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傘の下の君へ(仮)

 液晶画面の時計はゼロ時をすぎて四月二五日になった。葉子は携帯電話 をとじて机のうえに置く。「本日の試験に合格した方には二週間 以内にこちらからお電話さしあげます。その折に一次面接にご案内したいと思います」と、たしかにあの茶色い髪をした社員は言ったはずだ。葉子は「一般常 識」の問題集の下から手帳をひっぱりだしてもう一度四月の予定を確認する。もちろん、わすれているわけじゃない。自分の手で書いた文字くらいおぼえてい る。
 と、電話がうなりをあげた。発信表示を確認するまもなく葉子は「もしもし」と精一杯オクターブを上げる。
「もしもーし」
 黄色い声。それが葉子には第一志望の品川商事に落ちたことを告げ知らせる象徴のような気がした。
「シュウカツの調子はどお? この前ね、葉子が受けた浦安物産ね、あたしも試験で落ちちゃったよお」
 葉子は開いたばかりの手帳を閉じて問題集の上に放る。毎晩電話してくるのは大学の英会話サークルで知り合ったゆきだ。と言って、サークルの中ではじめか ら親しかったわけではない。葉子が去年の夏休みが終わってから就職活動を始めて、それを知ってかゆきが葉子に頻繁に電話するようになった。それまでは少な くとも葉子はゆきといっしょにいるときには必ずほかにもだれかがいた。
「そりゃそうよ、いくら景気がうわ向いてきたからって私たちみたいに三流の大学に行っているんじゃ面接官だって興味示さないわよ」
 葉子は手をのばしてもう一度手帳を開くと落ちた会社の名前をシャープペンでひとつひとつ突っついていく。一、二、三、四、……筆記試験が通ったのは十二 社のうち四社。二社は面接を受けたあと連絡がなく、一社は日付が変わった今日一次面接を受けに行く。
「えー、でもあたしのカレシは一流大学じゃないけど銀行に入れたよ。あ、それでね、カレの銀行の説明会行こうと思ったんだけどさあ、ぜんぜん場所がわかん なくって、すごいの、駅から徒歩十分のはずなのに――
 長い。ゆきの話はとにかく長い。それでもいまの葉子には彼女の話を聞くことがむだな時間だとは思えなかった。こう言ってもいいだろう、ゆきがいなければ 葉子は自分を世界で一番だめな女だと思い込むだろう、と。
「――でね、やっぱり彼はすごいなあってあらためて思うわけなのよ。それでね」
「ねえちょっと、あんたの彼氏の話はいいのよ。少なくとも私たちよりはぜんぜんいい大学行ってるんだから」
 恋人のいない葉子にはそういう部分でのゆきの話を聞かされることは避けたがった。携帯電話を左手から右手に持ちかえて、葉子は椅子から立ち上がると部屋 の中をぐるぐると歩き回る。壁に貼った二三区内の地図が、地下鉄の路線図が、視界の右から左へ移っていく。
「それに、もう四月も後半なんだから、もう少し建設的な話はないの?」
「そんな怖いこと言わないでよお、気楽に気軽にシュウカツすればいいんだって。明るく元気な人が受かるんだから」
 その言葉を信じたいと葉子は何度思ったことか。
「明るく元気な人ねえ」
「なんか今日の葉子、声が暗いよ? どこか落ちちゃったの? あ、もしかして第一志望だって言ってた……」
 本棚に並ぶ同工異句の就職活動マニュアル本の背表紙をなぜながら葉子は相手に知られぬよう受話口を避けてため息をついたが、急に黙り込まれたのでゆきも 電話の向こうで感づく。
「あ、じゃあ、ねえ、あたしがカタキとってあげるよ。まだ説明会やってるはずだよね。ね、元気出してよ、第一志望は元第一志望になるだけなんだって、合わ なかっただけだよ。葉子だったらもっともっと上ねらえるって」
