世間は村上春樹の新作で話題が持ちきりのようだが、ぼくは安部公房を立て続けに三冊読んでいた。『壁』『砂の女』『カンガルー・ノート』。
これらを最初に読んだのは二十年ほど前、二十歳前後のときだ。そのときは、こんな面白い作家がいるなんて! と思って、このまま読み進めてしまうと新潮文庫を全部買い終わるまでページをめくる手が止まらなくなってしまう、したがってカンガルー・ノートまで読んだらいったん打ち切りだ! と、いらぬお金の心配までして(いや、実際切実だったのだ)その読書欲を抑え込んだ記憶がある。
しかし、なんだ、いま読み返してみて、ちょっとしんどい。大人になってから寓話を読まされるのははっきり言ってかなりしんどい。同じような意味で、ぼくは伊坂幸太郎がまったく受け付けない。オーデュボンの祈りの最初数ページを読んで「かかし」が出てきたあたりでこれはもうダメだ、と思って以来一冊も読んでいない。
『壁』? ああ、なんか名前の方が実体にすり替わってしまう、現代の「自己証明」のありかたにメスを入れた代表作ね。名刺に会社と肩書があるからこそ成立する雇われ人としての自己定義。あるいは、マイナンバーカードが無ければ自分が誰だか国家に証明できないディストピアを戦後間もない時期に既に言い当てているすごさ。そして「壁」のメタファーは村上春樹にも引き継がれているのではないか…。
『砂の女』? ああ、フェミニズム的にはいま読むとかなり問題だけど、現代人は結局みんな砂地獄におちいっているようなもんで、例えば会社のヒエラルキーや官僚組織に自分が取り込まれることでしかぼくたちはもはや生きていけない。「外部に欲望するな!」みたいな生き方の指南なんですかね。でもやっぱり、そこにたまたまいた女と都合よく懸想しちゃうのは時代の限界なのかなあ。
『カンガルー・ノート』? ああ、作者も死を意識したところで書いていたためにその死生観が反映された最後の長編だね。「オタスケ、オタスケ…」の呼び声はどこか、笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』に出てくるマグロの「イラッシャイヨ…」に通ずる、異界の入り口にいざなう「境界」の文学的現象として意義深いよね。まさに三途の川のような、水、あるいは海のイメージが生死のあいだには必ず登場するらしい…。
なんて、そんなことをいちいち考えるのがもううすっぺらくて、嫌になったんですよ。安部公房の小説がどうとかいうわけではなくて、寓話を読んでいると裏読みをひたすら別の頭がひたすら考えながら「作者の寓意にだまされてたまるか! おれはすごい読者なんだ。おまえなんかに絶対だまされないぞ!」と勝負を挑まされるようなスタンスに、どうしても頭が(体が)臨戦態勢になってしまう。
伊坂もそうだが、これは平野啓一郎を読むときも同じで、あの人のあまりに器用な「詐術」にからめとられないように最大限意識を研ぎ澄ましていつも作品に接する。「バベルのコンピューター」事件を想起するに、平野というのはデビュー当時からひたすら手先の器用さを武器にしていて、昨今の「大衆小説」路線も映画化などで経済的にも大変な成功ぶりだ。しかしどうしても「これで本当に平野を読んだことになるのだろうか?」という意識が付きまとう。「バカな読者どもめ!」と舌を出している氏のしたり顔が浮かぶ。それで、ある時期から平野啓一郎は全く読まなくなったし読み返すことも無くなった。我々の世代のスーパースターではあったのだが。
閑話休題、安部公房の寓話もいまとなっては読んでいてただ疲れる。自分の読書体力が減ったというのもあるし、読んで「こういう意味があるんじゃないか?」とああじゃこうじゃ謎解きをするのが楽しかった若い時期というのはもうすでに過ぎてしまった。もう一冊文庫本を買ってきて(今なら文庫本をそろえるくらいの金銭的な余裕はあるのだが)読もうという気にもならない。
ということで、今回の読書記録は「感想」すら書くのもおっくうなのでここで打ち止めとする。



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