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生きるとは造花と見まがうほどに美しい(Chap.5〜8)

   五

 とにかくお金が無かったんだ。親からの仕送りは下宿しているほかの友 達に比べても少ない方だったし、その上ぼくは初めての一人暮らしで金銭感覚が定まら なくって吝嗇に小金を溜め込むような生活をするかと思えば突然「金は使うためにあるものだ」と思い込んで日に二千円も三千円も使う日々を続けたりもしてい たんだ。おまけに浜辺で買春まがいのことをさせられたもんだから財布の中はすっからかんだったんだ。
 暇があるとぼくは渋谷に行ってうろうろした。もちろんなんにも買わない、食べない。ただ駅の周辺を徘徊しているだけで、たまに人と待ち合わせているふり をしながら道行く人間を観察したり辻音楽師のけたたましいバグパイプの音に耳を傾けたり近くに座り込んでいる女子高生の話を盗み聞きしたりと、それはそれ で退屈ってことを教えてくれないところなんだな。ぼくは人が集まるところが好きだ。人が好きだからかもしれない。いや、違う。人が何かをしているのをガラ スのこちら側で動物園の動物を見るようにして見るのが好きなのだ。彼らはぼくに襲いかかってくることはない。彼らも、ぼくを同じように見るのが大好きなん だからね。
 その日もぼくは駅前のスクランブル交差点を行ったり来たりしていた。そのうち足が疲れたから小さな雑居ビルに入っていって外からは見えない奥の非常階段 に座り込んだ。そこは時々エレベーターに乗る人が前を通るだけで、明かりらしい明かりと言えば小さな非常灯くらいなもので一人で一息つくには絶好の場所 だったんだ。ぼくはかばんの中からすっかりぬるくなったコーラを取り出した。プラスチックの栓を回すと音を立てて気が抜けた。ぬるいコーラのなんともいえ ないまずさがぼくはまた好きなんだ。そんな風にしてぼくは薄暗い階段の下で足を休め、硬直した筋肉を伸ばしていたんだ。
 で、首をぐるぐる回していたら階段の壁に貼ってあった張り紙が目に入ったんだ。黄色い紙の上に朱墨でかかれた張り紙は、深緑色の壁にはちょっと気味が悪 かったな。もちろん気味が悪かったから思わずそれを読んでしまったんだけどね。書いた当人は一生懸命目立つようにこんなエキセントリックな配色に至ったん だろうけど、とりあえずその目論見は達成されたことにはなるだろう、こうやってぼくの目を捉えたんだから。それにはこんな風に書いてあった。

    急 募 
     日時*九月五日〜九月八日(泊り込み、食事つき)
     場所*砂浜
     内容*軽作業
     条件*知性ある若者、芸術性なき若者
     報奨*二十万円
    興味のある者はこの階段を三階まで上って「アトリエN」の扉を
    三三七拍子でたたくこと

 ぼくはなんといったって「二十万」という数字に驚いた。四日間拘束されるけど食事もついている。決して悪くない。いや、むしろこんなおいしい話はないと 思った。でも、こういう薄暗い場所に、わざわざ人目に付かぬように貼ってあるんだからどうも信用の置けなさそうな話でもあった。でもそれ以上にぼくをひき つけるものがあったんだ。「知性ある若者、芸術性なき若者」ってのがさ、まるでぼくのことじゃないか。なんだかぼくがここに来るのをその張り紙が待ってい てくれたような気分になっちゃってさ、早速ぼくはその深緑色に塗りたくられた重苦しい階段を上っていったんだ。
 二階はおしゃれな喫茶店だった。ぼくはこういう場所に一度も入ったことがない。用がないからね、第一。人と待ち合わせるのに、あるいは読書や書き物をす るのにこんな場所は必要ないと思うんだ。コーヒーが飲みたければ豆を買ってきて自分で入れるし、そもそもぼくは待ち合わせるような人もいないしな。ぼくは 喫茶店なんかに入るやつらは自分に自信がないやつだと思って軽蔑しているんだ。周りから中産階級に見られたがってるんだぜ、きっと。煙草をすぱすぱ吹かし て眉間にしわ寄せている自分とか熱いコーヒーを胃に流し込みながら、人をろくろく好きになれもしないくせに恋愛小説を読んでいる自分とかが大好きなんだろ うね。ぼくはそういう余計なことがしたくないんだ。ぼくはそもそも考え事をする習慣を止めてしまったんだ。何か考えたところで行動を起こさなければ現実が 変わるわけでもないし、頭が疲れるだけだからね。だから期待とか後悔とかいう概念もぼくは捨ててしまったといっていい。だけど別に刹那的に生きているって わけじゃなくて、逆に今のこの現在をとっても大切にして生きているってことさ。未来に胸をときめかせ過去に捕らわれている暇があったら腕立て伏せの一回で もやってすっきりさせる方が余程賢明だってことさ。ぼくはそういう風に生きる訓練をこれまでしてきたんだ。
 三階まで上がると踊り場に直接扉が面していて、その扉に「アトリエN」とやっぱり朱墨で大書された張り紙がしてあった。そしてぼくは三三七拍子でその扉 を叩いた。すると
「入れ」
 と中から声がした。ドアノブを回して扉を開けた。中に入るとぼくはちょっと驚いた。中は本当に汚かったんだ。床には足の踏み場もないほどペンキやら油絵 のパレットやら壊れたイーゼルやらが散らかっていた。部屋は三階のフロア―を全部ぶち抜いて借りているらしかったけど、その半分くらいはごちゃごちゃとし た、恐らくはNという人物の作った作品が占めていた。ずいぶん巨大で大掛かりなものもあった。例えばまず目に付いたのは幅三メートルほどの巨大なワニ型ク リップだった。全身金色に輝いていて、ずいぶん磨かれたんだろうね、薄暗い室内でもびかびか光っていたよ。そしてよく見るとその巨大クリップには小さなス ナップ写真が挟まれているんだ。写真には何が写っているのか入り口からではよくわからなかったけど確かに光沢の具合からして写真であることには間違いな かった。他にも針金をぐるぐるに巻いてりんごの形にしたものやピエロの人形がくるくる回っていたりと、わけのわからない世界があった。でも、こういうのっ てぼくはとても好きだったな。ぞくぞくするような好奇心をぼくは確かに感じたよ。
