まもなく、小説の新人賞というシステムは崩壊する。なぜなら、ひとすくいの砂金を手に入れるために4トンダンプ10台分の泥をさらっているわけにはいかなくなるからだ。いや、もちろん新人賞の受賞作が原稿用紙100枚分の短編であったとしても、一冊1万円で売れるというのであれば別だろうが、今ですらすべての新人賞作品が単行本化するわけではない中で、人が書いたかどうかもわからない「作品」を下読みがさばいていくのは、不可能になる。
それでいいのだ。それで、よいではないか。
「面白い読み物」は人工知能に任せて、メディアミックスするでもなんでもよいではないか。その時、作者なんてややこしいものがあるとかえって「原作を意図せず改編された」とかなんとかまた訴訟リスクを抱え込むことになる。企業が物語を売っている以上、それは次第に公共のものになっていくだろう。ついに、小説もオープンソースの時代だ。でも、多くの作家は、エディタで数式やプログラミング言語を打ち込むようにしてすでに小説を書いているのだろう。
人工知能にできないことを人間がやるとしたら、それはもはや思い出を語ることにしか帰結しない。人工知能は体験を持たない。フィジカルAIたるロボットは、記憶を持つかもしれないがそこにはある価値基準をもとにした重層性というものは生まれないだろう。たんに、トライアル&エラーを繰り返す中で、エラーを徹底的にゼロにしていくことがロボットに求められていることだからだ。ロボットが時々風邪をひいて体調を崩したり、同じ作業の繰り返しでメンタルをやられてしまうことがあってはならない。それを防ぐためのロボットなのだから、調子が悪ければ同型の別の個体に置き換えられるだけで、
スピルバーグのそれこそ「A.I.」という映画が20年くらい前にあった。ぼくは大学一年生の夏で、女の子を誘ってそれを見に行った。ひたすら長くて退屈な映画だった。あの主人公の少年は、死んだ息子をかたどって作られたものだが、両親はそれを見ていろいろと感情を揺さぶられる。 揺さぶるようにプログラムされているのが人工知能だ。こうすれば人は悲しむ、こうすれば人は喜ぶ、それだけのことだ。そしてそれだけのことを「物語」に託すことに関しては、もはや人間はかなわないだろう。人の感情を動かすだけのソースコードを誰が書こうが、作者のことなどどうでもいいではないか。
それでも人は人が書いた物語を読みたいのだろうか?
人は、機械が描いた物語に感動することを恥ずかしいことと感ずるのだろうか?
わからない。でも、たぶんその手の羞恥心はいつか無くなる。あるいは、出版社側が無くすように作家を覆面にしてサイン会も何もやらなくなるだろう。逆に言えば、人がわざわざ書いた物語をわざわざ紙に印刷して本の形にして読む、ということはとんでもなくスノビッシュなある意味で特権階級にしか許されないサロン的な娯楽として囲われていくに違いない。街の本屋はつぶれていくだろう。それでいいではないか。あなたがさんざん馬鹿にしていた週刊誌のゴシップ記事や、それこそ誰が書いたのなんてどうでもいいポルノ小説、写っている裸が誰のだったかなんてすぐに忘れ去られるグラビア……そういったものが奪っていた時間を、別のなにかが埋めてくれているのだ。
人が書いた小説なんてもう、青空文庫だけでたくさんじゃないか!
柄谷行人が言うように近代文学は死んだかもしれないが、文学というものは小説とは別の形によって脈々と受け継がれている。ぼくはそれを確信しているので、本屋がつぶれたり本が売れないと嘆いている人たち(しかし新刊書店に行って、「おお、これは読みたい!」と思える本に出会うことが本当になくなった。それはだれの責任なの?)の気持ちはわかるようでわからない。近代文学が死んで、ゴシップ記事はYahoo!ニュースに置き換わって、あとなにをすればいいのだろう? 少部数出版のお高い自費出版本を細々と売って糊口をしのいでいく、あるいはインフルエンサーの「つぶやき」を1000パーセントくらいに薄めて300ページの単行本いっちょあがり、それを毎日初版5000部を売り切って、そんな毎日をちがうインフルエンサーがとっかえひっかえしてく。これもある意味でサロン的だ。大衆出版(という言葉があるかどうかわからないけど)は、役目を終えたのだ。人工知能は最後のとどめを刺したに過ぎない。
閑話休題。ぼくはいま自叙伝を書き進めている。村上春樹の小説の主人公たちがよく口にする「それ、あなたが自叙伝を書くときに使えるわよ」というネタやフレーズを書き溜めている。これは、人工知能に対する抵抗になるのだろうか。いや、抵抗ではない。住み分けだ。名もない中年の自叙伝を読む人がいるのだろうか。逆説的だが、もし人々がよくできた物語に食傷した時、はじめて人間の書いたものに価値が生まれるとしたら、それはやはり経験や体験を記述したものでしかないだろう。ロボットは記憶を「思い出」という形で想起することはない。「思い出」はデータではない。
でも、実はアマゾンの倉庫で仕分けをひたすらしているロボットの自叙伝を読んでみたい気持ちも、ぼくは実はひしひしと感じている。それは新しい奴隷物語だ。人間にはとても書けない、誰も思いつかなかった、まったく新しい文体がそこにあるような気がする。それがこの世に出てくるまでの少ない残り時間を使って、ぼくはまだ自分が人間であることを証明し続けていきたい。



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