問題はいかにソフトにランディングするかだ

1 堅苦しい前書き

冒頭の一文を繰り返すまい。問題は次のようにも言い換えられるだろう。ターミナルを出た後の個人的な生活を、既に異化されたものとして引き受けつつも再構築すること。それが少なくとも「旅」と定義される何かから帰還した者の直面する問題であり、責務でもある。ぼくたちは全く同じところに戻ってきても、全く同じ日常を繰り返す、ということにはならない。

大げさに言えば(そしてこれが「旅」というものの定義の一面でもある)ぼくはぼくがいなくとも回転していく世界を二つ知ってしまった。パリやウィーンの街ではぼくが存在しなくなった今日の今も、ウェイターたちは、相変わらず下手くそな英語の外国人観光客向けに四苦八苦しているだろう。それとは逆に東京ではぼくたちがいなくなったことで多くの人が嘆き苦しんだり天変地異が巻き起こることはなかった。朝七時三十六分発の西武池袋線にぼくが乗っていなかったからといって何かが成立しないわけではない。もちろんぼくの代わりに仕事をしてくれた人への感謝は忘れることはないが、しかしそれを可能にしているのはやはりぼくという人間の会社における機能の代替性なのだ。そういう社会というか、世の中というか、状況認識を往復することが旅というものであろうし、あるいは社会人の新婚旅行というものの持つ宿命なのかもしれない。

のっけから大上段に構えすぎたかもしれない。しかし初めて経験した多くの物事について整理しきれていない帰国後一週間の状況を伝えるという意味においては、正直な文章であると思う。上記の認識を前景化させたことで、ぼくは実際のところずいぶんと救われた気持ちになっている。もっとくだけて言えば「まあ自分一人くらいいなくても、世の中なんとかなるな」「すこしくらい、いい加減でも大事なところを外していなければ大丈夫だ」という気持ちがずいぶん確固たるものになった。大陸の空気と言ってもいいかもしれない。けれど一方で、せっかく互いに日本語という言語で通じ合えるのに、言葉不足による誤解を放置したり、あるいは妙な阿吽の呼吸やら空気の読み合いに期待して口をつぐんでいるのを潔しとしなくなった。通じるのであれば、言葉を、声を、発信していくことが大切なのだということを強く感じている。

このあたりの心境に至るプロセスについては次から述べる旅程の具体的な記述の中で自ずと明らかになっていくと思う。そう願う。長すぎる前置きだが、もう少し付き合ってほしい。

2 ぼくたちの立ち位置

そもそも海外旅行などいうものをぼくが経験したのは二十年以上前に家族で夏休みにハワイに行った一回きりである。残念ながらその時の記憶は断片的で、夕方に家族三人でパスポートの写真を撮りに行ったことと、現地の空港に降り立ったときの陽光の強烈さ、バスで移動していたときのスコール、キラウエア火山の神秘くらいしか憶えていない(それくらい憶えていれば充分だと思うけれど)。国内旅行でも飛行機に乗ったのは少なくとも中学に上がって以来一度として記憶にない(我が中学高校は修学旅行でも校長の方針で新幹線移動に固執していた。曰く「飛行機では万が一の際、全員死ぬ」)。何が言いたいのかというと、実務的な面でぼくは全く役に立たない人間であるということだ。

一方で相方(妻は自分のことを文中で言及する場合、ジェンダーフリー的観点から「相方」と呼び習わすよう指定してきたためここに注釈しておく)は中国文学を専攻していたこともあって海外の滞在経験もあり、現在でも勤務先が一年に一度義務付けている一週間の休暇を利用してイタリアだのオーストリアだのいろいろと行っているため海外旅行については造詣が深い。

そんなわけでぼくは海外に行くにはパスポートを取らなければならないというところからご教示たまわり、春先に仕事が一段落したところで池袋はサンシャインにあるパスポートセンターへ足を運んだ。そしてまた、パリとウィーンに行先を定めると、同じく池袋にある旅行代理店に赴き航空券のチケットと宿泊先を確保する。ぼくは旅行代理店というのはツアー企画をやっている会社だと思い込んでいたので(したがって繰り返すようだがぼくと旅行代理店との間にはこれまで一度も接点がなかった)、相方がてきぱきと担当の社員と旅の輪郭を決めていく横でただただ感心して肩身を狭くしているしかなかった。まあ、世の中の夫婦というのはかくして役割を自ずと分担するのである(ぼくの役割はまだ巡ってこない)。

3 第一日目(2012/7/14土曜日)

飛行機の搭乗には出発時刻の二時間前には空港に着いて手続きを開始していなければならないという世間の常識を知らないぼくは、午後一の便だからのんびり朝寝坊ができるなどと甘い考えを直前までいだいていた。「成田までどうやっていくつもり?」という相方の一言でぼくはようやく、この旅行を具体的なものにするべく池袋から成田までの交通手段をインターネットで検索する。列車やバスの発着時刻を彼女と相談していく中で、ぼくは自らの誤謬に気づくことになる。二時間も前に行ってなにをするのだろう?

結局、朝は六時半に起床すると池袋のホテルメトロポリタンまでタクシーに乗り(「本当に」旅行に行くのだ、行けるのだという実感をようやく前日の夜に会社を出てから強くしたぼくは、朝タクシーを拾えなかったらどうしようなどといつもの心配性を発揮しタクシー会社の電話番号を携帯電話に登録したのだけれど、実際はすぐに山手通りで拾うことができた)、そこから出ている成田行きの直通バスに乗り込む。このバスは予めインターネットで予約しておけば当日発着地であるホテルでお金を払って乗ることが出来る。ロビーは母国へ帰るらしいアジア系の外国人で溢れていて、日本から出ようとする日本人はむしろ少数派だった。皆ぼくたちと同じように大きなスーツケースを抱えているが、どこか疲れた顔をしている。

東京から成田へ行くには当然ながら東関東自動車道を通る。以前鹿嶋に住んでいたぼくにとって成田といえば時々買い物に出たりしていた懐かしの地でもある。高速道路に入ると見慣れた名前のランプやインターチェンジを通過するたびに一人で妙にわくわくしてしまう(これが社畜根性というものか)。が、隣りに座る相方は既に乗り物酔い防止の薬が効いてきてぐっすりと眠っている。朝の道路は混んではいないけれど、やはり一時間以上は成田までかかる。空港の周辺だけはショッピングセンターがあったり色々と栄えているようにも見えるけれど、少し離れれば畑が広がる普通の郊外田舎町である。そうでなければこんなに広大な用地を滑走路に充てるなんてことはできないだろう。

ぼくはいつも思うのだけれど、航空会社や空港といったところはなにか軽やかで、繊細で、洗練されたイメージを振りまいているけれど、実際は滑走路拡張には血なまぐさい闘争があるし、飛行機を飛ばすには燃料の国際的な調達リスクにさらされているし(サーチャージって!)、地方であれば自治体とのしがらみもあるだろうし(茨城空港はちゃんとペイしているのだろうか…)、ずいぶんとドロドロとした世界に片足を突っ込んでいる。むしろだからこそ、イメージを先行させるのだろうか。

閑話休題、ようやく十時前に空港に到着すると再びスーツケースをゴロゴロと転がしながらターミナルの中へ入っていく。高い天井の広く大きな空間の中に様々なカウンターが並んでいる。ぼくは根っから何かに並ぶという行為を好かないのだけれど、旅行代理店から送られてきていたイーチケットのバーコードを自動券売機にかざしさえすれば自動的に航空券が発券された。そのあと荷物を預けて、セキュリティーチェックを受ける。そのまま地下階へ降りて出国審査を受ける。ぼくのまっさらなパスポートにようやく一つ目の出国印が押される。

今春就航したばかりだというエアバスA380は二階建てのジャンボジェットである。ぼくたちはエコノミークラスだったが二階の最後尾に席を指定されていた。おかげで搭乗した際にビジネスクラスの立派な椅子が並ぶデッキを通過しなければならなかったのだけれど。どうでもいいことだがファーストクラスは良いとしてもなぜ二等席をビジネスクラスと呼ぶのだろうか? 相方は航空会社にとっての「ビジネス=収益性の高い」になる席だからだと言っていたが案外そんなものかもしれない。

定刻通りに飛行機は飛び、結論を先に言えばパリはシャルル・ド・ゴール空港には三十分程度早く到着した。フライト時間は約十二時間である。この間の出来事についてはあまり心踊るものはない。乗り物酔いがひどい相方は機内に乗り込んで最初の食事を終えるやいなや、空気枕を膨らましてタオルをかぶり完全に就寝の体勢である。一方でぼくは(自らエコノミークラスを選択した以上は狭いとは言わないが)高速バスのシートを少し広げたくらいの座席に座ったまま眠ること能わず、リキュールをくいっと一飲みしても慣れない高度によるものなのか頭がズキズキと痛み、そのうち座り疲れておしりや腰が痛みはじめ、なんとか機内のモニター画面で数独やら映画やらに意識を集中させようとするも途中で画面がフリーズしてしまい使い物にならなくなる(この惨事は帰りの飛行機の中でも起こった。後述する)。窓のシェードも閉められ明かりも頭上の読書灯だけ。なんとか持参の文庫本で時間が過ぎるのを待つ。まんじりともせず、という言葉がお似合いである。

パリ到着まで一時間となると、機内の明かりも灯り二度目の食事が供される。相方ももぞもぞと起き始める。既に窓の下には地面が見える。雲の隙間から緑色と茶色の大地が見える。おいおい、これでは飛び立ったとき眼下に見た成田の田舎風景と同じじゃないか。けれど、すぐにぼくはその地面が視界の遙か先まで続いていることに驚く。地平を遮る山も海も無い。地形の高低がないのだ。そう、ぼくたちは大陸の上を飛んでいるのだ。

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現地時間では午後七時なるも高緯度の夏はまだまだ明るい。薄暗がりが続くというのではなく、昼間の明るさがそのまま持続しているのだ。入国審査を受け、パスポートに二つ目の印を押してもらう。係員はほとんどぼくの顔を見ておらず、隣でちょっと色黒のアジア系の女の子が色々と質問を受けては口論のようになっているのを気にしている。日本のパスポートの威力を妙な形で実感してしまう。

空港からは予約しているホテルへタクシーで向かう。乗り場へ行くと後から後からタクシーがやって来る。日本のようにセダンに会社によって統一したカラーリングを施したものではなく、いろいろな車がそのままの姿で走っている。ぼくたちの運転手は東洋系と見紛ういぶし銀風のスマートなおじさま。ひょいひょいとハッチバックのトランクの中にぼくたちの荷物を積み込むと「乗れ!」と顔で表現してくる。グーグルマップで調べてきた目的地周辺の地図を見せると、ホテルの名前だけですぐに飲み込んだらしい。さほど大きくはないところを予約したので分かりづらいかと思ったが、この運転手がベテランなのか小さくとも案外有名なホテルなのか。

パリまでの高速道路の周辺は背の高い団地風の建物がまばらに立つ。その壁面には大きな広告が垂れ下がっている。本当に、三十階建てくらいの建物の壁面が一面ひとつの広告になっているのだ。あまり人が住んでいる気配はしない。けれど誰かは住んでいるのだろう。その色あせた古い石積みの団地と、巨大広告のカラフルな自己主張との深いギャップに、ぼくは少しだけフランスという国の持つ矛盾の一端を感じる。パリの暴動が起きたのはもう何年も前のことだが、それを歴史と呼べる段階にはまだまだ無いはずだろう。高速道路を囲う低い壁の向こうを、時速百三十キロの車の中からぼくたちは眺める。

パリ市内に入ると迷路のような道路が続く。いつ建てられたかも分からない古い石造りの似たような建物が密集している。車道があり歩道があり、そしてすぐに建物の壁面である。ちょっとした庭や公園のようなものは観光地を除けばほとんど無いので、まさに建物が密集するその合間を縫って道路が走る。いぶし銀は時々のろい車に対してなにか恨み言を申し述べながらも着々とホテルへ車を運んでくれる。

ホテルに着くとロビーはワンルームマンションくらいの広さで、想像通り街中の小さな、けれど趣きのあるホテルである。受付のスペースにちょっと浅黒い太ったおじさんが座っていて、こちらが名乗る前からぼくの名前をものすごいテンションで読み上げてくれる。バウチャーと引換にカードキーを受け取り、ようやく部屋で一息つく。

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しかしなんといってもまだ明るいのだ。九時前くらいだったと思うが、このまま就寝するにはなんだか惜しい。ということでさっそく外に出る。エッフェル塔まで行ってみることにする。

パリ市内の移動手段はなんといっても地下鉄である。ホテル最寄りの地下鉄の駅(あとでもっと最寄りの駅があることに気がつくのだが)からエッフェル塔近くのビルアケム駅までの乗り継ぎを紙に書き出して、それを頼りに出かけることにする。ガイドブックに載っている地下鉄の路線図は滞在中ぼくにとってはもっとも活用したページである。東京同様にパリの地下鉄路線にも幾つかあり、色を分けて番号が振ってあるので(たぶん一号線、二号線と呼ぶんだろう)フランス語を解さないぼくたちにとっても非常に分かりやすいものだった。

しかしながら地下鉄の扉が手動であり、外からも中からも「取っ手」をくるりと上に持ち上げることで開くということを飲み込むまでは勝手がわからず、誰かが開けてくれたドアに走って飛び込むということを繰り返すことに。地下鉄についてもう少し概要的なことを述べると、改札にもホームにも駅員のような人は一切おらずカルネと呼ばれる回数券を自動改札機に通せば後はどこで降りても降車時に検札されることはない。とは言えこの自動改札機は金属でおおわれたずいぶんと無骨なもので、通した切符を取り出してから回転バーを下ろし、さらにまた簡易式の扉を開けてようやく向こう側へ出ることが出来る。自動改札機についてはこの後のウィーンでその公共というものに対する捉え方の違いに驚愕することになるのだが、とにかくパリでは改札の向こう側へ人間を通すのに二重の扉をくぐらせる。これがこの地での公共哲学である。

さてビルアケム駅で降りるとものすごい人である。それもそのはず。今から約二百年前バスティーユ監獄が襲撃されたのがこの日、7月14日であり、現在では革命記念日、日本ではパリ祭などと呼ばれる祝日なのである。駅からエッフェル塔までの歩道は人で埋まっており、途中から全く動かない。塔そのものはすぐそばに見えるので、裏側から回ってなんとかあの四本の足元までは辿り着こうと回り道を試みる。すると前方で警官だか警備員らしき人間が立って行先を制限している。歩行者の中には警備の向こう側へすいすいと行っている者もあるので、しばらく何をやっているのか観察しているとどうやら彼らは通行人の鞄の中をチェックしていて、問題のない人間だけを通行させているようだ。これも革命記念日ならではなのだろう。今も尚ルイ十六世に恨みつらみを持っている残党がいないとも限らない。ぼくたちもニコッと笑ってかばんのチャックを開け、無事にエッフェル塔の真下まで足を運ぶことができた。

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高い。そして重厚である。ぼくはこの旅行に出る前、ロラン・バルトの『エッフェル塔』を読んできたのだけれどたしかにこの建造物はまさに純粋な祝祭的モニュメントである。憲章も目的も意義もへったくれもない。近代的技術の結晶である鉄筋という素材が、芸術的なカーブを描いて天へと突き出している。もうただ、それだけなのである。メタファーもリリシズムも唯物論も無い。後にも実感することになるが、パリにおいて高い建物というのは本当にエッフェル塔くらいのものなのだ。それがある前と後とでは、たしかに景観に対するパースペクティヴは激変するだろう。エッフェル塔は今でこそ歴史的観光資産として不動の地位を築いているけれど、その存在感の大きさを目の当たりにすると建造当初賛否両論を巻き起こしたというのもうなずける。

既に塔に上る窓口は閉まっていたし、人ごみもすごいのでぼちぼちぼくたちは夕食をどうするか考えなければならなかった。道沿いのビストロはどこもお祭りで外に出てきた人達でいっぱいで、今日フランスに到着したばかりのお上りさんが腰を落ち着けるべき場所はないように見えた。仕方なく駅まで戻るとテイクアウトのサンドイッチを売る店があったので(これも今日のお祭り騒ぎのための出店だ)そこでいくつか包んでもらい、人ごみを後にする。まあ機内食も食べていたのでそこまでちゃんとした食事でなくとも良かった。ホテルに戻ってからそのパンを食べ、布団に入るとすぐに眠りがやって来る。外はなおも明るいので分厚いカーテンを閉める必要があった。眠りの向こうで花火の上がる音がドンドンとしていたけれど、それを見るためにベッドから出る気力も体力も既に残っていなかった。

4 第二日目(2012/7/15日曜日

二日目も快晴である。朝食は七時からと言われていたのでだいたいそれくらいに一階(正確には「一階」ではない、グラウンドフロアだ)に降りていくと客は黒人のカップルしかいない。時間が早過ぎるのか、このホテルが閑散としているのかわからないがとりあえず好きな席を確保する(黒人カップルとはその後地下鉄の駅でも見かけた。だいたい行動パターンが同じのようだった)。

