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生きるとは造花と見まがうほどに美しい(Chap.1〜4)

   一

 なにをしているの、と問うと「造花を描いているの」という答えが返っ てきた。そんなことはわかっていた。見たまんまだ。聞き方がまずかったのだろうか。
「なんのために?」
 こんなことを聞くぼくもぼくだが「どうでもいいじゃない、そんなこと」と答えた彼女も彼女だった。
 砂浜は白、という先入観があったぼくはこの浜辺に来てがっかりしたばかりだったんだ。まるで曇り空を地面に映したようなんだ、ここは。波の来ないところ には雑草が伸びきったまま茶色くなって死んでいるし、船虫は異常発生しているし、魚の死体もちょっと歩けばいくらでも踏んづけちまう。そういううんざりさ せるような場所でだ、ちょっとかわいげな女の子がみぎわで画用紙広げて砂に挿した真っ赤なブーゲンビリアとにらみ合っているのを見たら、誰だって話し掛け たくなるものじゃないか。
 でもぼくはちょっとためらったんだ。彼女の姿があまりにもおあつらえ向きだったからさ。まるで誰か、他の人が彼女のそういう姿をどこか遠くから写真にで も撮っているんじゃないかと思ったくらいにね。だけどどこを見回しても浜にはぼくと彼女しかいなかった――と言ってよかっただろう。もちろんぼくは一人で 海に来ていたのだし、ずっと向こうでボール遊びをしている若い男女の一群も、あるいは反対側のずっと向こうで砂遊びをしている家族もさしあたって目の前に 座っている少女とはなんの関係もなさそうだった。
 そうして、ぼくは彼女に話しかけたんだけどどうも反応が好意的じゃない。
「きみ、名前は?」
 今度はぼくはナンパを気取ってみた。こんな時じゃないと「きみ」なんて二人称はきざったらしくてやってられない。本当はあんまりこういうことは好きじゃ ないんだけどね。好きじゃないのにどうしてやったかと言えば、それはもう、彼女がぼくのタイプにぴったりだったからとしか言いようがないな。でも彼女は やっぱりこっちに振り向きもせずにこう言ったんだ。
「名前なんてどうでもいいじゃない」
 ふうん、なかなかポストモダン的なことを言いやがる。普通の人ならこの辺で退散するだろうけれど、ちょうどぼくはその時ひまでひまでしかたがなかったん だ。大学二年の夏休みくらい退屈なものはないね。ぼくはあと三十九日間もどこかでなにかをしなきゃならなかったんだ。その時の場合、ぼくは電車で三時間も かけて名前も知らない海辺に一人で来ていたってわけさ。十代最後の夏の思い出作り、というわけだ。
 ぼくは彼女の右ななめ後ろにしゃがみこんでみた。彼女の横顔と画用紙と真っ赤な造花がよく見えるようにね。ぼくは似合わないのを百も承知でかけていた赤 いサングラスをはずして彼女の画用紙に注目した。
 彼女は色鉛筆で簡単にデッサンをしているだけだったんだけど、なるほど素人目で見てもうまいものだった。鉛筆で塗られた鉛色の砂地の背景からどぎつい赤 色の花弁が浮かび上がっていた、なまめかしいくらいに。
「うまいんだね」
 おせじじゃなくそう思ったけど口ぶりがおせじっぽくなってしまう自分がいやなんだ。するとどうだろう、彼女はスケッチブックをパタンと閉じて色鉛筆もハ ンドバッグの中にしまっちゃったんだ。ぼくもそれでようやくやっぱりこの子はだめかなとあきらめかけたよ。でもおもしろいことになったんだ。彼女は立ち上 がって造花を引き抜くとそれをぼくの手に握らせた。一瞬ぼくは茎にバラのとげでもあるんじゃないかと思って手を出しかねたけど、一秒後にはさりげなく彼女 の手にも触れながら受け取った。そして「ついて来て」と、彼女は言ったんだ。しかもわざわざぼくの耳元に口を近づけてさ。吐息が「つ」と「き」の発音を湿 らせて、それはもう、こんな経験は生まれてこの方一度もなかったよ。いや、……一度くらいはあったかな。うん、あった。陽子って、こいつはぼくの昔の恋人 なんだけど彼女ときたらぼくの誕生日にふざけて――いやいや、こんな話は今は全然重要じゃないんだった。
 とにかくぼくは死にそうな砂浜で出会ったその生きている少女に突然官能的な刺激を受けたわけだ。すばらしい対比だ。芸術的とさえ言える。これはそう悪く ない話だろう。ぼくはその造花をさも大切そうに抱えて彼女のあとにひょこひょこついていくことにした。彼女は後ろから見ても実に魅力的だったね。ぼくはひ ざ小僧の裏側に妙なフェティッシュを感じるんだけれど、彼女のそこは歩くたびにへっこみふくらみしてぼくは何度もすがりつきたいと思ったよ。
 彼女は浜から上がって、海岸沿いを走る自動車道路の縁を南に向かって歩き出した。南かどうかはわからない。でも、南に向かって歩き出した方が、なんだか 具合がいいだろう。ぼくたちはアスファルトがひび割れた狭い歩道を、後ろから走ってくる自動車のサイドミラーが肩にぶつかりそうになりながら歩いた。少な くとも二十分は歩いたと思う。海辺のあんまり代わりばえのしない景色の中をもし一人で二十分も歩いたら絶対いやになっただろうね。もちろんぼくは退屈しな かった。なにしろなにかが始まりそうな予感でいっぱいだったし、彼女の後ろ姿を遠慮なく眺めることもできたわけだから。
「きみはこの辺に住んでいるの?」
「どうでもいいじゃない」
「よくないよ、家出少女だったらぼくみたいな悪い人間がとって食っちまうところだよ」
 彼女はくすりとも笑わないで淡々と歩く。こんな風に彼女は今までも生きてきたんだろうか。
「あ、もしかして君の家に連れて行ってくれるの?」
「どうでもいいじゃない」
 ぼくは彼女がそう言うと思って一緒に言ってみた。ハモりあった「どうでもいいじゃない」という言葉はそれこそどうでもいい感じだったよ。
 あそこ、と言って彼女が指さしたのは山の斜面に立てられた白い建物だった。古びた旅館が立ち並ぶ中、その建物だけはまるで地中海から切り取られてきたか のような際立つ白色をしていた。よく見ると白い塀に囲まれた中に白い壁の小屋があって、きめうキテレツにも丸屋根をかぶっていた。そのドーム状の屋根だけ が青色をしていた。
 ぼくは少女を初めて目にしたときと同じような躊躇を覚えた。やっぱりあんまりおあつらえむきなんだ。まるで物語にでも出てくるようなさ。がらじゃないけ ど、さしずめぼくは森で道に迷った王子様なんだ。少女の妖精がどこからか突然現れてぼくを森の泉に導いてくれる――そう、そんな陳腐なストーリー。ぼくは 目の前にいる見知らぬ少女と学芸会でもやっているような気分になってしまった。いずれにせよ、ぼくは役を引き受けたわけだ。
