レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』を読みました。

文化人類学のあまりにも有名な著作ですが、読めばほとんど紀行文と言ってよいかもしれません。黎明期の文化人類学の持つ、サイエンスとしてのみ語ってしまったらあまりにも味気ないが故に、そのスルメイカ的な部分も余すところなく描き込んでくれているストロースの筆致は、しかし同時に「悲しい」と言って余りあるものでした。

有名なナンビクワラの記述は後半の方なので、そこまでは不潔な旅に対する不平不満だったりも続きますがなんとかそこは乗り越えていくと、1930年代に撮影されたあまりに素朴な彼らの日常の姿に出会います。フランス語の原著にはもう少し豊富に写真が載っているようなのですが、この中公クラシックスに載せられているものだけを見ても、ナンビクワラの人々の愛情表現やレンズに向けられた笑顔が愛おしく感じます。

しかしこれは、ストロースが記述しているこの現在にはもう消えてなくなったもの。そこが「悲しい」。文化人類学の全てがそうだとは言わないものの、現地の人々と交流するにはやはり西洋文化の無用な刺激を与えてしまうし、病気もうつしてしまう。そのリスクをとりながら、彼らの生活の内側へ入りこまないとわからないものがある。それは1回こっきりなのかもしれません。記述してしまえば、もはやそれを知らなかった世界には戻れない。同じように、西洋人とある交換をしながら自分たちの唯一と思っていた文化を売り渡すことで、もはやナンビクワラの人々も、それをせずに狩猟採取だけをしてきた自分たちだけの暮らす世界には戻れなくなります。

それが、あまりにも「悲しい」。

ノスタルジーとは違う。学者の罪の意識と言っていいかもしれない。

その同じ厳しさを「文明」に対しても向けます。ストロースは文字の存在を重視しません。なぜなら、人類にとっての歴史的な大進歩は新石器時代の農耕牧畜生活の発明にあり、そこには文字による技術の蓄積はなかったのだから。あるいは、無文字社会の建築物がピラミッドに劣るとは言えない、と断言します。お前たちの思い上がりはなんなのだと、たたみかけてきます。

末尾のあまりに有名なフレーズにまでたどり着いたとき、人間の営みを宇宙の歴史的な視点で俯瞰するのが文化人類学を通して、宗教や肌の色の違いに拘泥することの愚かさをあらためて感じます。それは、もしかしたら、今この地球上を騒がしているさまざまな課題についてもまた、人類はあまりにも愚かで悲しい存在であったと、次の世代の生命体によって分析されるのと同じ視点なのだろうと思います。

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