横光利一『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫)を読みました。

好きな作家は誰か、と問われてその時々で答え方が変わってくるのが大抵の場合だと思うのだけれど、横光利一はぼくにとっては常に一等席の一角を確実に占めている大きな作家です。具体的に何を指しているのかいまだにぼくもよくわかっていないのですが、戦争に加担したということで戦後はほとんど存在を黙殺されたまま戦後すぐに亡くなってしまったため、初期の川端と並び称された「新感覚派」の異名だけが宙に浮いてかすかに文学史的に記録されているだけで、実際は骨太な長編小説もありますし、純粋小説論のような文学論争にも名を連ねています。その意味で、悪い意味で再評価が待たれている──というのは、「再」評価などと言ってしまうのがもう最初からおこがましいとしか思えない──作家だと思います。

学部卒論の際に横光の表現手法について一部触れた時にこの文庫本も何回となく読み返しました。これと、岩波にも短編集が出ていて、一部ダブりはあるのですが「新感覚派」だけにとどまらない横光のテクニックに、手軽にアクセスすることができます。

個人的には、横光の「新感覚」というのは妻の死という悲惨な出来事を何とか生活現実の中でとらえなおそうとした必死の所業の中から出てきたものなのではないかと思っています。川端も、「新感覚」と言えばそうなのかもしれないですが(文法的な破綻した文体などは、ノーベル賞のおかげで日本の伝統的な文体と誤解されていますが)、やはり大変に技巧的なもので、横光のどこか肉体的な文体とはかなり性質を異にしているのではないかと思っています。横光は「春は馬車に乗って」「花園の思想」以降、妻から与えられたその現実を異化するスタイルを駆使して「時間」「機械」などにテーマを広げていきます。そこではもはや度重なる改行で紙面の余白を許すような甘さを自分に与えません。まさに一語一語が歯車のようにきっちりとかみ合って、短編の全体を構成しています。

新潮文庫の中では「微笑」がとにかくすばらしいです。戦後を舞台としているので、作者晩年の作品で、作者の死後に刊行された遺作のようです。こういう作品をもって、横光は戦争に日本が勝つことを祈念していたなどと誤読されているようではあまりにも悲しいものです。これは全く逆で、架空の一発逆転兵器に夢を仮託せざるを得ない(いや、そこまで真正直に心境がつづられているわけではない、ギリギリのところで持ちこたえていることこそに意味があると読みたい)、戦禍にある市井の人々の弱い心、キチガイでもなんでもそこに望みをついつい託したくなってしまう弱い心を、糾弾するでもなく、肯定するでもなく、ただエピソードとして目の前にどすんと持ってくる。これこそが文学の力でなくてなんなのでしょうか。そして、キチガイかもしれない男の言っていることが妙に一本筋が通っていて、それに自分自らも同じ夢に吸い寄せられて行ってしまう──これこそが、単なる文体を超えた普遍的な文学の持つ異化作用であり、そしてこれこそが本当の意味での「新感覚」なのではないか、などとぼくは読後感じ入ってしまうのです。

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