子供のころの景色

ときどき、子供のころに住んでいた場所にわざわざ行くことがあります。大抵は、仕事が思わず午前中で終わってしまって、午後の広大な時間を持て余した時です。

もう、両親も別の場所に引っ越していて、ぼくが子供の頃に住んでいた家そのものはもうありません。同じ場所には、見たこともないデザインの家が建っていて、まったく知らない家族が住んでいます。

でも、家の前のアスファルトのデコボコは、まがうことなく、子どものころのぼくがボール遊びをし、ラジコンを走らせ、蝋石で落書きをしたあのときのままなのです。

ただ、それを見たいだけなのかもしれません。

もしたら次の異動で、遠くに行ってしまうかもしれない。あるいは、次にここに戻ってきたいと思ったときには、もう足腰も不自由な年齢になってしまっているかもしれない。そんな恐怖が、四十を過ぎるとふとよぎることがあります。

全ては捨ててきた。過去に捨ててきた。もう振り返ることはないだろう。あれほど、そう思っていた場所が、今さらいとおしく、心ひかれるものになっています。理由は、本当にわかりません。

夕方になると、温かい夕食のある家に自転車を走らせた。都会と違って、道は真っ暗だ。上水路の、黒黒とした流れが、吸い込まれそうな闇を湛えていた。あの時の、子供のころの、帰っていける安全な場所があるという感覚がうらやましいのかもしれません。

でも、全てがあの頃のままではありません。団地はさびれて取り壊されているし、そのなかにあったスーパーマーケットも閉店。子供が集まっていた駄菓子屋はシャッターが降ろされ、好きな女の子の家も建て替えられている。

でも、目を凝らせば変わっていないものもあります。通っていた文房具屋はまだ看板を降ろさず、いまは野菜も売っている。学校の校舎は古びたまま、今の新しい子どもたちを迎えている。よく登っていた木はもう切られ、二宮尊徳の像も場所を移している。製麺所は、栗林は、卵の自動販売機は、…まだ、形を変えずに残っていたりもします。

そんなものを確認して、どうしようというのでしょう。わかりません。人生は、後半戦に入っています。いつまでも、誰にも読まれない小説を書いたり、Xのタイムラインを漫然と眺めていたり、酒を飲んで気炎を吐いたりしているたけでいいのかと、思ったりもします。

2025年は、なにかそういうことの答えを出さなければならなかった年なのかもしれません。あきらめるべきことはあきらめる。でも、まだまだやれることはある。それを、残酷な現実の中からもう一度掬い上げ、確かめなければなりません。

もう時間はありません、本当に。

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