中村桃子『女ことばと日本語』を読みました。

「ゆる言語学ラジオ」で紹介されていたので一読してみたのですが、これはややトンデモ本か? 小森陽一的なポストコロニアル批判がもうその結論ありきになっていて、国文学を専修した身としては、そこへのプロセスが雑すぎるように読めました。

明治大正に女性がどのような話し方をしていたのかは、録音がない以上(本当にないのかな?)稗史小説に依らなければならないのは分かるのですか、もっと依って欲しかった。小栗風葉も小杉天外も、もはや研究者でないと読んだこともないでしょうし、一般人からしたら誰それ? って感じだと思います。なぜ、よりによって小栗のポルノ小説に論旨の太宗を依拠しなければならないのか、そこがさっぱりわからなかった。

純粋に、近代文学の表象に論点を絞って論じたほうがよっぽど面白いのになあ、二葉亭四迷の翻訳文体とか、もっと掘ればいいのに表面的に論旨に合う部分だけさらっと振れて、国家イデオロギーの話しに飛び移るのはやや階段を飛ばしすぎている感じがします。良質な研究に触れたときのゾクゾクするような感覚は、残念ながらないです。

結局、いくら教科書や国家制度が「女ことば」を強制したとして、それが実際に日常のなかで話されていたかどうかは最後までわからないわけですよね。再び小森陽一的に言うなら、女性が自己植民地化して「だわ」なんて語尾で実際に会話していたのかどうか。それは、本やドラマのなかにしか存在しない制度的な女性性であって、本当は太宰の「男女同権」的な日常しか、なかったのではないか。──かどうかは分からないですが、そこに対するもう一歩踏み込んだ疑義が出てこないのが、やや論の運びとして素朴すぎるように思います。

おそらく筆者の言う「女ことば」が表象空間での出来事なのか、実際に日常のなかで話されていた考古学的・民俗学的な視点からのものなのかが、論の途中からかなりコンタミしていてそこがかなり読者に混乱を強いてきます。たぶん筆者としては前者のつもりで書いているのでしょうが、前半がかなり話語を起点にした論が続くので、ちょっと勘違いしてしまいますね。学術的に証明できなければ、わからないという結論でもよいように思います。

それはそうとして、いまだに教科書の副読本などで「ぼくたち・わたしたちのナントカ」っていうタイトル形式が存在しているのもおかしいですし、家庭科の教科書の挿絵が女性ばかりなのもひところ問題になっていまはだいぶ改善はされてはいると思います。ただ、そういう話と、実際にぼくたちが日常に会話している会話のやりとりが、どこまで裏側に権力構造が張り付いているのかはもう少し慎重な判断が必要でしょう。

本書は男言葉を標準的としてそれを大前提に論を進めてきますが、男言葉もよっぽどマッチョイズムに彩られた差別的なものだと思いますが…。2項対立ではなくて、色のついていない標準語なるものがそもそもフィクションなのではないか、という立論もありうるんじゃないかと。

とはいえ、ぼく自身が、男性の東京方言話者なので、自らの権力性に気がついていないだけとも言えるわけで、耳の痛い話もいったんは受け止めなければならないとは思っています。

個人的には、現代の「ボク女」の諸相(あのちゃんとか、なんで自分のこと「ボク」って言うの?)とか、樋口一葉の日本語とか、谷崎の書く「女ことば」のフィクショナリティーとか、機械音声がなぜ女声ばかりなのかとか、おもしろい切り口はまだまだあるような気もするのですが。まあ、論旨はともかくとして、引用されるいくつかの事実確認自体はどれも興味深いものなので、ツッコミを入れながら読むとなかなか面白い一冊です。

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