マルタン・デュ・ガール『チボー家のジャック』を読みました。

これはもともと高野文子『黄色い本』にあまりに感動してしまい、その流れで『チボー家の人々』を自分も読んでみたいと思いつつしかし忙しい社会人生活のさなかにあれだけの長編に手を出すのはちょっと勇気がいるな……という当時のぼくのような人間にうってつけの『チボー家の人々』ダイジェスト版です。

しかし、これは別に『黄色い本』に便乗したマーケティングの産物では決してなく、もともとの作者デュ・ガール氏が年少の読者にももっと普及してほしいという思いを込め、チボー家の次男ジャックに関係する部分だけを、彼を主人公のようにしてエピソードをつなぎ合わせて適宜加筆した再編集版ということが訳者あとがきからわかります(その意味では十分に「マーケティング」的と言えばそうなのかもしれないのですが)。しかも、本編ではジャックの死まではもう少しエピソードがあるようなのですが、この『チボー家のジャック』だけを読んでも、そのラストシーンはひとつの効果を生んでいるように思えます。

物語は、少年ジャックの家出から始まり、そこから感化院での生活、兄に引き戻されての受験勉強、避暑地での恋愛、そしてまたスイスへの逃亡、そして最後は第一次世界大戦の勃発に前後して学生運動にのめりこんでいく──というあらすじですが、これでもかなりのボリュームがあります。正直、最初の家出のエピソードの語りのスピード感(というか、ある種の語り手の丁寧さ)であとどれだけの物語が展開されるのだろうかと不安になりはしたのですが、そこはさすがのデュ・ガール氏。この家出のエピソードは全編に置いてジャックの放浪癖だとか人間関係において一つの象徴でもあるため、かなり丁寧な描写になっていて、その後はかなりテンポよく物語が進んでいきます。

訳語がかなり古い(あるいは今ではあまり注釈を入れるまでもないところに注釈が入っていたり)点はありますが、それはあくまで「単語」の問題で、読みやすさの点においては山内氏の翻訳は50年前とは思えないほどみずみずしいです。しっかりと情景が浮かんでくる訳出がジャックと一緒に旅に出ている気持ちにもさせてくれるすばらしい一冊。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読みました。

いくつかのバージョンで映像化もされているので、この小説の設定そのものを明かしてもネタバレとまでは言われないでしょう。ただ、やはりそれを聞いただけでも重苦しい小説であること、かなりの覚悟を読む者に強いる小説であることは間違いない。ここに出てくる子供たちは、臓器提供という目的のためだけにクローンとして造られた存在、いわば家畜としての人間を描くというもの。その設定は物語のかなり早い段階で明かされますが、しかし後半で次第に明らかになってくるヘールシャムという場所の位置づけがむしろ、この物語を非常に人類史上的なレベルにまで高めているというか、単に設定の「面白さ」だけではなくてもしかしたらあったかもしれない人間たちの歴史のそうあってほしい一つの姿であることを必死にとらえている筆致がとにかく小説としてのパースペクティブを広げ、高めているのは間違いありません。もうそれは、読んでもらうしかない。

もちろん救いは全くない。でも、「子供時代」という思い出を共有するという、べつにクローンだろうがなんだろうが、その幸福の稀有さというのは変わらずあるのでしょう。その背後にある、子供たちに普通に遊んでいてほしい、衣食住の憂いなく好きなことをやって、遊んで、あの頃は楽しかったねと言い合える仲間を持てるということ──それが、繰り返しになりますがクローン人間であるかどうかにかかわらず、被投性を運命づけられたいつかは死すべき存在である人間にとって生きる/(それでも)生き続ける理由の重要な根拠となりえるのだということを、この小説のラストシーンは教えてくれます。

ところでヘールシャムというのはイギリスに実在する地名のようです。寄宿舎が描かれる田舎町の様子は同様のようです。同様に小説の中で重要な位置を占めるノーフォークも観光地として有名ですが(軍港のイメージもありますがそれはアメリカのノーフォークの方)、ここに出てくるような荒野というか荒地のイメージがイギリスの人にはあるのでしょうか? そのあたりがなかなか想像できないのが異国にいる読者としてはなかなか歯がゆいところでもあるのですが、これはまた他日検索でもしてみたいと思います。

