小川洋子『まぶた』を読みました。

とにかく一話一話すべてが怖い短編集。言葉に言い表せないような恐怖感や「あれってなんだったんだろう?」と思わせるような出来事が、それこそしっかりと言葉で表現されているのが小川洋子の短編の持ち味でしょう。

「まぶた」も途中までは女子中学生と(本当に冴えない)中年男性の心の交流を描いているようでいて、けっきょく外野からすればそれは単なるパパ活に見えてしまうその悲しさというか。「それはパパ活だ!」と言った者が、「王様は裸だ!」という真実を言い放ったのならともかくも、この場合はどちらが真実なのかわからない。その危うさ、健全な世界と不健全な世界とのあまりにも薄い境界が怖い。それは教会ですらなく、単に一つの出来事を別の角度から見ているだけだったりもする。 

「中国野菜の育て方」もとにかく怖い。登場人物が善人なのか悪人なのかもわからない、そしてここで語られる挿話が良い話なのか悪い話なのかもわからない。そのわからなさが、とにかく怖い。善人の何気なく発した一言が、ものすごく残酷なことを言っていることに、主人公は気が付かず、読者だけが気がついているような、そんな感じ。

「バックストローク」も怖い。冒頭で、強制収容所の看守の家族が楽しんだという空っぽのプールが提示される。それだけで怖い。しかし、そのあと語られる主人公の弟の身の上も意味づけの困難さにくらくらする。結局のところ、人間の残酷さと善良さは紙一重ということなのか、弟の栄光の陰にももしかしたら努力ではどうしようもなく散っていった選手がいるのだろうし、栄光と思っていた弟の業績もほんの少しの食い違いで、水泳以外なにもできないごくつぶしに成り下がってしまう、その簡単さが、またこれもものすごく怖い。

小川洋子『完璧な病室』を読みました。

デビュー作を含む短編集です。作品としてはキャリア最初期ということもあり、おそらく作者の宗教的なバックボーンや医局に勤めていたころの経験が色濃く反映されていることを思わせますが、まあそういうことは作品を語る上ではあまり意味のないことなので。

ただデビュー作はその後の作品を読み進めたものとしてはやはり固いというか、偉そうに言えばやや「若書き」の感が否めない。一段落がすごく長いし、「漢語」も頻出する。おそらく医学に関する用語が小説の世界に自然と取り入れられた好例とも読めなくはないのですが。

「冷めない紅茶」がよかった。こういう、ミステリーとは言わないけれど、何か引っかかる謎がそこここに置かれたまま小説が終わる、その居心地の悪さというか、解決されない気持ち悪さというのはこういう小説からしか味わうことができない。

表題作は作者の良く用いるモチーフというか、テーマが貫かれています。特に、「食べる」ことへの醜悪さの表明。内臓とつながっている口腔の内側を人に見せながら有機物をその中へ運ぶことの汚らしさ、決して美しくない「食べる」という人間がそうせざるを得ないようにプログラミングされた悲しさというか。普段ぼくたちは、食堂やレストランや、家庭においても人前で口を開けてものを食べていますが、「そんな恥ずかしい醜悪なことがよく人前でできるな」という感想を持たざるを得ない「世界」があるということを知ってしまうともう戻れなくなる。まあそれは統合失調症の一歩手前なのかもしれな酸いのですが。

全然関係ないですが、むかし「空が灰色だから」というマンガがあって、これにも確か一人で弁当を食べている女の子を見て興奮するという話がありました。人前で隠している「食べる」という行為を見て快楽を得るというのは、小川洋子からもう一歩先を行っているんじゃないかと、いまさらながら思い返します。

小川洋子『余白の愛』を読みました。

耳を病む主人公と、座談会で知り合った速記者、離婚した夫の姉の息子の三人が織り成す人間模様。そしてそれは聴覚に難のある主人公の独白だからこそ七日、霧の向こう側で演じられる劇のようだ。そしてこれは同時に13歳をめぐる物語でもある。

しかしはっきり言って読み解きづらい小説。速記者のイニシャルYはまちがいなく余白──YOHAKUのYだとすれば、彼は最初から最後までマージナルな存在。彼は白い紙にブルーのボールペンを使って主人公の独白を速記していく。本文があってこその余白。彼は他人に牛耳られた「本文」の内容をただ書き写すだけの存在であり、同時にその行いがまぎれもなく「余白」を形成していく。まるでドーナツの穴のような。

