小川洋子『凍りついた香り』を読みました。

単純に、物語として面白く読めました。もちろん「香り」が記憶とつよく結びついていることをしっかりと前提とした物語。でも、ミステリー的な面白さを除いたときに、けっきょくルーキーはなぜ涼子と付き合ったのかがよくわからない(ほとんど結婚のようなもものだったはず)。盲学校を「みそぎ」だと思ったのか。調香師としての仕事を始めてからいこうが自分にとって自分の人生を生きるということに一人静かに決めたということなのか。それでも、嘘の履歴書の中にある隠し切れない過去が、本当は彼はもっとやりたかったことがあったんじゃないか、数学なんて捨てて演劇でもなんでもやって、あるいは数学よりも生物学の方が好きで獣医師かなにかになりたかったんじゃないかと思わせる。でも、すべてが母親のせいだとも言い切れない。もちろん母親の精神病が「罰」とも言い切れない。弟の彰だってずいぶんと世間からすればずれた生き方だろう(子供部屋オジサンでドールハウスを趣味にしている程度には)。そこに、切っても切れないが故の家族の悲しみがしみこんでいる。

「記憶をめぐる旅」と言えば聞こえがいいかもしれないが、その実は地獄めぐりだろう。ルーキーは「博士の愛した~」でルートに昇華したのだろうか? 二回目の人生を。そればかりが気になるくらい、とても悲しい物語だった。

小川洋子再読月間はこれにて終わりです。本棚にあった作品はすべて読み返しました。ぼくが小川洋子の作品にはまったのはもう何がきっかけだったか忘れてしまいましたが、ロシアびいきだったことから「貴婦人A」を最初に読んだのではなかったか。それに加えて、2007年~2010年くらいにかけてぼくは「記憶」ということについていろいろと考えている時期があって、当時、「薬指の標本」あたりから広げていった気がします。なので、2010年以降の作品はほとんど読んでいません。その期間に文庫で出ていたのを集中的に読んだので。その後も「名作」と誉れの高い作品もいくつか出ているので、またいつか機会があれば読んでみたいと思っています。

的川泰宣『月をめざした二人の科学者』を読みました。

中公新書。素晴らしいドラマ。奇しくも民間会社の月面着陸がニュースになっていますが、アポロ計画のその続きはまたいま時を経て主人公が変わって復活しているのかもしれません。

ややともすれば冷戦の文脈の中で政治的な面がフォーカスされがちな宇宙開発競争ですが、本書ではアメリカの、というかもともとはドイツの技術者であるフォン・ブラウンと、ソ連の技術者であるコロリョフの二人の人間性にまでしっかりと踏み込んだ詳細なドキュメンタリー。

ブラウンはナチスに利用されつつも、むしろ利用しつくした後で時代を見据えてアメリカ軍に早々に投降し、その後のアメリカの宇宙開発を先導したその視野の広さに驚かされます。組織の長としても一方的ではない人々を導く判断力にたけていた人物のようです。

コロリョフは、おそらく冷戦当時はソ連当局もひたすらにその存在を覆い隠していた人物なのですが、死後、あるいは冷戦後に情報がずいぶんととれるようになってからの取材に基づいてしっかりとその生涯を丹念に追いなおしています。彼もまた、特に有人宇宙飛行に際する失敗の許されない極限の状況の中でも冷静沈着に物事を判断できるとんでもない人物であったことがうかがえます。

宇宙開発にはロケットの技術開発に始まり、人工衛星の打ち上げ、有人飛行、船外活動、無人の月面着陸、そして最終的にはアポロ計画が競り勝った有人の月面着陸までが道標としていったんこれまでの歴史においては(あるいはこの二人の科学者が実際にしのぎをけずった冷戦の期間においては)刻まれてきました。しかしいずれにしても本を読んでいて感じるのは、どちらの国が先に成し遂げたかなんてことはいまとなってはどうでもよく見えてしまう。そこにどれほどの技術力の差があったかなんてことはどうでもよいように思えてきます。数日の差で競り勝ったとしても彼らのめざす目標は──例えば火星や金星探査に向けてはそれは単なるワンステップでしかない。国を越えて人々が技術の粋を集めて宇宙をめざした──それぞれの組織の中で、その純粋な思いというか、その目線の高さの方がよっぽど重要なのです。

そしてまた、一つ一つの判断は必ずリスクを評価したうえで為されていたはずで、判断結果には政治的な部分も否定できないところもあったでしょうが、そのオプションを並べるところまでは純粋に科学的な評価であったに違いない──そう思うと、軍隊にせよ、政治体制にせよ、あるいは今の企業、特に科学技術をベースにした製造業などはどのような組織の在り方がベストなのか、ということを思わざるを得ません。つまり、技術部門がベストなパフォーマンスを出すために、彼らの「宇宙を目指したい」という思いを共有しながらも政治や文民はなにができるのかということ。

