夏目漱石『硝子戸の内』(青空文庫)

を、読みました。

『硝子戸の内』は個人的にはどうも大学受験の問題文でよく出てくる勝手なイメージがあり、いま全編読み返してみると結構筆に任せて書いているような印象がありますがなんとなくそのタイトルだけを聞いただけで一字一句も読み逃すまいという緊張感を強いる変な存在です。

改めて書誌も見返してみると死の前年、48歳の時の連載なんですね。「私の個人主義」の講演もほぼ同時期です。「硝子戸の内」側にいるのは春にまだならない寒い時期に机に向かってよしなしごとを思い返して書きつらねていく……という立て付けなのですが、なんというか、その筆が走っていく空間というのは時間を超越したある仮定された場所のような感じがします。死を目前にするとそういう場所が人には現れてくれるのかもしれません。つまり、もちろん人は日々飯を食って一歩一歩死に向かっているわけですが、そういう時間軸とは別にひたすら過去の出来事が等価なものとして時系列を無視して現れては消えていく記憶の空間とでも言うんでしょうか。そこはとても心地いいものなのだと思います。けれど、そこに入り込むと人はまともな生活を送れなくなるのでしょう。「思い出」だけを食べて生きていくことは、生きていることにはならないわけですから。それでも、48歳の漱石には春を迎えるひと時自分にその甘美さを許した、その貴重な記録というか、体験記が本書の特色なのでしょう。

自分の子供たちを見ながら、自分の子供のころのことを思い出してみる。もう、自分が暮らした家や景色はどこにもないのだけれど。自分にも時々そういうことはあります。

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