小森陽一『小森陽一、ニホン語に出会う』を読みました。

を、読みました。

著者の経歴については最終講義を聴いていただいてもよく理解できますね。

ぼくも予備校時代に「構造主義」的な読み方にしっかりかぶれて進学し、小森さんの授業というのも何回か受けた記憶があります。「三四郎」と「山月記」だったか。とにかくあらゆる言説がお得意の天皇制批判に結び付けられる、ある意味でその手法の「鮮やかさ」にはびっくりしたものですが、その後の村上春樹批判などは読んでもけっこう「?」な感じでした。

いずれにしても言葉を通じて無意識に前提としてしまっている権力性であったり暴力性であったり、そういうある種の関係性の一方的な押し付けというのをしっかり言語によって前景化させ意識的に批判を加えていく、というのは教師だけでなくともサラリーマンをやっていたって常に気を配らなければならないことの一つなのだと思っています。会社社会こそいろいろな局面で「エライ/エラクナイ」というフィクションの中でしか成り立たないことの「ごっこ遊び」でしかなかったりするわけで、そしてそれに内向してしまうほど本来の利益追求という大目的がおろそかにされてしまう。気が付いた時にはたいてい遅かったりするわけですが。以下の引用に本書のすべてが詰まっているように感じました。

学校を拒んでいる不登校の子、教室を捨てた保健室の子が、学校のことば、教室のことばで自分を語るはずもないし、語れるはずもないのです。それと同じように、〔…〕この国の近代の歴史の中では、多くの「在日」の人々をめぐって、常にきわめて切実なるものとしてあったはずであるにもかかわらず、隠蔽されてきた問題です。〔…〕自らを語ることができず、また語ったとしても聴きとられることのないことばに、声と形を与える媒介に「日本語」がなっていけるのか。


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