しかし予告編見るだけで泣けてくる。日本でもテレビドラマ、また蜷川幸雄により舞台化もされています。

ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読みました。

結局のところ、フィジカルな「家」の物語なんだと思います。それを通じてある一族の盛衰が語られるのですが、それは付随的なもので、やはり家が大きくなり、虫に食われ、金を隠されたと思えばひっくり返され、埋め戻され掃除され整理され、また次世代が住まう場所として再生していく。

けっして永劫回帰というか、よく言われるように同じ名前の人間がたくさん出てくるからと言って「反復」を良しとしているわけではないと思います。やはり中心にあるのはアウレリャノ大佐の放浪癖と人を引き付ける魅力、そしてウルスラの肝っ玉母ちゃん的な土に根差した母性。それらがあの世へ旅立ってしまうと、あとは結構小物キャラがうごめいているだけにも見えてしまう。でも、繰り返し出てくる「孤独」という言葉。百年の「孤独」とはなんなのか? 愛をめぐる、愛を求めるその様なのか。一族の中でいとこ同士や年齢差を越えても激しく愛し合い、そしてトリックスターとして何人も登場してくる遊女たち。しかし注目すべきはそこに優劣が無いということ。封建的な「家」制度ではなく、遊女たちによってこの「家」はかろうじて近親相関的な、自家中毒的な自滅をまぬかれている。「家」がそうさせている。

yuuu『ビジネス会食完全攻略マニュアル』を読みました。

良書。コロナ禍を経ていまこういう本は現場では重宝されるのではないでしょうか。意外と会食のノウハウを体系的なまとめた本というのはなくて、ぼくも社内の暗黙知がわからなかった時代も長かったわけですが(今もそれほど得意ではない)、勉強しようと思えば今はいろいろな情報があるので本当にいいですよね。

10年前であれば『ハーバード流宴会術』という商社筋の本があって、これはノウハウ本としてはぼくもよく読んでいましたが、本書はもっと体系立っています。ただ、「マニュアル」と名乗るほどドライではない。著者の年齢はよくわかりませんが、京大院を出て広告代理店に入った苦労をもとに書かれたわりには、もうすっかり鬼のナンチャラに毒されている感じがもう端々からあって読んでいて疲れる。そういうのをもっとそぎ落とせばしっかり「マニュアル」なのにもったいない。

ぼくたちが読みたいのは具体的なノウハウであって著者の俺はすごいぞエピソードではない。なんというか京大出ても会社に入って何十年も仕事すると頭の中がこんなになっちゃうんだな、というサンプルを見せつけられているようでそれはそれでつらい。とても頭のいい人が、社会に出て、会社の暗黙知(というか会社という部族のきわめてたこつぼ的な「文化」)を言語化してくれたその「人類学者」みたいな視点があれば、もっとユーモアもあったはずなのに。あと、決定的に欠けているのは海外からのお客さんへの対処。これはこれからの時代避けて通れないと思います。

ついでに70年~80年生まれのオッサンが喜ぶカラオケリストはけっこう衝撃だ。自分が懐メロとして聞いている曲がこういう風にリストアップされて消費されるというのはなかなか居心地悪いものだ。若い人は若い曲を歌ってくれてそれを聞いて学ぶ方がオッサンにはいい機会になるんだけどな。とはいえ、そういう風に社会から見られているような年齢に自分も差しかかってしまったということは受け止めねばならないのでしょう。

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』を読みました。

カポーティの短編集です。どれも題名のファンシーさとは裏腹にけっこうキツイ内容。そもそも表題作も、村上春樹による訳者あとがきにあるようにオードリー・ヘップバーンのイメージが強すぎるのですが、そして映画を見たわけでもないのですがただの恋愛物語では決してない。登場人物は皆、我が強すぎて、そういう自分が周りと軋轢を生んでしまうことにきつさを感じている。でも、そうすることしかできない。その痛み。けれど、物語が回想で書かれていることを見逃してはならない。もうぼくたちはつまらない大人になってしまった。そこから、ぼくたちは若かったころの、妄想することでしか生きられなかったその生きづらさを思い起こしている。もう失ってしまった痛みを、回想することの痛み。この二重性の中にこそカポーティは閉じ込められているんではないか。どの短編も同じ構造だ。

