中学生くらいの時に買った分厚い文庫本を再読です。白樺派の作品は、十代のころはよく読んでいましたが大人になるとまず読まなくなりますね。ぼくの場合は、やはり太宰にかぶれたせいでなんとなく志賀直哉の作品と真正面から取り組むことができなくなってしまったように思います。
とくに『暗夜行路』は太宰がタイトルからしてケチをつけていたくらい憎んでいた作品ですが、今こうして読み返すとどうも同族嫌悪のような感じもしてきます。『暗夜行路』も、なにか求道的な内容をほうふつとさせるタイトルで、もちろん子供が病気で死んでしまうような悲しい出来事もありますが、基本的に金持ちのボンボンが茶屋遊びを初めて、友達と誘い合って何度もどんちゃん騒ぎをしに繰り出しては、突然本当の自分を取り戻すために一人で勝手に旅に出ていくようなところがあり、またそのことごとくを可能にしているのが親の金だったりするんですよね。
もちろんその背後には祖父と母との不義の子という背景があるのはわかるのですが、そういう高等遊民的なバックボーンの主人公が「自我に目覚める」ごっこ遊びに興じるのが、金木の殿様の家に生まれながら勘当され、東京で筆一本でのし上がった(と自分度では思っている)太宰には痛いところを突かれたように思えたのかもしれません。直子の不義も、「人間失格」に似たところはありますが、シチュエーションとしては自業自得としか思えないし、そう思ってしまうと太宰自身も彼我の本質的な差異がなんなのかわからなくなって、言い訳を重ねてしまうことになったのかもしれません。
いずれにしても内容に関して、文学史的、教科書的に素晴らしいと言われるような例えば大山の場面などぼくは今まで何回か読みなおしてきて、まったく共感も感動もしないのですが、しかし今回読みなおして何よりも感じたのは志賀の文章のあまりの読みやすさです。これはやはり芸と言っていい。長編小説がまったく苦にならずすらすらと読み終えることができました。これは大江健三郎では全くこうはいかない。テクニカルには志賀の文章の読みやすさというのは、短文と複文が交互に来るのリズムが良かったり、ひねったレトリックをほとんど使わないといったようなところは指摘できるとは思いますが、これは正直なかなかまねできる文体ではないな、とあらためて「小説の神様」たるゆえんを感じました。



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