 ぼくたちはその白い小屋に向かって今度は坂道を登っていった。これがまたひどい坂道で、傾斜角が六十度はあるんじゃないかと疑ったくらいだった。おまけ に途中までしかアスファルトで舗装されていなくて、ぼくはサンダルを履いていたものだから砂利道で何度もすっ転びそうになったよ。でも前を行く彼女はヒー ルだってのにすいすい登っていった。慣れていてもああまで上手に登ることはちょっと無理なんじゃないかな。そういうところがまたよけい妖精めいていて、単 純にうれしかったけどね。それに紺色のスカートから出ている彼女の足は白くて細くて、操り人形の糸みたでさ。全く、魅力的だったよ。
「きみの家なの?」
 ぼくはもう答えがかえってくるのを期待していないから独りごとみたいに彼女に言った。今度は彼女はぼくに向かってちょっと微笑んだだけだった。ああいう のを娼婦的な笑みって言うんだと思う。見たところいやらしさを匂わせているんだけど、それでいてもっと人間の本能を直接刺激してくるような、刺すような笑 みなんだ。残念ながらちょっと口ではうまく言い表せないよ。本当に伝えたいものっていうのは、大抵の場合、言葉にできないんだ。
 ぼくたちは小屋の中に入った。窓が開いていなかったから電灯をつけて初めてわかったことなんだけど、中には大きなベッドが一つあるきりで他にはなんにも なかったんだ。中はひんやりと冷たい空気が漂っていて、ちょっと湿っぽかった。よく見ると壁の石膏がまだ生乾きなんだ。
 やっとという感じでそこまでたどり着いたわけだけど、そこからは早かった。ぼくたち二人はそのベッドへ絡み合うようにして倒れ、動物のように交わった。 いや、動物として交わった。彼女の肌は白くてやわらかくて、なるほど子供をはらんでお腹がほっこり膨らむにはこれくらい肌がやわらかくないといけないのか なんて勝手なことを考えさせたりしたほどだった。何度もぼくは唇をつけ、その感触を楽しんだ。情けないけれど、ぼくは夢中だったんだ。不思議なくらい彼女 は忠実だったんだもの、男の描く典型的な妄想に対してさ。
 だけど彼女は妖精でもなんでもなかったんだ。一通りのことが終わると彼女、ぼくの目の前で五本の指をピンと立ててなにか主張するのさ。なに? とぼくが 聞くと「五万円」なんて言うんだぜ。その時のぼくの驚きようはいつかビンゴ大会で一等のどでかいテレビを当てたときの比じゃなかったな。
「二万円しかない」
 へどが出るようなせりふだった。「じゃ、それでいい」なんて彼女が言って、二枚の紙幣をぼくからふんだくると最後に冷たく言い放った。
「出てって」
 これには心底参ったよ。どうして弱冠十九歳のぼくがこんな目に会わなきゃならないんだ。もちろんぼくはすぐにその小屋を出て行ったさ。金なんか払わずに 彼女をぶん殴って飛び出してきちゃってもよかったんだ。でもそれはやっぱりフェアじゃないし、あとで黒服のでかい男がぼくを半殺しに来るんじゃないかと 思って――だってありえない話じゃないぜ、一度彼女を見ればそんな気にもなるよ。とにかくあの二万円でぼくと彼女は元の他人に戻ったってわけだ。高いんだ か安いんだか見当がつかない。いい話じゃないよな。


   二

 それなりに反省してそれから数日後、ぼくは大学に行った。恋人である 美紀の所属している演劇サークルが公演をやるって言うものだからね。美紀のやつ一年 のくせして結構な大役を任されたらしいんだ。おかげでぼくらは夏休みだってのに全然会えなくて、その日は四日ぶりに顔を会わせたんだ。ぼくは好いた女なら 四六時中一緒にいないと気が済まないからね。
 校門を入るとすぐ目のつくところに巨大な立て看板がそびえていて「劇団呵呵講演――『花町のセレナーデ』」と大書してあった。なんだ、大役って花魁でも やるのかとぼくは思いながら構内に最近建てられた小さな劇場へ向かった。楽屋に行ってみると美紀はばかに派手な和服を着込んでいるんだ。あんまりそれが似 合っていないものだからぼくは失望を通り越して絶句したよ。せっかく輪郭の細さがきれいな美紀がごてごてした衣装に殺されちゃっているんだ。
「ううん、そんな衣装着ていないほうがいいんだよなあ」
 と正直すぎる感想を述べたら美紀はばしんと背中を一発叩いてきた。ぼくは他の団員の妙な視線を感じながら客席に戻っていった。花束一つも持ってこないで のこのこ楽屋にやってきたのがまずかったのかな。
 いずれにせよ『花街のセレナーデ』はいい作品とはいえなかったな。お涙ちょうだいなんだ。みんな身振り手振りが大げさで、劇を見たというよりは一生懸命 練習しましたっていうことの証明をみんなでやりあってるっていう感じだった。ろくろく時代考証もやらないステレオタイプな江戸情緒でさ。とにかく、ぼくと しては素顔の美紀が一番だってことをよくよく再認識したってわけだ。だいたい、ぼくは演技なんて見たくなかったんだ。へたくそな演技なんてもう、そこら じゅうでやられているじゃないか。みんなテレビの司会者みたいにべちゃくちゃしゃべりすぎなんだよ。都市を舞台として人々は下手な演技をする。もうやめよ う、人間よ、こんなことは――こんな結論でいいだろう。
 四日目の最終公演が終わってからぼくと美紀は夕食を食べにレストランに行った。普通のファミリーレストランだけどね。高級レストランでもよかったんだけ ど二人とも服装がなっていなかったし、ぼくも二万円ぼったくられたばかりだったからちょっとそんな余裕はなかったんだ。でもぼくは素敵な夕食を演出するた めにずいぶん話の種を用意していったんだぜ。
 いつもどおりハンバーグ定食を二人分注文した。ぼくはそれから得意の小話を始めたわけだ。最近話題のテレビドラマをこき下ろし(結論はいつだって「やっ ぱり君の演技が一番だね」なんだけど)――そのときはちょっと苦し紛れに、
「あの、最後の花魁道中ね、あれがよかった。きれいだったね。娼婦にしかない美しさがよく表情に出ていた」
 と言ってやったさ。でもなぜか彼女押し黙っていたんだ。いつもならホントかウソかわからないくらいに喜んではしゃぐんだけど、水ばっかり飲んでいるんだ よ。これって言いたいことがあるんだけど言えない状態に彼女があるっていう決定的証拠なんだ。いつだって彼女はわかりやすいからね。
 ぼくはかまわずに次の話題に移ったよ。せっかく二人でいるのに沈黙しちゃうのがぼくは大嫌いなんだ。よく、沈黙を共有できてこその恋人、みたいな言辞が 弄されているけれど、ぼくに言わせればそんなのは敗者の論理でしかないんだよね。
「今ね、実はぼく脚本を書こうと思っているんだ。テレビ局で募集しているんだよ。当たれば相当のお金が入る。テレビだからね。それで君と旅行に行けたな ら、こんなにいい話はないだろう?」
