小川洋子『密やかな結晶』を読みました。

講談社文庫で400ページのちょっとした長編ですが、読みやすく長さを全く感じさせない作品でした。小川洋子は一貫して(と言うと言いすぎかもしれませんが)記憶をテーマにした作品を書き続けています。1994年に単行本が刊行された作品なのでキャリアの中で最初期です。だからなのか、長編としての密度は正直言うとあまりなく(読みやすさとは別の話として)、エピソードは重ねられるもののいまいち話についていけない部分もややありました。

まずそもそも主人公の小説家と編集者のR氏のひかれあう根拠がいまいちつかめない。R氏に至っては奥さんもいるうえに、子供が産まれるタイミング。それなのに担当している若い女の小説家の家にかくまってもらうっていうことへの葛藤もないし、なんとなく主人公に対するボディータッチも激しいし、なんだこの男? という感触。主人公側にしても奥さんに対して、R氏の無事を定期的に報告するのだけど、「こんな私にかくまわれて奥さんは私たちのことを疑ったりしないのだろうか?」という葛藤もない。そのあたりが、そういう物語だから、と言われてしまえばそうなのかもしれないけれど、たとえばこの編集者が家庭よりも小説を編集することに偏執狂的な人物であるとか、主人公側も実は密かに思いを寄せていてこのチャンスに不倫をはたらいてやろうと思っていた……みたいな奥行きがあればもっとも面白かったのではないか。

作品内世界をさらに舞台上の舞台のようにして、主人公が書く小説も挿入されるのですがやや屋上屋を重ねるような感じがします。そもそも作品内世界が現実ではありえない世界になっているので。だから、たとえば「声」をもっと前面にテーマとして出していくとか(想起させるのは、『はちみつとクローバー』で真山がつぶやく「声っていつまで覚えていられるんだろう」という、あれは何気ない一言のようでいてとんでもない決意を秘めたセリフなんだと思う)、あるいは母親の託した彫刻にもっとミステリー的な要素を込めておくとか、そういう書かれ方もこの小説はありえたのではないか。

そんな感想です。

惣領冬実『チェーザレ』第13巻を読みました。

何度でも言おう、コンクラーベは根くらべ……。

12巻まで読んで、新刊がなかなか出ないのですっかり忘れていたのですがおよそ1年前に13巻で完結していました。あとがきの監修者解説によるとボルジアを選出した際のコンクラーベの詳細は資料を基にしても「藪の中」のようなのですが、これをクライマックスに持っていくのだとしてもひとつの仮説として「根競べ」の様子がよく漫画で表現されているのではないでしょうか(細かいことはぼくもよくわかりませんが……)。

『成井豊のワークショップ 感情解放のためのレッスン』を読みました。

キャラメルボックスは、ぼくが高校生の時によくMXTVで公演の放送をやっていて(たしかキャラメルボックスTVという番組でした)、その後の出演者のトークも含めてよく見ていました。大学に入って劇団やっている人たちがよく「キャラボが~」とか言っているのを聞いて、ようやく「あっ、けっこう有名な劇団だったんだ」というのに気が付くというのがぼくの貧しいながらの思い出だったりします。コロナの後、活動休止となったときはびっくりしたものでしたがその後活動再開されたようですね。

本書はもう何回読み返したかわからないのですが、もちろんぼくが役者になりたいということではなくて、特に大学に入ったときや会社に入ったとき、なんにも知らない人間関係の中に入っていくときの心得的なものとしてこれにすがっていたところがあります。

結局のところ、人間関係があるところは舞台と言っていいのだと思っています。友達と遊ぶのだって、会社で会議の司会をやるのだって、結局はキャラを生きることになる。けれど、それを最も前向きにとらえていくとしたら、やはりこの本で紹介されているメソッドによる感情解放が大切になってくるのだと思います。曰く、演技しない演技。

それはキャラを即席で作るということではない。一回だけの邂逅だったらそれは機能するかもしれない。でも、ぼくたちは学校だって会社だって、生活のほとんどの時間をそこで過ごすわけなので、四六時中自分とは違うキャラを演じ続ける(そういう自分を自分で監視し続ける)のは不可能。