ビュッフェ形式とは言っても本当に普通の家の台所のようなところにパンやらヨーグルトやらチーズが並んでいるだけである。けれどあたたかいコーヒーはたっぷりと魔法瓶に準備されているし、とにかく当地にやってきて初めてまともな食事にありつけるということもあってぼくたちはもりもりとフランスパンにチーズとハムを乗っけては平らげていく。やはり農業国家フランス、パンもさることながら乳製品についても申し分ない。置いてある市販のパッケージ製品でも、なかなか日本で味わうことのできないものが多かった。

ぼくたちの旅行はぼく自身が旅慣れていないということもあってあまりかっちりとしたスケジューリングはせずにいた。ただし美術館の休館日は予めチェックしておき、また予約が必要なものについては日本からインターネットで席を確保しておくという段取りを踏んだ。したがって朝食を食べ終わって「今日は午後からオペラ座だからそれまでどうしようか?」ということになる。ぼくたちはとりあえず午前中をオルセー美術館で過ごすことに決める。早速地下鉄の路線図を見てどこで何号線に乗り換えればいいかを頭に叩き込む。旅の前半ではこれがぼくの重要な役割となった。

開館三十分前に着くと、既に入口の前では行列ができている。各国からの旅行者だ(並んでいたバックパッカーの一人が係員に「そんな大荷物を預けるロッカーはないよ」と列から外されていたのが可哀想だったけれど)。オルセー美術館は印象派の名画をほぼ網羅していて、ルーヴルほど大規模ではないが半日つぶすにはなかなかもってこいの美術館である。元々が駅舎であったものを改装しているので作りが非常にユニークで、入ってすぐに広がる天井までの吹き抜けの大空間がとても気持ちが良い。モネ、ゴッホ、セザンヌなど見て回るとあっという間に午前中が過ぎ、館内で昼食を取ることにする。ちょうど大時計の裏側に位置するそのカフェ(名前はなんと発音するのか不詳)では大時計の運針も見え、また文字盤がガラス製なのでその向こうを流れるセーヌ川も見下ろせる。こういう所の食事だからとたかをくくっていたけれど、注文したカルパッチョは実に美味しかった。まあ、フランスにわざわざ来て食べるものでもないのだろうけれど。ついでに言えばウェイターも上機嫌に「オイシカッタデスカ?」と日本語で話しかけてくるのが(いやしかしそれだけのことでなぜだか)嬉しいものである。

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昼食後はオペラ座へ地下鉄で移動。午前中はちょっと曇りがちだったがオペラ駅について地下からの階段を上がると、強い日差しがぼくたちを出迎える。しかし暑くはない。乾いた空気の中を乾いた光が直接大地を射る。よく言われるように、日本のじめっとした暑さではないことを実感する。午後二時半からの公演を予約してきたのだけれど、一時間前でもまだ正面玄関は開いていない。公演のポスターが柵の向こう側から貼りつけてあるだけである。本当に今日ここでこれからバレエが開催されるのだろうか? といぶかしんでしまうくらいそっけない。

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日曜日なのでオペラ駅の周囲に集まっている百貨店も閉まっているため時間をつぶすところも見つからず、仕方なくオペラ座の建物周囲を歩いてみることにする。さすがに立派な建造物である。日本で普段目にする高い建物というのは基本的に等質の階層スラブがいくつ重なりあったかで価値が決まる。つまり30階建てよりも40階建てのほうが当然高い。けれどパリの建物は──というよりは古い建造物というのは人間の身長を基準にしてなどいない。高くそびえる石柱があり、見上げるばかりの吹き抜けがあり、とても手の届かないところに照明がある。そしてまたおそらく開け閉めすることを想定はしていないのだろう巨大な窓がある。オペラ座はさらに様々なモニュメンタルな彫刻を身にまとい、まさに壮麗という形容詞を独占する。

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半周程度回ったところで裏口に出くわす。なにやら機材を運びこんできたらしいトラックが敷地内に停まっているので、楽屋口のようなものなのだろうか。中をのぞいてみると団体の観光客が押し寄せていて、がやがやとやっている。とりあえずぼくたちも公演のスタートが気になるので案内が出ていないか見るため中に入ってみる。けれど係員が「ノーロビー! ノーロビー!」と怒鳴っているのであまり歓迎される様子ではない。結局のところ、団体客はオペラ座の中を見学したかったらしいのだが、今日は受け付けていないということでもみあっているようだった。

ぼくたちも特に収穫はなかったので再び周囲散策に戻る。やがてオペラ座のお土産屋が開いているのが見えたのでそこで時間をつぶすことにする。商品を眺めながら店の奥へと進んでいくと、突然開けた空間に出る。よく見れば正面入口から入った大階段の下のロビースペースと地続きになっていて、しかもぞろぞろと観客らしき人が並んでいるではないか! やっぱりバレエはあるのだ。そして既に開場となっているらしい。ところがここが融通のきかないところで、お土産物屋からロビーへは入ってはいけないと立て札がある。仕方なくぼくたちはお店を出て階段を降り、正面玄関までまた戻って同じ場所にもう一度入り直さなければならなかった。しかもさっきまで晴れていたのにこの時だけにわか雨が降り出す始末。幸い折りたたみ傘は携行していた、相方が。

切符を受け取って中に入るとタキシードをびしっと決めた係員が案内してくれ、いよいよホールの中へ。シャガールの妙にツーリスティックな天井画を除けば、そこは話しにしか聞くことができなかったオペラ座そのもの。ぼくにとっては2004年に映画化されたロイド・ウェバー版「オペラ座の怪人」が印象としては強烈で、相方も宝塚版「ファントム」を見ているため(これはぼくも連れられて見に行ったけれど、同じルルーの『オペラ座の怪人』を原作としながらもウェバー版ともまるで違う話である。最初、ぼくたちは「オペラ座の怪人」にいくつかのバージョンがあることをまったく知らず、お互いに同じ作品の話をしているつもりでまるで噛み合わなかったのをよく覚えている。シャンドンって誰? シャニュイじゃないの? 云々)オペラ座の中を実際にこの目で見られるというのは実にこの旅行の中ではビックイベントなのである。

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公演は「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」、日本では「リーズの結婚」として親しまれている作品である。と、いかにも知ったような紹介をしたがもちろんぼくはタイトルも初めて聞く作品である。とにかく日本でインターネットで検索したら取れるチケットがこれだけだったのだ。まあ何でもいいからとにかく中に入ってなにか見られればいいやと思って予約したのだが、オペラ座の入り口で買ったパンフレットを読んでみるとパントマイムに近いバレエで、農民たちの結婚をめぐるドタバタ活劇のようなものらしく、とにかく難解高尚で前知識が必要なものではなさそうだった。

第一幕が始まるやいなやニワトリに扮した男達が妙なダンスを踊りながら登場し場内は笑いに包まれる。冒頭で既にこの物語は笑って見るものなんですよ、と教えてくれる(優れた作品は得てして早いタイミングで自らのルールを示すものだ)。ニワトリは同時にこの物語の舞台が農村であることも示す。主人公リーズは愛し合っている村の男がいるが、頭のネジが一本抜けた別の結婚相手を母親が連れてきてしまう(お金持ちの息子のようだ)。なんとか自分の思い通りに結婚させようとする母親と、そこから逃げようとするリーズ、リーズに会おうとするも母親の様々な妨害に会う村の男、ひとり超然と間抜けな行動を繰り返すフィアンセ。言葉は一切無くとも、バレエという枠組みの中で(歴史的にも初期のバレエなのでいわゆるクラシックバレエとは違うけれど)しっかりとした物語を伝えてくる。その技量に感服する。このオペラ座に集った東西の老若男女が同じものを見て、同じように腹を抱えて笑う。その事自体にぼくたちは身体の底から震えるくらいに感動した。

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オペラ座の余韻に浸りながら、終演後再び立派な大階段を下り外に出るとぼくたちは座って休める場所を探す。劇場付設のカフェは信じられない値段だったので(だからものすごい空いていたのだが)、道路を渡って少し歩いていると空いている店が見つかる。コーヒーを飲みながらこれからの行動を話し合う。とにかくまだ夕方の五時で、日が暮れるまでにはまだ6時間近く残されているのだ。実はぼくたちはオペラ座に入るために正装とは言わないが一応それなりの格好をしてきていた。そしてついでに言えば外は風がけっこう強くて、同じ時期の日本では考えられないが「寒い」のである。この時期のパリは20度を少し上回るくらいが平均気温である。そこでとにかく一度ホテルに戻って着替えることに決めた。

ホテルに戻ると例の受付のおっさんがなにやら話しかけてくる。聞けば最終日に空港までのタクシーを呼んでやると言う。ありがたい申し出だ。ぼくたちは今日の残りの時間をどう使うかにしか思いが及ばず、明後日のことなどまったく頭の外にあった。夕方の飛行機でウィーンに行くので午後二時に呼んでもらうように頼み、前金として半額を支払う。

動きやすくまた少し暖かい服に着替えるとぼくたちは今度はシテ島へ向かう。シテ島とはセーヌ川の中洲の一つで、ノートルダム大聖堂があることで有名だ。これに上ろうというのが次なるぼくたちの目的である。その名もシテ駅まで地下鉄で向かう。細かな乗り換えもこなし、なかなか地下鉄の移動も板についてきた。ホームから地上へ上がるとただの広場に出る。島と言っても中洲なのであまり「島」感はなくただの陸の続きのようである。駅の出口のすぐ横では長屋のような低い建物が続いていて、花を売っているようだった。鳥の声も騒がしかったので小鳥も売っているのかもしれない。しかしここに来てノートルダム大聖堂へ行く道筋がわからない。島の真ん中に投げ出されても、どちらが北で南かが皆目検討つかない。周囲を見渡せば、高い尖塔が見えたのでたぶんあれだろうということで歩いて行ってみると、なにやら工事中の柵も立っていて観光客らしき人も全くいない。これは多分違うと思い川沿いに立って通りの名前を確認しながら地図を逆さにして見るとどうもやっぱり反対側だったのでは……。冷たい風はびゅうびゅう吹いているしここからの近道もよくわからないので、駅前まで戻り反対側の道を歩いていくことにする。こういう時はなんとなくぼくたちの間にもお寒い風が吹き荒れて、黙りこんでしまう。けれど間もなくノートルダム大聖堂がその雄姿を(いや、この表現はいささか不正確だ。ノートルダムとは「我らの貴婦人」という意味だからだ)ぼくたちの目の前に見せると、すこしだけ体温を取り戻したような気持ちになる。

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正面の立方体を積み重ねた「顔」とその後ろに連なるたおやかな聖堂の胴体。一方で骨のように突き出た尖塔がこの聖堂に様々な表情を与える。内部へは長蛇の列に並んでのろのろと進んでいけば見学することもできたが、あまりに混んでいたし、ぼくたちはまず尖塔に上りたかった。案内板を見てみると尖塔への入り口は別にあるらしく矢印が書いてある。そこで矢印の方向へ歩いていってみると、行けども行けどもそれらしい入り口が見つからない。そればかりか、アンケートに答えて貧しい子供たちにお金を! みたいな人に声をかけられてしまう(無視して振り切ったけど)。結局聖堂を一周してしまう。おかしいなと思ってさっきの案内板に戻ると、その矢印はどうやら「この方向に進め」という意味ではなく「入り口はここだ」という意味のようで、確かに案内板のすぐ横に扉がある──しかしそれは厳重に閉じられている。よくよく読んでみると曜日によって開放している時間が異なる。もちろんそのことはガイドブックにも載っていて今この時間は空いているつもりで来たのだけれど、見比べてみるとガイドブックの表記と案内板の表記とが微妙に異なっている! いずれにせよ、今この時間は尖塔に上ることができない、というのがようやく得られたぼくたちの結論であった。どうもシテ島はぼくたちを歓迎してくれないようだ。

こうなると事態の悪化を防ぐためにはなにか暖かいものを食べるのが一番である。ちょうどお腹も空いている。相方は行ってみたい店があると言う。モンパルナスにクレープ(ガレット)屋が軒を連ねる通りがあり、その中に日曜日でも開いている超人気店があるらしい。とにかく一刻も早くシテ島を出ることに決める。

「クレープリー・ド・ジョスラン」はエドガー・キネ駅を出てすぐのモンパルナス通りに店を構える。既に店の中はいっぱいで、四組くらいの客が外で並んでいた。この通りにはガレットを食べさせる店が他にも、それこそ通りを挟んだ反対側にもあり、そこに入ればすぐにでも座れるようだったが、やはりここまで来たからにはうまいものを食べたい。ぼくたちは列の最後尾に並び、店の外壁に貼りつけてあるメニューを眺める(日本語も併記してあった。確かに食べ終わって中から出てくる客の中にも日本人が幾人かいた。有名なのだろうか?)。なかなかおいしそうな品書きが並ぶ。

ようやく店内に案内されると、これは本当にギュウギュウ詰めである。ぼくたちは横に並んでいる机を前に引き出してもらって、ようやく奥に座るというような格好になった。後ろも隣もワイワイとガレットをほおばりながらおしゃべりに夢中である。お店の人も5~6人くらいいたのかもしれないが、間断なく繰り出される新たな注文受ける人、それを厨房でひたすら焼き続ける人、焼き上がるやいなやお客のところに運ぶ人、狭い店内でてんてこ舞いである。ぼくたちは二枚のガレットとシードルを一瓶注文した。本当は甘いデザートのようなガレットも頼みたかったのだが、三枚目は注文を拒絶されてしまった(理由はよくわからない)。しかしぼくたちの胃袋には結果として一人一枚で充分だった。隣に座っていたカップルは既にシードルを一瓶空け、めいめい二枚目のガレットを注文していたけれど、驚くべき食欲である。ぼくたちはシードルも飲みきれなかったけれど、とりあえずおいしいものでお腹が膨れたところでお店を後にした。

お店を後にした、などと簡単に書いてはみたもののこの「お店を後にする」という営為がいかに困難を極めるかを少し述べたい。つまりはお会計の話である。欧米圏が主としてそうなのかもしれないが、注文を受けた人間が勘定までを担当し、また会計はあくまでもテーブルで行うのが慣例である。だから例えばこちらがもう食べ終わってお会計をお願いしたくとも、注文を受けてくれた人が別のことで忙しくてなかなか姿を見せないとこちらが待つことになる(このガレット屋ではまさにこのパターンであった。「チェックプリーズ」と頼んでもおばちゃんが忙しすぎて走り回っていて、通じたのかどうかさえ怪しいものだった)。カフェなどに入ったときには似たような顔姿の店員がたくさんいるので一体誰に注文をしたのか不安なる時もある。あの人だったか、いや、たしかあの人だったはずだ……と、クレジットカードを手のひらの上でちらちらと見せながら目だけはジロジロと店員の顔を眺めるなんてことにもなる。別の人にお願いしようものなら「今くるから待ってな!」てな感じでいなされるのが落ちである(本当にそういう場面を何度も目撃した)。注文を伝えるのはメニューを指さしてこれこれ! と言っておけば通じるが、いざ食べ終わってお会計というステージになると郷に行っては郷に従わざるを得ず、慣れるまでなかなか気をもんだ。この後行くウィーンではさらに難易度が高く──という話はまた後述する。

さて空腹が満たされたぼくたちはモンパルナスにもう一つの名所を見出す。その名もモンパルナス・タワー。これはパリには珍しく近代的な高層ビルで普通のオフィスビルとして使われているのだが、56階と59階(ここは実質屋上)とが一般に公開されている。シテ島でノートルダム大聖堂に上れなかったぼくたちは、せめてもの慰みにと入り口でチケットを買い、エレベーターに乗り込む。酒の弱い相方はシードルのおかげでさっきからしゃっくりが止まらない。56階まで一気に上りつめ、展望台に到着する。入り口では「ようこそ写真」というのを強制的に撮らされた。あとで外の景色と合成して記念写真として売りつけられる算段だ(ここのカメラマンは何故か日本人の女性であった)。ガラス張りの展望台からはパリの全景を見渡すことができる。あと二時間くらいで陽が沈む時間帯だったので、多少は夕陽めいたオレンジ色の光に展望台はつつまれている。夜景というものも一度は見てみたかったけれど、そんな時間までいたらちょっと地下鉄で帰るのは怖い。さらに上の59階へは階段で上ることが出来る。ここは屋上をガラスの柵で囲ったなかなか粋な場所で、しかも柵にはスリットが付いているのでそこから直接景色をカメラにおさめることが出来る。東西南北どこを向いても見渡すかぎり大地が続く。そして夕日の沈む方向には唯一ランドマークとしてエッフェル塔がそびえる。それは実に俗っぽい景色だけれど、そういうピクチャレスクさにぼくたちはやっぱり不思議と惹かれてしまう。頭の上を気持ちの良い風が吹き抜けていく。

