折口信夫『橘曙覧評伝』を読みました。

を、読みました。

橘曙覧(たちばなのあけみ)は江戸末期の国学者です。没後、明治に入ってから正岡子規が絶賛に近い形で紹介して有名となり、近年はクリントン大統領がスピーチの中で「独楽吟」の「たのしみは~」シリーズに言及して再び注目されるようになったということです。

この独楽吟というのは確かに小林一茶風の、今に通ずる「庶民」的な一面を見せるものがあって、ぼく自身も興味を持ったのはここから。評伝にも巻末に掲載された歌集抜粋に採られています(本文では一切触れられていませんが)。

たのしみはあき米櫃こめびつに米いでき今一月はよしといふ時
たのしみはまれに魚児等こら皆がうましうましといひて食ふ時

橘暁覧『志濃夫廼舎歌集』

まあ、こんな感じの歌がいくつか並んでいます。貧乏ながらもつつましく暮らす家族のすがたが浮かぶようで、現代にも通ずるものがたしかにあります。子規も貧乏に対して文句も言わずに「楽しみ」を見出そうとする作者の姿勢に共感していたりするのです。

さてひるがえって、個人的興味から橘曙覧について知りたいと思って検索してみると比較的今でもすぐに読めるのが標記、折口信夫の評伝でした。ただ書誌を確認すると戦時中に今の文科省が編纂したシリーズ「日本精神叢書」の一冊として書かれています。国会図書館のデジタルアーカイブに原本がありましたが、扉には以下のような文言。

ということでページをめくっていくと、確かに江戸末期の尊王攘夷の機運に共鳴しての歌もかなりの数うたわれていることがわかります。独楽吟から想像していた作者像とはずいぶんと異なる、いま読むと結構物騒な歌もかなりあります。

天皇は 神にしますぞ。天皇の勅としいはゞ、畏みまつれ
太刀佩くは 何の為ぞも。天皇スメラギミコトのさきをカシコマむため
天下清くはらひて、上古の御まつりごとに復る よろこべ
物部モノヽフのおもておこしと 勇みたち、錦の旗をいたゞきて 行け

子規も、庶民的な面を評価しながらも国難の時にはますらおぶりを発揮するそのギャップにもどちらかといえば評価の軸を持っているようにも思えました。

「日本精神叢書」自体はおそらく隠れ蓑で、この評伝も冒頭に天皇や日本刀に関連する万葉風の歌をかなりの数紹介して(決して手放しでほめるわけでもない)評価を加えた後は評伝に移っていきますが、折口の書きぶりもどちらかといえば資料に乏しい橘の身辺を想像で補いながら書き進めているところもあって、鷗外の歴史ものを読んでいるような感じもありました。叢書の他の冊子を読んだわけではありませんが、実態は戦意高揚というよりは、時局下にあっても許された範囲での学問的探究がラインナップされていたのではないでしょうか。

いずれにしても「現代でも通じる」という評価軸は結構危ういものがあって、それだけで安心してしまう向きには気を付ける必要はあるでしょう。共感できるものだけをよしとすることは批評でもなんでもないですし、一茶も家族関係にはずいぶん苦労した、そういう多面的な人間に対する興味を失ってはいけないのだろうと思い直します。もちろん、それはそれでまた作品のみと対峙する文芸批評とは程遠かったりするのが面白いところだったりするわけですが。

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