その時、本書で言う「ニュートラルな自分」をしっかりと軸に据えて変身を華麗にしていく、その軽やかさこそがぼくのような人間嫌いがある役割を負った社会人としてやっていく上では必要なことなのだと考えていました。その意味で、役者志望でなくとも、よりよく生きるという意味においてもあらゆる人に通用する成井さんの考え方なのだと信じています。

堀江敏幸『彼女のいる背表紙』を読みました。

まさかのマガハ。というのも、婦人雑誌(という言い方が良いのかわからないのですが)「クロワッサン」に連載されていた一種のテーマ書評をまとめたものなのです。

よく夏目漱石の作品がそもそも朝日新聞の連載小説だったということを受けて明治の新聞読者の教養の高さみたいなことに驚いて見せる風潮がありましたが、本書もどんなかたちで雑誌の紙面を飾っていたのか非常に気になるところ。

女性誌ということもあって様々な小説に出てくる創作上の女性を経巡る、というのがテーマになっています。といってもそれこそ『虞美人草』の藤尾級の重要人物は現れず、あくまでも著者のこれまでの読書体験に基づくものなので、ある意味で非常に偏ったマニアックさがおもしろい。はっきり言ってクロワッサン読者のみならず一般的な読書人でもほとんど触れたことのない作品ばかりが次から次へと出てきますが、堀江敏幸の筆になると飽き飽きすることは全くなく、その未知なる作品の一つ一つに読んでいるこちらが触れてみたくなるような仕掛けに満ちています。

日本の作品も所々出てきますが、葛原妙子、網野菊、佐多稲子あたりはまだよいとしてもそれ以外の人々はおそらく大文字の文学史に埋もれていってしまいがちな陰の立役者たちばかりで、(国文学を専攻していたぼくですら、というとバカがばれてしまうのですが)著作もなかなか目にする機会がありません。アマゾンで検索しても青空文庫すら引っかからず、それこそブックオフではなく「古書店」を探訪しないと謦咳に接することも難しい。ましてや著者の得意とするフランス文学となるとお手上げです(パヴェーゼのすばらしさはあらためて確認できましたが)。

繰り返しになりますが、それでも、彼女たちの魅力は十分に伝わってくるのです。単なる書評ではない、しかし堀江敏幸の書評というのは必ず読者を次の、新しい読書体験にいざなってくれる力を持っているのは間違いないのでここでとどまってもよいし、長い人生の中でどこかでぼく自身も邂逅するときを楽しみにしながら一冊でも邦訳を探し求める旅に出るのもまた、「読書人」の豊かな楽しみであったりするのです。

堀江敏幸『未見坂』を読みました。

※もう書影は自分で写真を撮って自前でアップロードすることにします。もう外部サービスのポリシー変更に左右されるのはこりごりです(そもそもアフィリエイトが目的ではないので)。

『未見坂』は……なんと言いますか、この著者にしては珍しくハートウォーミングな短編集というか、装丁含めいかにも新潮社の現代小説ですッという匂いがぷんぷんする一冊でした。雪沼もの(雪沼もほんのちょっとだけ出てきて、その世界と地続きになっていることが示唆されていますが)の焼き直しという感じで、未見坂を含めたその田舎の地域に住む老若男女の人間関係とエピソードがゆるくつながりながら展開される連作集です。初出の発表媒体も複数に渡っており、発表順も必ずしも目次の通りの時系列でないことから、どこまで見通しながら作品が書かれたのかは想像するしかありません。

しかし登場人物のあまりのバランスの良さ(本当に老若男女がほぼ同じ割合で出てきます)、めちゃくちゃな悪人が出てこない点、そして時代の流れに前の世代たちが流されていくその「どうしようもなさ」の種明かしのやりかたとか、ちょっと優等生の書いた小説っぽさが出過ぎていて楽しめない。むしろ保坂和志の『残響』みたいにして、無理にエピソードをつなげる必要もなかったんじゃないか、という気もしてきます。なんというか、「こんなところでつながっていたんですよ~!」という種明かしをひたすら読まされているだけで途中からしんどくなった。それはたぶん背景にある田舎の人間関係の濃密さというか、社員旅行のくだりとか、そんなこと噂し合うなんてことがいくら田舎だからって本当にあんのかよ……という息苦しさにかなりついていけなくなる。