 彼女はコップの水をまた口に運んだ。ついに水がなくなった。しめた、やっと口を開いてくれる――と思ったときにハンバーグ定食が来ちゃったんだな。この 店は注文してから料理が運ばれてくるまでが信じられないくらい早いんだ。それが気に入ってぼくたちはよくここへ来るんだけどさ、そのときばかりは恨んだ ね。
「こういう話を考えているんだ。ラブストーリーだ。失恋によって自分のなにもかもを人にさらけ出すようになった男と、失恋によってなにもかもを人から隠す ようになった女が出会うんだ。舞台はどこでもいいな。大学でも、会社でも、コンビニでも。二人は多少とまどいながら恋に落ちる。ここには別に理由なんてい らないや。もちろん男はあけすけに女を追いかけるんだけど女はなかなか素顔を見せてくれない。男はつらくなって途中別の女とつきあうようになる。この女は 母親みたいな愛情を持っているんだ。だから結局二人はうまくいかなくなる――わかる? 恋愛には愛の要素も必要だけどその前に恋の要素が必要なんだ。恋・ 愛、って言うくらいだからね。これは他でもない、美紀が教えてくれたことなんだぜ。……それで、それから二人は別れる。ここからが問題なんだ。最初に出て きた女の心をどうやって開かせたらいいんだろう。正直ぼくにはわからないんだ。そんな恋愛したことないし。なにかいいアイデアはないかな、演劇人として」
 最後の一言を言いたかっただけなんだ。本当は男に写真とか油絵の趣味があることにして、女にモデルをやってもらう過程で会話させるとか考えていたんだ。 写真にせよ油絵にせよ結構な道具になるだろうし。テレビだからね、ラブレター書いたってらちがあかない。とにかくぼくは彼女からなにか言葉を引き出そうと 思って急きょ、会話の軌道修正をしたわけだ。ちょっとかまととぶってて気に入らなかったけどさ。
「そうね――」
 美紀はボトルから新しく水をコップに注ぎながら言った。ぼくはもちろん彼女を愛していたけど、こういうちょっとした瞬間に簡単に憎しみに変わっちゃうん だ。でも同じように簡単に愛情に逆戻りする。あっちへ行ったりこっちへ来たり、二つの壁の間をピンポン球がはね続けるようにね。
「男の人に、とっても長くてとっても情熱的なラブレターを書かせたらいいんじゃない?」
 よくないね、と言う代わりにぼくはハンバーグの大きなかたまりを口の中へ押し込んだ。ぼくが用意してきた小話はまだ三百くらいあったけどもう、全部あき らめた。すぐ隣のテーブルじゃ高校生の女の子たちが男の話でずいぶん盛り上がっていたし、ガラスの仕切りをはさんだ美紀の背後の席じゃぼくと同じ歳くらい の男が三人、最近離婚した芸能人の悪口に花を咲かせていた。だからぼくもテレビをののしって、ついでに夢なんか語ったりしたのさ。でも彼女、なにかすごく 重いものを抱え込んでいるのさ。見れば一目でわかるのにこっちから聞いてやんないと絶対に言わないんだ。つきあい始めた時もそうだったな。ぼくが彼女に愛 の告白をさせたのさ。「あなたのことが好きです」って彼女の気持ちを知っていたぼくは誘導尋問でそう言わせたんだ。自慢になるような話じゃないけどね。そ れに今じゃ彼女のことをぼくは愛しているさ、世界中の誰よりもね。これは自信を持って言うよ。
 それでぼくは美紀のことがかわいくていじらしくて聞いちゃったんだよ。
「なんか、悩みあるでしょ」
 彼女の目をじっと見据えてぼくは言った。言い放った、と言うのがこういうとき適切なのかもしれない。ぼくの視線が彼女の目の中にすっと入ってそのまま胃 カメラみたいに心の中を探るんだ。
「うん……。実は今日も舞台の上でずっと悩んでいたんだけど……」
「うん」
 ぼくはナイフとフォークを休め、口の中は動かしていたけれど彼女の言葉を待った。
「母がね、家出したのよ」
 これには参った。この前の売春少女と言いぼくの人生は荒唐無稽に満ちた別世界へ知らず知らずのうちに突き進んでいるんじゃないかと心配したくらいだっ た。テレビなんか馬鹿にしている場合じゃないよ。美紀の話は結構シリアスだったんだ。
「父の事務所がつぶれたことは前にも話したでしょう?」
「ああ」
 美紀の父親は税理士で自宅に小さな事務所を開いていた。六月くらいにつぶれた話は何度か聞かされていた。その頃から彼女はぼくの存在をまるっきり忘れて しまったかのように沈黙することが多くなっていったっけ。でも、もちろんぼくはそのつど恋人として最大の役割を果たしたはずさ。彼女が涙を流せば優しくキ スをして寝付くまでずっと手を握ってやったし、気分が沈んでいれば気が晴れるようにぼくの大嫌いなハリウッド映画にも見に行ったし、意味もなく宝石店に 入ったりもしたんだ。
「最近、今月に入ってからかな、父が母に暴力を振るうようになったの。私は大学に逃げてこられるんだけど、母は図書館くらいしか逃げ場がなくて。結局戻っ てこなくなっちゃったのよ……おとといから。私、母を助けて上げられなかっ――」
 とうとう彼女の目から涙がこぼれ出したんだ。ぼくは彼女の話を信じようと思った。「信じようと思った」ってのはさ、つまり彼女の話があんまり新聞記事み たいでぼくには素直に飲み込めなかったんだ。知らない政治家が脱税しようと株価がめちゃめちゃ下がろうと、もっと言えば言ったこともない場所で人が殺され ようと自分の目の前で起こっちゃいないんだから現実味なんてあるわけがないんだ。新聞記事が全部小説ですって言われたらぼくは信じるかもしれないぜ。いつ だってぼくは自分のことで精一杯なんだ。
で、恋人である美紀に「社会問題」としてスクープされそうな出来事が降りかかったんだからぼくはうろたえざるをえなかったさ。今まで自分の世界の外にある と思ってきたものが突然頭の上からべちゃっと落下してきたんだ。一体これはどういうことなんだ。思わず、「それは、本当?」なんて言ってしまったよ。彼女 は静かにうなずいた。
「もしかしたら父は今も家で篭城しているかもしれない」
「それなら」
 その時ぼくの頭に素敵な考えが訪れたのさ。パッとひらめいたんだ、純粋にね。
「それならぼくのアパートにくればいい。それで君のお母さんを捜して、なんなら三人で住めばいい」
 いい考えだと思ったんだけどなあ、彼女は少し怒っちゃったんだ。
「それじゃあ根本的な問題が解決されないじゃない」