 窓は入り口から見て左側の壁一面あって、そこからの光だけが午後三時、このアトリエの唯一の光源だった。そしてその窓のある側の壁の一番奥に大きな机を 前にして一人の老人が座っていた。これがまた、いかにもって感じだったのさ。豊かなひげと既に薄くなった髪の毛は真っ白で、ロイド眼鏡かけて、油絵の具が 飛び散った白衣を着てぶっとい万年筆を動かしてんのさ。ぼくはこの前の砂浜での出来事があったからこういうある種のコスプレ的な型のはまり具合に警戒心を 持つようになっていたんだ。だって、余りにも想像力が貧弱じゃないか。もしかしたら多くの人間が期待しているのかもしれない予定調和的な展開に巻き込まれ ると、なんだかどうしていいのかわからないよ。
「失礼します」
 ぼくは後ろ手でドアを閉めた。
「そこにかけなさい」
 と老人はこちらを一瞥だにせず言った。「そこ」がどこなのかぼくにはちょっとわからなかったけど、よく見ると部屋のど真ん中にちゃぶ台があって、そこだ け二畳、畳が敷いてあったんだ。
「あの……、そこの畳に、ですか?」
 ぼくは「かけなさい」という表現が気にかかったから念のため聞いてみた。そう言ったらやっぱりこっちをちっとも見ないで机に向かって何か一生懸命書き物 を死ながらちょっとだけうなずいて見せたんだ。ぼくはそわそわしながらその畳に靴を脱いで上がった。
「お茶でも飲みなさい」
「はあ」
 確かにちゃぶ台の上にはきゅうすとポットと湯飲みが置いてあったんだ、ちょうど旅館みたいにさ。お茶っ葉を入れてぼくはぐびぐび飲んで、不思議と落ち着 いてしまったんだ。それが無かったらどう考えても落ち着けやしない場所でだよ。つまり、その畳の敷いてある空間だけがどこかから切り取られてきたみたいで さ、ちょうど古びた旅館が群生する中に真っ白な地中海式の小屋があるみたいにね。
 ぼくはそれでも、まあこんなところに来てしまった以上は腹を据え、何があってもうろたえまいという覚悟を決めたんだ。毒を食らわば皿まで、てわけだ。
 やっと老人は書き物を終えたらしく椅子から立ち上がってぼくの方にやってきた。立つと背の低い人物だった。
「私の苗字はNだ。見ての通り、芸術家だ。君の名前は?」
「吉田洋介です。一応、大学生です。えっと……下の階段のところに張ってあった張り紙を見――」
「名前はなんだ、と聞いているんだ。正確に答えなさい」
「えっと……、洋介ですが」
「うむ、それでよい。私は細かいところにうるさいんだ。ところで作業は明日から早速行いたいのだが……」
 最後まで人の発言を待たずにしゃべるやつは確かに多いしわけのわからないところで突っかかってくるやつも多い。だからその手の攻撃に対してぼくはこれで も二十年生きているわけだから慣れているつもりだった。でもやっぱりカチンと来るんだよな。ついでに言うとそういう人ってさ、人付き合いが悪い、被害妄想 が激しい、すぐにしかも勝手にいじける。このNとかいう人物もアウトサイダーを自任しながらそれがご自分の幼稚性に端を発しているってことに一生気がつけ ずにいる種の人間かと思うとうんざりした。きっとこのじじいは若いころにどうでもいいような出来事で、例えばさ、友達の裏切りとか失恋とかそういう誰でも 体験するようなことで勝手に人生を諦めて果てはへんてこな宗教にかぶれて芸術家を気取りわけのわからないことをおっぱじめたに違いないんだ。働く前に「労 働とは何か」とか問題提起をしてそれに悩むふりしてその実、単に働きたくないだけ。そんな人物に違いない、などとぼくは目の前の老人の容貌と口調から想像 を楽しんだ。
「何をするんですか?」
「まあ、その前に私の考えを聞いてくれ」
 なるほど、ぼくの想像力はなかなか的を射ているのかも知れなかった。ぼくはさっきも言ったけど、考えてもどうにもならないことは考えないようにしている から、こういう話の切り出し方はいちばん嫌いなたぐいなんだ。でも、これはある意味ビジネスなんだ。このじいさんとぼくとの取引だ。多少は相手の話も聞か なきゃならないだろう。うん、そういう風に世の中はできているらしい。相手のペースに合わせることも時として大事――これも例の母親から入れ知恵なんだけ どね。
「世の中の人間は」
 と、いきなり大きく出た。
「二つに分けることができる。すなわち、思想家と制作者だ。たとえば私のような芸術家、小説家、詩人、画家、彫刻家、政治家なんかが思想家に含まれる。制 作者というのは大工やサラリーマン――まあ、世の中の大部分はこっちに入るんじゃないかな。もっとも学生というのはどちらでもない。思想家としてははなは だ頼りないし、制作者としての責任なんぞ持たせるわけにはいかない。私の言う意味がわかるかい? たとえば建築家というのは設計はするけれど実際に建物は 建てない。造るのは大工だ。建築家は思想家であり大工は制作者だ。どちらが欠けてもこの世は存在することができない。なにもなくなるか物だらけになって地 球を食い尽くしてしまうかのどちらかだ」
 そこで一度老人は目を強くぎゅっとつぶった。まぶたの隙間から涙が出た。ぼくは相手がしゃべっている内容に何度も口を出しそうになったけれど、必死でこ らえて話の続きを聞いた。
「本は書く人間と実際に印刷製本する人間とがいなければ生まれない。音楽は作曲する人間と演奏する者とが必要だ。すべて、同じように世の中はできあがって おる。ところで、私は思想家だ。私には表現すべき激情が山とある。まあ、もっとも君にはまだわからないだろうがね。世の中に対する不満とか怒りとか同情と か悲しみとか、あげればきりがない。君にはまだ早いだろう……うん、まだ早い。ともかくそういうものを私は作品として提示していっているのだ。と、言うと 私が全てを一から十まで作っているように聞こえてしまうがね、私はあくまでも思想家の粋にとどまることにしている。余計なことはしたくないんだ。余計なこ とをすると余計なエネルギーがいる。当たり前のことだ。ここにある作品は全て私が実際この手を使って作ったものじゃない。君みたいなアルバイトの学生に作 らせた。ただし彼らには絶対に口出しはさせない。私の言うことをその通りできないやつはすぐに首にしてやった。いいかい、学生の甘ったれた、社会というも のを何も知らないハナタレ小僧の見解なんてものはどうでもいいんだ。いちばんたちが悪いのは小説とかいうものをちょっとでも読んでいるやからだ。すぐに 『先生、その意味するところはなんですか?』だ。馬鹿の一つ覚えのように……いいかい、私が言ったとおりに私の思想を忠実に形にする、これが君の仕事の全 てだ。君は――大学生だね?」
