小林秀雄全集第一巻を読みました。

小林が繰り返しているのは結局のところ、〇〇主義といったレッテル貼りをして作品を色眼鏡でみるのをやめろ、ということでしかないんですよね。新人の作品たちも別に文壇で派閥争いのゲームをやっているわけでは決していないのです。デビュー作の「様々なる意匠」の「意匠」という語も、言っているのはレッテルということです。今のアカデミックな形式からしたらとても論文とは言えないものですが、小林の原動力となっている怒りのパワーはいつもどこかひょうきんでいて、大真面目。

どうでもいいけど、ランボオの詩はあまりに若々しいので(「老成した」という形容詞が似つかわしいくらいの若々しさ)日本語ラップ調で脳内再生するとめちゃくちゃカッコイイ(気がする)。

菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』を読みました。

大学卒業間際の自己の迷妄期にひたすらよく読んでいた本の一冊。ということで何回も読んでそのたびに違うところに線が引いてあったり、よくわからん書き込みやら図解やらがあって、当時の必死さがよく伝わってきたりします。

そういう本は当時何冊かあって、しかしその問題意識は全く解決されていないのですが、年を取ると全く振り返ることもなくなってしまう。自分なんてしょせん自分だろ、みたいな諦念に至ってしまう。ちょうど、「四月は君の嘘」の「君はどうせ君だよ」という老成したセリフのように。

いま、作者のwikipediaを覗いてみたら、2016年に病没されていました。一般読者に寄り添ったところがとても良い書き手だと思っていたので、今更のようですが非常に残念です。ご冥福をお祈りします。

本書は19世紀のユダヤ人思想家ジンメルの著作をベースにしながらも、作者の個人的な動機(それもふくめて本書ではかなり具体的に描かれているのがとても良い)を出発点にして、現代に生きる僕らの人間関係や自己実現に焦点を当てて論が展開されていきます。

平野某氏の分人主義(なんだ、主義って?)のような強者の割り切った人生態度も、人類補完計画の忘我の気持ちよさも、いずれも独りよがりのものだと批判しつつ(比喩です)僕らはどう生きていくべきか? 弱い自分を自覚しながら大人の距離感を他人と取り(他人も同じ人間であることを尊重し)、新しいテクノロジーに対しては目的を明確にして利用すべく変容を促していく(その強力な手段としてのお金)態度……みたいなのが、目指すべき現代人の生き様なんでしょうか。

社会はスタティックな「構造」なんかではなく、自分自身もまた結節点として機能していく動的なものと捉えることは、心がけ次第と言えばそうかも知れませんがすこしだけ生きる勇気が出てくる、そんな本です。

荻野文子『マドンナ古文常識217』を読みました。

正月に実家に帰るとついつい手に取ってしまう受験参考書の残骸。これは確か割と多くの同級生がマドンナシリーズで勉強をしていて、装丁も含めていいなあと思っていたものの、結局大学に入って国文学に進学が決まったあとに思い出したように改めて買い求めてなんとなく読み返したりして今に至る…みたいな感じです。

伊藤和夫も含めて、受験生の時にやりきれなかった(やりきったから合格したわけではないので)いろんな勉強も、オッサンになった今頃になると、決して懐かしさだけではないのですが、もう一度やり直したくなります。目的的ではなく、純粋に学ぶ対象として英語や古文をもう一度位置づけたいというか。別にTOEICの点数を上げるために英文法を学ぶのではなく、その参考書の言語に対する解像度の高さに驚嘆することそのものが、学ぶことの楽しさだったりもしますからね。

本書も、受験に役立つかどうかに特化されていますが、大河ドラマを見ている子供にあれこれ聞かれた時に「モノシリお父さん」を演じるのに最適…だけではなく、やはり荻野先生の語り口が最大の魅力で、あっという間に読み終えられるし、またもう一度読み返したくなります。