 ぼくは今でもそうなんだけど現実ってやつにどうも徹することができないらしいんだ。適応できないといってもいいしコミットできないといってもいい。無理 にそうしようとすると決まって冷淡になっちゃう。この前もある友達に好きな女の子とで相談されて「好きなら好きと言ってしまえばいいんだ。それでだめなら だめさ」と言ってやったら「非現実的だなあ、お前は」と、こう切り返されたよ。ぼくとしては精一杯現実的なアドバイスをしたつもりだったんだけど。それは ともかく、美紀がやっぱりぼくの考え方に対して真っ向から否定するようなことを言ったからもう、ぼくはそれ以上何と言ったらいいのかさっぱりわからなく なった。
「父の暴力がやまなきゃなにも解決しないのよ」
「でも、今は君のお母さんを探し出すことの方が先なんじゃないの?」
「それは……、そうだけど……」
「とりあえず捜しに行こう」
 それでぼくたちは大急ぎでご飯をかきこんでレストランを出たんだ。


   三

 外は蒸し暑かった。生ぬるい風が少し強く吹いていて、そういえば台風 が近づいているんだっけとぼくはその時思い出した。何度も言うようだけどニュースで いくら騒ごうがぼくはこの目でみない限りは信じないんだ。
 ひとまずぼくたちは駅へ向かった。彼女の住んでいる三鷹の実家にまず行くことにしたんだ。もしかしたら戻っているかもしれないし、他に行くところが思い 浮かばなかったんだ。熊谷にある美紀の母親の実家には美紀が昨日のうちに連絡を入れておいたんだけど母親は来ていないらしかった。さっき美紀は母親の逃げ るところは図書館くらいしかないと言ったけれど熊谷の実家に帰ることはできないのだろうか? それが一番ありうることだと思ったんだけど、なにやらそうも いかない事情があるらしかった。
 午後八時の高田馬場は仕事帰りにこれからいっぱい引っかけるつもりでいるらしいサラリーマンでごった返していた。みんな顔中に脂汗を流してね、一週間の 労苦が終わった心地よい解放感とかいうやつに浸っているんだろうな、と思った。でもこっちはそれどころじゃなかったけどね。なにせ恋人の家庭が崩壊寸前な んだ。とにかく速く歩きたくても人が多くてろくすっぽ前に進めやしないのさ。何度前を歩いているやつを蹴倒してやろうかと思ったか知れやしない。でもこん なところでいらいらしてもしかたがないって思うようにしたんだ。急がば回れ。せいてはことを仕損ずる。その手のつまらない処世術をぼくは田舎の母親から、 決まって毎週土曜日の夜にかかってくる電話でうんと聞かされるんだ。
 新宿に出て中央線に乗り換えるとぼくたちはやっと少し落ち着くことができた。と言っても電車の中はすし詰め状態だったけどさ。それでもあとなん駅……っ て数えることができると家に近づいている実感が多少は増すってことだよ。
 つり革にだらしなくぶら下がりながらぼくは暗い窓に映る美紀の顔を眺めた。少しうつむいて一つのことを一生懸命考えている様子だったな。こんなに重苦し い彼女をぼくは正直、初めて見たんだ。ぼくはどうしたらいいのか皆目見当がつかなかったよ。だってこんな状態の二人を一体誰が予測できたって言うんだ。優 しい言葉でもかけるべきなんだろうけど、どうもこのときばかりはうまい言葉が見つからなかったな。それになにか言うことができたとしても絶対にくだらない テレビドラマとか映画のラブシーンに出てくるような常套句にしかならなかっただろうしね。どうも画面の中の世界の方がエキセントリックを極めている割には いやに現実味を味付けしたりしているものだから、いざ自分の身に降りかかってくるとなんだか照れくさくて悲劇の主人公にでもなったような気分だったね。い い話じゃない、絶対に。
 と、美紀が顔を上げた。ぼくたちは窓の中で顔を見合わせた。ぼくはとっさに口元を緩めて笑顔らしきものを作って見せた。でもぼくの目は全然笑っていない んだ、自分でもいやになるくらいにね。美紀は逆だった。口はつぐんだままなんだけど目は笑っていたんだ。これが本当の作り笑いよ、と言わんばかりにさ。頼 りなかったな、お互いに。ぼくたちは誰をあてにしたらいいのか全くわからなかったんだ。でも不安はなかったな。少なくともぼくは不安ではなかった。確かに ぼくは彼女の恋人ではあるけれど彼女の家庭の問題まで背負いたくはないんだ。――と言うよりは、そんな必要は最初からないとぼくは心の中で勝手に決め付け ているところもあったな。ぼくはただ美紀と楽しい時間を過ごして、それで彼女の素敵な笑顔を見ていられれば十分なんだ。そしてそのためならどんな犠牲も 払ってきたんだ。それは恋人とは言わないって誰かが言うのはわかっている。実際に言われもした。でも、ぼくにとっての「恋人」っていうのはそういうものな んだ。「男の義務」とかそういうたぐいのものはぼくは大嫌いなんだ。主義とかにがんじがらめになりたくないんだ。ぼくたちは毎朝、昨日の自分とは全くの他 人として起きるんだから、昨日の自分が言ったことなんて責任もってもしかたがないからね。常にベターな方向を目指していればそれでいいんじゃないかな。学 校でもそう教わったはずだ。過去に必要以上に縛られるなんてまっぴらなんだ。
 電車は大体二十分で三鷹に着いた。その間ぼくたちは結局ただの一つも言葉を交わさなかった。すごく長い二十分だったね。美紀もそんな風に感じていてくれ たらうれしいのだけど、人の心の中なんて誰にもわからないから考えるだけ時間の無駄かもしれないね。
 改札を出る前にぼくはトイレにいって用を足し、鏡を覗いて乱れたところがないかどうか確認した。万が一母親が帰っていたら顔を合わせることになるから な。まだ一度も会ったことがなかったんだ。こういう微妙な緊張感がぼくは好きなんだな。
 改札を出て左に曲がった。階段を下りた。バスターミナル。たくさんの人が並んでいた。みんな仕事帰りのようだった。美紀は左に曲がった。ぼくはただ彼女 についていけばそれでよかった。花屋があって、本屋があって、携帯ショップがあって。普通すぎるくらい普通の町並みだったな。日本の標準住宅地ってこんな 感じを言うんじゃないかな。こんな平穏な家並みの中の一つに、まさかドメスティック・バイオレンスとかいう名詞とともに騒がれている問題が起きているなん てにわかに信じがたかったよ、全く。
 小さな公園を通り抜けて、五メートルおきに立っている街灯しか道を照らすものがないようなところにぼくは連れてこられた。
「もう、すぐそこ」
「ああ」
 静かだったな。妙に静かだった。ぼくは自分の部屋にいるときは四六時中ラジオをつけっぱなしだし、外を歩くときも耳にイヤホンを突っ込んで大音量で聞い ているからいまいちこういう森閑とした所に来ると落ち着かないんだ。なんでもいいから音を立てて欲しかったな。音楽が一番いいんだけど、それもどしんどし ん低音が響いて、しゃかしゃか高音が響くようなやつがさ。二人で靴音鳴らしながら神妙そうな顔で黙り込むなんて第一おもしろくないじゃないか、そうだろ う。