私はなおかつ自分のエゴをしっかり引き連れていたいわけ。いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、この自分のままでいたいの。

『ティファニーで朝食を』

ところでティファニーで朝食を食べることができるのだろうか? 銀座の資生堂のように? ティファニーはゴライトリーにとって何の象徴だったのか? 実態の分からない大人たちが宝石を買いに行くところ……それは、イノセントな魂にとってはまるで自己否定を鼻先につきつけられるような、あるいはポイント・オブ・ノーリターンのような場所なのかもしれない。

上乃久子『純ジャパニーズの迷わない英語勉強法』増補版を読みました。

ときどき新刊で英語勉強法の新書が出ると見てしまうのですが、結局はみんな言っていることは最終的には同じなんですよね。とにかく王道しかない、ということでしょうか。

アウトプットを意識するのであれば、やはり自分の仕事とか生活を起点に単語帳や短文集を自分で作っていくしかない。どんなに「会議で使う英会話」みたいな本を買ってきても、やはり現場はそれぞれ違うものだし、自分の環境に合った表現は自分で英作文するしかない、と腹をくくるということですね。こればかりは払ったお金に比例しない領域なので、いやだからこそ自分で楽しんでやるしかないのでしょう。自分の必要性や切迫したなにかを起点にしない限りただの趣味・教養になってしまうし、今の自分にプラクティカルにしか役に立たないことこそが一番の近道なんでしょう。

村上春樹訳レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を読みました。

分厚さなりに大変面白く読みました。訳者あとがきにもあるように、やはり「金持ちの孤独」みたいなものがテーマアップされているのは『グレート・ギャッツビィ』にも通ずるものがあるのは、そしてまたそれがゆえに役者がこの小説を愛しているというのもうなづけます(ただ、個人的には「金持ちの孤独」なんてものには1ミリも共感しないし、金持ちなんだから孤独に決まってんだろ、同情するなら金をくれ、と言いたい)。

とはいえ、寄り道の多さの魅力というのは本当にその通りで、魅力的な登場人物も多く出てきます。メキシコ人と毎回マーロウから勘違いされるキャンディーは、その迫力もさながらですが、どこか憎めない。この当時にあって移民の「召使」というのがどのような家庭内地位を、社会的地位を持っていたのか不勉強でよくわからないのですが、それを差し引いてもなお、いやむしろかえって、ここまで小説の中で動き回る人物として描かれているのは非常に面白い位置を占めていると思います。勧善懲悪ではなく、マフィアや警察もそれぞれの組織の中で事情を抱えながら互いにけん制し合っているのも、おもしろい。そして「私立探偵」だからこそ、その組織の間を自由に出入りできるのは小説の道具立てとしてはやはりほかの選択肢はないのでしょう。『吾輩は猫である』の「吾輩」並みの「人称」なのだと思います。

そしていやはや、読んでいるとカクテルやらタバコを吸いたくなってしまうのがなんとも……。

池内紀訳カフカ小説全集『失踪者』を読みました。

友人マックス・ブロートが編集する以前のカフカ自身の手稿をベースとした全集。かつては「アメリカ」というタイトルで親しまれた作品です。

その名の通り、女中をはらませてしまった17歳の主人公がアメリカに渡って、「仲間」にだまされたり時には大人たちの優しさや厳しさ、身勝手さに翻弄されながらなんとか糊口をしのいでいく一部始終が描かれています。

あんまり通り一遍のことを言ってもしょうが無いのですが、やはり「全体感」が見通せないカフカらしさは健在。特に冒頭の船の内部事情の描写や、エレベーターボーイとして就職したホテルのヒエラルキー、そして最終場面で就職するサーカス団の面接手続きなど、どこまで行ってもよくわからないまま突き進む主人公の視線から決して描写がぶれない。種明かしは決してない。わからないものはわからないまま突き進む。そこが読んでいて非常にスリリング。それぞれがそれぞれに「城」になっています。