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5 第三日目(2012/7/16月曜日)

三日目は夜にオプショナルツアーとしてムーランルージュを見に行くことだけ決めてある。あまり美味しくないという評判のディナー付きだが、ひとまず夜御飯の心配は要らない。パリも丸一日堪能できるのは今日で最後である。ひとまず午前中はルーヴルへ行くことにする。とにかく日本にいる頃からいかに安く、速くルーヴルを攻略するかに頭を悩ませていた。オルセーなど他の美術館と共通で使えるミュージアムパスというのも購入を考えたがいまいちどこで売っているのかが予測がつかない、かつそんなに安いものでもないので予定を立てずに行った先でうまく使いこなせるか自信がなかった。またあるガイドではルーヴルの当日券も自動券売機ならそんなに並ばずにチケットを買えると書いてあった。しかしこの自動券売機がルーヴル美術館のどこにあるのかがいまいち判然としない。結局いろいろな情報に惑わされて混乱するより、とにかく昨日のオルセー美術館のように朝一で並ぶという真っ向勝負で挑むのが一番確実だという結論に達する。

というわけでぼくたちはいつものようにフランスパンとヨーグルトとチーズと生ハムという朝食を終えると、地下鉄に乗って目的地の駅まで行く。パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーヴルという長たらしい名前の駅で降りると、通常の改札口とは別に「こっちから直接ルーヴル美術館に行けるよ」という通路がある。これで少しでも時間短縮できると思って抜けていくと、地下のショッピングモール(もちろんまだ九時前なのでどこも開いていない)に出る。これがまた迷路のようでなんとかルーヴルの地下の入り口らしきところまでたどり着くと(天井から逆さのピラミッドが突き出ている)、それらしい人は集まっているがなにかこう、チケット売り場に並ぶという雰囲気ではない。看板にはチケットを持っている団体客はこちらとしか書いておらず(たぶん)、どうやら個人でしかも当日券を買いたい人間の来るところではなさそうである(たぶん)。これではどうしようもない。開館時間は刻々と迫っている! 地下をうろうろするよりも地上に出てこの目で入り口を確認するほかないと、地上への階段を上ればかの有名なルーヴルのガラスのピラミッドはすぐ目の前。そしてそれよりもぼくたちの目を射るのは人、人、人……開館を待つ人々のすさまじい長蛇の列。いったいこの最後尾に並んだところでルーヴルの中に入れるのはいつになるのやら、と、げんなりしながらもぼくたちに許されている選択肢は一つしかない。

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全き快晴。日を遮るものは何も無い。すぐ横で噴水が吹き上がる中、じっと待っていると開館時間の九時になる。ここからが正直言って、驚きだった。これが世界中から人を集める観光地のプロフェッショナルたるルーヴル美術館の実力かと舌を巻く事になる。ガラスのピラミッドの入り口が開くと、入ってすぐのところで荷物検査こそあるもののそれが終わればどんどん人がエスカレーターで降りていく。かなりの速さである。少しずつだが着実に列が進む。しかしぼくはまだこの時点では懐疑心を捨てていない。あのエスカレーターを下ってしばらく行ったところにチケット売り場があるはずだ。そこで必ず仕掛かるはずだから、今のこの列の前進もいずれ停止するはずだ、そこからが本当に戦いだ……しかし、列は前進を続ける。止まらない。止まらないぞ……あれ、もうぼくたちも荷物検査だ、エスカレーターで下りるぞ……。

というわけで、九時半にはぼくたちはチケットを手に入れることが出来ていた。エスカレーターを降りたピラミッドの真下のスペースはかなり広く、窓口を二、三持つチケット売り場が複数ヶ所ある。例の自動券売機らしきものもある。とにかく広い空間の中にチケットを買える場所がたくさんあるのだ。あれだけの長蛇の列の最後尾にいながら、ものの三十分で入場できるとは、徹底してボトルネック工程を排除しているルーヴルのすごさに朝から驚いてしまった(ガイドブックにもインターネット上にも、このピラミッド前の長蛇の列を回避するためのあらゆる施策が紹介されているから、その時たまたま運が良かったのかもしれないのだけれど)。

ルーヴルを端から端まですべて見るためには一日あっても足りない。したがって目的をごくごく絞らなければならない。こういうとき相方の作戦は実にうなずけるものだ。それはミュージアムショップに行き美術館のガイドブックを見るのだ。そこには必ずその美術館が所蔵する代表作が図版で載っている。最低限それらを見ておけば、ハイライトとして消化したことになる。ぼくたちはリシュリュー翼をすべてあきらめ、彫刻群を足早に駆け抜ける。ミロのヴィーナスのお尻にため息をつき、モナリザよりもモナリザに群がる人間と厳重な展示風景をカメラにおさめ、メデュース号と民衆を導く自由の女神が横並びになっている贅沢を味わう。サモトラケのニケの前で両腕をあげているおっさんを階段の上から笑い飛ばし、ラムセス2世のうつろな瞳に神秘を感じた頃には既に足が棒のようになり、小腹も空いてくる。まあだいたいルーヴルもお目当てのものは見られたし、空いている椅子に座って体力を回復させながら次の目的地を考える。

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ルーヴル美術館を出てコンコルド広場方面に歩いて行くと、途中にオランジュリー美術館がある。ここにはモネの『睡蓮』のためだけの部屋があり(ぼくもこの展示室が改装されたときの特集をテレビで見た覚えがある)、相方は今回必ず訪れたい場所として挙げていた。お昼は歩きながら何かお店が見つかればということにして、ルーヴルのお土産物屋を物色してから外に出た。朝の長蛇の列はさすがに短くなっている。広場の噴水の縁には各国のツーリストが三々五々座っては腰を休めていて、その横をエッフェル塔の金属製のミニチュアをフープにいっぱいぶら下げた体格のいい黒人たちがそれを売り歩いている。ルーヴルの立て看板には違法なお土産物を買ってはいけないと記されている。この土産物売りたちはとにかくこのルーヴルからオランジュリーまでの間、チュイルリー公園内の至る所にいて、行けども行けども微妙な距離を取りながらすれ違った。断られている光景は見たが、買われている光景は一度として見なかった。彼らは一体どういう組織で、どういう契約でああした物売りをしているのかわからないが、とにかく謎の集団であった。

チュイルリー公園をつらぬく広い歩道をひたすら歩く。真っ白な敷石がまぶしい。ちょうど日比谷公園を50倍くらいにしたようなイメージだろうか。両側に木立が並び、時々オープンカフェのような小さな店もちらほら見える。途中の大噴水の周りでは人々はビーチチェアのようなものに寝そべって日光浴をしたり読書をしたり、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。たかだか一週間の新婚旅行ではなかなか「なにもしないでぼんやりする」という時間をとることはできないけれど、本当にうらやましくなるくらい気持ちの良い昼下がりの光景である。

やがて左手の一段高くなった丘の上に建物が見えてくる。それがオランジュリー美術館のようだ。入り口は反対側だったのでぐるりと建物を迂回する。オルセー、ルーヴルに比べれば実にこじんまりとした美術館である。なんといっても『睡蓮』のための美術館だ。それさえ見られればここに来る意義は達せられる。おなじみの荷物検査をくぐり抜けてチケット売り場へ行く。すると、ぼくたちの前に並んでいた東南アジア系の女子学生が学生証を見せて必死に何か訴えている。たぶん学生だと無料で入れるのだろうけれど、どうやら彼女が持っている学生証が証明書として認められていないようなのだった。一悶着あったけれどやがてあきらめたらしく彼女はしょんぼりと入り口へ戻っていく。その後でぼくたちはクレジットカードを見せ、正規の料金を払い、中に入る。特になにも訴えるべきことはない。ぼくたち以上にパリのこの美術館に来ることなど今後の人生で考えられないであろう貧乏旅行の学生の彼女が、自分の主張を相手に伝える語学力はあるのに、千円にも満たないチケット代を払えずに追い返されるのを目にすると、なんだか寂しい気分になる。まあこれはぼくのロマネスクな空想力が勝手におセンチにさせているだけなのかもしれないけれど、本当に見たい人がいつでも本当の物を見られる世の中になってくれればいいと思う。

その『睡蓮』の展示室は二部屋あり、楕円形の室内にパノラマのように360度をひとつの絵が飾る。天井からはやさしく外光が差し込み、本当にこの絵のためだけの美術館である(ちなみに今思い出そうと思ってグーグルストリートビューを見ていたら美術館の中にまで入ることができる! すごい!)。部屋の真中の椅子に座っていろいろな角度から眺めると、モネの目に映った淡い外光の移り変わりにただただひたることが出来る。お土産物店にも、細長い紙に印刷された絵のレプリカ(絵葉書にしては細長すぎる)が売っていて、記念にこれを購入した。

お昼を少し過ぎていたが、夜のムーラン・ルージュのツアーに参加するにはオペラ座同様、正装で行く必要がある。ぼくたちは着替えるために一度ホテルへ戻らなければならなかったので、お昼ごはんは宿の近くでなにか買って部屋で食べることにした。美術館を出て、あまりに広いコンコルド広場を横断し、地下鉄コンコルド駅からホテルの最寄駅まで戻る。ぼくたちがパリに到着したのは土曜日だったから、平日の街を歩くのは今日が初めてである。やはり圧倒的に開いている店が多い。ちなみに地下鉄でも、閑散とした土日とちがって平日の朝にはバイオリンを弾く流しの女性が何人も駅のそこここにいて、基本的には構内放送のほとんど無いパリの地下鉄にあっては、唯一の音の彩りと言うにふさわしかった。彼女たちは決して貧相な見た目ではない。CDを並べている人もいたから、職業的なストリートミュージシャンのようなものなのかもしれない。

ホテルの最寄駅に着くと、お昼時ともあってどの店も人が詰めかけている。こういった光景をこの付近で見るのは初めてのことだ。キオスクのように出来合いのサンドイッチとソフトドリンクを売る店や、カフェもある。ぼくたちはいかにも町のパン屋さんというたたずまいの店に入り、パンを買うことにした。なんといってもフランスである。ホテルの朝食でも供される焼き立てのフランスパンは大変に美味しい。小麦の国ではパンを食べるに限る。しかし異国でパンを買うのがこうも手こずるとは思わなかった。まず店員のおばちゃんは一切英語をしゃべらない、知らぬ存ぜぬをつらぬく(たぶんこれが世に聞くフランス語を誇りとする生粋のパリっ子というやつなのだろうか)。指をさして「これこれ!」と言っては焼いてもらったり焼いてもらわなかったりを身振り手振りで意思疎通する。しかし最後の難関、お会計の段でレジの向こうの彼女はフランス語でいくらいくらだと言ってくる。数字くらいは勉強しておくのだったと後悔した瞬間だった。相手もぼくがわからないということがわかると、レシートを印刷してくれてなんとか事なきを得たのだが。

部屋に戻ってもぐもぐとパンをかじる。ツアーの集合時刻まではまだ時間がある。せっかく平日なので百貨店などに出向いてショッピングなど楽しみたい。思えば未曽有のユーロ安。欧州経済は危機に瀕しているかもしれないが、我々日本人にとっては絶好の買い物日和。そうは言ってもここまでぼくたちは特にこれといって贅沢な買い物はしておらず、必要なものを必要な分だけ購入してきた、まるで普段の生活と同じ温度で。でもこういう普段の生活の延長というメンタリティは保っておきたいな、とは思う。世間の人達が「新婚旅行」というイベントに対してどのようなコノテーションを嗅ぎつけるのかわからないが、少なくともぼくにとってはここに住んでいる人たちと同じ視点で街を歩き回り、ここに住んでいる人たちと同じ空気を吸い、食べ物を味わうということに特化したこの「旅」が、日常の中の非日常というよりは非日常の中の日常を渡り歩く「地続き」な感じを持っていることに安心する(もちろんそこにはジャンボジェットに半日閉じ込められるという通過儀礼があるにせよ、あるいはパスポートを入れた小さなかばんを常に肌身離さず持っていなければならない緊張感がつきまとうにせよだ)。そういう意味では、少し過ぎてしまった相方の誕生日プレゼントを買うためにオペラ座近くのカルティエまで足を運ぶことくらいの贅沢は、それこそ普段着の生活があるからこそ非日常としての精彩を放つというものだろう(非日常の中の日常の中の非日常、である。しつこい?)。

話を急ぎ過ぎた。ぼくたちはホテルで再びそれなりの正装に着替え(ネクタイを締めるかどうか迷ったが、まあ「裸踊り」をかしこまって観るものでもあるまいと思ってやめた)、再び外へ出る。昨日訪れたオペラ駅まで行くと、やはり買い物に出てきている観光客でごった返している。人ごみをかき分けてぼくたちは目当ての路面店まで行き、目当ての財布を見つけてもらう。日本人のスタッフがおり、免税書類までスムースに作成してもらえた。コーラも飲ませてもらって相方は至極ご機嫌である。よかったよかった。そしてスリ防止というか、お金を持っていそうに見られるのを防ぐためにブランドのロゴが入った紙袋をさらに白い無地の袋に入れてもらえる。このホスピタリティにはさすがに膝を打つしか無い。

それからは土産物店をひやかしたり、ユニクロ(このパリの一等地にユニクロがあるのだ!)で防寒対策をしたり、ふらふらとしてから当地最大級のデパート「ラファイエット」に乗り込む。ここもまたとにかく凝った作りの建物である。グラウンドフロアから天井までの贅沢な吹き抜け。そして見上げれば鉄骨に支えられたガラスの天井。ちょうどパサージュの一角のようである。そして一階より上のショップはまるでこの吹き抜けが劇場だとしたら、ボックス席にあたる場所にずらりと並んでいる。しかしあまり感心して上ばかり向いてもいられない。これがまたものすごい人、人、人なのだ。中国人の団体観光客が各ブランド店舗に列をなしている。これまでパリを歩いていて、ここまでアジア系の顔をおがんだ場所は他にない。経済発展が目覚しいチャイナ・パワーの波はここ欧州のデパートにまで及んでいるらしい。日本の百貨店と同様に(逆かもしれないが)グランドフロアに集められた高級品を扱う店舗には、かばんでも、宝飾品でも、時計でも、みんななにかを買うことに必死な様子だ。まあ、正直に言って高級ブティックに札束抱えたデイパック姿の人間が並んでいるのはあまり美しい光景ではない。けれどついこの前まで、日本も同じことをやっていたのかと思うと全然笑えない。いや、今だってぼくたちは為替の恩恵を被っているのだ。経済の発展は必要なことかもしれない、あるいは歴史的な必然なのかもしれないけれど、勝ち得た資本で次になにをするのかをモラリスティックに、ストラテジックに語る言葉は、今まさに経済力を増大させている中国にも、既にバブルを経験し終えた今の日本にも無いのだろうか。そこに美的観点は無いのだろうか。あるいは稼いだ金はとにかく使うということがむしろ美徳なのか。ぼくは決してレイシストではないけれど、例えばパリで生まれ育ってデパートの店員になった一人の男が、どうして6000キロも離れた場所からやってきた言葉も通じない相手にかばんを売らなければならないのか、なぜこんなややこしい事態になってしまったのか、考えても考えてもすっきりとする回答を得ることはできなかった。もちろんこれは資本主義が勝利したひとつの光景である。けれどわざわざ花の都パリにまで来てかばんを買わなければならない必然性が、「自国で購入するよりも安いから」というだけではあまりにもそれは悲しいことだと言わざるをえない。

ここで少し話がそれるがパリのホームレス、あるいはもう少し広げて「ストリートの人々」についても言及しておきたい。デパートの入口付近で二つの現象があった。一つはストリートミュージシャンが移動式のピアノを据え置いて華麗な演奏を聞かせていたこと。そのピアノの近くには当然ながら小銭の入った帽子が裏返しになって置いてある。もう一つは子どもの人形を前において小銭をせがむ女。一見、ドキッとするくらい精巧な人形で本物かと見紛うばかりだ。彼らの間には柱が一つ隔てるだけである。その間をデパートへ入っていく人と出て行く人とが交錯する。あるいは地下鉄の中でも二つの現象があった。一つは車両に乗ってくるなりスティーヴィー・ワンダーをピアニカで弾き始めるおじさん。彼は特にお金を欲しいという感じではなかった。一方でこれもまた乗車してくるなりいきなり車両の真ん中で大声で演説をぶつおじさん(もちろんフランス語なのでなにを主張しているのかわからない)。ひとしきり言いたいことを言い終わるとちょいちょいと座っている人に小銭をねだって歩きまわる。若いお兄ちゃんは首を横に振るばかり、小さな子供連れのお母さんは財布を開いて少しだけコインを渡す。おじさんは駅に着くととなりの車両に移って行った(たぶん同じことを繰り返している)。あるいは宿泊先のホテル近くでいつも紙コップの中に入れた小銭をジャラジャラと言わせて「くれよ、くれよ」と言いたげに歩き回っているおじさん。観光地と言われる場所には必ず同じように紙コップを振っている中年女性のホームレスの姿が見られた。ぼくはこれらをいま文字に直してみたけど、それでなにが言いたいわけでもない。日本のホームレスが受動的でパリのホームレスが積極的だなんてことを言いたいのでもない。ただ、こういう人が世の中にいるということを見て、目にみえる所にいるということを知って結構ショックを受けたということだけを書き添えておくだけである。