物語の後半で、速記事務所は存在しないことが明かされる。しかしそこには速記者の存在の端々が暗示され、またかつて主人公が13歳の時にデートした男の子(とヴァイオリンの少年は同一だと思うのだが、どうだろう?)の、あるいは、ホテルのバルコニーから落下した侯爵の息子の存在──彼もまた13歳だった。

13歳からの10年間、人はどのように生きるのだろう? 耳鳴りのような幕の中で主人公のように離婚まで迎えてることもあるかもしれない。甥のヒロはまさにこれから思春期を迎える。ヒロは特に主人公に性欲を抱くでもなく看病や料理までこなせるスーパー中学生なのだが、いつその殻が破られるのかハラハラしたのだが、最後まで静かな人間だった。いずれにしても主人公とヒロとの合間、あわい、その余白を埋めるように存在していたのがYだったことは間違いないだろう。

小川洋子『寡黙な死骸 みだらな弔い』を読みました。

文句なしに素晴らしい。小川洋子はやはり短編の密度がたまらなく良い。短編集と言いながら、少しずつ緩やかなつながりを持たせた連作集とも言えます。あの場面の何気ないあの物体が、この短編のここに登場している……という具体的な記述を探していく楽しみもありますが(けっこう話数を重ねてから突然出てくるパターンもあります)、しかしなにより「とむらい」という共通したテーマが全編を貫いています。得体の知れない悲しみ、事故や失踪など本人にはどうしようもない突然の別れもふくめて、もはや語ることのできない「死骸」になりかわって生き残った者たちはそれぞれに不在の時間を重ねていきます。狂気の中に逃亡する小説家もいれば、憎しみや自らのクラフトマンシップのために人を殺める者もいたり……それぞれに濃厚な物語が、淡々とした語り口で、それこそ冷蔵庫の中にいるかのように語られていきます。それが、とてつもなく小説としての心地よさを与えてくれる。美学、と言ってもいいんじゃないかと思う。

小川洋子『シュガータイム』を読みました。

小川洋子の、この恋人や親族にいわゆる「障がい者」を登場させるのはなにか作者にとってそうせずにはいられないなにか重要なモチーフなのでしょうか。もちろんそこにあまりにも「意味」を読み取ってしまうこと自体、今の時代に合わないというか、そんなことに意味を見出そうとすること自体が不謹慎だと言われかねないのでこれ以上はやめておきますが、それにしてもやはり気になってしまう。気になってしまうのは、なにかそれに対する解決や葛藤が小説のテーマにならないということ、ただそこにポンっと、「障がい」が小説世界に置かれているだけで、それをドラマの契機にしないところが作者の強い倫理なのかもしれません。もちろんこれを言うこと自体がすごく倫理的に見えてしまってやりきれないのですが。言葉にするというのは大変なことだ。

これは大学生活の最後を描いた群像劇とでも言うんでしょうか。過食症に似た症状を主人公は持ち続けているのですが、それこそ海燕つながりで吉本ばななの「キッチン」ではないが、最後に、人のために食事を作ろうとすることでなにか一つの出口が見え始める。去ってしまう恋人との食事風景は最後まで描かれない。義理の弟は食べても大きくなれない病気を患っていて、宗教団体に帰依しようとしている。それらはおそらく小説的に計算されて配置されているのでしょう。けれど、この小説は結局のところそれぞれ問題を抱えているけれど、そんなことはあたりまえで、そんな人々も大学3年から4年の最後の甘い日々=シュガータイムを過ごしていったのだ……ということでしかない。ラストシーンは食事会で終わるのではなく、ダメ出しのように野球場のシーンになっているのも、この小説が登場人物の設定の困難さを主題としているのではなく、そうやって人生は続いていくのだということにフォーカスしようとする強い意志を感じる。スタジアムに吹いている風こそが、小川洋子の持ち味に他ならない。

小川洋子『貴婦人Aの蘇生』を読みました。

これもまた、何度でも言おう……アナスタシアはディズニーじゃないぞ!

