北杜夫『幽霊─或る幼年と青春の物語─』を読みました。

初めてこの作品に触れたのは実は駿台のテキスト。なぜかそれはよく覚えている。「半睡のうちにぼくは──」という第一章の途中で夢うつつの境にある場面が抜かれていた。いまネットで調べると1990年のセンター試験初年の際に小説パートで出題されているようだが、同じ部分かどうかはわからない。いずれにしても、大学受験を通じてぼくは「どくとるマンボウ」ではない北杜夫に触れることができた。

しかしその抜粋はある意味でこの小説の特徴を最も言い当てた部分だったと今になって思う。タイトルこそ「幽霊」だが、とにかく本書は北自身による幼年から青春時代の回想なのだ。大人になってから回想する子供時代というのは、写真のようにはっきりくっきりしているわけではない。記憶も所々危うい箇所がある。けれど、根底にあるのは周囲の大人たちとの実際に合ったやり取りのはずだ。その意味で、記憶というヴェールに包まれた中をかき分けていく営為が筆致の現場であり、そこには現実とも夢とも言えない非常にマージナルな時空間が展開される。それを北自身はタイトルにしたのだと思うが、けれどもっと優れている表現を自身で書いているのだ──「半睡」と。

後半に行くにしたがって、もはや現代でいえばストーカーのような、ちょっと街で見かけた女性に執着する様子が繰り返し相手を変えて執拗と言っていいくらいに描かれる。それは、本人にとっては「美しい物語」なのだろうが、正直なところこの後半部分はかなり辟易する。それは、吉本ばなながかつて表現したような「万年筆を愛するようにしか人を愛することができない」美しさや哀しさとは少し違う。言ってしまえば「昆虫標本を愛でるようにしか人を愛することができない」ひとつの病理なのではないかとも勘ぐってしまう。そう思って読むとは本当に悲しい物語だ。そしてそれが「純文学」として祭り上げられることもまた、昭和文学に巣くう病理と言っていいのかもしれない。

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