島崎藤村『家』を読みました。

を、読みました。

かつて「私小説」なるものを仮想敵として見定めひたすら卒論にいそしんだころには考えられませんが、島崎藤村を読みました。登場人物がとにかく多い。しかも幼い子供たちが次々と亡くなっていったりするのは(漱石の掌編にもありましたけど)読んでいてなかなかつらい。藤村の筆致は、あくまで自然主義が「主義」として台頭する前史でもあるわけなので、なにかこうこれを世に広めなければ、という「力み」がまったくない。そこがすごい。読んでいて、よくこんなセリフをサラッと書けるな、と感心するところがいくつもある。場面の転換はあまりドラマチックではない。電車に乗ったり旅に出たりはするけれど、その過程はほとんどかかれず、あくまで屋根のある場所で一族の者たちが互いに会話し合うそれをひたすら淡々と描き続けている。もちろん三吉は主人公なのだろうが、三吉が何かするわけではない。三吉の目を通して見える両家の没落のあり様が、本当に会話だけで描かれていく。

自分を自分で書く、ということがどれほど難しいことなのかを藤村はわかっていたのかもしれません。田山花袋はあまりにも自分をドラマチックに仕立て上げすぎたのかもしれません(『蒲団』にしたって、最後の最後の文庫本で最終ページだけなんですけどね)。それはある意味で安易な方法論なのでしょう。藤村は『破戒』をだいぶ昔読みましたが、拍子抜けするほど教科書で読んでいた「あらすじ」から感じるものとは違う読後感でした。もっとドラマチックな話なのかと思っていたがそうではない、それはおそらく文体=スタイルなのだと思う。

それは藤村の限界だったのか? 『家』はもちろん旧家の没落というドラマをはらんでいるけれども、もっともっと何世代にもわたる女たちの話であるし、社会的には男に従属させられていた時代が変化していくその、その「家」という制度の下での女たちの世代間ギャップというのも(「おめかけさんみたいな恰好ね」といった)会話の中で色濃く表現されています。それを今に生きるぼくたちとしては見逃してはいけないんだろうと思います。

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