もちろん一方でこうした二元論的な見方はもちろん即座に否定される面もあって、フォン・ブラウンやコロリョフのようなとんでもない人が組織にいてたとえば自分の上司だったらと思うとそれは誰にとっても最高のモチベーションにもなるのだろうと思ったりもします。組織にいるだれもが彼のような人類史的な視点を持って仕事ができるのか常に問われるわけなのですが。

二人の科学者の人生のドラマを追体験しつつも、大きなプロジェクトには始終ついて回る金の問題を無視できないことから、その組織に対する二人の対峙のスタイルもまたいろいろと考えさせられる本でした。

しかしスプートニクは美しい!

小川洋子『ホテル・アイリス』を読みました。

作者はこれを書く必要があったのだろうか? というのが、読んでいるあいだじゅう常に頭の片隅で疑問としてあった。幻冬舎っぽいと言えばぽいのだが、初刊はあくまで学習研究社、1996年刊行。一瞬福武と混同してしまうが、学研とは無関係だ。どういう経緯でこの本が生まれたのか気になるところ(ただ、学研はもともとサブカル的な本はかつてはけっこう出していた印象。文芸のイメージは皆無ですがそのへんもあるのかな)。

いずれにしても「老人と少女の性愛もの」はすでにこの世に(クラシックな名作も含めて)あふれかえっているわけで、小川洋子(ほどの作家が)がそこにもう一冊わざわざ付け加える必要もなかったとは思うのですが、キャリア初期としてはいろいろと試す価値があったのかもしれません。ただ、文体の静謐さはすでに健在。

2022年に映画になっていますね。作者としては故郷の瀬戸内海のイメージなのでしょうが、台湾を舞台に置き換えているようです。奥原監督って「青い車」の人ですよね。

小野雅裕『宇宙に命はあるのか』を読みました。

もうとにかくなんにせよH3ロケットの発射成功は久しぶりに日本に明るいニュースでした。ふだん経済原理・資本主義にからめとられて思考しているサラリーマンにとってはニュース記事の中の「打ち上げ一発にかかる費用は50億円」とかいうさらりとしたコメントにいろいろな意図を読み込んでしまい、またそういう自分にイラついてしまったりもするのですが何にせよ成功はよいことです。

前回の「失敗」の時の記者会見も、結局(昨今、小保方ショックの反動なのか東証もふくめこの手の記者会見では純技術的なことが批評のポイントになりつつありますが)純粋に技術的な探求というよりは「日の丸の技術力の凋落」だとか結局は金がもったいないというつまらない議論に行きがちだったのですが、まあ成功すれば成功したでコストも安くおさえ下町ロケット的な「日本アッパレ」なポエムに走ってしまうのも十分に、これは本当に十分に留意しなければならない危険な言説だと自らを戒めなければならないと思っています。結局のところ宇宙開発ってなんのためにやるのか、国民の大半はよくわかっていないんじゃないか。ぼくだってわかっていないんですが。

そういうなかでH3に先立ってホリエモンの駒場祭講演は非常におもしろかった。正直、宇宙開発というのが金持ちの道楽なのではないかという疑義もなくはなかったのだけれど、明確なビジネスとしての見通しがはっきりと語られていて、おもしろかった(動画で出てくるのは一番最後の方です)。同時に宇宙開発の歴史というのもドラマにあふれているのだなあと再認識させられました。もちろんこの講演が駒場という非常に特殊な場であること、またその特殊性を十分に意識した講演だとは思うのだけれど、普通に教養として知っておくべき内容だと感じました。

ということで今回の本を読んだわけですが、宇宙開発の歴史を手っ取り早く知るにはとてもよいハンディな本でした。その意味でタイトルがイマイチ内容と合致していないのと、ところどころさしはさまれる宇宙ポエムがかなり著者が自分に酔っぱらっちゃってるんじゃという感じがして、途中から恥ずかしくて読み飛ばしてしまいました。が、まあこれも宇宙に携わる上での必定なのかもしれません(著者は私と同い年なんですが。しかも航空宇宙かあ)。中高生にはいい刺激になるのではないでしょうか。

ただ、写真が一か所、決定的に間違えていて、SBクリエイティブは初版という言い訳はせずに猛省してほしいと思った(こんなミスが書籍を作るうえでまかり通るのかとびっくりするほどでした)。

小川洋子『博士の愛した数式』を読みました。

映画にもなった原作。正直に言うと苦手な部類の本である。なんと言うか「本が好き!」とわざわざ言い立てる人が好きそうな話であるなあ、という感じ(書店員が選ぶ文学賞もなんかそういう空気があって好きではない。書店員は金のために売れる本を売ればいいのであって、ベストセラーこそが賞に値する、だからこそその年一番売れた本こそ受賞すべきなのに、いつも直木賞を逃した小説みたいなのが出てくる。読者はもっとちゃんと自分の読むべき本を選ぶ力はあるっての。もちろん作者には何の罪はもない。まあそれはさておき)。

