく自分のことを知らない人間が褒めちぎってくる。それで安心なのだろうか? あの男はぼくが女のふりして 「あなたってステキね」と言ったら満足するのだろうか。恐ろしいことに、満足するのだろう。かえって面と向かって誉められると嘘に思ってしまうにちがいな い。そしてまた、携帯電話という安易な手段でさえ他者からの言葉を集めることに失敗したら、今度は自分で自分をごてごてと飾り始めるのだろう。ホームペー ジでも開設してかわいいかわいいボクワタシを演出するのだろう。

 そこにあるのは「内容」ではなく、哀れなまでに肥大した過剰な自意 識の発露だ。「俺が俺が俺が!」結構なことである。だがなんとも残念なことに、その「俺」がいったい何なのか? そこには何もない。(梶充生『個人で webサイトなんてやめておけ』SCC2003)

 言葉で飾られすぎることに慣れてしまうと、その言葉がしょせん飾りでないことをいつしか忘れてしまう。自己肥大というこの世で最も醜い事態に陥るのは時 間の問題だ。そうでなくても、このインターネットという世界はテクストにあふれている。すべてのテクストが等価であるこの世界に文学に特有の教養フェティ シズムが無いのは歓迎すべきことなのだけれど、そこで信じられるのは結局自分だけ。今ここでテクストを編み続けているこのぼくの存在が、すべてを決める。 他人がどれほど褒めちぎろうと、自分がダメだと思ったものはダメだ。他人がどれほどけなそうと、自分がいいと思ったものはいいのだ。その価値観は、自分に とってという条件の中でこの世の唯一の真実なのだ。それを閉鎖的と言われようがなんといわれようが、ぼくたちはもう、そうすることしかできない。

村上 「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながる はずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文 庫

 かつて高村光太郎は「言葉を洗おう」と言った。彼は文語に逃げないことをその言葉で使ったのだ。詩を書くのに文語を使うことでいくぶん文学臭が吹き込ま れる、その欺瞞を彼は拒否したのだ。それと似たような覚悟をぼくたちは感じ始めている。

03/12/20 初稿
04/11/26 改稿

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