 やがて「宮川」と掘られた表札の家が目の前に現れた。なかなか立派だったな。いや、本当に立派だった。庭も広かったし、門柱には丸いランプがついていた し、門はガラガラと音を立てたし。「宮川税理事務所」という看板もまだあった。
「中は明かりがついていないね、見た感じ」
「うん……」
 美紀はそっと門のとびらを開けて玄関へ続く石畳を進んでいった。ぼくはやっぱり彼女の後ろについていった。玄関は木製の大きなとびらで、簡素な彫刻がな されていた。外に出してある傘立ては空だった。人気はなかったな、ぼくの感じた限りでは。この家だけじゃなくて、この近隣もひっくるめて。匂いも音もしな かった。
 美紀の父親がどんな人相か全くわからないけれど、少し細身で、金縁の眼鏡なんかかけてぼくとは正反対に完璧主義で几帳面な人間をぼくは思い浮かべた。そ んな人物が髪の毛を乱して帳簿を引き裂きながらわけのわからない奇声を発して妻に平手打ちを食らわせる図はちょっと説得力があるな、と思った。たぶん暗い 台所で息をひそめて誰かが帰ってくるのをじっと待っているタイプだ、とぼくは勝手に考えて、
「絶対、中にいるよ。気をつけて」
 といらぬことを美紀に耳打ちした。彼女はちょっととまどったような顔をした。けれど、暗くてはっきり見えなかったからそんな顔をしたように見えただけか もしれなかった。
 かばんの中から美紀はかぎを取り出し、それを穴に差し込んだ。がちゃっと多少きしみながらかぎは開けられた。とびらを開けてぼくたちはなぜだか申し訳な さそうに足を忍ばせて家の中へ入っていった。
「おじゃましますよお」
 ぼくは暗い廊下の向こうへ向かってささやいた。なんだかその突き当りに台所があるような気がしたんだ。そこに絶対隠れているって思い込んでしまっていた んだ。
「おとおさあん?」
 美紀は思い切ったように玄関の明かりをつけて奥に向かって叫んだ。はっきりと声を出して言った。そうしながら彼女は靴を脱いで家に上がった。ぼくはどう しようかと迷ったけれどとりあえずかばんをおろして靴は脱がなかった。それよりも靴箱の上に置いてある時計の方が気になった。ロココ調でさ、ぼくはこうい う、自分とは正反対の趣味のものがあるともう嫌悪感を通り越して、例えばN極とN極とで反発しあって地球を一周してまたくっつくようなそういう変な興味を 抱いてしまうんだ。全身金色で、文字盤の下で人形が舞踏会をやってんのさ。それがまた巧妙に出来上がってたんだ。右に回転したかと思いきゃだんだん回転速 度が遅くなって今度は左に回転し出すんだ。一体どんな歯車になってんだろうって、なんだか素朴な疑問まで抱いちゃってね。もう、美紀のことはまるで他人事 さ。「まるで」というよりは、言ってしまえば最初から他人事なんだけれど。とりあえずさっさと彼女の家庭の問題が解決するのを祈るばかりだったよ。
「いないみたい……、ねえ、あがって」
 奥から美紀が戻ってきてぼくに言った。それでやっとぼくは家に上がった。美紀が部屋の電気をつけると、ぼくはとたんにこの家が相当大きいことを理解した んだ。一階部分は玄関を上がるとすぐ左手に洋間があってピアノやらソファーやらテレビやらすべて大きなものがそろっていた。廊下の奥はぼくが予想した通り で台所、いや「キッチン」と言うべきなのかな。そしてキッチンと廊下が居間をはさんでいるんだ。どの部屋も何畳あるかとかそういう概算がぼくにはできない けれどずいぶん広かった。人が十人は大の字になって寝られるんじゃないかな。つまり、どうやらぼくの恋人はいいとこのお嬢さんのようなんだ。全然知らな かった! なんだか急に彼女が他人のような気がしてきたよ。悲しいけれど、金のやたらかかる私立大学に入ってから初めて、まだまだ経済的な身分差ってのが あるんだと友達を見ていて実感したけどまさか自分の恋人が――全然考えたことなかったんだよ。ぼくなんて奨学金もらって生活費のためにバイトしている貧乏 学生なんだから。
 ぼくは大きなテレビの真っ暗な画面を覗き込みながら手持ち無沙汰に立っていた。
「悪いんだけど、二階を見てきてくれない?」
 台所のテーブルに立ったまま手をついて美紀がそう言って、ぼくは「ああ」と小さく自分でも発声したのかどうかも不確かなくらいの返事をして廊下に戻り、 二階へ続く階段を上っていった。ずいぶん一段一段が高くて急な階段でさ、ふとぼくはこの前の浜辺での「事件」を思い出しちゃったよ。小屋に行くまでの坂道 がやっぱり急だった。あの小屋でのことは思い出したくもないけれど、時々思い出してしまうんだ。正直言って、今思うとあのセックスは悪くなかったな。セッ クスだけはね。で、急に美紀とこのうちでそういうことをしてみたくもなったんだけどそれが今は無理だってことくらいはぼくも承知しているよ。そういう場違 いなときに性欲がむくむくと立ち上がってくることが男っていう動物にはままあるんだな、悲しいことにさ。
 二階は階段を上がりきると一階と同じように廊下が続き、それに沿って五部屋の洋間と和室が一部屋があった。階段を上ってすぐ左手の扉には「美紀の部屋」 と江戸文字で浮き彫りにされた木の札がかかっていた。反対側にはドアが開けっ放しだったので和室があるのがわかった。和室には誰もいなかった。半分物置と 化しているようで、段ボール箱が無造作に積まれていた。ぼくは美紀の部屋に入ろうかどうか迷ったけれど迷ったから最後に入ることにした。とりあえず奥の部 屋から見ていくことにしたんだ。
 一番奥の部屋は寝室だった。でかいベッドが二つ並んである切りで他にこの部屋は使用目的がないようだったね。電気を一応つけてみたけど誰もいなかった。 その代わり壁一面にくくりつけられた大きな本棚にぼくは気がついた。よく見ると毎年の六法全書や技術者向けの「工学塑性力学」やら「内燃機関」やら大量の 社内報やら四季報やらが本の大きさと種類とをアリストテレス的に整理分類して並んでいた。それらの本の中のどれ一つとして読んだことのあるものはなかっ た。六法だって大学の授業で使ったけれどほんの少しだ。それにあまり興味も湧かなかった。逆にぼくの本棚は小説や哲学書ばかりなんだ。どうもこの家とぼく との距離を縮めることはできそうになかった。とりあえずぼくはその部屋を出た、と言うよりは半分追い出されたような感じだったな。