話を戻す。ぼくたちはフードコートに行ってちょっとした飲み物を買い、腰を休める。街中にコンビニがあったり自動販売機があったりするわけではないので、水分は気をつけてとっておかないとけっこう機会を逸して明日の朝食まで飲むものがないということにもなりかねない。動いてもだらだらと汗をかくようなことがないので、かえって知らないうちに水分を消耗して体調を崩してしまっては元も子もない。実は食べ物も米からパンに変わるとガスが出やすく、やたらお腹が張るので変な話だが便意のコントロールがなかなか難しい。朝から外に出るとなるとトイレ事情もなかなか気になる。ガイドブックにも書いてあるけれど、街中にある公衆トイレはいつも人が並んでいるので緊急時には役に立たない。駅にもトイレはないので基本的に美術館やレストランのトイレをよく利用した。行きたくなくても行っておくのが肝要である。ちなみにここラファイエットだったか隣のプランタンだったか忘れたけれどデパートのトイレは有料で、「ラクシャリートイレ」と銘打ってあるのでさぞ豪華なのだろうと思ったのだけれど、入ってみるとなんでもない本当にただのトイレだった。

さてデパートのもうひとつの楽しみといえば屋上である。ぼくが子供の頃はデパートといえば屋上に連れていってもらったものだが、最近は上れるのだろうか?(余談だがわれらが池袋西武百貨店の「九階、屋上です」というエレベータの案内放送には毎回ずっこけてしまうのだが) ラファイエットは屋上を開放していて、上ってみると小さなフットサル場があったり吹きっさらしの喫茶店があったりとなかなか充実している。観光客もたくさんいて、学生の集団なんかがのんびり人工芝の上に寝そべって日光浴しているのもなかなかのどかな風景である。目の前はオペラ座の後ろ姿。その向こうにはやはりエッフェル塔が見える。モンパルナスタワーに上った時よりも当然ながら高度は低いけれど、デパートの屋上レベルからのパースペクティヴはこれまたなかなかダイナミックなものである。近くのものはより大きく、遠くのものはより小さく。

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だいたいパリの街並みというのは石造りの瀟洒でかつ堅牢な建物が見渡すかぎり居並んでいて、古くからの建造物をそのまま今に引き継いでいる印象が強い。太い文字が踊る派手な看板も無ければ、ネオンサインやスクリーンなどの電飾も無い。全体として「私を見て!」という強い引力を感じないのですごく安心するのだ。相手にコントロールされるというよりは、自分で見つけていく感じがする。基本的に建物は外見にはあまり手を入れないで、例えばその建造物の目的やテナントが変われば建て替えずに内装だけを入れ替えるような使い方をしているのではないだろうか。ユニクロだって、日本であればビルを壊してビルを建ててなんちゃらアートディレクターにきれいにさせたフロアを占拠するのだろうけれど、ここでは古くからの建造物に内装だけを近代的にしてテナントが入る。この屋上から見渡すかぎり、一見似たような外見の建物が並んでいるのだけれど、その中は例えばショップだったり、雑貨屋だったりホテルだったりカフェだったり、様々だ。日本なら、ホテルなら建物全体がホテル然としているし、電気屋と本屋を間違えて入るなんてことはないだろう。けれどパリでは中に入ってみないとそれがなんの建物なのかがなかなかわからないことが多い。こういうふうにパリの建物が、文化として連綿と引き継がれてきたという事実を目の当たりすると感心してしまう。

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ラファイエットにもおそらく昔は使われていたのであろうエレベータがそのまま残っていて、これも鉄筋とガラスとでできたなかなか年季の入った、けれどまったく失われない豪奢さを伝えてくる良いものだった。繰り返しになるけれど、ぼくは別に日本が使い捨て文化だからそれが良くないとかそういうつまらないことを言いたいのではない。だいたいパリのあの密集地で頑丈な石造りの建造物を壊してまた建ててというのはたぶん、あまりにも非経済的なことだろうと思う。文化の違いというのは、その土地を制限する条件をしっかりと見つめて、その上で一番合理的な選択の相違でしか無くて、根本的になにか理解しがたい思考回路が存在するというわけではないのではないかと、思ったりもする。なにも相違を浮き彫りにして自らを卑下する必要はない。そこにある相違をじっくりと見つめるだけでいい。

ラファイエットの屋上を堪能し隣のプランタンの中もうろうろとしていれば、ムーラン・ルージュのツアーの集合時間まであと少しとなる。これは現地のM社が企画するもので、日本から予約した。主に日本人向けにフランスの観光地巡りをいろいろと企画している会社のようだった。ショーが終わるのはけっこう夜遅い時間なので、ホテルの前までバスで送り届けていくれるというのが気に入り、そんなに安くない金額だけれどパリ最後の夜だし行くことに決めた。ピラミッド駅近くの事務所に入ると、小さな待合室は既に他のツアーの参加者も含めて日本人でいっぱいだ。小団体で来ているらしい集団もあれば、ポツリと個人で来ているらしい学生風の若者もいる。初老の夫婦は定年後の生活を満喫しているのだろうか。日本からはるばるそれぞれ違う事情でフランスを訪れた人間が、パリの中の小さな一角に寄り集まっているのはなんだか不思議な感じだ。

事務所の前にマイクロバスが到着すると、ツアー参加者が呼ばれ次々に乗り込んでいく。ここからムーランルージュまで連れていってくれるのだが、往路のバス内ではベテラン風の添乗員が簡単にこのキャバレーの歴史について簡単に触れてくれる。とにかくこの女性のキャラクターが強烈だった。ぼくは一番前の席で、つまり彼女の目の前で説明を聞いていたのだけれど、とにかく外国で揉まれて強く育ちましたという感じのオーラが全身から溢れ出ていて、右手をご覧くださいと言われてもそう言っている彼女の方ばかり見ていたような気がする。目的地に着き、建物の中へ入る。外はまだまだ明るいけれど、中に入ればそこはナイトスポットと言うにふさわしい雰囲気に満ちている。外の光は全て遮られ、段差のついたフロアに所狭しと机と椅子が並べられている。明かりはそのテーブルの上に並べられた赤い笠のランプと天井から下がる小さな提灯の列。

ショーの始まる前には夕食を食べながら(この味については何も言うまい)前座の歌がステージ上で繰り広げられる。スタンダードな曲もあるのだろうが、ところどころ客層を意識してなのだろう、日本の歌(記憶を頼りにいま検索してみたがたぶんアンジェラ・アキの「サクラ色」という曲だ)が歌われたり、中国のポップスも歌われていた。歌い終わるとある一角が異様に盛り上がって拍手を送る。なるほど、よくよく客席を眺めやれば後ろの方の席をぐるりと占めているのは他でもないチャイナ・パワーである。

やがて照明が落ち、ショーが始まる。これはなかなかのもので、ステージを所狭しと後から後から色々な踊りやジャグリングを展開してくる。蛇の入ったプールに飛び込んだり、ローラースケートを履いた二人の人間が狭い板の上でグルグルと回ったり、メインのトップレスダンスの合間にちょくちょく小ネタも差し挟んでくる。客いじりのコントには心底笑った。無粋だから詳しくは述べないけれど、なにかを見て心動かされたり笑ったりする、そういう「我を忘れる」ということがずいぶん久しぶりのような気がした。

それにしても、あの狭い席でじっとしていられるのは二時間が限度だろう。しかもぼくたちの座っていた席にはなぜだか冷たい風がびゅうびゅう吹き上げてくる通気口が足元にあって、これがとにかく寒くてしょうがなかった。まあお金を出せばステージ前のもっと良い席で見られるのだろうけれど、これにはずいぶん閉口した。帰りのバスはぼくたちの泊まるホテルの前は道が狭すぎて通れないという(本当か?)理由により「あそこがホテルの前の通りですから!」と言われて訳のわからない所で下ろされる。「あそこだな? あそこだな?」と何度も確認して送迎バスを降りる。彼らが行ってしまうとしんと静まり返った夜の街である。黄色い街灯はまばらで、歩いている人影は無い。ぼくは胸ポケットからホテル周辺の地図を取り出し、街灯の下で広げる。自分のいる場所を確認し、言われた道が本当にその通りであることを確認する。ここで道に迷ったら助けを求める相手はどこにもいない。「ここを真っすぐ行けばいいはずだ」 黙々と足早に歩いて行き、ようやく本当にホテルの名前が書いてある「のぼり」が見えてくると、ぼくたちは世界の果てで古くからの友人に巡り会えたかのような安堵を覚えるのだった。

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6 第四日目(2012/7/17火曜日)

パリ最終日である。昨晩遅かったので少しだけ寝坊をして八時に起床。午後二時には空港行きのタクシーに乗らなければならないので、半日はまだ見て回れる。行き残したところはないかとガイドブックを見て、ぼくたちはパリの代名詞である凱旋門、シャンゼリゼ大通り近辺へ行くことにする。朝食を食べ、チェックアウトする。荷物はタクシーに乗る時刻まで預かってもらうことにする。

カルネの残り枚数を数えながら、パリのメトロに乗るのもあと数回かと思えば名残惜しい。とにかく当地に来てよりメトロの魅力に引きつけられた。大抵の駅は半円状の空間になっていて、壁にはタイルがびっしりと埋め込まれている。巨大な広告の合間に駅名の表示が貼りつけてある。前の駅や次の駅が何かなんて書いていない。ここがどこかだけが、そこに白い文字で刻まれている。時刻表示もシンプルだ。次に来る電車が何分後か、そしてその次に来る電車が何分後かの二つの数字だけがぶら下がった電光掲示板に光っている。それ以外にはちょっとした自動販売機と地下鉄の路線図くらいしか無い。だからここは東京以上に「今」という瞬間に留まっているような感触だ。列車は十分と間を置かず次々とやってきては過ぎ去っていく。ドアは素早く開き、素早く閉まる。ぐずくずと駆け込み乗車を許すような余地は全くない。車両も至ってコンパクト。降車駅が近づくと、車内放送は駅名を二度呼ぶのみ(一度目は「次はXX駅だったかしら?」とでも言いたげな上がり調子で、二度目は「ああやっぱりXX駅だった」というような断定的な調子で)。そして人々は「パルドン、パルドン」と言って足早に車両を乗降していく。この速度感は、実に都会的だ。

凱旋門は門の上を屋上のように開放していて、千円程度払えばそこまで上ることができる。ぼくたちは上れるところならたいていどこでも上ることにしているので早速チケットを購入する。さすがに観光名所ともあって朝から混み合っている。地下のチケット売り場から階段を上って外へ出ると凱旋門の足元である(外側から直接はこの門の周囲には渡って来ることができないのだ)。そのちょうど「内くるぶし」の部分から門の内部に入ると、あとはひたすら螺旋階段を上る。これはなかなかの運動だ。踊り場もないので途中ところどころある非常口へのステップの上でひと休みするくらいしかできない。

それにしても凱旋門の中というのが不思議な作りで、天井が二重になっている。螺旋階段を上ってたどり着くのは一つ目の天井裏で、そこは窓も無く薄暗い空間が広がっているのだけれど資料展示をしていたり、凱旋門の真下(無名戦士の墓)を上から映した映像がリアルタイムで流れていたり、ちょっとした規模のお土産屋があったり、トイレまであったりとなかなか設備的には充実している。凱旋門が作られた当初、このスペースがどのような目的で設けられたのかわからないがこういうある種の貪欲さはパリでは珍しいような気がした。屋上へはここからさらに階段を上ることになる。

凱旋門はちょうど四方八方からの道路が交差する地点に当たるので、上からみるとどの方向にも大通りが伸びているのがわかる。シャンゼリゼの大通りは幅員も相当な広さだ。そしてやっぱりここでもエッフェル塔の雄姿が目を引く。優美に、天に向かってすっくと伸びている。編みこまれたような鉄筋の交差は、とても重厚と呼ぶにふさわしくない。近代的な建築技術は、石造りの町の中でその先進性をひたすら押し隠した意匠をまとってそこにある。今のぼくたちの目からすれば、もはやエッフェル塔のないパリの景観というのはなかなかに想像しがたい。

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凱旋門を後にするとシャンゼリゼ大通りへ。日差しが強い。それを遮る木陰もない。ヨーロッパの人たちが大きなサングラスをする理由がよくわかる。あとは適当に買い物をして、どこかで昼食を食べてホテルに戻るつもりだ。

相方に連れられてルイ・ヴィトン本店に入る。収穫虚しくH&Mに入る。ここでもなにも買わず結局「モノプリ」というスーパーマーケットのようなところで黒タイツだけ買う。勇んでハイ・ブランドに駆け込むもスーパーで1000円もしない買物にたどり着くあたりが、ツーリストとしてのぼくたちの限界である。

それにしても(ぼくがこんなことを言うのも全く場違いなのだが)じゃあパリの街行く女性たちはみんな「おしゃれ」なのかと言えばそんなことはないと思う。よっぽど土日の新宿池袋のほうがみんな着飾っているように見える。それを「おしゃれ」と言うのならばそうなのだろう。でも地下鉄に乗って職場へ向かうパリの女性たちが例えば「JJ」みたいな雑誌を毎月立ち読みして次のシーズンはあのアイテムを、なんて考えてモノ選びをしているかというと、たぶん違うんじゃないかと思う。そこには「着飾る=他者との差異を肥大化させる」、あるいはそれに対するアンチテーゼとしての「差異を細分化していく」ようなファッション性とは異なる「おしゃれ」があるように思う。それがどういうものなのか、二日や三日現地に滞在しただけのぼくには表現する言葉がないけれど、世界的なファッションの中心地であるパリで、若い女性たちがある意味では実に地味な格好をしているのを見るとここに通底している哲学はなんなのだろうかと、ついつい簡単に答えの出そうもない問いに頭を突っ込んでしまう。

その後行った「フナック」という本屋というか、パソコンやゲームも売っているカルチャーショップも面白かった。ニンテンドーもたくさん置いてあったし、日本のオタク文化を題材にしたコミックもあった。ぼくはここで記念に『ノルウェイの森』フランス語版を購入。帰国後、フランス語を習得する気力があれば教材にするつもり(これを書いている現時点ではいまだにひもとかれていないが)。

パリ最後の食事はピザに決める。目に入って来たお店が二軒ともピザ屋だったのだ。とりあえずメニューを見比べて、カジュアルな方へ入店する。さっき外から店内を覗いたときに他の人が食べているピザがけっこう大きく見えたのでサラダと一緒に一枚だけ注文する。しかし実物を目の前にするとこれがやはり相当に大きい代物だ(サラダの一皿も相当な量だった)。隣に座っていた親子は一枚ずつ頼んでいたのだけれど、二人ともぼくたち同様半分も食べ切れず、残りはピザ屋の出前みたいなダンボール箱に入れてもらって持って帰っていた(なんだか育ちの良さそうな中学生くらいの男の子とその父親風の二人づれで、男の子は腕に包帯を巻いていたから、午前中に親父さんと一緒に病院に行ってその帰りに「ちょっと景気づけにピザでも食べていこうや」って感じで来店したのかな……とか一人で妄想に耽っていると、なかなか心温まる光景に見えてくるのだ)。

結局これといって「フランス料理」っぽいものはムーラン・ルージュだけだったような気がするけれど、それだって厳密なフルコースというわけではない(まったく、ない)。まあしかし毎日フランスパンは食べたし二日目のガレットもおいしかったので、普段着のパリはこの旅程の範囲であれば充分に味わえたような気もする。

ホテルに戻ると二時少し前で、調度良い時間だった。ロビーにあるソファーに相方と二人で座って、表にタクシーがやってくるのを待つ。開け放たれたホテルの扉の外はずいぶんと明るい。マイクロバスも入れないような通りを前にしているので、車が走り去る騒音もない。静かに、ここで座っていればいい。ただ何かを待つということがずいぶん贅沢な時間の使い方のような気がした。旅というものが原則としてどこかに留まらない営為であるならば、常にぼくたちは次なる目的地に向かって移動をし続けている。そして全行程徒歩というのならともかくも、何らかの交通機関を利用する以上は、他になにをするでもなく何かを待つ時間というのが必ず出現する。時々、ポッカリと。でも大抵の場合、本当に次の電車はちゃんと来るんだろうかとか、ちょっとでも遅れて間に合わなかったらどうしようとか、待っているあいだ何かしら気をもんでいる。この旅で、後顧の憂い無く何かを待つという時間を持つことができたのはこの時が初めてである。

