渡邉雅子『論理的思考とは何か』を読みました。

国語の教員免許も持っているぼくとしては、大げさに言えばけっこうアイデンティティクライシス級の読書体験でした。ぼく自身これまで信条としてきたのは、日本的な主観と客観ずるずるべったりの作文教育というのはとにかく「悪」で、これからの社会で生きていくためには「論理性」こそ国語で教え込むべきであり、文学教育は(ぼく自身が文学から大きな影響を受けていることはもちろん十分にわかったうえで、それでも全国民がひとしく経験する必要はないだろうというのがぼくの考えです)趣味的な領域にとどめておくべきだと考えていました。いまの学校カリキュラムでは、「論理国語」と「文学国語」に分かれていますので、個人的には本当に今の国語教育は自分としてはいい方向に行っているな、と思っています。

しかしながら、そこでいう「論理」「論理的」「ロジカル」ってなんなの? ということを本書は鋭く問うています。

ぼくの知っている「社会」は新自由主義の暴風雨が吹きすさぶ時代でした。ここにおけるロジカルとは、アメリカ式の、自己責任式の、新自由主義経済式の論理であって、実はそれは唯一無二のものではなかったということです。ぼくはそれを、唯一無二だと思って今日まで生きてきました。ロジカルであるというのは、形式論理に精通することであり、結論(イイタイコト)に従属するものを手際よく見つけ出し、隙のない因果関係を我田引水して効率よく相手をぎゃふんと言わせることが、社会で生きていくことと同義であると思って今日までやってきました。

でも、どうやらそれは歴史的な一つの現象にすぎないようなのです。それが本書の説く、ある意味で恐ろしい真実です。綴り方教室にも、「論理」はあった。イランの宗教的な作文にも、バカロレアの論文試験にもそれぞれの論理があり、それは実はロジカルシンキングが世界で唯一「ロジカル」だと思い込んでいる、そういう教育の刷り込みを受けた世代からすると非論理的に見えるかもしれないが、相手からしても「こいつはいつも経済優先で皮相的なロジックばかり使って自分の主張を通すことしか考えていないんだよなあ」と思われている……ということです。

ロジカルであることは、言語を超えた世界の共通言語だとぼくは固く信じてきました。だからこそ、ロジカルでありたいと思い、ロジカルであることを通じて人とつながっている、説得している、意志を通じ合っていると思ってきました。

でも、どうやらそう思っているのはお前だけだよ、と本書は恐ろしい警鐘を鳴らしてきます。

明日からどうしようか?

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