室生犀星『或る少女の死まで』を読みました。

もう、タイトルが『或る少女の死まで』で、小説が始まって早々に「少女」が登場するもんだから読む方はもう「ああ、この子か死ぬまでのお話なんだな」と、がっかりしてしまう。少女が死ぬ話は読んでいてあまり気持ちが良いものではないのだ。だいたいが悲惨で、救いようがない死だからだ、物語の中の少女の死というものは。

しかし、読み進めると別の少女が登場する。こちらも丁寧に主人公とのやりとりが、描写される。特に先に登場した少女が、決して出自の確かではなく、飲み屋の手伝いをする貧しさを背負っているのに対して、こちらは単身赴任の父親を待ちながら弟の世話もするかいがいしさがある。主人公はこちらには丁寧な言葉遣いで対応するが、だからといって前者を軽く扱っているわけでもない。子供でも相手によってちゃんと言葉の使い分けをする、そういう意味での公平感を技術としてちゃんと持っている主人公であることがわかる。

終盤で、もう一度飲み屋の少女が出てくる。出てくるというか、病床に伏せたという伝聞の形で。それもまた死を匂わせる。そして下宿先の少女も最後には死が伝聞される。人の死はいつでも伝聞だ。この小説は、最後に掲げられる詩の、長々しい前置きであり、あるいは犀星一流の長々しい散文詩とも読める。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA