
中也、長谷川泰子との関係を示唆するといまでは定説になっている「Xへの手紙」「おふえりや遺文」を収める。手紙はとにかく「……とは思わない」、とか、「……と思ってみたい」とか、小林の私人としてみずからの真意をはぐらかしながらも、一方で批評家としての自分が言葉でつかまえようと必死に筆を進めるのろさが生々しい。なにしろこの文章だけは一人称が「俺」なのだ。
手紙も含めて、この巻ではまだまだ批評とは何なのかということにかなりこだわっている。批評は作品を追い抜けない、と何度も書いている。後年の、意を決したようなゴッホやドストエフスキー、ベルクソンへの挑戦のことを思うと、自分の筆致に対する自信と不安とがまだない混ぜになっている。爪を研いでいるというか、その爪の有用性を試し打ちしているというか。
小論の中でも繰り返し、レッテルを貼るのではなく、小説を小説だと思わずに読むことを指南するなど、みずからの批評のスタイルを固めている段階だ。時に強い口調が、文芸批評の世界で生きていけるかどうか、まだ若い小林の高らかな宣戦布告のようにも見え、同時にその裏にある、おそらくは当時の本流やオーセンティックなものへの抗争の孤独な楽屋も思わせる。