「ええ」
「学部は?」
「理学部です」
 ここでもしうっかり文学部ですなんて本当のことを言ったらせっかくの話が全部だめになってしまうと思ってぼくは彼が求めているだろう答えをすばやく察知 して言ってやった。
「そう、よろしい。理学部でなにをやっているんだね」
「ええと……が、学校建築です」
 言った後でなんで理学部で建築をやらなきゃならないのか大いにあせったよ。でもご老人、全然気にしてないんだ。あんなどうしようもなく二元的で単純な世 界観を聞かされた後だからもう少しも驚かなかったのは言うまでもないことだけどね。
 それにしても――と、ぼくは部屋の中を改めて見回してみたんだ。ここのある作品とやらは全部人に作らせた物だって? あの長さ一メートルはあろうクリッ プも、針金でぐるぐる巻にされたテレビも、こんぺいとうのような大量のガラス玉も、ここにある全て、ぼくのようなひまな大学生に作らせてどこで発表するの か知らないけど私の作品ですなんて威張りくさっているのか。さらにぼくをうんざりさせたのは壁に張られたそれらの作品の設計図だった。全てミリメートル単 位で指定され、初めに引かれた図面とそっくり同じ物が次々とできあがっているのだ。このじじいの頭の中には既に答えがある。だったらなんのために……いや いや、いけない、そういうことを考えてはいけないのがこの仕事だったんだ。
「なあに、心配することはない。私は技術を軽蔑している。ハリウッド映画なんぞ金をかければ誰にでも作れる。私はそういうものは一切否定する。金がかかっ ていなくとも技術が未熟でも、誠心誠意、心がこもっていればいいんだ。簡単なことだ。こんな簡単なことを世のごみのような自称芸術家連中はわかっていな い!」
 ぼくはいろいろ言いたいこともあったけれど、さしあたり理学部で建築をやっている人間だったから言わないことにした。
「制作者は思想を持ってはいけないわけですね」
「その通りだ、全くその通り」
「ええ、ぼくも宗教は軽蔑します」
「うんうん、いい心がけだ」
「ぼくたちは信念や思想をリジッドに持ってしまったとたんにそれに縛られてしまいます。ぼくたち手を動かす方の人間なんて何にも考えない方がいいんです」
「そうそう、君はすばらしく飲み込みが早い。採用することにしよう。明日の朝午前六時、荷物を持ってここに来てくれたまえ」


   六

 翌朝ぼくは朝の四時に起きて身支度を整えた。九月とはいえまだまだ暑 い時分だったからそんなに荷物は多くならなかった。ボストンバッグに下着とティー シャツを何枚かと歯ブラシ、くし、下痢止めをつっこんだ。万が一を考えて読みかけの本は置いていくことにした。それから携帯電話もお留守番だ。朝ごはんを 食べようかどうか迷ったけれど途中で弁当でも買っていくことにして四時半にはもうぼくは部屋を出たんだ。ちょうど夜が明ける頃だったから、ぼくはアパート の二階の部屋の扉を開けて外に出たときにとてもいい気持ちだった。こういうのはひまさえあれば男も女も引っ張り込んで酒を飲んでいるお隣りさんにはちょっ と味わえない幸福なんだろうね。半そでのティーシャツ一枚じゃちょっと肌寒いけれど、この朝の空気を身に浴びて眠気を吹き飛ばすのはにごったコーヒーで頭 を働かせようとするのとは正反対に位置すると思うんだ。周りの家はまだ雨戸を下ろしたままで、たぶんこのあたりじゃぼくが今日という日に一番乗りじゃない かな。人の知らない時間を知っているという充実感が何とも言えないね。
 さて、ぼくはそんな生まれたての大気の中を駅へ向かって歩いていった。シャッターの下りきった商店街を抜け、中途半端に近未来的なデザインをほどこされ た駅舎が見えてくるとぼくは駅前のコンビニに入った。昨日の夜と同じ店員が一人突っ立っていて、ぼくが店に入ってから三秒くらいしてやっと「いらっしゃい まアせ」とへんてこりんなアクセントで、つまりはあくびをかみ殺しながら言った。まあまあ、ご苦労様としか言いようが無いからぼくは奮発しておにぎりをい つもなら二つのところを三つ買ってやった。
 駅のホームにはたぶんこれから山登りにでも行くんだろう数人の元気な中年夫婦の団体が二つばかし、それからやたらめったら派手な、貴女ちょっと、八十年 代をそのまま引きずってんじゃないのとツッコミを入れたくなるような女性が一人。それからベンチには酔っぱらったまま眠りこんているサラリーマン。ぼくは 占領されていないベンチに腰かけ、おにぎりを体に押し込んだ。十分に咀嚼されず食道をぐいぐい広げて胃へ落ちていく固体を感じた。電車が来てぼくは隣で相 変わらずぐうぐう寝息を立てている男をうちやってさっそうとがらがらの東急に乗りこんだ。
 渋谷には五時を少し過ぎた頃に到着した。なんだかぴゅうぴゅう音を立てて風が吹いていて、ピンクチラシの丸まったのがスクランブル交差点を転がっていっ たよ。朝の渋谷っていうのはいつ来ても疲労困憊気味で、まあ、でもそんな風景の中だからこそぼくは自分の存在をめいっぱい主張できたからよかったのだけど ね。
 おにぎりを食べたけどまだお腹がいっぱいになっていなかったし、時間もまだ余裕があったから二十四時間営業の牛丼屋に入って牛丼を一つ平らげた。店を出 てしばらくしたら急に便意をもよおしたからひどく遠回りして公衆便所(渋谷ってのは本当にトイレが無いんだ!)にたどり着いて用を足した。手をちゃんと 洗って腕時計を見たら六時十分前だった。
「よしよし、ちょうどいいな」
 ぼくは昨日訪れたばかりの雑居ビル目指して早歩きで(この前の高田馬場とちがってここじゃ早歩きが普通の速度だからな)進んでいった。どの道に入ればあ るのかはわかっていたけれど正確な位置とかビルの名前とかは覚えていなかったからちょっと行きつ戻りつしたけれど、深緑色の階段は他になかった。ビルの名 前は「ピルビル」。一体なんのことだろう。三階まで階段を上がり、アトリエNの扉を、もちろん三三七拍子で叩いた。ジャスト六時。