日経文庫『会計用語辞典』を読みました。

2006年出版で、それ以降改訂版が出ているわけでもないためもうなんか単なる懐古趣味でしかないのですが、入社して最初に配属された部で、よくこの本を机の上に置いてこそこそと勉強していたものです。しかしこの手の参考書は分厚い専門書はあっても、ハンディーな新書版で使える用語集って今でも本屋に行ってもなかなかないものです。当時は会計ビッグバンだとかIFRSの導入にいよいよ日本も……みたいな時代で、いろいろと騒がしかったものです。いまの若い人たちはIFRSがもはや当たり前になってしまっていると思うと、財務三表とかってどうやって勉強しているんでしょうか?? もはや勉強しないのかな……。

なんかしょうもないエントリーで2024年が終わってしまいそうですが、来年はもう少し読了記録もちゃんとつけようかなどと考えたりしています。長くは続かないかもしれないですが、一応このサーバーを借りている料金も年々値上がりしているのでちゃんと活用しなければなあ、と思ったりしている次第です。

小説は、しばらくは書く方に専念して、もはや過去作の掘り起こしも枯渇してしまったのでキンドルでのリリースはしばらくないと思います。その間にでも11作のかわいい子供たちが毎月ほんの少しだけでも読まれているのは励みになります。本当にありがとうございます。

暗いニュースばかりが続き生活も買い物行くたびにストレスがたまるご時世ですが、2025年はそんな中でも、一つでも何か前に進むことができればと思います。みなさまにおかれましても。

霜栄『現代文[小説]読み解き講座』を読みました。

待望の霜栄氏による小説講座。共通テスト対応と銘打っていますが、ここに収められた小説の霜先生なりの「読み」を堪能できます。

出典は太宗が実際のセンター試験そのものをもって来ているものもありますが、ただ全部がそうではなくておそらく村上春樹がセンター試験に使われるわけがありませんし、芥川の「おぎん」、川端の掌の小説も短いので試験に使いやすいのですが「ざくろ」は出ていないはず……ということで、オリジナルの問題か駿台の模試かなにかで使われたものなのかわかりませんが、一部そういうものも入っているような感じがします。

なによりも楽しいのは、問題文を読んだ時にわざわざ言語化せずに読み飛ばしていってしまう「なぜ?」を、問題解説としてしっかりと丁寧に解きほぐしてくれていること。特に三島の「剣」の解説は、本文さえ読めばなんとなくわかりそうなところを、「なんとなく」ではなく、解像度ばっちりくっきりに理解を促してくれるすばらしいものです。

この、「なんとなく」をしっかり言語化したうえで再読すると小説というのは何回でも味わえる、そしてそれでもなお汲み尽くせないものがあるものこそ名作だと気づかせてくれます。それは、霜先生がもうぼくが学生のころから繰り返しおっしゃっていたことです。

図式化すると小説を矮小化してしまうのではないかととらえる人も中にはいるかもしれませんが、図式化できるものなんてほんの一握りの部分です。そして、実は小説の作者は「図式化」を気づかせないように読者を導くことのプロフェッショナルですから、そこをあえて「図式化」することで作者の視点に遡及して一歩近づくことができて、ぼくのように実作もやっている人間としては「ここまで考えて書かれているのか……!」というユリイカが本当に気持ちよかったりもします。

ラインナップも素晴らしいです。鷗外や漱石といったいわゆる明治の文豪から、太宰・三島といった昭和のスターを経て、ハルキ・ばななといった現代のベテラン作家、そして江國、ラストに津村記久子を配するバランの良さも良いですね。本文も短編小説であれば全文収録のものもありますし、長編の一部の抜粋もそれだけでも十分に味わい深い箇所が選ばれています(そこはセンター試験の作問者の腕なんでしょうが)。

