塩どら焼きは完成したのだろうか? あるいは、完成しなかったのだろうか? それを最後まで明かさなかったからこその、この小説なのだろう。けれど、ハンセン病を扱っているとはいえ、もちろん本書は北條民雄の後継として並べることはできない。それは、良くも悪くも、だ。
この小説は決してハンセン病隔離の歴史、あるいはそれを他人事にしてきた市井の人々の「無感覚」「無神経」「無関心」を声高に糾弾したいわけではない。そんなところに主題はない。その意味で、決して「意識が高い」作品ではない。
もちろんいくつかの歴史的事実は指摘される。けれどそれはあくまでも資料館を見たり、インターネットで検索した結果でしかない。それは今、読んでいるぼくたちにもすぐにでもできることであって、そこに新しい事実認定や、歴史に埋もれていた「偉人」を掘りおこす意図すらない。
ではなんなのか? この小説が訴えようとしているのは。
いや、「訴える」なんてことすらしていないのだ。それがドリアン助川の小説なのだろう。ぼくなりに言えばそれは「トホホ」の中にも意味はある、ということ。passiveな人生態度の中にも、作中の言葉を借りれば風のにおいをかぎ、木々の葉擦れの音を聞き、太陽の光の、あるいは星たちの一日の中の輝きの濃淡をその目で感じ記憶する、それだけでもう十分人生を生きたことになるのだ、ということ。
1998年長野パラリンピックのテーマソング(旅立ちの時 ~Asian Dream Song~)の作詞に懊悩し、結実した詞にも通ずるものがあろう。
特定の病を、ましてや国の責任を問うような大きな病をモチーフとしたことは、作者にとっても大きな決意がいることだったと思う。若い世代は、むしろこれを入り口にして「ハンセン病文学」なるものに足を踏み入れるのかもしれない。それはそれで大きなきっかけを与える大切な一冊だろう。そういうポプラ社的な学校道徳的文脈の中でも長く生きながらえていく作品でもあるだろう。それが公教育の中での国家のつぐないとして機能することは、あまりうがって見る必要もないはずだ。しかし、繰り返しになるが、ハンセン病の隔離政策の悲惨さを言うのであれば他にもっと読むべきものはいくらでもある。
『あん』が照射したいのは、隔離があろうがなかろうが、健常者であろうがそうでなかろうが、人生に対する態度のぎりぎりの水準での肯定だ。しつこいようだが、ポプラ社的な世界には、たぶん前科者の中年男性はあまり出てこないだろう。むしろ透明な語り手として、社会の中で更生を目指す平板な主人公として注目を集めないかもしれない。だが、誰もが塀の中にいる、と言ってしまえば、それは言い過ぎだろうか。隔離施設や刑務所の塀は目に見える。しかし見えない塀はあなたの心の中にしっかりと根を下ろしてしまっている。
ところでハンセン病文学において川端康成の役割というか、その態度は時代背景を踏まえても特筆すべきものがある。もちろん北条民雄を激賞した文学史的な役割だけでなく、そもそも隔離施設を訪れて患者と間近に接するようなこともやってのけている。伊波敏男さんという作家の方の記録に出てくる話だ。本物を見据える目が、ただの比喩でもなんでもないということがよくわかる一挿話であるが、果たしてコロナを通過したあとのぼくたちでさえ同じことを躊躇なくできる心性が備わったかどうかはなはだ疑わしいものだ。



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