大崎善生『聖の青春』

大崎善生という作家の名前は、ぼくの中ではどうも『セカチュー』以降ある界隈でもてはやされた恋愛小説家の一群の中に位置していたのだけれど、まったくふとしたきっかけから手にした『聖の青春』の文庫本にその名前が記されているのを見て驚愕し、表紙の裏に書いてある著者略歴を読んで二度目の驚愕をした。

しかし今日ここで語りたい驚愕は、他でもなく『聖の青春』についてである。

正直に言って、将棋とは縁のない人生であったが、ここにこれほどの人間ドラマがあるなんてことをぼくは全然知らなかった。久しぶりに会った大学の先輩と後輩とがかねてから将棋好きで、そんな話もちらほら出たので、本屋で見かけた『聖の青春』を、読んでみようと思った。名前は知っていた、たぶん彼が亡くなった頃にTVなどでその生い立ちくらいは目にしていたはずだ。

ここには、ぼくの生きられなかった人生がある。逆もまた真なりだ。彼の生きられなかった人生を、ぼくは今いきている。二十九歳で亡くなった村山聖と、同じ年令にぼくは今いる。けれど、彼が成し遂げた業績の1ミリにだってぼくの人生はかなわないじゃないか、なんて口先三寸の人生論を語りたいわけではない。決してそうではなくて。

変わらずにあることの強さ。変わらずにあることの弱さ。

変わり続けることの強さ。変わり続けることの弱さ。

それのどれが正解とも思わないし、どれが優れているとも思わない。ただ、彼の人生とぼくの人生との間に大きな溝がある。これを覗き込む。震える足を無理やり地面におしつけて、ぼくは上半身からその深さに驚愕する。全身に震えが伝播する。

なりふり構わず好きなことに猛進する、その賭けに乗ることしか出来なかった。それだけが彼の人生であり、その限界から大きく道を拓けた。もちろん誰の命も有限であり、夭折の美学なんて持ち出す必要はない。ただ、最後五連勝の後に五つの不戦敗が続き、途絶える。これこそが「生き切る」ということなのだろうと、考え込んでしまう。どんな瞬間も、将棋と共にあった。どんな瞬間も共にありたいと思うものを信じ続けた。そこに、打たれるではないか。

忘れていたものを思い出させる。彼はある意味で子供のまま、そのままの勢いで走り抜けた。走りまわることを禁じられたその代償に、将棋盤の上で暴れまわった。そういう種類の勢いを、多くの「大人」たちは飼いならされてしまうんだな。

『三月のライオン』も読みなおす。この漫画の異常な「熱」ももう少しだけ近づくことができるかもしれない。なぜ将棋なのか? なぜ「たかが将棋」にこれほどの人間ドラマが巻き起こされるのか? 奨励会や名人といったシステムも、誰かが考え、近代将棋としての制度を作ったのだろう。それも、どこまで恣意的なものなのかわからないじゃないか。これが、会社にいる人間だったらシステムに対して、組織体制に対して簡単に軽口を叩く。あるいは、簡単に組織改正もなされていく。いつまで続く変わらかない枠組みの中で、これほどまでその「勝負」にエネルギーを投入し続ける、その真剣さはあるいは愚かとさえ言う人もあるかもしれない。けれど、馬鹿にならなければ見えない世界がある。バカにならなければ、バカにならないと見えてこない世界があるということも、気がつかない。

自分が他人にどう見えるか、なんて気にしないで、全身全霊をかけるそのとてつもなく生きた証しがこの本の中にいる。そういう人生は可能だ。そうでない人生も可能だ。そうでない人生を貶めるつもりは毛頭ない。でも、村山聖のような人生もあるということを知っておくことは必要だと思う。

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