蛇足ですが、江國香織はぼくが学生時代に新進作家として結構流行っていて「デューク」所収の文庫本をぼくも読んでいました。そこにまさに自分が受けたセンター試験(2001年)の「国語Ⅰ」の方で出題されていたのでよく覚えています。試験の冊子をぱっと開いた最初のところに見覚えのある冒頭文が目に飛び込んできて「あっ!」と喜び勇んだのですが、しかしぼくが解かなければならなかったのは「国語Ⅱ」の方なので(こちらも津島祐子の小説だったので太宰好きの自分としてはこれも「おっ!」と思ったものでした)、問題を解くことができなかったのが惜しいと思った最初で最後の出来事ではあったのですが。まあそんなことなどもオッサンが思い出すのにちょうどよい参考書です。

歯の詰め物を取り替えました

昨日の夜ご飯を食べていたら、ガリっと固いものを嚙んだ感じがしてなんだろうと思ったら小学生の時に虫歯を詰めた詰め物が、30年の時を経て取れていました。取れた跡を鏡で見てみると真っ黒。詰め物の下で何年もに渡って虫歯が成長したのだろうか? しかしなんにも痛みは感じない。

それで今日は近所の歯医者を予約して見てもらいに行ってきましたが、やはり虫歯になっているということで、これを新たに削って詰めなおしてもらいました。いまはレジンの詰め物で、光を当てると固くなるやつですね。しかも色が白いので跡がまったくわからない。さすがにぼくが小学生の時はこういうものはなかったわけですね。1時間くらいで施術は終わり、もうこれで帰ってよろしいということになりました。即時、まったく問題なく生活が再開できていて歯医者ってすごいな・・・と思った三連休初日でした。

「本日の、吉本ばなな。」を読みました。

おそらくは新潮社から当時刊行されてた自選選集のプロモーションの一環として編まれたムック。インタビューと、「ちんぬくじゅうしい」という短編(これはなんかの作品集に再録されていたはず)、加藤典洋による解説と、あとこれがものすごく平成っぽいのだが波照間島に新潮社の企画で旅行して書かれた旅行記というか日記が収録されています。なんとなく会社の金で南の島に行って雑誌一丁上がりっという楽天的な感じが時代がかっていてすごくいい。いま同じことをさすがの有名人がやっても誰も読まないでしょう。

巻頭インタビューが改めて良い。世の中に暗い話は現実にいくらでもあるのにそれをわざわざ小説に書く意味はない、疲れて家に帰ってきた勤め人が明日ももう少しだけがんばろうと思えるような物語──それを敢えて「癒し」というマーケティング的なレッテル張りをするのは本屋だけにしておいてほしいが──それを目指すのだという宣言は素晴らしい。加藤典洋の解説もなんかちゃんと読める。難しくない。素直に読める。

表紙は懐かしの初代iMacですね。あの頃はまだモノというか、プロダクトの斬新さがもてはやされ得る最後の時代or時代の最後だったように思います。今やスマホの新機種が出ても、目に見える新機能はアプリの方であって、モノそのものにはあまり新規性はないので。そういうのも含めてなんだか懐かしい一冊。

ボールペン1本目

ラミーサファリ。金属なのでどこまでインクが減ったのかわからないのが使っていて怖い。が、無くなった。金属の方が板厚が薄くてインクがたくさん入るんだよね。スペアがあと一本あるのでまた半年くらいは同じボールペン(外側)で仕事アンド創作!

「椎名麟三集」筑摩日本文学全集56を読みました。

そのむかし、「深夜の酒宴」を読まなければならないことがあってさすがに講談社学芸文庫には手が出なかったため古本屋で買い求めた500円の端本。むかしはこういう文学全集の〇〇集みたいなのが安くたくさん売っていて、学生の身分には助かった覚えがあります。もちろん長編作家は読めないのですが。

さて、あらためてこの作品集を読み返すと、むしろ「深夜の酒宴」一つがあまりにも暗すぎて、文学史的には「第一次戦後派」(そもそも第一次というからには第二次がいるのですが、これっていつだれが命名したんですかね)とレッテル張りをするのにちょうどよい作品ではあるし、別にこれが優れていないと言うつもりもぜんぜんないのですが、やはり椎名の作品で面白いのは「美しい女」「神の道化師」のようなそこはかとないユーモアを根底にひそめながらも貧困という悲惨な状況下でも(単にもうかるから仕事を選ぶのではなくて)自分のやりたいことを大切にしていく主人公たちの生きざまなんですよね。