自分がアナスタシアだと言う伯母さんの、晩年の物語。それだけと言えばそれだけの話なのですが、なんとなく設定に終始してモチーフを使い切っていないような感じがしました。主人公の恋人である「ニコ」の神経症もイマイチ何なのかよくわからなかった。

そもそもこの「ニコ」というあだ名もたまたまにせよ「ニコライ」のもじりなんだろうか? と常に頭の片隅でもやもやがありつつ、編集者の「オハラ」が小原ではなく常にカタカナ表記なのも、なにかロシア語のもじりがあるのだろうかと頭を巡らせてみたけど思いつかなかった。

この伯母さんは声高に自分がアナスタシアだと言い張るのではなく、それが当たり前だという前提で暮らしている。周りの人間の「だまされたい!」という熱い思いが空回りして、いつしか伯母さんの周囲は嘘を本当で言いくるめる独得の雰囲気を醸し出すようになってしまい、その中で伯母さんは逝ってしまう。もちろん彼女が本当にアナスタシアだったかどうかはわからないし、そんなことは小説にとってどうでもいいことだ。

アナスタシア伝説はたぶん、巻末の参考文献を読んでみるともっと面白いなんじゃないかと思います。アナスタシアがどうこうというよりも、生きていてほしいと願わずにはいられない人々の思いだけは真実なのだと思っています。

もう一匹いた!

これは名前を「ヴェロキラプトル」というらしい。まったくおぼえられない。子供氏によれば最近子供たちの間で大はやりの「最強王」にも載っているらしい。それにしてもこのヴェロなんとかのブロックはシリーズの中でも最もお勧めしない。とにかく1ノッチでぶらさげてもすぐに外れるっての!(写真は腕部分を外れにくいようにやや改編しています) そして可動部が多いのが売りなのだけれど、すぐにポロポロと部品が取れてしまう。そもそもこのシリーズは動かして遊ぶことを想定しているわりには篏合が緩いので、やっぱり組み立てた後はそーっと本棚に飾っておくのがおすすめです。

ついでに思い出したので全然違う話なのだけれど、ぼくが子供のころはとにかく大きい恐竜にあこがれたもので、ブロントサウルスなんかが人気でしたが、子供氏に聞いてもブロントサウルスを知らない。なんでかと思って調べてみると、どうもここ何年かの間でアパトサウルスと同類であることが分かってブロントサウルスという呼称が無くなったのだそうだ(もっと言うと、いやじつはブロントサウルスはやっぱり別種であるという復活説も最近はまた出てきたらしい)。そういうのもいまの恐竜の本にはちゃんと反映しているあたりは感心してしまった。

なお、大型恐竜でDAISOシリーズにラインナップされているのは「ブラキオサウルス」でこれは今も健在。

いやほんと、恐竜ってロマンがあるよね。

小川洋子『やさしい訴え』を読みました。

ええと、これは非常になんと言うかトレンディーな不倫ものでした。そのまま二時間ドラマで映像化できるんじゃないかってくらい、ある意味で通俗的な物語です(もちろんそれがこの作家の振れ幅の面白いところで、ベストセラーの博士のナンチャラも道具立てとしてものすごく通俗的ですよね。一方で芥川賞をとる短編も次々と書く、と。)。

主人公は、夫に不倫をはたらかれている主婦。カリグラフィーを仕事にしているが、ある夜夫に嫌気がさして親の持つ別荘に避難。その別荘の近くに工房を構えるチェンバロ作家の新田という男と、その助手の薫と知り合い、この三人をめぐる三角関係がメロドラマのように展開されます。新田と関係しながらも結局は薫との絆に打ち勝てず、主人公は夫との離婚を選び取り、またカリグラフィーの業務拡大に自らを参加させていくわけなんですが、まあ1996年の作品とはいえ今ではフェミニズム的観点からしてもあまり受けない内容でしょう。女の自立……みたいな。

後半でようやくチェンバロに彫り込むネームプレートを主人公がカリグラフィーでデザインするという展開が出てくるのですが、もっとこの小説世界においてカリグラフィーというものが持つ意味合いというのを面白く展開してもよかったんじゃないかと思います。好きな男の名前を何度も書くことの狂気とか。あるいは主人公が写本している自叙伝も、内容ばかりが伝えられますが、あくまで本人がやっているのは文字を写すことだけなのでそんなに話の内容に立ち入っていいのだろうか? ということへの懐疑性というか、カリグラフィーという仕事に対する「なぜこれが金になるのか?」ということにもっと言及していいんじゃないかと思った。

なぜか始終読んでいて新田氏がローランドにキャスティングされて脳内再生された。なんかそういうつかみどころのなさが気になった。主人公も、夫を恨んでいるはずなのに新田の眼鏡が壊れると「夫のコネでよい眼鏡を作れる」とか突然言い出すのもなんかこう共感できない脇の甘さもあり、そもそも新田に対してズケズケ行ってしまうところもちょっとついていけなかった。加えて薫の変な慎み深さもわかるにはわかるけど、もっと主人公に怒れよ! 男取られてんぞ! というもどかしさが……恋人を殺されたという設定もよくわからないし、なんか人物がどれもつかみどころが無く、その辺がトレンディーに流れてしまった感じがしました。