連作集という宿命の中で、人間関係にその「つながり」を依存するとこういう絵にかいたような田舎町の人情ものにしかならないのだろうか? ぼくにとっては純粋にテクニカルな興味を引き起こさせる小説でした。

堀江敏幸『魔法の石板 ジョルジュ・ぺロスの方へ』を読みました。

オシャンティーな博士論文……とでも言ったらいいんでしょうか。作者=堀江敏幸はまえがきとあとがきにだけすこし素顔を見せてくれるのですが、内容としてはジョルジュ・ぺロスというこれまた邦訳のまったくない作家の作品と生涯をめぐる割と硬質な書きぶりとなっています。

表紙を開けたところに、彼が生涯のほとんどを過ごしたフランスの港町、ブルターニュ地方のドゥアルヌネの地図が、さりげなく薄いインクで印刷されているところがにくい装丁。タイトルとなっている「魔法の石板」というのは、ぺロスが喉頭がんを手術して声を失った時に筆談で用いていた学童用の文字練習帳のようなもの(おそらく、粘着性の白いセロハンの上から筆圧をかけたところだけ下うつりして文字が見えるようになるもので、セロハンをはがしてもう一度台紙の上に浮かせると白紙の状態に戻る、日本で生まれ育ったぼくも子供のころ遊びで使っていたようなものだと思われます)。

二度目の手術の後すぐにぺロスは亡くなってしまうのですが、その残された数少ない著作の箴言集のようなものが死後、注目を集めるようになった……ということのようです。

こういう人もいた、こういう生き方もあった。いつも背景には漁師町の風光明媚な(なんかZARDのPVにでも出てきそうな……というのはぼくの勝手な妄想なのですが)風が常に吹いているような感じも伝わってくるのですが、決して経済的には恵まれていなくとも、あるいはその早い死を本人がどこまでどのように受け止めていたのかはもはやわからないのですが、それでも自らの思索をみずからのスピードをしっかりと守って成し遂げた一人の男の記録として耳を傾けるべきものがありました。

この正月休みは再読レースも保坂和志から堀江敏幸に移ろいつつ、この二人の著作は本当に読んでいて飽きないなあとあらためて噛みしめているところです。

ダイソーの恐竜その2

銀座のダイソーに行ったら近所では品切れになっていたステゴとトリケラなどもしっかり売っていたので、冬休みの手慰み用に年末買ってきました。

ちなみに写真の最後のシーラカンスは恐竜シリーズではないのですが、なんだか欲しくなって買ってしまいました。しかし見た目では一番簡単そうに見えるのですが、特に尾っぽの処理などが非常に難しく・・・というか、説明書が分かりづらく、最も難易度が高かったのです。

いちおうこのシリーズは小さい部品が多いので12歳以上と銘打ってあるのですが、9歳の子供にやらせてみたらやっぱり完成図通りにはできませんでした。

そんな年末年始。

恐竜そろった

会社の帰りにふと、銀座のダイソーならあるのでは・・・? と思って行ったらやっぱりあった。トリケラトプスとステゴサウルスと、ついでにスピノサウルス。これでほぼコンプリートです。また組み立てたらアップロードします。

しかしあんな一等地に百円均一があるって異常だよな・・・。外国人旅行客の家族連れが一階のユニクロで防寒した後、ダイソーの駄菓子に子供が狂喜しているパターンが見受けられました。あとユニクロが壁面広告で世界平和を訴えているのが本当に平和でびっくりした。

【11冊目】Kindle Direct Publishingをやってみた

椎名要『バイバイ蛇女again』

年度内に間に合わせるとか言っていたのが結局は年内に間に合いました。11冊目まで来ました。

今回は短編集です。お蔵入りになっていた作品もずいぶんと書き直しをしまして、冒頭の「ヤコブソンの部屋」だけは新作として書きおろしていますが(当初はこれが長くなれば単独で、と思っていたのですが意外と小規模にまとまってしまったので)、全部で9つの作品が入っています。

あまり自分としては意図していなかったのですが、集めてみれば結構男女にまつわる話がほとんどだったので、そういうくくりでの短編集と銘打ちました。若いころよく書いていた「饒舌体」は、今ではもうあまり復元できないような雰囲気もありますが、それもふくめて楽しんでいただければと思います。