
これは漱石としては失敗作だったのではないかとよく言われる作品です。たしかに題名もよくわからないし(前書きで大した意味はないと言ってはいますが)、前半と後半の構成や人称、語り手の様変わりはどこまで意図されたものなのか、正直読んでいて戸惑ってしまう。それをば、実験的と称するのかなんなのかよくわからないのですが…しかし、それでも他の漱石のオーセンティックな作品にはない魅力があるのは間違いないのです。
どこかこう、漱石はこれをとうしても描きたかったんだなというのが伝わってくる、その感じ。前にも書きましたが、特に宵子の死は書かなければならなかったのだろうと思います。何回読んでも葬式の経緯は胸がふさがる。ただ、もう単純に厳しい運命を受け入れなければならない弱さ、あるいは強さを感じる。
後の作品のモチーフになる三角関係の描写もまだまだ奥ゆかしいけれど、それもまた良い。千代子の造形は、時に鬼気迫ると言って良い場面もいくつかある。髪結いのくだりは一度読むともう忘れられない。須永の煮え切れなさは確かに卑怯だ。そして須永の出生の秘密はついに明かされる…。
後半の須永の独白の部分に友人に借りた「ゲダンケ」という小説が登場しますが、これは実在するアンドレーエフという作家の、上田敏の訳によれば「心」という小説で、これも三角関係に狂わされた内容。漱石の「こころ」はその5年後に書かれる。当時は結構読まれたロシアの作家のようですが、このあたりも先行研究があれば確認しておきたい。