あと最後の16章目はまるまる蛇足なんじゃないか? 書くにしてもプロローグに持ってきた方がいいんじゃないか。15章ですっきり終わってもよかったし、あるいは最後の最後にチェンバロを新田が弾こうとしているというシーンにして終わってもよかったんじゃないか。薫がたくさん曲を弾くのも「ノルウェイの森」のラストシーンに似ていてやや既視感がありました。

小川洋子『妊娠カレンダー』を読みました。

芥川賞受賞作を含む3つの短編が入っていますが、いずれも一言で言って、「生理的」な作品集。これは女性のそれではなくて、「生理的に無理」と言うときの「生理的」です。つまり、言葉では説明できない非論理的な因果関係(これ自体が語義矛盾ですが……)であり、身体の本能的な訴えが、いずれもテーマになっています。

もちろんそんなものを「言葉」で構築していることに本当に驚くばかりで、妊娠カレンダーの「毒の盛られたジャム」もそれは最初は言葉でしかないのです。本当に毒が成分として検出されるような、そういうミステリーではない。環境保護団体の主張する輸入グレープフルーツの防腐剤の危険性を耳にしてしまったことと、職場で偶然に廃棄されるグレープフルーツをもらいうけたところから、言葉は現実を侵食し始める。グレープフルーツのジャムを作り、妊娠した姉がそれをおいしそうに食べる。そこに、もしかしたら自分は毒を盛っているのではないかという架空のおとぎ話になってくる。しかし毒は目に見えない。「ないこと」は証明できない。もしかしたら本当に自分は毒を盛ってしまっているかもしれない。このむずがゆさが本当に「生理的」だ。

「ドミトリイ」がとにかく素晴らしい。久しぶりに読んでいてうならせられる短編小説だ。最後の「オチ」はなんとなく想像できたけれど、もしかしたら失踪した学生が天井で死体になっているんじゃないかと「想像」させられる天井の「しみ」が本作では「ジャムの毒」の位置を占める。「先生」に聞かされた失踪学生の話=言葉が、なんの関係もない天井の「しみ」と結びついて主人公をおののかせる。この根拠のない恐怖感が非常に「生理的」だ。「しみ」という正体の分からない、なにかしめったもの、という感じが五感に訴えてくる。この短編は、入寮した「いとこ」がそれまでの不安を払しょくするかの如くハンドボールに精を出して、後半は全く主人公と会えない/会わない、この不在性もまた非常に気味が悪い。夫も遠い外国にいる。もっと言ってしまえば、「先生」の身体的特徴もまた、その原因は全く説明されず、「不在」が最初から当たり前であるかのような道具立てになっているのも憎い。もちろん原因なんて説明して納得することに何の意味もないことは作者は百も承知だ。

小川洋子『ブラフマンの埋葬』を読みました。

ブラフマンは主人公の飼うことになった犬の名前。なのでもうタイトルがそのまま小説のネタバレになっている。ブラフマンが死ぬまでの話です。

「ブラフマン」という言葉自体は作中ではサンスクリット語で「謎」と解説されていますが、一般的には(高校の倫理の授業でやった懐かしの)いわゆるウパニシャッド哲学で言う「梵我一如」の対になっている宇宙の方。アートマン=個人とブラフマン=宇宙が同一であるという考え方ですね。

だとすれば、犬のブラフマンがこの小説で為したことは宇宙の原理と言っていいでしょう。一人称小説なのでなかなか気づきにくいですが、主人公は本当にしょうもない人物です。びくびくとして好きな女の子にも声をかけられない。こそこそと犬を飼って、おばあさんに怒られないか立場を越えて恐れている。そんな主人公が、おそらくは恋人の男と別れた件の女の子から誘いを受けてひょこひょことついていくばかりか、車の中で別れた男のかつての逢引の現場について言及しようとするそのとんでもない愚かさ! それを戒めようと犬は死んだとしか読めなかった……。

この女の子も取り立てて魅力的でないところがまた救いがない。自分が轢いた犬の葬式にも出席しない。犬を埋葬した時、「ぼく」はどんな思いだったのだろうか。そこについては全く語られていない。この小説は、ひと夏の動物とのハートフルな触れ合いを描いたものではない。犬の死を涙を流して悼むようなそんな小説ではない。主人公の愚かさを、大いなる宇宙の原理が異界の犬を通じて戒めようとするとんでもないストーリーなのだ。

だからこそ本作は泉鏡花文学賞を受賞したのでしょう。