それを「実存」なんて言葉であえていうのだろうか? むしろ初期村上春樹的な健康的な軽さ、明るさもそこにはあるんですよね。「美しい女」の主人公はとにかく電車を運転するのが好きなんですよね。そこにべつに理由もないし、結婚したからと言ってそれが変わるわけではないし、共産主義者になったからと言ってそれが変わるわけでもない。思想が胃痙攣に無力であったように、もっとなにか自分という肉体にぴったりと寄り添った「嗜好」のようなものを押し通していくありさまがある意味では潔いし、ある意味ではその理由の無さからあくまで文章の中では異様な行動様式に映るのかもしれません。それとカミュの主人公との間にどれほどの懸隔があるのかわかりませんが、個人的には全然違うんじゃないの? という気もしますね。

椎名麟三はまだまだ現代的なテーマを持った作家として生き続けていると思います。

『五等分の花嫁』について

『五等分の花嫁』についてずっと考えていた。そもそもが水瀬いのりが好きで見始めたものだったのだけれど、五人の声優さんのキャラがいちいち合うようにキャスティングされているのかどうかわかりませんが、イベントの動画を見ていても声とキャラクターにこれほど違和感のない作品も稀有だなあと……まあ、それはそれとして。

結局、この作品の大きなテーマの一つは「選ぶことの残酷さ」なのでしょう。そもそも同級生の五つ子の家庭教師になって五つ子がみんなそいつを好きになってしまう……なんて設定自体のある種のいかがわしさは見る方からすればもう織り込み済みのフォーマットなんですよね。それは古典的な恋愛ゲームをなぞりつつも、見る方からすれば五つ子の中の誰かが最後は選ばれることはわかっている、しかし五つ子であるが故に顔だけ見ても誰なのかがわからない、という初期設定の在り方は、たとえばテレビアニメには恋愛ゲームを移植した傑作も数々あるわけですが、「複数のゲームシナリオ」を同時に成り立たせるための設定としては結果として非常に優れていると思えます。つまり、ゲームでは互いに排他的になるストーリーが、『五等分の花嫁』の場合は最後まで一つのシナリオをあらゆる角度から見た「見方の違い」で処理できてしまう、そこがとんでもなくすごい。「五つ子」という設定をこれでもかというくらいにうまく使っていると思います。

もちろん風太郎との出会いは小学校の修学旅行にまでさかのぼるわけですが、五つ子の物語も実は同じ起源を持っているということは少しずつ明かされていきます。これはむしろ五つ子の、なかんずく四葉の物語に最後は収れんされていくわけですね。五つ子からはみ出したいと思ってリボンをつけ始め、自分だけ落第してから姉妹も転校についてきてくれたところからの四葉の葛藤はそれそのものが彼女の人生、成長に重ね合わさってくるわけです。でもそれは高校生の風太郎は全く知らない。もしかしたら五つ子を見分けることのできなかった小学生の風太郎がようやく五つ子を見分けることができるようになった時に、彼女を最終的に選んだのもそのあたりに理由があるんでしょうね。そしてそれもまたお互いの「選択」を積み重ねた結果でもあるわけです。

四葉を選べば他の四人とのエンディングは無くなるわけですが、しかしこの映画の中ではある意味でそれぞれがきちんと落とし前をつけてくれています。夢落ちで見なく、単なる妄想落ちでもなく(東京大学物語のような……)、きちんと物語が無理なくリニアに進んでいるということに安心しますし、「謎解き」もこの物語を楽しむための大きな要素でもあります(最後に詰め込み過ぎている気もしますが…三期くらい使ってじっくりやってほしかったなあ)。ただいずれにしても設定のある種の「ありえなさ」よりも、五つ子それぞれを「推し」ながら王道ラブコメが展開する感情のジェットコースターに身を任せていると、ほんとうに忘れていたいろいろなことを思い出させてくれる、とても良い作品です。