タクシーは二時を少し過ぎてやってきた。サングラスをかけたちょっと強面の、けれど背の小さいところが憎めない感じのお兄ちゃんである。ぼくが前金の領収書を無くしたと勘違いしてちょっと一悶着あったが(ホテル側のカーボンコピーでなんとか事なきを得た)、なんとかタクシーは空港に向かって出発する。と、運ちゃんはシャルル・ド・ゴールのどのターミナルだ? と聞いてくる。そんな情報は航空券のイーチケットにはどこにも書いていない。相方が機転を利かせてガイドブックを取り出し、エールフランスが発着しそうなターミナルを探し当てる。とりあえずその近辺でいいやと思って「2B」と答える。運ちゃんは「to be or, not to be?」とか言ってぼくの発音のまずさを確認する。本当にそいつが問題だ。

実際には「2D」だった。手続きをさっさと終わらせ、椅子でのんびりとコーヒーを飲みながら四時半発のウィーン国際空港行きの搭乗時刻を待つ。もうすぐ「ボンジュール」「メルスィ」の国から飛び立つ。ウィーンの位置するオーストリア共和国はドイツ語圏だ。「ダンケ」に「グリュスゴット」である。頭を切り替えるためにガイドブックを持ち変える。あっという間のパリ滞在であった。

乗り込んだ飛行機は通路の両サイドに三人ずつのシートが並ぶ中型の旅客機で、機内食が出るかと思っていたが二時間のフライトでは飲み物が一度供されるだけであった。まあのんびりと本でも読んで時間をつぶすしか無い。相方は例によって既に酔い止めを飲んでタオルにくるまっている。ぼくの隣に座っていたビジネスマン風の男も、最初のうちはエクセルをぱちぱちと打って仕事をしていたがハイネケンを飲み干すとさっさとパソコンを閉じて寝入ってしまう。まあ、それはそうだろう。飛行機の中というのは制限が多い割りに長い時間を過ごさなければならないので、どこでも眠れるわけではない人間にとってはなかなかに骨が折れる。飛行機はひたすら大陸の上を飛んでいく。途中、ずいぶんと広い湖の上を通過したのはどこの国のなんという湖だったのだろうか……。

ウィーン国際空港は成田やシャルル・ド・ゴールに比べれば非常にコンパクトでカラフルである。ぼくたちは荷物を受け取るとゴロゴロと転がしてとりあえずロビーにまでたどり着く。問題は二つあった。一つは夕食をどうするか、もう一つはここからどうやって予約してあるホテルまでたどり着くかだ。既に時刻は20時になんなんとしている。市内までたどり着いてから食べるお店を探す余裕はなさそうだった。空港にはスパーという大型のコンビニというか小型のスーパーがあって、簡単なサンドイッチやらサラダやらは売っていたのでそこで調達することにする。最近あまり見ないが日本にもあるスパー(ホットスパー)と一緒である。関西出身の相方はこのチェーンを全く知らないらしい。ぼくからすればなんでこんなところにスパーがあるんだ、という感じなのだがいまウィキペディアを見てみると「ヨーロッパを中心に30カ国以上の地域で展開する世界最大の食品小売りチェーン」とある。なんだ、そうだったのか。レジ袋は有料なので、お会計をしてもらうとバラバラのパッケージをボストンバッグに入れる。

次は交通手段だ。既にガイドブックでいくつかの選択肢は確認している。タクシーという手もあったのだけれど、観光客向けに売られている「ウィーンカード」を手に入れれば、電車やトラムが一定期間乗り放題になるし各施設も割引で入ることができるらしい。どうせ明日から色々と見てまわるのだから、72時間のフリーパスを買って、それで今から電車に乗って行ったほうが経済的だろう。

空港のインフォメーションで尋ねてみると隣の窓口でウィーンカードを取り扱っているという。市内に行くには空港を往復する高速鉄道(成田エクスプレスみたいなもの)とSバーンという普通列車との二つの手段があることを教えてくれる。値段の差ほど到着時間にあまり差がないので、ぼくたちはSバーンでウィーン・ミッテ駅まで行き、そこからホテルの最寄駅まで乗り換えることにした。その場でチケットを購入する。このフロアから下に降りるとホームがあり、ウィーンカードは専用の打刻機で日時を印字した時から有効になると説明してくれる。なるほど。ついでにウィーンカードの割引提携先一覧の分厚い冊子と、今月の市内イベント情報をまとめた冊子ももらうことができた。これで今後のスケジュールを吟味することとしよう。カウンターの女性は実に丁寧に、親切に教えてくれる。それが仕事といえばそれっきりだけれど、こういう色々な人が色々なことを言いに来る仕事をきっちりとこなすというのはなかなか並大抵の神経では務まらないんだろうなと、妙に関心しながらぼくたちは乗り場へと続く通路を降りていく。

ぼくたちはパリについてはそこそこ下調べもして、日本で事前にイベントもチェックして予約したりもしたのだけれど、ウィーンではのんびり観光しようと決めていたので、ホテルにどうやってたどり着くかという基本的なことにまでなんたがのんびりになってしまっていた。ところでガイドブックにも載っている打刻機──青い箱状の機械だ──はどこにあるのだろうか? ホームの手前に改札というようなものはなく、ホームの中にも自動券売機があるのみで特にそれっぽい機械は見当たらない。まあ無いなら無いで仕方が無いので、電車を待つことにする。パリとはずいぶんと勝手が違う。路線図を見ても、やはり固有名詞の一つ一つがドイツ語然としている。あまり発音として華やかな感じではない。実直に、必要なところだけつなぎあわせていったらちょっとスペリングが長くなりました、みたいな単語が並んでいる。こういう語感というのは、ぼくにとっては正直なところまったく頭に入ってこない。

列車の車高はずいぶんと高く、プラットホームからぼくたちは重いスーツケースを持ち上げて段差を上がり、車内に乗り込む。客はまばらである。地下鉄のようなホームから外へ出ると、無骨な車両は郊外のただ中を走っていく。右手には化学系のプラントが立ち並び、かと思えば左手には延々と穀倉地帯が続いている。線路をまたいで全く異なる産業が両側に広がっている。ケミカル・ブラザーズ「スター・ギター」のプロモーションビデオみたいな風景だ。高緯度のパリとは違い、既に辺りは薄暗い。そして急に人口密度の低い場所に放り込まれたからなのか、ぼくは列車が市内に入るまでの間、妙に寂しい感情に駆られた。残りの旅程がこの先、うまくいかないんじゃないかと根拠のない自信喪失に駆られた。それはもしかしたら例のホームシックというやつなのかもしれない。けれどその時のぼくにとっては、早く帰って白いご飯が食べたいとかそういうレヴェルの話ではなくて、もっとプリミティヴに言えば飛行機や電車の速度に感情がついていけていないということなのかもしれなかった。パリの陽光に比べてこの列車の周囲を取り巻く物悲しさはなんだろうか。その変化に対して一時的に消化不良を起こしていたのだと今では思う。

ウィーン・ミッテ駅につき、電車を乗り換える。今度はUバーンと呼ばれる地下鉄だ。その入口にようやく探していた打刻機を見つける。通路の真中に柵が立っていて、そこに据え付けられている。柵から先に行くと地下鉄の構内というわけだろう。切符とウィーンカードとを差込口に入れると、チンという音と共に自動的に日付がスタンプされた。

ホテルに着いたのは22時くらいだったと思う。くたくたである。フロントでチェックインの手続きをすると、部屋を片付けるからそれまでコーヒーでもそこで飲んでろというのでありがたくいただくことにする。パリと違って、ちょっと良いホテルをチョイスしたのだ。ロビーのソファも豪華で、調度品もモダンである。そのうち係の人が呼びに来てくれたので部屋へ。入ってビックリする。オーストリアの生んだ偉大なる画家クリムトの絵が枕元の壁一面に居座っているのだから。ウィーン最初の夜はアデーレの肖像画の前でスパーのサンドイッチをつまみながら更けていく。

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7 第五日目(2012/7/18水曜日)

朝食はやはり値段相応に豪華である。宿泊客も圧倒的に多い。ただし真っ白なフランスパンの姿はなく、褐色のドイツパンが並ぶ。相方はパンがもともと好きなのでいろいろな種類を食べ比べていたが、ぼくは塩の粒が乗ったパンを美味しく感じ、滞在中は毎朝それを食べることになる。ゆで卵あり、ベーコンあり、ウィンナーあり、フルーツありとこんな充実した朝食は何年かぶりである(基本的にぼくは朝食をあまり食べない人間なのだ)。わざわざ席ごとに持ってきてくれる温かいコーヒーもありがたい。

朝食後は部屋に戻ってのんびりとガイドブックを眺めて今日これからの計画を立てる。とは言ってもまずはウィーンの中心街に行ってみようということで、シュテファン寺院近くのシュテファンスプラッツ駅を目指す。基本的にパリと同様、市内の交通は地下鉄が主流のようだ。それにしても駅には駅員もいなければ改札もない。いや、敢えて改札と呼ぶべきものがあるとすればやはり打刻機の載った柵だけなのである。ガイドブックには車内検札がある場合もあると書いてあるが、滞在中そんな場面には一度も遭遇しなかった。はっきり言って、やろうと思うば簡単にタダ乗りが出来てしまう。けれど、たぶんここでは善良な市民の自己申告によって公共を成り立たせるという意識が根づいているのだろう。もしかしたら完璧な改札システムを維持するよりも気まぐれな検札の方が単にコスト的に見合うだけなのかもしれない、あるいは国の税金がじゃぶじゃぶ流れこんでいて経営意識というのが欠落しているのかもしれない。本当のところはよくわからないが、しかし駅の入り口からすぐにホームへ降りる階段が続いているのを見ると、ぼくはやっぱり性善説を信じたくなってしまう。たぶん、性善説や性悪説はそれ自体が最初にあるのではなくて、そう信じる事で実現するコンセプトなのかもしれない。誰かから信用されていると感じられれば、ぼくたちはそう簡単に悪事は働かないものなのだ。

このウィーンの地下鉄Uバーンは、パリのうらぶれた(使い込まれた)メトロに比べれば格段にキレイでかつカラフルである。車内は黄色と赤とを基調としていて実に雰囲気が明るい。車幅も大きいから大きなベビーカーが入ってきてもさほど狭く感じない。ドアの開閉は相変わらず手動式で、「pull sharply」と書かれたレバーを思い切りドアの開く方向に引っ張る必要がある(これはけっこう力が必要だった)けれど、閉まるときは天井の赤いランプがピカピカと光りながらこれまた「するどく」ばしっと元に戻る。全体的に出来たばかりのプラスチックのおもちゃのようで、パリの磨耗し疲労しきった金属の塊のイメージと比べるとずいぶんと軽やかな印象である。

シュテファンスプラッツ駅を地上に出ると、寺院の前の広場では宮廷貴族に扮した人間がそこここにいる。彼らはチケット売りなのである。観光都市ウィーンではおそらく毎晩どこかで何かしらのコンサートが開かれている。そのチケットを彼らは観光客に声をかけて手売りしているのだ。さっそくぼくたちのところにも一人の女性が寄ってきて、自分は「ウメコ」という者でチケットを売りたいがどうだと来る(確かに顔は東洋系である。きっと日本人観光客向けの要員だ)。よくよく聞いてみるとウィーンオペラ座で今夜行われるコンサートで、モーツァルトだのシュトラウスの定番曲を取り混ぜながらの内容のようだ。団員も変装して楽器を弾くらしい。一階席の一番後ろの真ん中という、そう悪くはない席のチケットを彼女が持っていたので購入することにする(通路が真ん中にあるので見やすいはずだ)。するとちゃんとクレジットカードの読み取り機まで広場の一角に置いてあるのだ! きっと出来高制なのだろうけど、このチケット売りの仕事は大変そうだなと、訳も無く同情してしまった。

夜の予定も早速決まったところで件のシュテファン寺院を見学することにする。高いところが好きな相方は地下のカタコームよりも尖塔へ上るエレベータの方に興味津々である。例によってぼくたちはまずはウィーンの街並みを見下ろすべく寺院の北塔へ上ることにする。受付でチケットを購入し、エレベータの順番を待つ。やがて上から戻ってきた筐体がその扉を開くと、円筒形の構造の中に運転士のおじさんがいる。これで簡単に上まで行くことができる。このおじさんも毎日窓も無い狭いエレベータに乗って上に行ったり下に行ったりしているかと思うと、なかなか大変な仕事に思える。エレベータの中にラジオを持ち込んで大音量で流していたけれど、それくらいの気晴らしは必要だ。

上に着くと塔をぐるりと囲うようにして足場が設けられており、そこからウィーンの街並みを見下ろすことができた。一見して、山に囲まれているために市街地の途切れる辺りがわかり、ここからあそこまでがウィーンの街並みなんだなというのがよくわかる。パリに比べれば実に眺望は近距離で終わるが、建物自体は一つ一つが大きく高い。そしてその分道路や歩道も広く取ってあるので、小規模な割には縮尺が大きいように感じる。ところどころのレンガの赤屋根が統一感を醸し出す。下を見れば、寺院のモザイク画のような屋根瓦が鮮やか。さらに地上には観光馬車が蹄の音を立ててゆっくりと歩いていくのが見える。さすがにタクシーの代わりに馬車が現役とも思えない。大体においてさっきの変装チケット売りにしろ、どうやらウィーンという街は観光地としての在り方を全面に押し出してくるらしい。

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シュテファン寺院を降りてからは王宮へと足を運ぶ。グラーベン通りはほとんどショッピングモールと言ってもいいくらいだ。しかも車を通せば六車線くらいは優にあるであろう広い通りが歩行者天国となっている。そして陽光を照り返す白亜の建物がとにかく明るい。道の途中には無料の水飲み場もあるし、至れり尽くせりである。

王宮の前でも貴族衣装のチケット売りに声をかけられる。今夜の分は既に買ったから明日の分で何かないかと聞けば、この王宮の中にあるホールで行われるコンサートのチケットがあるというので、まあ曲目もいくぶん重なってはいたが、とにかくぼくたちはウィーン・フィル目当てにウィーンに来たのではないのだから、せめて当地のコンサートホールの音の響きを感じられればそれで良いのである。このチケット売りは片言の日本語を得意としているようで、妙なハイテンションでコンサートの内容を紹介してくれる。外国人がわざわざ日本語を使って一生懸命伝えようとしているというそのことに日本人がころっと弱いことを知悉している……のかわからないが、まあ憎めない男のようだったのでチケットを購入する。こうして夜の部は着々と予定を埋めていく。

王宮とはもちろんハプスブルク家の王宮で、乗馬学校や図書館などいろいろな施設が併設されている。ぼくたちはとりあえず正面をくぐり抜け、中庭のベンチまでぶらぶらと歩いていって座る。相変わらず日を遮るものはなく、ぼくたちの目には芝生の緑と王宮の外壁の白と空の青とが痛いくらいに入り込んでくる。ここまで五日間の旅をしてきたけれど、実にこのベンチに座った時ほど平和を感じた時はない。これは別にパリが危険な都市だということを必ずしも意味しない。ウィーンに流れる時間の速度がずいぶんとゆっくりしているということだ。

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ぼくたちはその後、王宮内の銀器コレクションやらシシィ博物館を見て回る(シシィとは皇女エリーザベトの愛称である。そんなことすら知らないでここに来てしまったぼくは帰国後、いくつかのハプスブルク関係の書物を紐解くことになる)。日本語のオーディオガイドも無料で貸し出していて、なにやら色々と歴史の勉強になる。博物館を出ると「フォルクス庭園」というところが近くにあったのでちょっと木陰のベンチでまた休憩。時間も時間なのでそろそろどこかで昼食を取りたいと思っているところへ、相方はガイドブックのレストランのページを熱心に読み込んでいる。ウィーンは甘いものも含め食べ物が充実しているので食べたいものは全て食べて帰る計画を彼女は着々と組み上げているのである。

昼食はカフェ「オーバーラー」へ行くことにする。少し遠廻りだが、路面電車にも乗ってみたいので庭園の近くにある停留所まで移動する。路面電車も赤い車体のものであればウィーンカードで乗り放題である。右回りと左回りを間違えないようにして乗り込む。ボタンを押してドアの開閉をする。切符を買って乗る人は地下鉄同様、チンと音を鳴らして車内の打刻機に切符を差し込んでいる。これがウィーン流だ。王宮背面のパノラマを楽しみながらオペラ座の前まで行って降車する。オペラ座はパリのオペラ座とは名前こそ同じだが外見は非常にシンプルである。まあ、パリのオペラ座に比べれば大抵の建物は地味にも見えてしまうだろうが。今夜はここに来ればいいのだな、と確認をしながら横を通りすぎる。さすがにコンサートを毎晩開催する現役の建造物という貫禄がする。外見と中身とが釣り合っているのだ。