ときどき時系列が「過去語り」になるのもよくわからなかった。あとは母屋にいる老婦人との間の過去がにおわせられながらあまり具体的に描かれていない。博士の記憶喪失はいいんだけど、それが昔と比べてどうだったのか、その対比があまりなくて淡々と三人の生活が続くだけでドラマ性を求めてしまうとすこし物足りなさが残る。あくまでハンデを負った博士との日常のやり取りがストーリーのメインにしたかったということなのだろうか。そもそも数学を専攻する「博士」レベルの人が「完全数は美しい」とかいまさら言うんだろうか? その辺が少し漫画チックでもあり古典的でもあり、「数学的なもの」へのあくまで文系人間が思い描くイメージがやや出過ぎているような気もして読んでいると少し恥ずかしくなる。

しかしその後、「数学ガール」や東野圭吾の「ガリレオ」シリーズ(あれは物理学だけど……)の隆盛を見るにつけ、本書が小説の世界に新しい「ことば」を吹き込んだ功績はあまりにも大きいと言ってよいでしょう。

小川洋子『まぶた』を読みました。

とにかく一話一話すべてが怖い短編集。言葉に言い表せないような恐怖感や「あれってなんだったんだろう?」と思わせるような出来事が、それこそしっかりと言葉で表現されているのが小川洋子の短編の持ち味でしょう。

「まぶた」も途中までは女子中学生と(本当に冴えない)中年男性の心の交流を描いているようでいて、けっきょく外野からすればそれは単なるパパ活に見えてしまうその悲しさというか。「それはパパ活だ!」と言った者が、「王様は裸だ!」という真実を言い放ったのならともかくも、この場合はどちらが真実なのかわからない。その危うさ、健全な世界と不健全な世界とのあまりにも薄い境界が怖い。それは教会ですらなく、単に一つの出来事を別の角度から見ているだけだったりもする。 

「中国野菜の育て方」もとにかく怖い。登場人物が善人なのか悪人なのかもわからない、そしてここで語られる挿話が良い話なのか悪い話なのかもわからない。そのわからなさが、とにかく怖い。善人の何気なく発した一言が、ものすごく残酷なことを言っていることに、主人公は気が付かず、読者だけが気がついているような、そんな感じ。

「バックストローク」も怖い。冒頭で、強制収容所の看守の家族が楽しんだという空っぽのプールが提示される。それだけで怖い。しかし、そのあと語られる主人公の弟の身の上も意味づけの困難さにくらくらする。結局のところ、人間の残酷さと善良さは紙一重ということなのか、弟の栄光の陰にももしかしたら努力ではどうしようもなく散っていった選手がいるのだろうし、栄光と思っていた弟の業績もほんの少しの食い違いで、水泳以外なにもできないごくつぶしに成り下がってしまう、その簡単さが、またこれもものすごく怖い。

小川洋子『完璧な病室』を読みました。

デビュー作を含む短編集です。作品としてはキャリア最初期ということもあり、おそらく作者の宗教的なバックボーンや医局に勤めていたころの経験が色濃く反映されていることを思わせますが、まあそういうことは作品を語る上ではあまり意味のないことなので。

ただデビュー作はその後の作品を読み進めたものとしてはやはり固いというか、偉そうに言えばやや「若書き」の感が否めない。一段落がすごく長いし、「漢語」も頻出する。おそらく医学に関する用語が小説の世界に自然と取り入れられた好例とも読めなくはないのですが。

「冷めない紅茶」がよかった。こういう、ミステリーとは言わないけれど、何か引っかかる謎がそこここに置かれたまま小説が終わる、その居心地の悪さというか、解決されない気持ち悪さというのはこういう小説からしか味わうことができない。

表題作は作者の良く用いるモチーフというか、テーマが貫かれています。特に、「食べる」ことへの醜悪さの表明。内臓とつながっている口腔の内側を人に見せながら有機物をその中へ運ぶことの汚らしさ、決して美しくない「食べる」という人間がそうせざるを得ないようにプログラミングされた悲しさというか。普段ぼくたちは、食堂やレストランや、家庭においても人前で口を開けてものを食べていますが、「そんな恥ずかしい醜悪なことがよく人前でできるな」という感想を持たざるを得ない「世界」があるということを知ってしまうともう戻れなくなる。まあそれは統合失調症の一歩手前なのかもしれな酸いのですが。

全然関係ないですが、むかし「空が灰色だから」というマンガがあって、これにも確か一人で弁当を食べている女の子を見て興奮するという話がありました。人前で隠している「食べる」という行為を見て快楽を得るというのは、小川洋子からもう一歩先を行っているんじゃないかと、いまさらながら思い返します。

