加齢すら飲み込んでエネルギーに変えていくMr.Children『miss you』

三十代は、正直なところ音楽自体をあまり聞かなかった。仕事が忙しかったというのもあるし、子供も産まれて、イヤホンを耳に突っ込んで一人の世界に浸っていられるような状況が許されないというのもあった。会社の行き帰りも、なんか英語のリスニングだったりやらないとTOEICの規定の点数も気になって音楽どころではなかった。平凡なサラリーマンの三十代というのは大抵そんなもんだろう。

少し風向きが変わったのがコロナの時で、25周年のライブがまるまるYouTubeで公開されていて、自由に外に出られない中で数少ないエンタメとして楽しませてもらった。同じ時期にB’zもスタジオライブのようなものを公開していて、これも良かった。もっというと桜井アンド稲葉の対談も良かった。

今だから言えるが、コロナというのは(演劇の人も大変だったと思うけど)不要不急の産業に身を置く人にとって、自分の存在意義を問い直すのに、結構シビアな経緯だったとは言えかなりの時間とチャンスを与えた。そもそも、人と人が直接コミュニケーションすることが、人が死ぬことのきっかけになるなんて、人類規模に対する、大した挑戦だったと思う。たとえるなら、性欲によって種の存続をプログラムされている我々人類が(cf.「ジェラシー」)、性欲を否定されたところで子供を持ちたいと「純粋に」思うかどうか。同じように、コミュニケーションを犠牲にしてでも我々は生き続けたいと思うかどうか。もちろん、勝敗は明確ではし、個々の現場では敗北こそが望まれた結末となる場合もあるだろう。夢の世界の芸能人ですら現実に死んでいくニュースを見るたびにギョッとしたのは、コミュニケーションをあきらめきれない人類の一端が、サンプルとして垣間見えたからだ。もちろん、仮にぼくたちにそれを笑ったり悲しんだりする自由があったとしても、誰もいない密室においてだけの話だろう。

そうして我々はこれをとりあえずは、しのいだ。

いま、2025年のゴールデンウィーク中に公開されていた最新アルバム『miss you』の大阪公演を聴いていて、やはりかつての(まさにポカリスエットのCMに似合うような、innocent worldはアクエリアスのタイアップであったが…)高音の伸びは期待できない。楽器演奏と違ってボーカルという肉体労働は年齢を重ねると変化していくことは避けられない。しかしそれは、いまあえて「変化」という言葉を使ったが、劣化や老化とは違うものと捉えていきたい。入不二哲学で言うなら「変容」であり、それは何かが欠けるのではなく、トータルのあり方が、パーフェクトのあり方が変わったというだけのことなのだ。

ネット記事を読むと『miss you』は随分と評判の悪いアルバムだ。それまでの青春や恋愛や、それを超えていく普遍的な愛の概念を高らかに歌い上げてきた三十年は見当たらない。どちらかといえば、混迷の中にあった『深海』『BOLERO』の手法を自家薬籠中のものにしたうえで、あえて言ってみれば中高年の歌に仕上がっている。しかし、この中高年は衰えた体力を120%使ってかつてのパフォーマンスの再現を目指しているわけでは「ない」。ぼくにとっては少し年齢的に前を行く彼らのそういう姿は救いと言っていい。

この期に及んでまだ新しいことを試みようとしている。そんな中高年がこの国のポップスの世界にいるのだ。これが今の、これからの、Mr.Childrenなのだ。キャッチーさは後退した。しかし、聴かせる。相手を選んでいる。人生を積み重ねてくると、もう一度、孤独を愛する季節にたどり着いてしまうのだろうか。それは、ノスタルジーではない。Mr.Childrenがノスタルジーを肯定したことは一切ない。

「Fifty’s map」は文字通り尾崎豊を乗り越えようとする(若い頃の憧れた早世を。馬齢を重ねることの価値転換を)。十五歳が未来に逃げることを禁じたように、大人にはもはや先のないなかで過去に逃げることを禁ずる。もうきらめく未来の可能性はない。何歳からでも遅くない、と諭す声こそが都合の良い現実無視のトリックだ(そういうやつこそが金を取ろうとする)。そんな声には耳を傾けない。でも、過去の栄光──そんなものが仮にあるとして──にすがらない。それだけで良いのでは。それこそが、桜井の描くおとなの姿なのでは。

「アート 神の見えざる手」はむしろ乗り越えようと企んでいること自体をまたもう一度のりこえようとしている、茶化すという大人のやり方で。なんちゃって、こんなやつも今の世の中にはいるよね、というあとがきを匂わせるにとどめておいて。

個人的には小谷美紗子とのコラボレーションが嬉しい。2人は同じことを歌っているようでいて、Mr.Childrenはどちらかといえば抽象から具体化していく方向。高尚なところからいかに日常に飛び降りるかが腕の見せどころ。小谷美紗子は逆に徹底的に日常から出発する。日常の中に必ず非日常のするどさを見つけ出す、それはもう怖いくらいに。血の滴るナイフのようなするどさを、見逃さない。この2つが重なり合ったのだ。それはもう、最強としか言いようがない。小谷美紗子のピアノが、Mr.Childrenのアルバムから聞こえてくるなんて、それこそ今日まで生きてきてよかった、である。

その曲「おはよう」の食卓にはビールとチーズが並ぶ。簡単な夕食だ。かつて、「近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事によごされて」いたそこには、今どんな話題がのぼっているのだろうか。

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