さてウィーンのカフェに入るのは初めてである。ガイドブックによれば開いている席であればどこに座っても良く、座ればそのうち注文を取りに来てくれるらしい。読んで頭ではわかっていても、いざ中に入ると勝手がわからないものだ。「オーバーラー」は路面にもたくさんテーブルと椅子とを並べていて、昼間から気持よさそうにみんなビールを飲んでいる。ぼくたちは中に入るが、噂通り入り口でまごまごしていても誰も案内してくれない。奥の方にいたウェイトレスが上へどうぞと手で示してくれたので二階ヘ上がることにする。開いている席に座ると二階を仕切っているウェイトレスがメニューを持ってきてくれた。相方はあまりおなかがすいていなかったようでバナナフラペチーノのようなものを頼み、ぼくだけランチセットを注文する。ランチセットには二種類あり、一番を一つ頼んだのだがこれがまったく相手に通じず、「このワンをワンだよ」とワンワン犬のように吠えまくっても「なに言ってるかわかりません」と返され心折れそうになる場面もあったが、なんとか最後には伝わった。小麦粉の団子が入ったスープがおいしかったのだが、ガイドブックで確認するとどうやら定番ウィーン料理のようだ。この二階の空間はなんとなく昔行った日暮里駅前のレストランに雰囲気が似ていて懐かしい感じがした(すごく個人的な感想だけれど)。

昼食後は「音楽館」に足を運ぶ。ここはまあ音楽をモチーフにした科学館というか歴史館というかいろいろごたまぜの体験施設である。ぼくはてっきりモーツァルトゆかりの大真面目な歴史資料館か何かと思って入ったので、最初のうちはたしかにフルトヴェングラーの使っていた指揮棒だとかだれそれの直筆の楽譜だとかが展示してあって「なるほど、そういうものか」と思って見ていたのだけれど、階を上がるごとに出鼻の大真面目な雰囲気が崩れていく。ここも日本語の音声ガイダンスがあったので非常に助かったけれど、ウィーンが輩出した作曲家毎にゆかりの品々を展示するスペースなどはなかなか見ごたえがあった。それでもシュトラウスの次がマーラーというあたりが、ちょっと驚きというか座りの悪さを感じるのだけれど、実際にウィーンにおける西洋音楽の近代というのはこの順番で正解なのだろう。ウィンナワルツが宮廷音楽として隆盛を極めていたのが150年前。マーラーの交響曲は年表を繰れば既に100年も前のものなのだ。ウィーン会議なんてずいぶん最近の話だ、なんて言い方もできるだろうし、マーラーの実験が既に一世紀にわたってその革新性を失わずに輝き続けているのを考えれば、近代や現代という言い方自体がどうでもいいように思えてくる。その他、画面の中のウィーン・フィルを指揮できるゲームや、世界各国のいろいろな音(東京の地下鉄!)を集めたコーナー、聴覚に関する様々な体験をシミュレートするコンピュータなど節操無くいろいろと楽しむことのできる施設だった。

音楽館を後にするとぼちぼちお土産を買わなければということで、「ワルツ」という日本人向けのお土産物店に向かう。ウィーンはシュテファン寺院、王宮、オペラ座を結ぶ三角地帯およびそれらをつなぐ大通り沿いに大抵の名所が集まっているので大抵のところは徒歩でめぐることができる。音楽館もこの「ワルツ」もオペラ座のすぐ近くである。しかしこのお土産物屋は本当に日本人向けなのである。そんなに需要があるのかと言えばやはりあるから成り立っているのだろう。まずぼくたちが店の前に到着すると、ちょうど団体観光客(当然ながら日本人の)がお店に入っていってザ・お買い物タイムの始まりのようであった。ぼくたちも続いて店内に入る。普通の土産物店にも見えるが、値札や説明書きも日本語で書かれているし、お得意の「トイレはこちら」も大書してある。これはたしかに日本人向けだ。店員も日本人で、どういう経緯でここで働くに至ったのか非常に気になるところである。多くの観光客同様にぼくたちはここで大量のチョコレート菓子を買う。海外旅行のお土産と言えば、かさばらず、乱暴に扱われるスーツケースにも入り、あるいは万が一スーツケースの中で崩壊しても被害を最小限に留められる物、そして後々残らない飲食物のほうが良い──というぼくたちの判断はやはり大量のチョコレートに行き着いてしまう。個人的にはもう少し気の利いたものもないかと考えてはみたけれど、新婚旅行なのだからまずはぼくたちがこの旅行を楽しむことを最大限優先させればそれでいいかなとも思う。ぼくがなにを買ってきたかなんてすぐに忘れ去られるだろうし、すぐに忘れ去られるべきなのだ。

免税手続きもすませ、結構な大荷物になったのでいったんホテルに戻ることにする。ぼちぼち夕方である。オペラ座でのコンサートが始まる前に夕食も食べたい。ホテルに戻ってから相方はやはり熱心にガイドブックのレストランのページを眺めてはなにを食べようかと研究にいそしんでいる。結論はホテル・インペリアルの一階に入るカフェ・インペリアルとなった。

再びオーパ駅まで向かう。ホテルからオーパ駅まで出て、それから市内をめぐるというパターンが確立されつつある。目当ての店までは駅からすぐだ。「インペリアル」と言うからには日本で言えばそのまま帝国ホテルクラスである。一食一人五千円は覚悟かと思いきや、そこはユーロ安の恩恵を受ける。メインでも一皿30ユーロ程度で充分に楽しめる。相方はウィーン料理の定番中の定番、シュニッツェルを注文する。これは豚肉を叩いて薄く引き伸ばしたものを軽く油で揚げたカツレツ様のもので、見た目は大きく見えるのだが肉自体は薄くなっているので案外ぺろりといけてしまう。ぼくはボイルした牛肉を頼む。内陸である当地ではとにかく肉料理がメインである。そして全体的に塩味がけっこう効いているのでお酒を飲まなければミネラルウォーターは必須だ。

店内は、ぼくたちが入った最初はなにやらアラブの石油王の奥さん連中みたいな団体がお茶をしていたのだけれど彼女たちが帰ってしまうと広いカフェ内はぼくたちだけになってしまう。気後れして出口に一番近い下座に陣取っていたのだけれど、もう少し真ん中に座っても良かったかもしれない。でもあとで入ってきた日本人カップル風の二人もぼくたちとは逆側の窓際にちょこんと座っていた。こういうのはどうにも抗いがたい民族性なのだろうか。それにしても六時を過ぎてもほとんど客がいないというのはどういう事なんだろうか。みんなカフェに夕食を食べにこないのか、もっと遅くにならないと食べにこないのか。オペラ座でのコンサートは八時に間に合えば良いので、ぼくたちはゆっくりと料理を味わい、食後のメランジェを追加し、のんびりと時間を過ごす。当地におけるカフェ文化の真髄の一端にもこれで触れたことにもなろうか。

ウィーンオペラ座は入れば実にシンプルな装いである。ウィーンモーツァルトオーケストラによるコンサートは、楽団員が全員モーツァルト時代の衣装とかつらとで演奏をする。ぼくたちが目にする現代のフルオーケストラに比べればずいぶん小ぶりで、そして衣装が衣装なだけに実に華やかである。「近代」という不機嫌な時代の前にあっては、音楽とは純粋に聴いて楽しむものであったのだろう。だから一概にこういった試みを観光客向けの軽薄なものと決めつけてはいけないのかもしれない。実際、演奏されるモーツァルトやシュトラウスの小曲たちは実に軽やかで明るく、上機嫌である。オペラもところどころ取り混ぜられていて、歌手が入れ替わり立ち代わり登場してはハイライトを歌って見せてくれる。フィナーレのラデツキー行進曲では観客が思わずなのか拍手で音頭を取る。指揮者は時期を得たかのようにくるりとこちらを振り向くと拍手の音量を指揮してくる。ひとつの演出であろう。二時間余りのプログラムもあっという間に終演する。時間が非常に短く感じられた。これはコンサートに対する感想としては上級の部類に入るのではないかと思う。

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8 第六日目(2012/7/19木曜日)

隠す必要もないし敢えて言う必要もないではないが、今日はぼくの誕生日である。しかも三十歳という一つの区切りの。この旅行を企画した段階から、ウィーンで三十路を迎えることになるのはわかっていたが、まあなってしまえばなんということはない。特に劇的な変化があったわけでもないが、しかし異国の地で節目を迎えられるということ自体は、おそらくぼくの人生において後々まで記憶される出来事なのだろうと思う。十年前二十歳になったとき、ぼくは大学二年生だった。ついこの前の出来事に思える。けれど自分が結婚するなどゆめゆめ想像出来ていなかった一年前のことがひどく遠い昔のようにも思える。

午前中はエゴン・シーレを堪能すべくレオポルド美術館へ。ウィーンではクリムトの生誕150周年を祝ってどこへ行っても例の「接吻」をあしらった広告を目にするのだけれど、この美術館でも企画展としてクリムトの書簡などを紹介していた。ミュージアム・クオーターという文化施設の並ぶ一角に瀟洒な白い壁をそびえさせているのがそのレオポルド美術館である。周囲にはアートな雰囲気を醸し出したいのか、よくわからない形に並べられた椅子やら何故かラミネート加工されたお札をたくさんぶら下げた「金のなる木」もあって、まあそれっぽい感じは伝わってくる。

黄金のクリムトに比べればシーレの絵は実に地味とも言える。実生活においてもクリムトは社会的成功を収め、収めたがゆえにそうした成功を与えた社会から「分離」する権利を得た。一方でシーレはいささかスキャンダラスな実生活を多くの誤解をない交ぜにしながら過ごし、結婚後数年にしてスペイン風邪により妻と子を亡くし、間もなく自らも同じ病によってこの世を去る。その作品は当然ながら死と、エロスと、強烈な自意識に彩られている。彩られている? そう表現するにはあまりにも彼のパレットは褐色に偏っていたかもしれない。けれど、レオポルド美術館に展示されている彼の有名な自画像やあられもない姿で横たわる女たちよりも意外にもぼくの目を射たのは風景画であった。そこには何かに怯えるようにして肩を寄せ合う家屋、流れのない河、干された洗濯物の連続が描かれている。人の気配はしない。自画像の肌のように枯れ果て、極北の曇天のもとに吹きさらしになっているその画面。けれど、目を凝らせば悲しみ抜かれた暗褐色の中に明るい色を見出す。屋根瓦の一つに、あるいは窓枠の一部に、はっとするように赤や黄色がのぞくのだ。こんな風景画は他に見たことがない。

美術館には他にもウィーン出身の画家たちによる絵画が数多く展示されており、小ぶりながらも奥の深い印象を持った。売店で当館所蔵作品一覧の小さな冊子を購入し、再び日の照りつける戸外へと出る。

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ところで、この旅も六日目を迎えるとさすがに疲労が蓄積してくる。結果から言えばそれなりに気は張っていたから、いきなり風邪を引くということもなかったのだけれど、毎日朝から晩まで外に出てずっと次の目的地を考えながら移動をし続けるというのも限度がある。たぶん、これを二週間やれと言われたら途中で風邪を引くに違いない。そんなわけで今日は午後のどこかのタイミングでホテルに戻って昼寝をすることにしていた。

しかしその前に少しばかりやることが残されている。ぼくたちはいったんオーパ駅へ戻り近くのスパーに入ると、昨日のお土産購入を続行する。チョコレートならばいわゆる「お土産屋」で買うよりもこういうスーパーで買ったほうがリーズナブルであるし、また店側もある程度そういう需要を分かっているのでそれなりの包装で、そして種類もそれなりに揃えて置いてくれている。ちなみにスパーのお会計のシステムは日本とは違っていて、カゴを受け付けてくれるレジとそうでないレジとがある。前者はレジスターの前にかごを置くスペースがあって、お店の人がそこからひょいひょいと品物を拾ってバーコードを読み取ってくれる。これは日本と同じである。ところが後者のレジは、レジスターの前にベルトコンベヤみたいなものが敷いてあって、品物を直接ここに置いていく。もし自分のカゴの中にたくさんの品物があれば、それを全部ベルトの上にもう一度並べなければならない。前や後ろの人と区別するための仕切り板も置いてある。ウィーンに到着した夜、夕食のサンドイッチを買った空港のスパーでは間違い無くぼくはベルトコンベヤの上にカゴを乗せていた。まったく、このシステムの合理性がどこにあるのかいまだにぼくには分かりかねる。

その後はザッハー・トルテを食べるべく(これが一応、ぼくにとってのお祝いのケーキである)カフェ・ザッハーへ。ご多分にもれず、ホテル・ザッハーに付随するカフェである。寡聞にして、というか、その手のことには全く蒙いぼくは相方に教えられて初めて知ったのだけれど、ザッハー・トルテというのはザッハーで出されるトルテのことであって、決して「ザッハートルテ」なるメニューがあってそれがどこでも食べられるわけではない。したがって昨日行ったカフェ・インペリアルで「ザッハー・トルテ」を頼んでも、百歩ゆずった好意的解釈で「インペリアル・トルテ」が出てくればまた良いものの「ザッハー行って食いやがれ!」と追い出されるのが落ちである。こんなぼくにとってはガイドブックに載る池内紀によるトルテの元祖をめぐる「戦記」など学者レベルの知識教養と言っても過言ではない(いや、池内氏は確かに優れた独文学者ではあるけれど)。とにかく、ぼくたちはカフェ・ザッハーでボリュームたっぷりのホイップクリームをからませた濃厚なトルテを楽しむことができた。窓際のちょっと暑い席で、飲み物にはオレンジジュース。やたらと座高の高い椅子に座って午後の最初の時間をのんびりと過ごす。

ホテルに戻るついでにもう少しだけ買い物をする。ヴィトンをのぞきつつ(パリと同じく収穫無し)、ユリウス・マインルという高級スーパー(日本で言うならば本屋ではない方の紀伊国屋のイメージだ)に至る。スパーでは買えない、ちょっと高いめのお土産を探す(と言ってもちょっとした化粧箱に入ったチョコレートではあるが)。お土産購入というのは実際にやってみるとなかなかに骨の折れる仕事ではある。買っても買っても「やっぱりこの人にはそれなりにお祝いを頂いたし」「この人がこれならこっちがこれではつりあわない」などと全体のバランスをちょこちょこ微修正していくと際限がない。そういう小さい変更が積み重なると、買ったけどあげるあてのないものが次々と生まれてくる。まあとにかく二階に行ったり一階に戻ったり難しい顔をしながら店内をくまなく歩きまわったあとで、レジで当地の慣例に反して買った品物を袋詰めにしてくれたときには少なからぬ感動を覚えた。

さて、昨日と同じく重い荷物を持ってホテルに戻る。今日の夜は王宮でのコンサートだ。八時半からなのでその前にどこかで夕食をとっても良いし、夕方まではとりあえず体を休めることにする。けれど恵まれてきた天気がここに来て下り坂に。ホテルのテレビの使い方がいまいちよくわからなかったので朝も特に天気予報など見ていなかったのだけれど、さっきまでカンカンに晴れていた空に雲が立ち込め、大粒の雨を降らせる。雷まで鳴っている。部屋の窓からは外の通りが見えるのだけれど、地面は濡れそこを走る車はワイパーを横に振る。時折見える歩行者も傘を差している。それを見ているぼくの目の前の窓ガラスにも無数の水滴が生じる。まるでぼくたちのシエスタを待ちかねていたように雨はざっと降りしきる。傘を使わずにちょうど良かったと思ったが、派手な雨音が二、三時間も続くとあとは小降りになる。けれどなかなか降り止まない。止んだかと思えばまたチョロチョロと降ってくる、そしてそれがまた弱まってくる……というのを繰り返すような雨の降り方だった。

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結局、夜の七時くらいになるとようやく青空が見えてきたので、ぼくたちはコンサートに出かけることにした。傘ぐらいは持ってきているので小ぶりになったところで出ていっても良かったのだけれど、なかなか気持ちが決まらずにのんびりとしてしまった。もともとこういう時間を過ごしたかったのは確かなのだ。お昼ごはんをザッハー・トルテしか食べなかったので少しお腹がすいている。かと言ってどこかに入ってちゃんとしたものを食べるような時間も無い(ぼくたちの場合、会計に戸惑るという時間的リスクを読んでおかなければならないのだ)。相方がガイドブックの片隅に見つけたオペラ座裏のソーセージスタンドに行ってみたいと言うので(本当によくこんな記述を見つけるものだと感心する)小腹を満たすには調度良いので王宮への途中で立ち寄ることにした。

アルベルティーナ広場の真ん中にあるそのソーセージスタンドは既に幾人かの行列が出来ていて、お店の周りでも観光客と思しき人々がプラスチックの皿の上に乗った大きなソーセージやらホットドッグやらを美味しそうに食べている。広場と言っても広くはない。交差点の中にできた離れ小島みたいなものである。そこにぽつんと小屋が立っている。日本ではぼくはほとんど屋台で飲み食いすることは無いのだけれど、食べているところを目にすればやはりこちらも食べたくなるものだ。アツアツの大きなソーセージを二人分切ってもらう。ケッチャップとマスタードとを絡めながら食べれば久しく忘れていたジャンキーな芳香が鼻腔へと吹き抜ける。おまけに付けてくれた小さなパンも美味しくて、王宮への道を急ぎながらぺろっと食べてしまう。