小川洋子『余白の愛』を読みました。

耳を病む主人公と、座談会で知り合った速記者、離婚した夫の姉の息子の三人が織り成す人間模様。そしてそれは聴覚に難のある主人公の独白だからこそ七日、霧の向こう側で演じられる劇のようだ。そしてこれは同時に13歳をめぐる物語でもある。

しかしはっきり言って読み解きづらい小説。速記者のイニシャルYはまちがいなく余白──YOHAKUのYだとすれば、彼は最初から最後までマージナルな存在。彼は白い紙にブルーのボールペンを使って主人公の独白を速記していく。本文があってこその余白。彼は他人に牛耳られた「本文」の内容をただ書き写すだけの存在であり、同時にその行いがまぎれもなく「余白」を形成していく。まるでドーナツの穴のような。

物語の後半で、速記事務所は存在しないことが明かされる。しかしそこには速記者の存在の端々が暗示され、またかつて主人公が13歳の時にデートした男の子(とヴァイオリンの少年は同一だと思うのだが、どうだろう?)の、あるいは、ホテルのバルコニーから落下した侯爵の息子の存在──彼もまた13歳だった。

13歳からの10年間、人はどのように生きるのだろう? 耳鳴りのような幕の中で主人公のように離婚まで迎えてることもあるかもしれない。甥のヒロはまさにこれから思春期を迎える。ヒロは特に主人公に性欲を抱くでもなく看病や料理までこなせるスーパー中学生なのだが、いつその殻が破られるのかハラハラしたのだが、最後まで静かな人間だった。いずれにしても主人公とヒロとの合間、あわい、その余白を埋めるように存在していたのがYだったことは間違いないだろう。

小川洋子『寡黙な死骸 みだらな弔い』を読みました。

文句なしに素晴らしい。小川洋子はやはり短編の密度がたまらなく良い。短編集と言いながら、少しずつ緩やかなつながりを持たせた連作集とも言えます。あの場面の何気ないあの物体が、この短編のここに登場している……という具体的な記述を探していく楽しみもありますが(けっこう話数を重ねてから突然出てくるパターンもあります)、しかしなにより「とむらい」という共通したテーマが全編を貫いています。得体の知れない悲しみ、事故や失踪など本人にはどうしようもない突然の別れもふくめて、もはや語ることのできない「死骸」になりかわって生き残った者たちはそれぞれに不在の時間を重ねていきます。狂気の中に逃亡する小説家もいれば、憎しみや自らのクラフトマンシップのために人を殺める者もいたり……それぞれに濃厚な物語が、淡々とした語り口で、それこそ冷蔵庫の中にいるかのように語られていきます。それが、とてつもなく小説としての心地よさを与えてくれる。美学、と言ってもいいんじゃないかと思う。

小川洋子『シュガータイム』を読みました。

小川洋子の、この恋人や親族にいわゆる「障がい者」を登場させるのはなにか作者にとってそうせずにはいられないなにか重要なモチーフなのでしょうか。もちろんそこにあまりにも「意味」を読み取ってしまうこと自体、今の時代に合わないというか、そんなことに意味を見出そうとすること自体が不謹慎だと言われかねないのでこれ以上はやめておきますが、それにしてもやはり気になってしまう。気になってしまうのは、なにかそれに対する解決や葛藤が小説のテーマにならないということ、ただそこにポンっと、「障がい」が小説世界に置かれているだけで、それをドラマの契機にしないところが作者の強い倫理なのかもしれません。もちろんこれを言うこと自体がすごく倫理的に見えてしまってやりきれないのですが。言葉にするというのは大変なことだ。

これは大学生活の最後を描いた群像劇とでも言うんでしょうか。過食症に似た症状を主人公は持ち続けているのですが、それこそ海燕つながりで吉本ばななの「キッチン」ではないが、最後に、人のために食事を作ろうとすることでなにか一つの出口が見え始める。去ってしまう恋人との食事風景は最後まで描かれない。義理の弟は食べても大きくなれない病気を患っていて、宗教団体に帰依しようとしている。それらはおそらく小説的に計算されて配置されているのでしょう。けれど、この小説は結局のところそれぞれ問題を抱えているけれど、そんなことはあたりまえで、そんな人々も大学3年から4年の最後の甘い日々=シュガータイムを過ごしていったのだ……ということでしかない。ラストシーンは食事会で終わるのではなく、ダメ出しのように野球場のシーンになっているのも、この小説が登場人物の設定の困難さを主題としているのではなく、そうやって人生は続いていくのだということにフォーカスしようとする強い意志を感じる。スタジアムに吹いている風こそが、小川洋子の持ち味に他ならない。