 次の部屋は父親の書斎のようだった。扉を開けたとたん大きな書斎机が目に飛び込んできたものだからもしやここに隠れているのでは、机の下に息を殺してい るのでは、と妄想して勝手にびびってみたけどさ電気をすばやくつけたらやっぱり誰もいやしなかった。壁一面にはやっぱり本棚がくくりつけてあって、学生の ころに使ったらしい簿記検定の参考書だとか「経営分析の実務」だとかここには税理士をやっていた父親のものらしい本がざっくばらんに並べられていた。なに せ机もでかけりゃ本棚もでかいし部屋も広かったよ。出窓のところには立派な花瓶があって花が挿してあったけど、それはほこりをかぶった造花だった。真っ赤 な。そこでまたぼくは思い出しそうになったんだけど意志の力で止めることに成功した。
 机の上にはワープロと電卓と大量の書類が無造作に置かれていた。床に落ちたものも何枚かあった。ついさっきまでそこに誰かがいたみたいだった。いつある じが帰ってくるかもしれないような様子だった。もしかしたら倒産してから机の上をそのままにしているのかもしれない。子供を亡くした親が子供部屋を全く手 を付けずに残しておくようにさ。
 その時突然階下で電話のベルが鳴ったんだ。家の電話だった。ぼくは廊下に出て手すりから身を乗り出して下を覗いた。電話はちょうど玄関の靴箱の上に置い てあって赤色のランプが点滅していた。奥から美紀が出てきて受話器をとった。
「はい宮川です。はい……そうです、はい。……はい、……はい、え? あ、はい、そうです、父です。母はちょっと……、はい。……総合病院ですか?  ちょっとわからないんですけど……。駅前をまっすぐ、はい、ああ、はい、ありますね。そこを右に。はい……、最初の交差点を左に。はい、……はい、わかり ました。すぐにうかがいます。はい、ありがとうございます……はい、……はい、失礼いたします」
 そして美紀は受話器を置いた。ぼくは「どうした?」と言いながら階段を下りていった。結局美紀の部屋に入ることができなかったのが少し残念ではあったけ れど。
「お父さんが見つかったって……警察の人から」
「ああ、よかったじゃん。でもなに? 病院……?」
「交通事故にあって……持っていた名刺からここの電話番号がわかったみたいなんだけど、今手術を受けてるって……」
 面倒くさいことになったな、とぼくは思った。


   四

 ぼくたちはすぐに家を出た。警察から美紀に教えられた病院に向かって ぼくたちは急ぎ足で向かったんだ。車庫に自転車があったからぼくが美紀を後ろに乗っ けていってもよかったんだけど彼女が「危ないし夜だから」と言って却下された。それならタクシーを使えばいいと言っても、彼女にはここにタクシーが来るま での時間が無駄らしかった。もちろんぼくが強いてついて行く必要もなかったんだけど、例によって惰性がぼくを動かしていった。行かない理由がなかったから ね。
 さっき家に向かったときとは正反対に今度はぼくたちはずいぶんせわしかった。ちょっと小走りになるだけでぼくたちの耳には自分の息遣いと心臓の音とがう るさいくらいに入ってくるんだ。ふだんぼくは全然運動をしないものだから、ちょっと夜中にでも走ってみようかと計画を立ててみた。もちろん立てただけだ。
 言われたとおりに駅前に戻って駅を通り抜けて反対側の出口に出、そこからまっすぐ突き進むとある公園のところを右に曲がり最初の交差点を左に曲がると目 の前に総合病院があった。白いはずの外壁は外灯の光の加減でうっすらと紫色に染まっていて、不健康そうにその病院はつったっていた。窓も滅入りそうなくら いに小さくて、ぼくは本当にここが病院なのか疑った。いや、もしかしたらこれこそが病院のあるべき姿で、ぼくの感覚の方が間違っているのかとも疑った。眠 気も手伝って頭がだんだん働かなくなっていたんだ。
 ぼくたちは一階にある夜間の受付に向かった。夜間専用と言っても入り口が、外からはちょっとわかりにくい非常口になっているだけで中に入ればふだん使っ ている受付につながる。控え室は真っ暗で、開いている窓口のところにだけ非常灯みたいな小さな明かりがついていた。これがまたよくないとぼくは思った。ロ ビーも電気をこうこうとつけて当直の若い医師らがいすの上でマージャンやっているくらいの心意気が欲しかった。
 美紀はまっすぐ受付に向かって行って、自分の名前と用件を伝えた。中にいた看護婦はぼくには聞こえない声でひそひそ美紀になにか一言二言ささやいた後、 ちょっと身を乗り出してぼくの方をちらっと見た。それから美紀がまたなにかささやいて看護婦も納得したような顔を見せた。大方ぼくのことを言っていたのだ ろう。あまりいい気分ではなかったのは言うまでもないことだ。
 しばらくして別の看護婦が出てきてぼくたちを手術室の前まで連れて行ってくれた。一階の長い長い廊下を通り抜けて左に折れたところに窓のないアルミニウ ム製のドアが行く手を遮っていた。扉の上にはお約束のように「手術中」という表示が赤く光っていた。
「ここでお待ちください。いつ終わるかはちょっとわかりませんが、長くともあと三時間はかかるかと思います」
 若いその看護婦は手慣れたそぶりを見せながら一音一音はきはきと、小学一年生の音読のようにそれだけ言うと去っていった。ここでもぼくはいい気持ちがし なかった。暗い廊下の向こうへ消えていく白衣を見送ると、やっぱりそこだけスポットライトで照らされたクッションつきのいすにぼくは座った。壁に沿ってす えつけられているから壁に寄りかかることができた。
「座りなよ」
 と、「手術中」をじっと見つめている美紀に向かってぼくは言った。美紀はうなずいてぼくの隣に座った。
 ぼくは美紀がどんな気持ちでいるかを知りたかった。知らなければならないと思った。それは恋人として必要なことだ。でもぼくの頭に浮かんでくるのは「つ らい」とか「悲しい」とか、そんな貧弱な語彙でしかなかった。ぼくの手がかりにできるのはあれほど軽蔑しているお座なりでお涙頂戴のテレビドラマしかな かったんだ。これはやっぱりそういうものなのか? お座なりなものしかないのか? こういうデリケートな場面を一番傷つかずにいられるための方法はお座な りでいることでしかないのか? ぼくは結局一番安全な方法をとるしかなかったんだ。だって、いきなりアルミの扉をぶち破って「ぼくが執刀します」なんて言 うことも、美紀を平手打ちして「しっかりしろ、目を覚ませ!」って怒鳴ることもできないじゃないか。できないんだ、そう、危険すぎる。荒唐無稽なことが成 功するのはテレビの中だけだ。おや? ぼくはおかしいことを言っている。荒唐無稽がテレビの中ではお座なりになってしまう。……するとぼくは今、荒唐無稽 の中にいるのか? 平凡と非凡がボーダーレスになって、ぼくの方に流れ込んできているのか? 人生なにがあるかわからないってことなのか?