さて、王宮のコンサート会場は正面入口から左に行けばわかるとチケット売りが昨日言っていたので、その通り足を運んだのだけれどなんだか場所がよくわからない。それっぽい旗が立っているところに入っていくと博物館というか図書館のような場所に出くわす。こんな本のたくさん並んだ場所でコンサートをやるはずがない。だいいち、人が全くいない。その建物を引き返してロビーのチケット売り場(たぶんこの図書館に入るにもチケットを買わなければならないのだろうが、ぼくたちは完全に黙殺して階段を上っていったことになる)のお兄さんに尋ねてみると地図を出してきてくれて「君たちは今ここにいて、たぶん会場はここだよ」と親切に教えてくれる。助かった。

というわけで無事に会場につき、例のハイ・テンションなチケット売りがいたのでCDを交換してもらい(かつ、パンフレットの購入をやんわり断り)中へ入る。チケットは一応最上級のA席なのだが、座席指定ではない。A席の範囲は会場の前から四分の三程度を占めていて、そこに早い者順に座っていくのである。こういうある意味での雑な感じも観光地ならではなのかもしれない。会場がわからなかったぼくたちが到着した頃にはさすがにほとんどの席が埋まっていたけれど、まあ今日は仮装オーケストラによるものではないから音楽が聴ければ良いのである……というくらいの気持ちでいたのだけれど、このコンサート、随所に妙な演出が入れ込まれていてなかなか飽きさせないものだった。

その演出とは例えばこうである。オーケストラ左手奥に一人の闖入者がいる。道化師と言ってもいいだろう。彼は隙あらば指揮者に対して謀反を働く。時に車掌の吹くような笛をこだまさせ、あるいは音階をひっくり返してリコーダーを吹く(その時彼は楽譜が逆さになっているのだとジェスチュアする)。突然鉄琴のような鉄床が出てきてものすごい音をさせながらハンマーでメロディーを叩く。最終的には楽曲に合わせて鉄砲を打ち鳴らす──なにか曲にひっかけての洒落なのかもしれないが、いまいち元ネタがわからずけっこうポカーンとしてしまう所もあったけれど、まあ謹厳実直なるコンダクターとの応酬はそれなりに笑える場面もあった。そして最後にはお約束のラデツキー行進曲。ここでも指揮者は観客の拍手を時々指揮台からこちらを振り返りながらその音量をコントロールしようとする。当地の指揮者諸氏はラデツキーの観客いじりの一つや二つできなければ一人前と目されないのかもしれない。

コンサートが終われば十時である。さすがにパリと違ってもう真っ暗だ。ソーセージだけではお腹は減る。そこで相方は用意してきたかのように「市庁舎のフィルムコンサートで屋台が出ているはず」と言う。いや、彼女はその計画をあらかじめ用意していたのだ。あのウィーンカードと一緒に渡されたパンフレットに書かれている市内のイベント一覧の小さな横文字を丹念に読みこんで。そうしてぼくたちは暗い夜道にポツリと立つ街頭の明かりの下でガイドブックの地図を読み解く。どちらに向かって歩けば市庁舎へ通ずるのか? ネオンサインや煌々と輝く巨大看板があるわけではない。日が暮れれば、あたり前のことだが暗い夜がやって来る。ぼくたちの道標となったのは音である。なんとなく、向こうの方から野外で大音量を流している気配がする。数は少ないが歩いている人々の足もそちらへ向かっているような気がする。

勘は当たっていたが、フィルムコンサートはクラシックのそれではなくこの夜はジャズをメインにしたものだった。しかし市庁舎といえば市役所のことである。建物の様子からするとそれなりの歴史的建造物なのだろうが、字義通り公共の場所でこうしたフェスティバルが行われること自体、観光都市としてのアイデンティティーを積極的に打ち出している感じがある。門をくぐれば正面には巨大なスクリーンがあって、なにをやっているのかわからないがとにかく大音量で何かを演奏しているライヴシーンが映しだされている。真ん中にテーブルやら椅子やらが三々五々並んでいて、向かって右側に食べ物系の屋台、左側に飲み物系の屋台がずらっと並んでいる。けっこうな出店数である。とりあえずなにを食べようかと端から端まで見てまわる。鉄板に何かを載せて焼いたものを器に盛って出す形式がほとんどだ。相方はチャイニーズ・ヌードルと書かれたどう見てもただの焼きそばを、ぼくはエビやら肉やら色々と入ったテッパンヤキ(ライス付き)をチョイスしてその濃いソースの味をひとしきり楽しむ。割り箸もちゃんと置いてあって、なんだかこんな異国の空の下で日本風のジャンクな食べ物を食べられることがなかなか不思議な感じがした。飲み物はマンゴーとワインを混ぜたサングリアのようなものを二人で飲んだ。これで結構お腹いっぱいである。はっきり言ってここに来ている人たちは食べ物目当てのようで、音楽を聞きに来るという感じではない。だいたい木立が結構茂っていて、スクリーン全体を見渡せる席なんて無いんじゃないだろうか。美味しい物やお酒を飲んでなんとなく騒がしい中をぶらぶらするのがみんな楽しいのだ(ところでゴミ回収のシステムがよくわからなかったのでその辺のテーブルに置いて帰ってきた。ごめんなさい)。帰りは市庁舎前から路面電車に乗ってホテルへ戻る。電車を待っているときに若い兄ちゃん(酔っ払い)が話しかけてきたけれどよくわからないのでその旨日本語で返したらブツブツ言ってどこかに行ってしまった。

9 第七日目(2012/7/20金曜日)

七日目である。三十歳を迎えていよいよ天地創造と相成る。いつもどおり朝食を食べる。外はパラパラと小雨が降っている。朝食の席についている誰もがチラチラと外の具合をうかがっている。なんとなく寂しい、いつもの陽気さを少し和らげるような湿度。明日には飛行機に乗って日本に戻る。一日観光が出来るのは今日で最後である。ぼくたちにとってはそういう個人的な事情も作用してか、なんとなくしんみりとコーヒーを啜ってしまう。その液体の温かさが少しだけ元気をくれる。

まあとにかく泣いても笑っても最終日の今日は、ウィーン中心部からは少し足を伸ばしてシェーンブルン宮殿を見学する予定だ。とは言っても、電車で三十分もかからない距離である。新宿からちょっと両国あたりまで出てきましたという感じだろうか。最寄りのシェーンブルン駅で降りると、まあここで降りる人間は大抵宮殿の見学者なのでぞろぞろと同じ方向に向かって歩いて行く。なにやら工事の柵が立ち並んでいるところを迂回していくと、入り口まではすぐである。大型の観光バスもたくさん止まっている。そもそもシェーンブルン宮殿とはハプスブルク家の言ってみれば避暑地みたいなもので、マリー・アントワネットがモーツァルトにピアノを弾かせたとか、例のウィーン会議が開催された場所だとか調べようと思えばハプスブルクとのゆかりについてネタは尽きない場所のようだ(例によってぼくは歴史にうとい。これでも大学受験の時は世界史を選択していたのだが……)。

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さて、まずは宮殿の建物内部を見学することにする。とにかく広大な敷地なのでどこから手をつけて良いのかよくわからない。宮殿自体は横に長く、きれいなカスタード色の外壁を持つ。もっと天気がよければさぞ美味しそうな様相を呈しているに違いない。敷地にはこの建物を底辺にして前方に庭園が広大に広がっている。この庭園は奥に向かうにつれて標高を増し、宮殿の反対側の辺には「グロリエッテ」という巨大な記念碑というか展望台があって、ここからは宮殿の背後に広がる市街まで一望できるというわけだ。まあ大抵の観光客は宮殿を見学して展望台まで行って後ろを振り返り、そして下山して帰るようである。

宮殿の中はまあ王宮の内部を見学した時とさして大きな差異はない。王宮の方は割とエリーザベトを全面に押し出した博物館だったが、こちらはハプスブルク全般を網羅しているためやはり元々の設備──鏡張りの会議室だとか中国風に飾り付けられた部屋だとかの紹介がメインになる。日本人の団体観光客もけっこうたくさんいて、ガイドの解説を勝手に盗み聞きしながら足早に見てまわると、あっという間にもとの入口であり出口に戻ってくる。ガイドさんが「無料の」トイレがあるというので遠慮なく使わせていただく。

外はまだ小雨が降り続いているがなんとか展望台までは行きたい。ガイドブックを見れば、庭園内を巡回するバスがあるのでこれに乗れば雨の中坂道を長々と歩いて行く必要がないようだ。ここでぼくたちは結構迷った。展望台まで歩いて行って戻ってくれば結構いい運動になるしそれなりに時間もかかるから一日過ごすには調度良い。バスでピュッと行って帰ってくるのは観光地とはいえなんとも味気ない(だいたい一人7ユーロの価値がそれにあるとも思えない)。けれどやっぱりこの雨の中を歩きまわるのはそれ以上に無粋だ。宮殿の入り口にほど近いバス乗り場の木の下でぼくたちはとりあえずバスを待ちながらも今日これからどうしようか決めかねていた。やがて遠くの方からガタガタとものすごい音を立てながら小さな乗り物らしきものが近づいてくる。バスというのは、エスエルのような形をした先頭のディーゼル車にいくつかの客車を牽引させた乗り物のことであった。その名を「パノラマ・バーン」と言う。

幼稚園か小学生の団体客がごっそり降りてしまうと、ぼくたちが乗る番のようだ。しかしいまいち乗り方がわからない。誰におカネを払うのだろう? エスエルを運転してきたおばさんは運転台に乗ったままかばんの中から弁当箱を取り出して食べ始めている。申し訳ないけれどそのおばさんに「チケットはあなたが売ってくれるのか」と聞いたところ、横から別のおじさんが「いいからとにかく乗ってくれ」と言ってバタバタと扉を開けてくれる。おじさんはどうやらもう一人の添乗員のようだった。特に車掌のような格好をしているわけではなく、本当にただそのへんにいるおっさんと違わない様子なのでなんとも紛らわしい。

席に座ってしばらく待っているとお金を回収しに来てくれて、切符の代わりに手の甲にアシカのスタンプを押してくれる。これを見せればどこで乗降してもオッケーのようだ。それからこのバスが周回するルートを紹介するパンフレットもくれたのたけれど、ここに来て俄然、ガイドブックには地味な扱いだった庭園内の動物園が大きく取り上げられている。2008年と2010年とに「ベスト・ヨーロピアン・ズー」に選ばれているからなかなかの実力を持っているようだ(たぶん)。

あらためてガイドブックを読み返すとシェーンブルン宮殿内になぜ動物園があるのかといえば、それは決して現代になって観光客誘致のためウィーン当局が「とりあえずハプスブルクに動物園でもあれば大人も子どもも楽しめる施設になるだろ」とソロバンをはじいてむりやり造設したものではない。断じて無い。ここはマリア・テレジアの夫フランツ一世が正式に設置した、250年の歴史を誇る世界最古の動物園なのである。そしてここにはパンダがいるらしい。日本では出国前、上野動物園でパンダが誕生し、そのあと間もなく悲しいニュースが駆け巡ったばかりだったので、やはりパンダを見たい気持ちがあった。ぼくたちはバスで移動する代わりに動物園もちょっと覗いていくことに決める。実はこの動物園は当旅行期間中もっとも記憶に残る心楽しい体験となった。

バスが出発すると思いの外地面の凹凸をタイヤが拾う。人間が走るのとそう変わらない速度でまずは宮殿の前を通りすぎる。するともう鬱蒼と木立が茂る中に入る。視界は一気に狭まる。揺れが大きくなりながらしばらく行くと、温室の大きな建物が彼方に見えてくる。緑色に着色された鉄筋をアールヌーヴォー式にくねくねと組み合わせ、間にガラスが嵌めこまれている。たぶんこれも世界最古とまではいかなくとも、相当に古いものなのだろうと思う。新宿御苑のおまけのような温室とは訳が違う。入ればいろいろと珍しい植物も見られるのだろうがぼくたちは動物園に行くことにしているので降車せず、遠くからその優美な姿をカメラに収める。

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温室を過ぎると動物園前の停留所に到着する。ぼくたちはここで降りる。たぶん多くの観光客も動物園に心ひかれるのではないかと思ったのだけれど、意外にもほとんどの乗客はそのまま座ったままでこの先の展望台にまっすぐ行くようである。振り返ればたしかに動物園のチケット売り場には誰も並んでいない。入口付近にたむろしているのも子供ばっかりである。大の大人が二人で、しかも新婚旅行で雨の動物園に来ることなどあまり無いのかもしれない。とにかくチケットを買って中へと入る。

まず敷地に入って日本の動物園と違うな、と感じたのはオープンな檻があまりないということである。つまり屋外の通路に面して色々な動物の檻が並んでいるのではなく、ここはコアラ館、ここはミーアキャット館、など小さな小屋がたくさんあってドアを開けてそこに入り屋内の通路をくぐり抜けながらガラス越しに動物を見、そして小屋を出る、というタイプのものが多かった。だからまずぼくたちは「どこに動物がいるの?」と一歩を踏み込んだ瞬間、我が目を疑ってしまった。

あまり勝手もわからないのでとりあえず足の向くままに歩いていると、アシカやペンギンのゾーンに人だかりができている。見れば食事の時間で、係の人がなにやら説明しながらペンギンに魚を投げ与えている。アシカのゾーンには体重計もあって、一頭がその上に乗ると岩山に設置された赤い電光掲示板に体重が表示される仕掛けまである。と、入り口でもらったパンフレットに目をやると「アニマル・フィーディング」というページがあってずらっと何時にどの動物に餌やりをするという時間割が載っている。今は十一時すぎで、ちょうど「ロックホッパーとキングペンギン」の餌やりの時間で人だかりが出来ていたのだ。なるほど、ということは書いてある時間に書いてある動物の檻に行けば餌やりが見られるわけだから、これを目安に動物園内を見学していけば効率よく楽しめる。とにかく敷地は広大で(たぶん上野の三倍くらいはある)特に順路があってリニアに歩いていればすべて見尽くせるというレイアウトにもなっていないのでこういった目安は助かる。ぼくたちはパンダ、アフリカゾウ、コアラだけは見逃すまいと計画を立てると、とりあえずぶらぶら歩きを再開する。

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温室:例によって亜熱帯の植物が幅を効かせている温室の中にはいろいろな虫やら爬虫類やらが我が物顔に泳いだり歩いたりしている。ガラスの天井の上にニシキヘビが図太い胴体を横たえていたり(相方はしばらくただの天井の模様だと思っていた)、まああまり長居のしたくないゾーンなので素早く通り抜ける。

アリクイ:これだけの数のアリクイを一度に見るのは初めてである。見学通路は三つの檻を順番に眺めることが出来るようになっているが、通路とは反対側の外に広い庭が付いていてアリクイたちは三つの部屋からアリクイ用の出入口をくぐっては庭に出ることができる。別の出入口から別の部屋に入ることもできる。彼らは一つ所でじっと舌をぺろぺろと出し入れしたり、せわしなく外に出たり入ったりを繰り返したりしている。見れば見るほど珍妙な動物である。胴体はけっこうがっしりしていて、体に生えている毛もかなり太く立派である。けれど頭に向かうに連れて急に体積がつぼまり、その先端では細長い口と、その口の穴から出入りする更に細い舌が動いている。アリだけを食べてどうしてこんな形に進化したのか、あるいはなぜアリだけを食べるための生態になってしまったのか(それはあまりにもリスキーな選択ではないのか?)考えても答えは出ない。

サル山:正確には山ではない。そしてそこにいるのはシロテナガザルである。カルガモたちが泳ぐ池の真ん中に築山があって、そこに木材がいろいろな角度に組まれている。太い丸太の間には丈夫そうなロープが少したわんで渡してあって、サルたちが長い手を使ってその間をひょいひょいと移動している。かと思えば丸太の頂上でじっと膝を抱えていたりもする。あまり個体間での会話はなくめいめいが勝手に勝手な場所で勝手なことをしている。まあサルたちから見ればぼくたちも同じように見えるかもしれない。

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ミーアキャット:これはもういつまで見ていても見飽きない小動物であった。ミーアキャットといえば日本で見る場合、大抵屋外の岩山のようなところに三々五々手を前にしてちょこなんと座っている姿が可愛らしい印象があるのだけれど、この動物園では広いガラスケースの中に子供のミーアキャットがたくさん入っていて(たぶん子供だったと思う)、間近に彼らの一挙手一投足を観察することが出来る。さて彼らがなにをしているのかといえば、ひたすら穴掘りである。中の地面は割と深めの砂地になっていて、彼らは前足をセコセコと動かして自分の後ろに向かって砂を巻き上げ続けている。掘ったその穴に後で入るとか、何か食べ物を埋めてみるとかそういうことではない。なにか特定の目的があって穴を掘っているのではない。まるで穴を掘りつづける中毒にでもかかっているかのように、ちょっと病的なくらいに彼らはめいめいの場所で必死に穴を掘っている。しかもお互いのことなど全く気にしていないので自分が彫り出して後方へ飛ばした砂が別の掘られつつある穴を埋めていることにも気がつかない。こういったことが砂山のあちこちで繰り広げられている。