「入れ」
 と、中から声がしたのでぼくは扉を開けて中へ入った。アトリエの様子は昨日となんの変わりもない。充満する強烈なコーヒーの臭い。N氏は新聞を読みなが らFM放送を流していた。
「お、おはようございます」
「やあ――もう一人来る予定なんだがまだ来ない」
 N氏は新聞の向こう側から言った。
「もう一人来るんですか」
 ばかのように復唱してぼくは近くにあった小学生が使うような学校の椅子を引き寄せて座った。さすがにこれは作品じゃないだろう。
「コーヒーでも飲むかね?」
「いえ、さっき飲んできたんで……」
 そのとき、ラジオの時報が六時を知らせた。ぼくの腕時計は少し早まっていた。そしてドアをどんどんと強く叩く音がした。そんなに叩いたらドアが倒れちま うと思ったけれど、N氏は相変わらずコーヒーをすすり、ラジオから流れてくる最近流行の曲につま先でリズムを取りながら新聞で顔を隠したままだ。
 ドンドンドン、と再び音がして「おい! こんな朝っぱらから呼び出しておいてなんだ! さっさと開けろ!」という怒声まで聞こえてきた。どうやら今日か ら仕事をともにするのはこの凶暴な男のようだ。ああ、うんざり。ぼくはどうもこういう表しかない人間ってのが鼻持ちならないんだ。もちろん向こうからすれ ばぼくのような裏と表とを使い分けることのできる人間を同じように思っているんだろうけどね。でも、どうだろう、あのドアの向こうにいる人間の行いが全て 計画され意識的になされているものだとしたら? 美紀が舞台の上でする下手くそな演技よりもよっぽど高級な舞台――この現実という舞台であそこまで本気で 怒ることができるだろうか? ぼくはニヤニヤしながら勝手に想像を膨らませた。そうだ、一見表しかないようにしか見えない、ということが表裏のある人間に とっては成功の証なんだ。そうすると結局裏なんてものは存在するんだろうか? それはあるけれども決して感覚されないもの。永遠の仮定。
 あんまりうるさくてしつこいからぼくは立ち上がってドアのほうへ行こうとした。でも、「よしなさい」なんて、N氏は呼び止めるんだ。しかたがない。ぼく は座った。
「あのう……コーヒーもらえますか?」
 と、ちょっと手持ち無沙汰になってしまったからそう言ってぼくは……投げられた缶コーヒーを受け取った。
「おい! ちょっと! どうなってるんだ……」
 相変わらずドアの向こうでは怒声が続いていたが、急に語尾が消え入るようにしてしぼみ「あ、そっか」とまたひとりごちるのが聞こえてきた。そうなんだ、 この扉は三三七拍子で叩かなくてはならない。――ということは、三三七拍子で叩かなかったら開かない扉なのだ。ぼくはN氏の方へ(正確にはその顔の前にあ る新聞の方へ)顔を向けた。この人がそんなすごいものを作ったのか? いやいや、そうじゃなかった。このじじいは「おい学生、三三七拍子で叩かないと開か ないようなドアを作ってくれ」と言っただけだろう。誉むべきはそんなへんてこな、しかし技術的には相当難しいであろうドアを作り上げたおそらくは工学技術 系の学生だ。それにしても、同じような注文をされたら一体ぼくはどうしたらいいんだろうか。できないものはできないと言ってしまおうか。
 ドアが開き、男が入ってきた。彼はカーキ色の作業着に身を包み、軍手にはヘルメットがつかまれ、肩からはまだ身につけていない安全帯をぶら下げていた。
「遅刻だ」
 N氏のせりふはどれもこれも独り言のようだった。
「あんたがこんなへんてこなドアをこしらえるからいけないんだろうが!」
「造ったのは私ではないよ。だいたい、いかに不条理であろうとマニュアル通りにことを進めるのが法学部生たるものの務めじゃないのか?」
 続く高笑いは部屋中に響いた。
「ああそうさ、悪かったな。マニュアルどおり作業着で着てやったのに」
 と言いながら男はぼくの方を見た。
「おまえか。なんだかなよなよした文学青年みたいだな。小説でも書いてんじゃねえのか? まあいいや、よろしくな」
 口の悪さはそのまま性格の悪さに直結しているわけでもなさそうだった。男は名前をU野といった。聞けばぼくと同じ大学の法学部に所属していた。
 ……ぼくたち三人は階段を降りていった。ビルの前に一台の白い軽トラックが止まっていて、荷台には○○プラスターと印字された段ボール箱だとかセメント の詰まった砂袋だとかコンクリートのブロックだとかが大量に積まれていた。これを使って作品は作られるらしい。もちろんぼくが作るのだけど。かなりの重労 働になりそうな予感がその素材の山からびしびしと伝わってきたよ。
「よし、行こう」
 N氏はさっさと助手席に飛び乗った。
「俺が運転するように頼まれてんだ。お前は荷台につかまってろ」
 U野はそう言うとぼくの肩を背中と叩いてきた。その必要以上の力の入れように、ぼくはなにかを読み取ろうとしてしまったくらいだよ。ぼくの悪い癖なん だ。まあ、実のところ相手はなにも考えていないのだろうけどさ。わかっちゃいるけど、ってやつだ。
 ぼくが荷台に飛び乗るとすぐにエンジンがかかり車体が振動に包まれた。ぼくは隅に丸まっていた毛布をコンクリートブロックの上に広げ、かばんを枕代わり にして大の字に寝転がった。トラックが走り出すと同時に、ぼくの視界も動き出した――近くに見えるビルの外壁は次々と目の端を通り過ぎても、その上に広が る空は動かなかった。
 この車がどこへ行くのか全く知らされていなかったけど、ぼくがこの車を運転しているわけではないし、第一ぼくは免許というものを持っていないし、そんな ことは考えなくてもいいのだ。ぼくは荷物といっしょにただ運ばれていく。ロード―ムービーさながらに、この空をずーっと眺めていればいい。ビージーエムで も欲しかったね。口笛を吹く? 鼻歌でも歌う? そんながらじゃないし大きなトラックならともかく軽トラだからね、絵にならないだろう、きっと。その証拠 に車が信号待ちで止まると必ず通行人がぼくの方を見て来るんだ。その視線を奇矯ととらずに羨望と取るのがぼくのいい所……いや、これも母親の入れ知恵だっ たかもしれないね。うん、確かにそうだ。土曜の電話で彼女はこんな話をするんだよ――いいかい、世間や社会なんて魔物は存在しないんだ。目に見えるもの、 心に感じるものだけを信じなさい。そしてもし目に見えないものにぶち当たったら自分の都合のいい方に解釈するんだよ。それで人生なんてまっとうできちゃう ものさ。――こんなことを息子に言う五十歳の女ってどうなのかな。かわいそうなのかな、それともうらやましいのかな。これも後者で取っておこう。
