大岡昇平『野火』を読みました。

正直なところ、これまでいわゆる「戦争文学」というのは読んだことがあまりありません。たとえば『黒い雨』もどうしてもその成立過程の「怪しさ」に目が向いてしまい、それを読んだときにいったいどこからが「文学」で、どこからが単に(=レトリックなしに)史実に触れた時の感情の動きなのかがわからなくなってしまう、あるいはわからない自分の読書体験というのをなかなか受け入れられず、どうしても二の足を踏んでしまうところがありました。ありていに言えば、戦争文学を読んで読書感想文を書くことの無意味さに耐えられない。戦争文学に対して構造分析をしてみたり、「この場面が効果的だ」「この表現は鬼気に迫る」とか評することのあまりに無意味さに、どうしても耐えられない。これは、ホロコーストを扱った各種の小説(たとえばエリ・ヴィーゼルの『夜』)も同様でしょう。

ではこの「戦争/文学」を読むときに一体ぼくたちはなにを読んでいるのか?

『野火』は、最終的には狂人の日記という体裁が最後に明かされるため、また史実としても大岡昇平がレイテ島でここに描かれた出来事と全く同じことを体験したと考えること、あるいはそういう実証を「文学研究的に」行うことはまったく意味がありません。ここで描かれているのは、戦争という究極の状態にある人間たちがどんな行動をとってしまうのかということの生々しさです。それは平板な「戦争反対」のシュプレヒコールとは全く異なる、生々しさです。

飢餓状態にあるとき人はどのラインを踏み越えて人肉へ飛びつくのか? それは本当にタブーなのか? 「猿肉」とわざわざ呼び変えなければならないのは最後の一抹の人間らしさなのか? ほとんど具体的に描写はされていないものの、最終場面での河原の光景は、はっきり言って吐き気をもよおすほどです。相手を食べるために人は銃を仲間に向けることがある──それはそこに至るまでの戦況の変化、つまり病人として放り出された戦力外の兵士たちのやりきれなさ、投降したくとも目の前で「降参」と叫びながら飛び出していった仲間が銃殺されるのを目撃していく……そうやって島の中でひとつひとつ出口を封じられていく変化もあって、最終局面に到達します。それをあえて文学的効果と言ってもいいかもしれません。それは十分にこうして効果を上げているわけですが。

繰り返しになりますが「戦争/文学」を読んだ時にいったいぼくたちはなにを読んでいるのでしょうか。それは究極の状況にある人間の行動の見本市ではない、単に「戦争反対」を言うための目的的なある一塊の文章でもない、かといって「戦争/文学」は戦争に行った者しか書けないとも言いたくない。しかし戦争に行った者にしか書けない「戦争/文学」はあるし、あるいは梅崎春夫のように戦地ではない「戦争/文学」もあるだろう、もっと広く言えば三島由紀夫の作品だって徹頭徹尾「戦争/文学」と言ってしまってもいいのかもしれない。

『野火』では、戦後の、生きて帰ってきた生活を「任意」という言い方で表現しています。そこにはもはや大義も名分もない、空っぽさしかない。自分は生き残るべくして生き残り、意気揚々として帰還したのではない。たまたま銃弾が当たらなかった、たまたま死肉で生き延びた……その偶然の積み重ねのあまりの確率の低さに恐れおののくしかないのでしょう。

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