
七沢潔『原発事故を問う』、広河隆一『チェルノブイリ報告』を読みました。いずれも、フクシマより前、90年代に出された本です。
いまチェルノブイリは、ウクライナ読みでは表記が変わっていますが、当時の慣例でチェルノブイリと書きます。そもそも事故当時、ここはソ連の管轄化でした。ウクライナという国家はありましたが、ソ連の一員として存在していました。
事故による汚染はウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)、ロシア連邦にまたがる地域で広がったわけですが、ソ連崩壊後はウクライナのなかにかつてソ連直轄だった石棺が取り残されている、さらにそこがロシアの攻撃の標的になるというなんともやるせない状況につながるわけです。ベラルーシも、親ロシア国家ですが一番汚染がひどかった地域で、避難先の方が結果として線量が高かったなんてこともあったようです。いつでも政治家は苦しむ国民を置き去りにしてしまう…。
本書は、写真家による現地を足で稼いだルポルタージュと、NHK記者による政治レベルの真相究明の即席と、岩波新書の懐の広さも感じられる素晴らしい2冊。まずは、何があったのかを知らなければならない。人類の記憶を忘れないために。
放射線は目に見えない。だから不安なのだ。汚染にもムラがある。突然、ホットスポットが現れる。だから怖い。除染にはとんでもない時間と手間とお金がかかる。タダではできない。だから人命と天秤にかけられる。そんな事があっていいのだろうか。
そんなことを思いつつ、フクシマよりも前に書かれた本書を読みながらもフクシマを経験した今の読者は、チェルノブイリをまったく他人事とは思えない。いまでも、日本には住めない場所がある。
なぜみんな忘れてしまうのか? 東日本大震災のとき、都内にいてもあんなに毎日不安だったのをなぜみんな忘れてしまうのか?
もちろん、新しい世代は、例えばあのころに生まれた子供はもう小、中学生だ。彼ら、彼女らは震災を直接知らない。でも、親はまだ知っている。伝えなければならない。あの時のことを。このブログにだって、あの時のことが書いてある。
それなのに、最近地下鉄に乗っていると信じられない意見広告が流れている。


核のゴミの地層処分についてみんなで考えようと言う。動画に出て来るのは、上のような若い世代を象徴するアイコン。バカにするのも大概にしてほしい。核のゴミについて考えないで原発を推進してきた世代が居直って、「さあ、これは大変な問題ですよ、知ってください。みんなでどうするが考えましょう」って、「啓蒙」のつもりなのだろうか?
その前に海外に置きっぱなしのプルトニウムはどうすんの? そこに民意はあったのか? お前らのつけを、若い世代にさも啓蒙というキグルミを着て押し付けている自らの醜悪さに思いが至らないのだろうか? この広告の企画者は胸が痛まないのだろうか? 本気で意見広告だと思って「いいことをした」と思っているのだろうか。
本当に信じられない。
もんじゅは廃炉になったが、それもお金がかかる。プルサーマルだけはまだ死に絶えていない。やらざるを得ないのだろう。茨城に住んでいた頃、やはり原子力関係の研究所の前を車で通過するときは、なぜだか緊張してスピードを上げたものだ。JCOの事故だって、風化していないか?
事故が起きたときは政治なんかやってる場合ではなくなるというのに、相変わらず推進を決めた政治家はメンツを保とうと国民の安全をないがしろにする。次の大事故が起きる前に、本当に原発はやめなければならないと思う。



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