 東京の空は表情に乏しい、なんて詩人ならつまらない感傷にでも浸っていそうなところだけど、ぼくは東京の空しか見たことが無いし、これが本当の空だとも 思うんだ。もう日出からだいぶ経っていたけど、光って温かいんだなと感じられる朝の太陽光は「都会に残る数少ない自然」のリストに立派に入れていいと思う よ。昔の人は空気中に光を伝達するものがあると考えていたらしくて、そういう粒子がほら、あの雲の底にたまっているみたいで……おっと、ぼくは今は理学部 の優秀な学生だからそんなことは考えないんだ。朝の光も昼の光も光には変わりない。あの雲は単なる水の粒子。空は空。以上。
 車がどんどんすすむから風がびゅうびゅう吹いて寒い。背中にしていた毛布を今度は体に巻きつけてぼくは横に向き直った。いつまでも上を見上げていたら目 がちかちかしておかしくなっちゃったんだ。目をつぶったら急に眠気が襲ってきた。下は硬いし車が交差点を曲がるたびにぼくの体は揺さぶられたから当然浅い 眠りで、当然夢を見た。こんな夢だ。
 ぼくは車道を走っていた。「走っていた」というのは、決して車か何かで走っていたわけではなくて文字通り自分の足を使って走っていたんだ。それも、ほと んど自動車並みの速さでさ。足が勝手に走るんだ。ぼくの上半身はほとんど静止していて、「走る足」にすとんと乗っかっているって感覚だった。足は確かにぼ くの体の一部のはずなんだけど、腰から下はまるで異質な感覚だった。車道は二車線で、でもぼくは真ん中の白線の上を走っていた。むしろ道路は一車線しかな くて、白線はぼくの進路を示す目印だったのかもしれない。ほら、よくあるじゃないか、白線を書いておくとその上をセンサーが感知してその通りに進むのが さ。それとおんなじだった。ぼくが止まれと思ってもてんで足は止まりやしない。道路の脇は一面の芝生で、きっとそれはどこまでも広がっていたにちがいない ね、北海道の道路のように。それにしてもぼくの足は疲れを知らないんだろうか? どこかその辺で寝そべってひなたぼっこでもしたほうが具合がよさそうなの に、止まらない! 止まらないんだ。でもぼくはすぐに思いなおした。この足がすすむ方向に、この白線が示す方に目的地ってやつはあるんだと。そういうこと にしておけば安心だ。目的地なんか本当はなくったって全くかまわない。でも、あると思うってことが大切なんだな。交差点が迫ってきた。でも曲がりたいと 思ったって曲がれやしないんだ。その証拠に交差点の真ん中を白線が突っ切っていたよ。ぼくの前に道はある。それだけ。曲がるべきクロスロードはない。
 次の瞬間、ぼくは学校の教室にいた。よくある光景だよ、誰もいなくってさ、木の机に木の椅子、西日がさして、ノスタルジーの権化みたいな。前の大きな黒 板には「私は幸福です」ってでっかく書いてあった。ちょっとぼくは驚いた。後ろを振り返ると、教室の後ろに大きな鏡がしつらえてあるんだ。そこには前の黒 板が映っていて、でも、よくよく見てみると「私は不幸です」って映っているのさ。ぼくは今度は大笑いしたよ。その文字までもがニヤついているような気がし たんだ。ぼくは前に出て行くと黒板消しで「私は幸福です」って文字を全部消してやった。振り返ると鏡にはなにも映っていなかった。今度は「私は孤独で す」って大きく書いてみて鏡を見ると「同情が好物です」って書いてあんのさ。これは面白いと思って「私は自殺します」って書いたら「ニヒリズムは嘘をつき ます」。「私は治療します」には「親を殺す」、「声を出さずに笑う」には「ウーマン・リヴの憂鬱」、「吉田洋介」(ぼくの名前だよ、いい加減覚えてくれた かな)には「表象の結晶」……こんなことを書いていた遊んでいたらひらひらひらと紙が一枚どこかからか飛んできてぼくの顔面に張り付いてきた。それを見る と「問い 両者の関係を説明せよ」。いやなこったってぼくは紙を丸めてドアの横にあるゴミ箱に投げ入れてやった。だってこれは単なる言葉の乱数表なのだか ら。いちいち意味とかいうやつを考えていたらきりが無いよ。そんなところで車ががくんと大きく揺れて、教室もがくんと揺れて、ぼくは目を覚ました。


   七

 夢の中でずいぶん遊びまわっていたようにも思ったけど、実際かなり眠 りこけていたようだ。反対のことはよくあるけれど、思ったより長く眠っていたなんて 変な話だ。ぼくは背伸びをして荷台から軽やかに飛び降りた、とびうおのように。ついさっきまで眠っていたなんて人にゆめ思わせないように、これがプロ意 識。
 車は車道を外れて道沿いの空き地の中に止まっていた。風が強かった。N氏とU野も運転席から降りてきた。
「ここじゃ、ここじゃ」
 N氏が満足そうな笑顔で言った。エッと、びっくりするくらい顔のしわの隅々まで笑っていた。笑顔のお面を瞬時にかぶったかのようだった。もしかしたらこ のじじい、裏でとんでもないことを考えているかもしれない。ほら、よくいるでしょ、いっつもニコニコ笑顔でやさしい先生がキレ出すと突然ドスを効かせた声 で「ぅおい」って生徒に突っかかっていくの。あんな感じ。こっちが本当の顔なんだ、と思わず信じてしまう。でもどうなんだろう、怒っている顔のほうが仮面 だっていう場合もあるんじゃないかな。ともかくN氏はあながちあなどれないってことだけはその一瞬にひらめいた。ぼくのカンが正しければね。