「助かるでしょ、きっと」
 結局ぼくはそう言うしかなかった。それが一番平凡で当たり前で、そして求められている言葉だった。美紀はうなずいた。腕時計を見ると十時だった。
「洋介」
「ん?」
 いまさらのようだけどぼくの名前は吉田洋介だ。徳島から出てきたんだけどそうは見えないってよく言われる。誉めてんだかけなしてんだかよくわからないけ ど、実際は適当に言ってるだけでどっちでもないんだろうな。でも、どうも徳島県民だけでなく四国地方の人間は田舎ものっていう通念が関東人にはあるみたい で嫌になったよ。――ぼくの自己紹介なんてのはどうでもいいんだった。ぼくの親父もお袋も好きなように想像してくれたまえ。おそらくその通りだと思うん だ。
「遅くなるから、帰ってもいいよ?」
「なあに言ってんだよ、こういうときくらい役に立たせろよ」
 自分で言いながら恥ずかしいくらいだったな、そのせりふは。言ってよいものか悪いものか判断がつかなかった。けれど、大抵そんな言葉を期待してんじゃな いのかなってぼくは珍しく機転をきかせたわけだ。本当はさっさと帰ってこの、皮膚に粘りつくような汗をさっさとシャワーで流して梅酒でも飲みながらラジオ を聞き、いい気持ちになって眠りたかったよ。だってそうだろう、こんな息の詰まるような病院で二人きりでいるよりずっと快適だと思うんだけどな。だけど、 ぼくはそんなことを言ってしまったわけだ。これが理性的動物たるゆえんだよ。美紀のやつ、ぼくのその言葉を聞いてちょっと笑うと頭をぼくの肩にあずけてき た。ぼくも彼女の方に頭を傾けた。ぼくの耳に彼女の髪の毛が当たって、彼女の耳がぼくの肩に当たった。そうしているのもなんだか悪くはないような気がし た。これは本能かもしれなかった。
 ――誰かに揺り動かされて、ぼくは自分がいつのまにか自分が眠ってしまっていたことに気がついた。ぼくが目をあけると目の前にさっきここまで連れてきて くれた看護婦の顔があった。そんなに美人でもなかったけどぼくは寝ぼけていたものだからじっとその顔を見つめてしまったよ。でも正確に言うとピントはだい ぶずれていて、焦点は空間的に言うと彼女のうなじの後ろ五センチくらいのところにあったと思う。ぼくはゆっくりと起き上がった。いすに横になっていた。
「手術が終わりました。こちらへ――」
 といって彼女はぼくが立ち上がるのを手伝ってくれた。美紀の姿がなかったからそれとなく尋ねてみたらもう病室に行っていると言う。なんだかよくわからな いけどそういうことなんだからしかたがない。ぼくは彼女のあとについていった。エレベーターで三階まで上がった。窓の外はもううっすらと青い光に満ちてい た。
「こちらです」
 といわれて通された三○五号室は個室だった。ぼくも実は昔、小学生の時分だったけどトラックに接触したことがあってね、足の骨を折って入院したことがあ るんだ。だけどその時は教室みたいな病室にベッドが十もひしめき合っててさ、どれが誰の点滴なのかさえわからなくなるくらいベッドとベッドの間が狭いん だ。テレビも部屋に一台しかなくて、周りが年寄りばっかりだったからてんで退屈だったよ。なんで毎日毎日正時のニュースと天気予報と相撲中継だけで満足で きんのか小学生のぼくにはぜんぜんわかんなかった。それは今でもそうなんだけどね。とにかくひどい環境だったわけさ。一刻も早くそこから逃げ出したかっ た。だからリハビリを誰よりもがんばった。もしそういう気にさせることで患者に早く退院してもらおうなんて病院側が考えていたとしたら、ぼくはそこの院長 にさっさと「退院」してもらいたいよ。で、とにかくぼくは入院ってのにそういうイメージしかなかったからこの目で個室のでかいベッドに寝転んでいる美紀の 親父さんを見たとき、かわいそうな気には全然ならなかったってわけだ。なるほど、事務所は倒産したけれど命を取られるわけでもない。事故にあっても生き延 びた。いい個室に寝かされて、娘が心配している。ぼくは幸せと不幸せのボーダーラインが消えていくのを感じたよ。ぼくはやっぱりひねくれているのかな?