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といったところで(これで結構歩いている)、昼食をとることにする。園内には至る所に食事ができる場所がある。簡易的な椅子とテーブルを並べただけの屋台風の場所もあれば、ちゃんと整備されたレストランもある。日本の動物園といえばやはり芝生でお弁当という算段だが(これは我らがが西多摩の羽村動物園や多摩動物園で幼少を過ごしたぼくの多大な偏見なのかもしれないが)、ここではハプスブルク流にかつてマリア・テレジアも休んだという立派な東屋風のレストランに入る。動物園のある部分はこのレストランを中心にして同心円状に檻や動物小屋を配置していて、六角柱の形をしたこのパビリオンが円の中心部に一段高く建てられている。なるほど、いにしえの貴族たちもここに居座ってお茶でも飲みながら動物を観覧したのだろう。

動物園の中で肉を食べるというのもあまり気持ちの良いものではないが(しかし大洗水族館の入り口にはちゃんと寿司屋がある)、ぼくは当地では初めてシュニッツェルを頼み、相方も牛肉をスライスしたようになものを注文する。このレストランはさすがに敷地面積も限られているので厨房を地下に持っている。調理された皿はエレベータのようなものでぼくたちの座っているフロアに届けられる仕組みになっていた。四方、というか六方を大きなガラス窓で抜かれているので荘厳な内装ながら自然光がよく入ってくる。こういう作りはなかなか古い建物としては珍しいのではないだろうか。シュニッツェルは一昨日相方がインペリアルホテルで食べたものに比べれば値段も半分だし大きさもまあこじんまりしたものだったけれど、たぶんウィーンで食べる標準的な味なのだろうと思う。特にソースや何かをかけなくてもしっかりと味付けされているし、肉もよく叩かれていて柔らかい。やはりトンカツとは違う種類の食べ物だ。そんなに手のこんだものでもないだろうから、日本でも洋食屋に入ってメニューを開いたときに、ハンバーグやエビフライと同列にシュニッツェルもあればかなりの確率で注文してしまうと思うのだけれど、残念ながらウィーン郷土料理は日本ではあまり市民権を得ていないようだ。

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遅めの昼食を終え、ぼくたちは二時半から予定されているジャイアントパンダの餌やりを見るべく、パンダの柵(ここは小屋ではない)のあたりへ向かう。実は午前中もこの前を通ったのだけれど、パンダの姿を見ることができなかった。さすがに餌やりともなれば姿を見せるに違いない。そう思って子供たちに混じりながら柵の前でカメラを構えながら待っていると、一頭がうろうろと柵の中を歩いている。やがて池の端に腰を下ろすとその場に置いてある笹をむしゃむしゃと食べ始める。奥からもう一匹出てくると二頭で並んで腰掛けて何となく見ているこちらには背中を向けながら次々と手に持った笹を噛みちぎっている。よくもまああんな硬そうなものを食べられるものだ。しかも結構笹の葉って切れ味が鋭かったような。

ぼくの周りにいた子供たちはすぐにそれを見るのを飽きてしまって、柵の外にあるパンダのふざけた銅像のようなものに群がってよじ上ったり小突いたりしている。思えばぼくが大学生の頃は上野に行けば必ずパンダが見られた。それがいつのころからかパンダ不在の上野動物園になった。パンダ橋まである上野にパンダがいないのは、別に誰もいない飼育小屋を見たわけでもないのだけれどずいぶんと寂しい気分になったものだ。だから、いつでもパンダが見られると思うなかれ──というのは、ぼくにとっては結構(いくぶんとそれは拡大解釈されながら)心の中に占める割合の大きな信条となっている。この子供たちもいつかそんなことに気が付く年齢になることだろう。そんなことを思いながら三十歳になったばかりの男は笹を食べるパンダの姿を眺め続ける。

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次はアフリカゾウである。ゾウはさすがに敷地が広い。体育館のような屋内と外にもちょっとした運動場くらいの広場を持っている。さすがにこの広さに一頭というわけではなく、小象を連れた家族が一組と他に二頭の大人の象がいる。餌やりはまず家族が先に行われる。ぼくたちは体育館の方に入って檻の向こうで鼻の先を動かしては床に撒かれた餌を口に運ぶゾウたちの姿を見る。さすがに人気があって立ち見盛況だ。ゾウたちは本当に小さい固形物をひょいひょいと鼻の先でつまんでは器用に持ち上げる。これも見ていてなかなか飽きない。食事がある程度終わると、飼育員が出てきてゾウをうまくあやつり、足の裏を見せてくれたりする。ショーとまではいかないがこれもなかなか面白い。

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しかし最も面白かったのは食事が終わった後の出来事で、まあこれは生理現象だから仕方が無いのだが小象がおもむろに後ろ足を開いて踏ん張ると、シャーッとものすごい音を立てて小便を放ったのを目撃した時だ。人間と全く同じである、というか、こういう部分は人間も全く動物なのだ。そして小があれば大もある。下半身の話で申し訳ないが、その後親子そろってぼくたちの目の前で健康的なウンコをもりもりと出してくれた。なかなかこんな光景は見られない。食事が終わってしまえば他の観光客たちはさっさとどこかへ行ってしまったので、ぼくたちは空いたベンチに座って飽きずに象の鼻を観察していたのだが、まさかこんな珍事(椿事)に出くわすとは想像だにしていなかった。しかし周りを見回してもぽつぽつと立っている観覧者の中にぼくたちのように腹を抱えて笑っている者は誰一人いない。まあ下品なアジア人だと白い目で見られているに違いないのだろうが……。

糞が飼育員によって片付けられると、親子は外に出され、代わりに他の二頭が入ってくる。さすがに五頭もいっぺんに食事を取るのは難しいだろう。そもそもゾウというのは始終あちこち歩き回っていて、ゆっくり座ってごはんを食べるという感じではないから、結構広い屋内でも限界はありそうだ。後の二頭は大人なのでさっきの親子みたいに固形の栄養食ではない。ちゃんと事前に藁の山が出てきて、天井からは(遊びのためかもしれないが)わざわざ長い木の枝が吊るされる。それをこれまた鼻を器用に使って口に運ぶ。

いくらでも見ていられそうだったけれど、コアラのフィーディングの時間が近づいてきたのでぼくたちは腰を上げる。午後四時に始まるコアラの餌やりを以て、すべてのイベントが終了する。コアラが当園の大団円を飾るのである。さすがに混み合うこと必須、しかもコアラの小屋って確かここに入って一番最初に見たものすごく小さい飼育小屋ではなかったっけ……という不安を抱きながら行ってみればやはり立ち見盛況。しょうがないからみんなカメラを両手で上に持ち上げて適当にパシャパシャとやっている。ぼくも同じようにズームを最大にして腕を伸ばす。変な感じである。

思わず動物園で半日も過ごしてしまったわけだが予定がないところに予定外もなにもないのだが、あまり最初から行くつもりのなかった動物園でこれだけ楽しめたのは結構な収穫だった。シェーンブルン動物園、観光客が実に少なかったけれど穴場の観光スポットである。

さてバス停は、動物園に最初に入った「エントランス・ヒーツィング」とは別にもう一箇所反対側の出入口として設けられている「エントランス・チロリアン・ガーデン」の外にもあるのでコアラを見終わったあとは、そちらへ向かう。と言っても道はハイキングコースみたいな山道で、オオカミなども途中で見ることができる。ここもまだまだ展示施設の一環なのだ。山道を上っていくと件のエントランスの手前に二階建ての山小屋のようなものが建っているのか見える。とにかくなんでも見てやろうの気概で中に入るとこれが家畜小屋である。大きな牛から生まれたての小兎まで所狭しと細かく仕切られたゾーンにそれぞれ入れられている。最後まであの手この手を使って飽きさせない動物園である。

やってきたバスに乗る。さよなら動物たち。手の甲にスタンプされた紫色のアシカを見せて乗り込む。またしばらく木立の中をのろのろと走っていくと、急に開けた場所に出る。ここが頂上の「グロリエッテ」である。巨大な門のようなモニュメントで、お金を払えば上階の展望台にも上れるし中にはカフェもある(なにもこんなところにまで来てコーヒー飲まなくてもいいだろうに、とぼくなんかは思ってしまうのだが)。バスの運行も残り少ないようだったのでここではあまり長居はせず、朝の出発点であるシェーンブルン宮殿を遥か彼方、下界と言ってもいいくらいの位置に眺めては、ずいぶんと高いところにまで登ってきたものだ(バスで、だけど)と実感すると、同じバスにまた乗ってあとは一気に最初に乗った停留所にまで戻る。今度はひたすら下り坂だ。

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宮殿をあとにしたのは午後五時くらいだったろうか。とりあえず最後の晩餐はカールスプラッツまで戻ってからどこかのカフェで食べることにして、とりあえず市内まで戻る。まだ時間もあるのでホテルに帰ってから食べるジュースやおつまみをスパーで買う。相方が(たぶん)動物園に折りたたみ傘を忘れてきているのに気がついて、たまたま通りかかった雑貨屋の外に見切り品のように売られていた折りたたみ傘を買う。ちなみに忘れた傘は前の旅行でイタリアで買ったものであるらしい。まあこれも何かの因果だろう(この時買った傘は今でも我が家の靴箱の中に収まっている)。

カフェ・シュヴァルツェンベルクというこのあたりでは最も古いとされるカフェで夕食を食べる。相変わらずのミネラルウォーターと肉料理。食後のメランジェ。けれどこれも今日で最後である。天井の高く、木と石の重厚な内装、窓から入ってくる夕刻の光はもう弱い。一つ一つの出来事が、行為が、終りを告げていく。たぶんここに戻ってくることはこの先無いのだろう。ここでこうして働いている人たちの顔を見ることもこの先無いのだろう。べつに「一期一会」とかそういうことを言っているのではい(そもそもそんな個人的な親交を結ぶには至っていない)。ただ、そういう事実を一つずつ確認していく段階に、この旅行もようやく至ってしまったということをすこし淋しく感じる。

10 第八日目(2012/7/21土曜日)・第九日目(7/22日曜日)

最終日は前日とは違ってちゃんと雨が降っている。降ったりやんだりではなく、細かい雨が朝から意を決して降っている。ウィーン国際空港からシャルル・ド・ゴール空港にてトランジットし日本へ帰る。そのウィーン国際空港は午前十時発の飛行機に乗らなければならないので早ければ早く着くに越したことはない。ぼくたちは六時半の朝食のスタート時間と同時に食堂へ行き、その四十分後にはチェックアウトを済ませる。昨日買った傘を広げて駅を目指す。駅の階段を重いスーツケースを持って降りるのはなかなか骨が折れる。

ウィーン・ミッテ駅に着いて初めて気がついたのだけれど案外と国際空港まで通ずるSバーンの本数が少ない。当地に来たときはとりあえずある電車に乗ればいいやという感じだったので気にしていなかったのだけれど、ターミナル駅の複雑な発車時刻の並ぶ電光掲示板を眺めては、いったい自分たちが乗らなければならない列車はどのホームから何時に出るのかを必死に探る。しかも駅舎が工事中でホームへ降りる階段がどこにあるのかまったくわからず、無駄に遠まりをする始末。飛行機に乗り遅れることだけは避けねばならないという焦りの中、ようやく調度よい時間の列車に乗れることが分かり、ホッと一安心。やっぱり時間制限のある時はタクシーのほうが良かったか。ともあれ、無事にSバーンで空港まで行き、かなり手間取りながら免税手続きをすませ飛行機の搭乗時刻を座って待つ。結果的に三十分程度飛行機の到着が遅れたけれどほぼ定刻通りに離陸(パリでの乗り換え時間は二時間もないので冷や冷やしたが)。けっこう機内は空席もあって、隣のおじさんは乗務員に難癖付けて空いている席に移っていった。

シャルル・ド・ゴールではとにかく駆けずり回る。この旅行へ行く前に旅行代理店で航空券を手配した際の「90分でトランジットできますか?」「うーん……(しばし黙りこむ)まあ、だいじょうぶですよ」というやりとりを思い出す。それは、駆けずり回れば「だいじょうぶ」という意味だったのか。とにかくウィーンと違って出国手続きが必要な上、必要もないバゲージドロップオフに並んでしまったりとまったく慣れていないと何をやっていいかもわからない。荷物検査で華麗にベルトを外すことくらいしか板についてこない。とにかくそうやって旅の恥を掻き捨てながら、往路同様のジャンボジェットに乗り込むことができた。この席に座ってしまえば日本に帰り着くことができる。できなくともそれはもうぼく個人の責任ではない。とはいえ、これから再び12時間の拷問が始まるかと思うと気は重い。例によって相方は最初の機内食を食べてしまえばあとはぐっすりである。このフライトは午後一に出発して成田には朝の八時に到着のため、時差ぼけを少しでも軽くするためには今眠っておかなければならない。しかしまだ真昼間だ。飛行機は飛び立つと間もなく、例の座席備え付けのモニター画面の調子がわるいらしく二回もシステムを再起動するとのたまう。変なところが再起動されなければよいが……と、不安になりながらまた数独でもやろうかと思うが、この再起動の結果早くもぼくの席のモニターはフリーズし、以後まったく動く気配を見せることはなかった。ぼくはハイネケンを飲み終え、シェードが下ろされて暗くなった機内で読書灯を付ける。文庫本を開き、文章に目を凝らす。ページを繰る。時々時計を見ては成田までの残り時間を溜息と共に数える。

結局一睡もできぬまま日本に戻ってきた。一日が終わったはずなのに一日がまた始まるという徒労感に全身さいなまれている。スーツケースをピックアップし、入国手続を終えてもそこはまだ我家の玄関ではない。ここから一時間弱、まだバスに揺られなければならない。ぼくたちは池袋行きをほんの少しのタイミングによって逃してしまい、仕方なく新宿行きに乗り新宿からタクシーに乗って帰った。八日目はかくして終わり、これは同時に九日目の出来事でもある。とにかくシャワーを浴びて簡単な食事をしベッドに転がり込む。しかし明日にはレンタルのスーツケースを返却しなければならないから荷物を整理しなければならない。

11 やわらかな後書き

約一週間の旅行記を書き終えるのに二ヶ月も費やしたのが不思議でならない。旅先ではその日の出来事を簡単にノートに簡単なメモ書きにしておく程度の記録はしていた。もちろん後でこうした旅行記を書くことは旅の途中から決めていて、記憶のトリガーとして印象的な出来事や光景を書き留めていたのだ。けれどここまで時間を費やし、そしてボリュームとしてもここまで長いものとなることは、少なくとも「前書き」を書いた帰国後一週間の時点では予想出来ていなかった。小説を書くのではない。既に起きた出来事を順番に書き記していくことにそれほど時間もかかるまいと思っていた。けれど驚くべきことに、結構な部分を既にぼくは忘れてしまっているのだ。なぜこの駅からこの電車に乗ったのか? この二つの出来事はどちらが先だったか? そんな基本的なところから確認しなければならない。レシートの山をひっくり返してはこのレストランではあれを食べたのだと発見し、あるいはグーグルストリートビューによってかつて歩いた場所を確認する(そしてウィーンの街中がほとんど対応していないことに気づく)。こうしてぼくたちは驚くべき速さで忘れていってしまうのだ。これは人間にとっては必要な機能なのかもしれないが、旅行記を書く者にとっては少しの間だけでも緩和されぬものかと願うしか無い。だから内容の濃淡はけっこうな程度で表れていると思う。

ただ、忘れてしまっても残るものがある。それはすでに「前書き」でも述べたとおりだ。ぼくたちの日常に、その所作に、脳髄の片隅にそれは確実に居を定めている。日本語の通じない場所で短い間ではあってもこの身を置いたこと、歯車として少しばかりの矜持を抱いてきた会社という場所を短い間ではあっても不在にしたこと、メールは六十件くらい溜まっていたけれどぼくでなければならないというような内容は案外と少なかったこと、そして今でもパリの街では地下鉄がきびきびと運行していることやウィーンの街角ではこの瞬間も仮装したチケット売りが汗をかきながら片言の日本語をしゃべっていることを想像すること、そうしたことがトータルでぼくたちの日常にある種の奥行きを与える。照射し、長い影を浮かび上がらせる。平面を立体に立ち上がらせる。そこに何を読み込むのかは、なにを汲み出すのかはこの先のぼくたちの自由だ。結論を急ぐことはない、つまらない教訓も必要ない。生活とは、そういうものだしそうやって続いていく。あるいは結婚というものも。

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〈了〉

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