 U野は車の後ろに回って草むらに向かって放尿をし始めた。はじめ、その音だと思ったんだ、あたりをつつんでいる音がさ。でも、よくよく耳をすませてみる とぜんぜんちがうことに気がついたんだ。ぼくは道路を渡ってガードレールから身を乗り出した。やっぱり海だった。しかも、この海岸沿いの道路、道路と砂浜 との間の崖、崖に寄りかかるようにして建てられている海の家、海の家の前に広がる灰色の砂浜、砂浜に生うるは死んだすすき野、すすき野のまにまに船虫の異 常発生……そうだ、もしかして、造花、白い家、あの女! まちがいなくあの名も知らぬ海岸にぼくはつれてこられたんだ。
 ぼくが口をぽかんと開けて海を眺めているといつの間にかN氏が横にいて双眼鏡で水平線、ではなく砂浜をじろじろ眺め回している。別に水着の美女がいるわ けではない。大体、そんな行楽地ではなさそうなんだ。海の家だってよく見ればほとんどがらがらの廃屋で用を成していない。自動販売機が潮風にさび付いて死 んでいる。
「ここは、なんていうところなんですか?」
「きみ、むしろわしの作品がこの空間を意味付けなければならないのじゃよ」
「はあ……」
「それよりもきみ」
「はい」
「きみじゃない、おい! いつまでしょんべんしとるんじゃ!」
 けれどもぼくとN氏とが振り返ると道路をはさんだ反対側にいるU野は既に荷台から荷物を下ろし始めていた。
「きみ、石膏の扱いはわかるかね」
 ぼくが黙っていると「きみに言っとるんじゃ!」とぼくをものすごい形相でにらみつけてきた。やれやれだ。よくわからないと正直に答えるとU野が「水を ぶっこむんでしょ」とぼくだってわかっていることをどなった。
「そうじゃ。焼き石膏に加水し二水石膏として固形化させる。化学的に言えば……(このへんもごちゃごちゃ言っていたのだけどぼくにはよくわからなかっ た)……石膏の重さに対して水の量は八割じゃ」
「なにを作んのさ」
 言いながらU野が石膏のつまった嚢を両肩に担いで道路を渡ってき、片方をぼくの右肩に造作なく置いた。とたんに僕は海側へ落っこちそうになった。意外に 重いのだった、この白い粉の固まりは。
「壁じゃ。砂浜に真っ白な壁を立てる――ちょうどほれ、あれと同じような」
 そう言ってN氏が指をさしたのは、大当たり、ぼくがとんでもないことをさせられたあの小屋だった。山側の斜面にそれは太陽に光を浴びて真っ白に浮き上 がっていた。なにも変わっていない。白い壁、青いドームの屋根の小屋。
「そ、それが……あんたの作品か?」
「そうじゃ。すばらしい作品。これ以上の作品はおそらくないだろう」
「いったい、どういう意味で。例えば、なにか? この砂浜の色と石灰の白との対比が世界の光と闇の交錯を表すとか」
「ご勝手に」
「なんだよ、それ。いや、そりゃあおれがどうこう言う筋合いはねえかもしれないけどよ、だけど俺が汗水流してこれから作るって事は確かなんだ。少しはなん かこう、やってやろうって気になるもの作りたいじゃねえか」
「きみに解釈は求めていない」
「……。だ、だけどなあ、そんなわけのわかんないもん建てて、誰か見にくんのか? こんなさびれたところで――」
「金にはなるんじゃよ、ハッハッハッハッ!」
 ぼくはあのときのことを思い出しながらぼんやり二人の問答を聞いていたのだけどN氏の最後の言葉に我に帰った。
「金になるって……」
 ぼくは顔をゆがめながらなんとか笑おうとつとめた。いや、笑い事じゃない。まさかパンパン宿をもう一つ、こんな砂浜のど真ん中に建てるってことか? ぼ くが? なんたる皮肉な因果だ。浜に壁を建て、小屋を作りそれでまたあの造花の女の子がまたやってきて、いや、もしかしたらあの子が小屋の中に入って歌を 歌うのかもしれない。その歌声に惹かれて、一体とどんな女の子が歌っているのだろうかという気持ちが嵩じて壁の向こうへ砂浜を掘って下からなんとか入る と、ほうれ見たことか、かわいい女の子だ。そこで二人は声を殺しながら互いの肌をこすりつけ合う。小屋は満潮の波にいつ崩れるかわからない。もちろん小屋 の中にまで潮は次第に入り込んでくる。そんな中あせるようにしてこすり合う! そして最後に……入館費? N氏の言う芸術ってやつは見る者を見る立場に留 めない参加型の芸術ってことか? ぼくは二万円を払ったことで造花を描く女の子の不思議な魅力を味わい、不思議な小屋でのセックスを買った。そのすべてが 例えば小説を読むこと、映画や絵画を見ることと同じような仕組みになっているわけなのか? いわばぼくはN氏によって企まれた芸術的空間による囲繞という 作品を体験したことになるのか?
「おじいちゃん!」
 ぼくが眼下に広がる浜辺に目をそらして考え事をしていたら、突然女の子の声がした。その声はまちがいなくぼくに向かって連発していた「どうでもいいじゃ ない」という声と同じだった。首を元通りにすると「ぼくたち」は四人になっていた。少女は前みたいに白いブラウスに紺色のスカートだなんてぼくの好みに ばっちり合った、今はかまととぶったとでも言っておかないとぼくの腹がおさまらないな、そんなかっこうではなくて胸のところに真っ赤なハイビスカスの柄が 印刷された黒いティーシャツにデニム地のミニスカートだ。
「ヒュウ」
 と、八十年代に生まれたくせに八十年代に青春送ったみたいな口笛を吹いたのはU野だった。
「なんだ、じいさんこんなキャワイイ(彼は確かに「かわいい」を「キャワイイ」と発音した)お孫さんがいるなら早く言えよ」
「なに言っている、彼女も立派なわしの芸術作品の一部じゃ」
「ヒッヒヒ、そいつぁいいや。確かにじいさんがタネ飛ばさなかったらこの子はいないわけだからなあ」
 U野はよだれがたれるほど口をあけて笑った。こいつの笑い方は尋常じゃない。声を出さないで横隔膜がけいれんしたみたいに息を何度も吸いこんで笑いを表 現する。
 彼女は名前を「みき」といった。これじゃ美紀とおんなじ名前だ。でも昨日は愛子で明日は唯であさっては綾乃かもしれない。
「よし、準備は万端じゃ。さっそく作業にかかってもらおうか」
 ぼくとU野とは持てるだけの石灰の嚢を持ち、N氏の後について海岸へ降りていった。そのまわりをみきはうろうろと歩調を合わせたりいきなり波打ち際で一 人ではしゃいだりしていた。
「おい、あの子を今夜ものにするからな、俺は。協力しろよ」
