ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

を、読みました。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というあまりにも有名な惹句と初めて出会ったのは、大学に入って一年目の、本当に最初の学期だったように思い出します。駒場では、この言葉をテーマとした連続講義が行われていて、今では記憶も不確かなのは、さすがの内容の高度さに正直ついていけなくて最後まで聴講しなかったのかもしれません。

その後、奥付を見ると2003年に野矢茂樹による本書の新訳が岩波文庫として刊行されたのは、文学部に身を置いていた者としてはそれなりの大きなニュースでしたが、何度か本屋でパラパラとめくっては書架に戻すということを繰り返すだけで、本書に対する敷居はそれでもまだまだ高いものでした。なんといっても、文庫本の半分が本文で、半分が訳注なのですから。

いわゆる論理学を修めた人が読むとどう読めるのかわかりませんが、現在の使用法とは異なりながらも、論理学の原型のようなものが展開されたあとで、特に「6」で始まる最終章については、それまでのつながりとはかなり内容的に飛躍があるように見えます。それでもこの本がたんなる「論理学」の論考ではなく「論理/哲学」の論考であるからには論理の中にある哲学、あるいは哲学としての論理学というものを示したかったのかもしれません。

言語の限界が「私」である、という考え方はある種潔くて、「非言語的なものも含めて私だ」という反論は当然ありえるのですが、ぼくにはむしろだからこそ言語で表現可能なフロンティアを拡充することに対する清々とした宣言にも聞こえます。自分がより良く生きていくうえでのツールとして哲学を考えるのであれば、独我論(という限界)から出発していったほうが良いようにも思えるのです。

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