小林秀雄全集第三巻を読みました。

「文章鑑賞の精神と方法」がすばらしい。こんな平易な表現で、アタリマエのことを言っているし、誰が読んでもわかる内容なんだけど、これができている人のなんと少ないことか。もちろん自戒をこめて。文章を読むとは、他人の中に飛び込むこと。自分の頑なな、狭隘な世界に他人を呼び込むことでは決してない。

有名な「私小説論」も改めて面白い。基本は、日本における私小説論とは純粋小説論だったところから始まる。久米の、西洋の大小説もしょせんは偉大なる通俗小説であるという見解から始まる。登場人物を動かす作者という構図が、当時の作家にとっては作為的=不純なものと見なされていた、ということだ。私小説作家にとっての小説は、文学史的ないわゆる小説とは違うものだたったと言わざるを得ない。彼らは皆それぞれの夢を見たのだ。実体のない、小説のあるがままというものに対して。夢であり、理想であり、あこがれだった。だからこそ誰にも共有されなかった。

後半は、文芸誌や新聞小説といった日本の発表形式が優れた長編小説を可能にしていないという制度論もちらほら。これは三島も村上も言っていたこと。しかし、小林は日本の伝統においては短編小説の方が気質に合っているのではないか、とも。その共犯関係は今でも続いているのだろうか。しかし、現代の速筆は単にパソコンを操るのが得意なだけだったりしないか。ましてやAIに記述させた長編小説の価値やいかに。

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