『歴史其儘と歴史離れ』(ちくま文庫 森鷗外全集14)を読みました。

こちらも学部卒論の時の参考文献として買って、そのまま本棚の肥やしになっていた文庫本。森鷗外の本は捨てたり売ったりするとバチが当たりそうなので、うっかり買ってしまうとずっと持っていないといけなくなりますね。本書は、文学論争として名前だけは有名な「没理想論争」に関する鷗外側の言い分がふんだんに収録されているため、被の論争を論文の中で少し紹介しようと思って買ったのでした。

しかし、「没理想論争」自体ははっきり言って鷗外の悪乗りと言うか、逍遥の言葉尻をとらえた言いがかりにかなり近いのが、本書を読んでも結構感ずるところです。そもそも「理想」という訳語(なのかなんなのかよくわからないのですが、当時はどういう文脈で使われていたのかぼくにはちょっとよくわからないのですが)を二人ともぜんぜん違う意味で使っているように思えます。逍遥は割と単に「主観」の意味で軽く使っていて(それも、今の我々の言語感覚から言ってもかなり珍奇な感じを与えるものではありますが)、彼にとっての「没理想」というのは単に客観的な描写くらいの意味合いなんですよね、たぶんスタンダールみたいに内面にあまりズケズケと入り込まないような。

一方で鷗外側は、たぶんそういう意味の違いは百も承知の上で様々な登場人物を出しながら「ん? 逍遥大先生のおっしゃっている『理想』という意味はこーんなふうに分類できるということで、よろしかったでしょうか?」というのをねちねちねちねち展開していきます。これは完全に一方的な言いがかりにしか読めないのです。逍遥側が書いたものは読んでいないのでよくわかりませんが、ほとんど「論争」の体をなしていなかったのではないでしょうか。

それはそうとして、さすが田中美代子さん(この方は三島由紀夫の解説に必ず出てくる研究者ですが、鷗外もやられていたのですね)の解説では、これほど「没理想」を批判しておきながら後年の鷗外の史伝小説は「没理想」を目指す方向に向かっていった点がしっかりと指摘されています。そういう文脈に載せた時に表題作の「歴史其儘と歴史離れ」の記述も、なかなか味わい深いものがあります。

と、偉そうに書いてきましたが、鷗外の史伝三部作は渋江と伊沢だけ読みましたがあまりにしんどくて二回目はぼくには無さそうです……。

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