 もしぼくが勝ち組・負け組なんて貧乏くさいお座なりな二元論に毒されていたらすかさず「でもさ、あいつは……しまりが悪いぜ」なんてつまらない自慢話の 糸口をばらまいたかもしれない。でもここが我慢のしどころなんだ。もちろん毎週土曜日、母親の電話レクチャーの成果さ。ぼくは喜んでU野に協力を申し出 た。あとで大笑いするためにさ。あれ、そうするとやっぱりぼくは「勝ち」にこだわっているのかな。そんなことないはずだよ、ぼくは熾烈な受験戦争を勝ち抜 いて今いる一流大学に入った瞬間に人生は勝ち負けじゃないって悟ったんだ。勝ち負けをヘーゲル的に展開して美紀との恋愛に打ち込んだんだ。うん……そのは ずだよ。
 ぼくは横目でみきを見やった。――彼女はぼくがついこの前肌を重ねた相手だと知ってか知らぬかてんでぼくの存在に気をかけない。それがポーズなのか本当 に気がついていないのかわからないところがある。いや、常識的な考えれば気づかぬふりをしているに決まっている。でも、どうしてもそう言い切れないんだ。 それは多分、ぼくが彼女に対してもまたこの前の女の子の同一人物かどうか決めかねているというところに原因があるのだと思う。一見、同一人物だ。でも、よ く見れば見るほどちがう人物に見えてくる。ぼくは彼女のおへその横にあったほくろも鎖骨のくぼみ具合もそれこそ「しまり具合」も知っているのに、全く自信 が持てないんだ。本当にあの子なのか? ぼくは横目でじろじろ見てやった。
「とりあえず、ブロックを積んで鉄筋を通し、コンクリートを流し込む。それから表面に石膏を塗りたくればいいんじゃないか? おい、どうなんだよ、理系」
 U野はぼくの名前をぜんぜん覚えていない。さっきから「理系」呼ばわりする。
「それでいいと思う」
 ぼくは頭の裏をぼりぼりとかいた。
「ねえ、設計図とかないの? やっぱりあんたのことだから用意してないとか? ああ、やっぱりね。」
 ぺっと唾を吐いたU野をN氏は見やった。


   八

 二十キログラム入りの石膏の麻袋が二十ばかり、コンクリートの袋が十 くらい、骨材の細長い鉄棒が三十本ほど、ベニヤが三枚、コンクリートブロックが五十 くらい。軽トラックから浜辺までなん往復もしてぼくたちはまずすべての材料を確認した。明らかに足りない。石膏が多いのに、コンクリートが少なすぎる。素 人目に見てもそれは明らかだった。
「おい、下にビニールシートでも敷かないと海水が染みちゃうぜ」
「今頃言っても遅いよ」
 ぼくはちょっと不平不満を言いすぎていたことにやっと気がついて、とにかく仕事なんだからプロ意識をもってU野と協力し、がっぽり稼いで美紀とどこか景 色のいいレストランでおいしいものでも食べようと考え直した。「みき」がなんだってんだ。そんなにせもの、なんでもないさ。彼女だってぼくとのセックスな んかどうでもいいと思ってんだろう。だからぼくもどうでもよかったことにしておこう。そして、当の彼女はぼくたちが荷物を運んでいる間にもうどこかに消え ちゃっていないんだ。そしてもっと困ったことにN氏までいなくなっちゃってんだよ。そのことにU野はぜんぜん気がつかないで「おい、じいさん、これじゃた りねえよ」なんて言って一人で怒っているんだ。ぼくはそんなU野を見て腹の中で笑った。まがりなりにも今日初めて笑ったかもしれない、そんなつまらないこ とでさ。
「ったく、しかたがねえなあ。おい理系、おまえなんとかしろよ」
「それより、お昼にしよう」
 腕時計を見るともう午後二時を過ぎていたんだ。このままU野のテンションに合わせていたらへとへとになっちゃう。ぼくはU野と一緒に砂浜から上がり、レ ストランを探した。探した、と言っても眼で海岸沿いを見渡せば「ランチ」の色あせたのぼりがはためいている店がすぐに目に入った。けれどU野は余計なもの に目をつけたんだ。
「おい、あの白いのなんだよ」
 指差したのは紛れもなくぼくが「みき」に連れて行かれた、真っ白な壁に青い天蓋をいただく小屋だったんだ。ちょっと行ってみようと急ぐU野のティーシャ ツをぼくはあわてて後ろから引っ張った。
「なあんだよ、気になるじゃねえか。何かあるかもしれないんだぜ、なんか面白いもんがさあ」
「なにもない、おもしろいものなんて、な に も な い」
 彼の口から飛び出てほほにくっついた唾を手の甲でぬぐいながら一語一語はっきりと言った。
「へえ、なんか知ってそうな口ぶりだな」
「いいから、とにかく面白いことなんてなにもないんだ」
 あっ、いっけねえ。こういう口ぶりがぼくの本の読みすぎが祟る一番いけないところなんだ。なんか傍点でもふりたくなるようなセリフだよ。「なにもな い」、なんてさ、普通言わないよな。
「ニチェボー、ニエンテ」
「は?」
「ナッシングってこと」
「は? お前、ヘン」
 確かにヘンなやつに見えたことだと思う。でも、そうなんだ、ぼくは「みき」とのことを隠そうとしたんだ。いや、かばいたかった。ちがう、彼女ををかばう そぶりをしてそこになにかがあることを仮定してみたかった。でももし彼女がぼくの存在に無関心な風を装っているならば、ぼくもそれに答えなくちゃいけない とも、思ったんだ。もしかしたら彼女は明日の食うものにも困っているのかもしれない。N氏に何か弱みを握られて、無理矢理売春させられているのかもしれな い。ふふん、ありえない話じゃないよ、ぼくの恋人がドメスティックバイオレンスに巻き込まれる世の中なんだから。もうぼくはあれ以来物語は確かに現実にあ るんだってことをいいかげん認めようとしているんだ。このぼくに限って、なんてことはもう考えるべきじゃない。ニチェボー、ニチェボー、ニエンテ、ニエン テ。
 ぼくたちはともかくレストランに入りカレーを食べた。他に客はおらず、ほこりの積もったバーカウンターの上のテレビはベトナム戦争を振り返る反戦番組を 音もなく流していた。食べるのがおそろしく速いU野はスポーツ新聞を広げて時々舌打ちし、ぼくは大きな窓から海を眺めながら口を動かした。こういう瞬間が 人生の中でもう二度と来ないような予感がして――なんて注釈を横から付け加えたくなるような時間が流れていたよ。
「おまえ食うのおせえなあ。さき行くからな」
 ぱっぱっと新聞をたたむとU野はさっさと店から出て行ってしまった。時間がゆっくり流れているなんて勝手な感傷にひたっていたぼくはそんなU野にちょっ と傷ついた、とか言ってしまうぼくの感傷は確かに薄ら寒い。