 美紀は病室に据えられたソファーに座っていた。ぼくは変な格好で寝ていたらしく、首がうまく動かなかった。上を向こうとすると首筋が痛んでとても耐えら れなくなっていた。
 親父さんは麻酔ですうすう寝息を立てていた。頭に包帯が巻いてある。
「どうなの? 親父さん」
 ぼくが美紀に聞くと看護婦が答えた。
「大丈夫です、右足と左腕を複雑骨折しただけで。頭もなん針か縫いましたが大したことありません」
 看護婦の言う損傷が自分に降りかかってきたらとても「大丈夫」な気はしなかったけどぼくはとにかくその言葉を信用して「大丈夫」なんだ、人間の体はそう そうやわなものじゃないと思ってみた。
 看護婦は病室を出て行った。ぼくは鼻から大きく息をはいた。ソファーの方に行って、美紀の隣に深々と座った。
「まあ、よかったじゃん。大丈夫だって」
「うん……」
 無理はないとは思うけど美紀はまるで魂が抜けたようなありさまだったんだ。
「何時……?」
 美紀が唇だけ動かしてそう言った。ぼくは腕時計を見て今が五時半であることを伝えた。
「もう、始発があるよね……。ごめんね、引き止めちゃって……」
 ぼくは首を横にふった。
「どうする? ぼくは……自分の部屋に帰るけど」
 病院に残ると言う美紀を残してぼくは自分のアパートに戻ることにした。立ち上がる前にぼくたちはキスをした。それがせめて美紀の笑顔につながればいいの だけどと思ってさ。ああ、いやだいやだ、しけた面は見せて欲しくないんだ! ぼくの理想はみんながいつでもニコニコ笑って楽しく時間を過ごすことなんだ。 そのためにはどんな方法でも使うべきなんだ。せめて人前では笑っていなくちゃ! 二人でいて悲しい顔をされるとぼくは自分が全く無視されたような気分にな るんだ。その悲しさがぼくの原因ならまだしも、なんでもないことばかりが彼女を悲しくさせるんだ。道端の猫の死体とか、転んで泣いてる子供とか。とにかく 感じやすいんだ、彼女は。そのくせ劇団に入ってるときた。ぼくはどうせやるならもっと実利的な演技をして欲しいんだ。それでみんなが幸せになれるような。 少なくとも方向はそっちへ向いているような。ぼくは美紀のことが好きだから、そうなるように努力しているんだ。
 ……病院を出て三鷹駅に向かって歩いていると、飲み屋街の入り口のところで妙齢の女性がぶっ倒れていた。黒いティーシャツにジーパンというかっこうで電 信柱を肩と首ではさんで仰向けになっていたんだ。ぱっと見て顔はすごくきれいな人だったから、ぼくはわけもなくアブナイアブナイと心の中で繰り返し唱えて しまったよ。ぼくはふらふらと吸い寄せられるように彼女のところに行ってみた。大丈夫ですか、と声をかけながら肩をゆすってみると、ううんと声にならない ような声を出して彼女は目をパッチリ開けた。でも、すぐにまた閉じた。こういう時どうしたらいいんだろう、ってぼくは思った。一番いいのは最初から関わり あわないことに決まっているんだけど――と思った矢先にぼくの背中でキキイっという自転車の止まる音が派手に聞こえた。振り返ると警察官が立っていたん だ。ぼくは助かったという気持ちと面倒なことになったという気持ちの二つがあった。警察官に何かたずねるのはいいけれど、たずねられるのはいやだ。
「その人、どうしたの? こんな時間に」
 鼻の下がやたらに長い顔のその警察官は必要もないのに背伸びをしてぼくと倒れている女の人を見下ろしてきた。泥酔して倒れているのは見ればすぐわかるこ となんだ。それなのにいきなりもったいをつけてきたものだからぼくはあまりいい気分じゃなかったな。何しろ眠かったんだ。体も汗でべとべとしていたから少 しのことでいらいらせざるをえなかった。
「知りませんよ、倒れているから起こそうとしてみただけです、ぼくは」
 という言葉を無視するようにして警察官は女性の肩をゆすって「起きてください! こんなところで寝てちゃ危ないですよ!」と大声で言った。ぼくは無性に 腹が立って二人をその場に残したまますたすたと駅のほうへ向かって歩き出した。やっぱり、最初から関わらなけりゃよかったんだ。後ろから「あっ、おい 君ぃ!」という声も聞こえたけど、ぼくはずんずん進んでいった。
 やっと駅について、まだがらがらの車両に乗って座った。これからどこかへ出かけるような人はほとんどいなかった。車内の人間はみんな、それぞれさっきま で世界を永遠に包んでいると思っていた夜の疲れを体中にためていた。日の出を迎えて、狐につままれたような、大きな嘘から覚まされたような、恋が終わった ような顔をしていた。きっとぼくも同じような顔をしていたんだろうな。
 ふと思い出したようにぼくはかばんの中を見てみた。ウォークマンと何枚かのMD、文庫本、ずっと入れっぱなしのドイツ語の教科書。それから手帳と下痢止 めの薬――いつどこでお腹を壊すかわからない体質なんだ。財布と定期入れ。それもいちいち出して中を見た。二万五千六百十二円。それからレンタルショップ のカードに眼科の診察券、図書館のカード、学生証、その他一度しか使っていないポイントカードが五枚ほど。例えば、この中に友達に借りたシーディーとか美 紀と見た映画の半券とか貸してほしいと頼まれていた本とかがはいっているといいのだろうけれど、そんなものはなかった。今までにそういうたぐいのものが 入っていたことすらあやしいんだ。つまり、どうやらぼくは人と何かの関係を持つのを面倒だと感じてしまう人間のようなんだ。美紀とのこともそうだ。ぼくは どんどん面倒くさがりになっていっている。でもそれがいいことなのか悪いことなのかはわからないよ。事実とそれに対する価値判断は区別すべきだ。だから、 もしかしたらぼくは仙人になってとてつもない悟りを開くかもしれないんだしね。実際、ぼくは一人でいるには退屈しない人間なんだ。どんな時間が好きかって 聞かれたらさっきも言ったかもしれないけど、部屋で音楽をかけながらペーパーバックを読んでいる時だって答えるよ。だけど、ぼくがかばんの中をその時突然 調べ出したのは自分がどんな人間なのかを確認したくなっちゃったからなんだ。まだまだぼくなんかにはアイデンティティーなんて言葉は似合わないからね、時 々発作的な不安に駆られることもあるんだ。一週間に一度くらいは人間、そういう瞬間があっても損じゃないと思うよ。むしろ健康なくらいだと思うんだ。深刻 に考えないのが一番だ。考えすぎは禁物だ。そのときもぼくは「これでいいんだ」ってわざとらしくつぶやいてかばんを閉めてまぶたを閉じた。
 あっという間に西国分寺に着いた。ほんの少しの間だけだったけど仮眠が取れたから気力体力、五分くらいの全力疾走ならできそうなくらいにまでは回復して いた。すぐにまた眠りの波が来そうな予感がしていたからぼくはここぞとばかりにさっさと歩いて部屋に戻ろうと思った。でも、ちょっとのどが渇いていたもん だから自動販売機でコーラを買って一気に飲み干した。それであと二分くらいは全力疾走できそうな気がした。
 部屋に入ってあんまりの暑さにぼくは扇風機をつけた(クーラーが付いているような部屋を借りられるような玉じゃないんだよね、ぼくは)。窓は開けて家を 出たんだけど外の空気もそれなりに暑くて部屋を涼しくするには不十分だったようだった。コンタクトをはずして、上はティーシャツだったから下だけ部屋着に 着替えてぼくはベッドに身を投げ出した。枕元にいつも置いてあるステレオのリモコンを取って電源を入れた。二つのスピーカーからクラシックが流れてきた。 歌詞の無い音楽はこっちから勝手に意味付けをする必要すらなく、純粋に音色を楽しませてくれた。交響曲第X番。ただ、それだけだ。ぼくはそれから昏々と 眠った。

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「生きるとは造花と見まがうほどに美しい(Chap.5〜8)」
 
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