 まずいカレーを噛まずに飲みこむ。もう今ごろU野はあの小屋への坂道をのぼっている違いない。ここでレストランを飛び出して彼の体にしがみついて道路に 押し倒したらそれこそなにかがあったに違いなくなってしまう。
 一人になったぼくはテレビに視線を転じた。あいかわらず戦争は続いていた。米軍がジャングルに爆弾を落としている、ニクソンが演説している。あいかわら ず。あらら、いけない、いけない、このレストランはいやに感傷に浸らせるね。よくよく店の中を見れば、この浜辺が昔は人がたくさん来ていたことを物語るた くさんの証拠があるんだ。ぼくの知らない「有名人」の色紙やらスナップ写真やらメッセージカードやら、まるっこい字でナウなヤングたちが書き残して行った んだ。
「昔は、ここも夏になると大変な騒ぎだったよ」
 と言いながらお冷の変えをもってきてくれた男はこの店を一人で切り盛りしているらしい。ちょびひげを生やして、もう若くないけれどまだまだサーファー現 役でがんばっていますという貫禄だ。
「でも、人いるじゃないですか。……こうして、ぼくも来ているわけだし」
 のどを通る「お冷」はずいぶんぬるかった。
「きみは? なにしにここに来たの?」
 カウンターに片腕をつっぱってテレビを横目に見ながら男は興味なさそうに聞いてきた。
「まあ、仕事で」
 ぼくも自分になんて興味ない素振りで答えてやった。男はなにも答えない。テレビは場面が変わって佐藤栄作の訪米阻止の様子を映していた。次は浅間山荘 か、よど号か、湾岸か。「暗い世相」だ。
「ふん、コメディーだな」
 男は鼻で笑うとふたたび奥にひっこんでいった。ああ、ああ、吐き気がする! ああいう人間は感傷から外にでることはできないんだろうね。あいつのめんた まにはぼくの姿さえ映っていないんだ。それがどうした! 過去なんて捨てちまえばいいんだ。過去は捨てるべきものだ。昨日の自分なんて捨てて、ドンドン新 しい自分でいようじゃないか。ぼくがもしこの店舗をまかされたらベトナムも安保も湾岸も9.11も、そんなガラクタ俺にはいらねえよってかなぐりすてて 「クリムト」と店の名前を変えて分離派を気取ろうじゃないか。立地もこんな道路沿いにあっちゃ自動車の排気ガスで壁が真っ黒になっちまうからいっそ浜辺で 青空の下カレーを食べられるようにすればいい。おいしいだろうなあ。いっそ真っ白な壁を建てて出店にしよう。――真っ白な壁、か。
 店のおやじは再びぼくの目の前に現れなかった。レジ台の上にお金を置いてぼくはレストランを出た。店のドアが空気を隔てていることを願って。
 浜辺にN氏が立っているのが遠目に見えた。彼の足元に赤いものが落ちていて、よくよく目を凝らすと見覚えのあるものだったよ。そうだ、造花、ブーゲンビ リアの造花だ。N氏はそれを拾い上げると白衣のポケットにさした。それから不意にこっちを見た。ぼくとN氏との間には高低差十メートル、距離にして百メー トル以上はあったけれど、その視線の先はぼくを通り越して、そのままぼくの後ろに広がる山の斜面に届いていた。それを追いかけるようにして後ろを振り向く と――ちょうど、そう、ちょうどその時だったんだ、U野と「みき」とがあの小屋に入っていくのが見えたのは。
 でも、ぼくは一体U野に何が言えるんだろう? なにも言えやしないよ、残念ながらさ。ぼくは口の中に残るカレーの味を押し流すためにレストランの入り口 にあった、もうすっかり色のあせた自動販売機にコインを入れた。もちろん世界共通語コカコーラ。その冷たい缶を取り出して振り返ると砂浜にN氏はもういな かった。彼は――なにを見ていたんだろう。これからだまされるU野を? これからU野をだます「みき」を? それともU野が自分の二の舞になる現場を目撃 したぼくを? それじゃ、ぼくはU野になにを見る? あのときのぼくを? あのときのぼくを見ているぼくを、N氏は見ているとも言える?
 さっそく派手なげっぷを吐き出しながら一人ぼっちになったぼくは浜辺へ降りていった。なに、U野なんかいなくたって立派に白壁を作ってやるさ。あいつが しょげた顔して小屋から出てきたときにはもう出来上がっているくらいの勢いで、やっつけてやろう。全ての歴史と、全ての意味を拒否して、ぼくはぼくの梱包 芸術を実現させよう。ぼくはもう、その仕事がN氏からの依頼であるということを忘れようとしていた。忘れることはできないけれど、ぼくは一度それをカッコ の中に入れて自分の仕事として引き受けようと思ったんだ。そんな気持ちが一体どうしてぼくの内側から湧き出てきたのかはわからない。頭のいい人はこう言う だろう、君はさっきのベトナム反戦おやじに反戦運動しているつもりになっているんだよ、どうだい、白い壁に日の丸でも描いてみたら、喜ぶぜえ、役人ども ――それでもいい、そんな解釈だって可能かもしれないけれど、その解釈でなければいけない理由なんてない。ぼくはこう言い返してやろうか、そんな深い意味 を読み込んでもらっちゃ困るな、ぼくは単に掘りたいから穴をを掘るんだよ、それが何かいけないことかい? とね、というわけで、ぼくは土台を作るために シャベルで穴を掘り始めた。波の先端が触らないぎりぎりのところに三メートル四方の浅いプールを掘るわけだ。
 表面は乾いているように見えるところも少し掘れば灰色に湿った部分が現れた。それでも、今より乾いた場所へ移れば浜辺ではないところへ後退しなければな らない。あくまでも、波打ち際の砂の城のような危うさを追究する。ぼくのスコップの一打一打が汗の玉となって体に反撃をを加え始めた。カキ氷をさくさくと 崩すような感覚でぼくはドンドン穴を掘っていった。穴の角はスコップの先で器用に直角にし、穴の底面も足の底を使って平面にならしていった。

(未完)

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もう続きを書くことは無いでしょう…ごめんなさい

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