 しかし葉子はもうゆきとそれ以上会話を続ける気力を失っていた。
 九時からの面接に間に合わせるために翌朝六時に起きると、隣りの部屋で寝ている母親を起こさないように葉子はしたくをして家を出た。駅で電車を待ってい ても電車に乗っていても道を歩いていても、気になるのは自分と同じようにリクルートスーツに身をつつんだ人たちだ。筆記試験の本を開始時刻の直前まで開い ている人は二月ごろに比べたらずいぶんと減った。イヤホンで音楽を聴いて気持ちを高ぶらせていたり、だれかに今日の自分をメールで報告していたりするのが 多い。
 葉子は、マニュアル本を気休めだとは思っても手放すことができず、もう何度もいろいろな色のペンで線を引っ張った箇所を指でなぞる。「面接官におべん ちゃらを言って自分に酔うな」だとか「知識が無くても一生懸命さをアピールせよ」だとか、どこかなじめない鼓舞するような観念論にすがってしまう自分を葉 子は好きではない。
 最寄りの飯田橋に八時半前に着いた葉子は近くの喫茶店に入る。早めに行き、コーヒーを一杯飲んで気持ちを落ち着けてから面接なり試験なりにのぞむように 葉子はしている。単なる時間つぶしというよりは、気持ちを整理するのに必要な時間だ。
 扉を押すと同じようなスーツ姿の学生がたくさんいるのが目に入る。葉子は甘いマキアートを注文して受け取ると、なるべく離れた席に座ってメモ帳を開い た。ちょっと汗ばみながらカップを口に運ぶ、その感覚ももはや新鮮ではない。メモ帳には最低限話す内容を箇条書きにし、会社の簡単な概要を貼り付けてあ る。暗記してきたようなことを言う学生はいらない、とよく聞くし、それはもっともだと思いながらも葉子は従業員数八○二五人という数字をじっと見つめる。 八○二六人目に自分がなれるのだろうか。それだけ社員が多ければ自分のようなもの一人くらい入れるはずだ、という思いと、仮に入れたとしてもその規模に押 しつぶされてしまうのではないか、という思いと、そもそもそんなたくさんの社員を抱える大企業に自分のようなものは初めから入れるはずがないという思い と、様々に葉子の頭の中で交錯する。
 隣りにスーツ姿の男が座った。距離感の近さを感じて葉子はちらりと横を見る。短く刈り上げた髪の毛、体格のいい、見るからにフィールド系の運動をしてい そうな男だ。それが唐突に葉子に向かって言う。
「シーエス旅行?」
 こういう男は葉子にとって初めてではない。よく遭遇する。
「いえ、……ちがいます」
 就職活動をなにかのイベント、出会いの場でもあると思っている人間が少なからずいることに葉子は笑えない何かを感じていた。しかしもし自分が採用する側 の人間だったらかたくなな人間よりは誰にでも気安く声をかけることができる人間を採りたいと思うだろうとも、感じていた。
 けれど、目の前に自分と同じ境遇の、しかも異性の人間がいたら話しかけない方が嘘だというのは、ただ単に就職活動仲間を増やしたいというのとは違う。一 度だけ同じ大学だが学部の違う女の子とメールアドレスを葉子は交換したことがある。最初のうちは毎日進捗状況を報告しあっていたが、次第に間隔が広がり、 先週になって突然内定をもらったという旨の、「!」マークが数え切れないほど並ぶメールを葉子は受け取った。もちろん返信はしていない。
「なんか面接とかってさあ、素を出したら負けじゃん。ほんとだましあいみたいなところがあるからさあ、けっこうしんどくない?」
 男は葉子の返答にかまわずしゃべり続ける。葉子は手帳を閉じた。
「私は、本音をぶつけ合いたいとは思っていますけど……」
「うん、そうそう、それが理想だよね」
 知ったかぶり、お調子者、自慢たらし、目立ちたがり、そんなやつが社会というところでは幅を利かせているのだろうか。派手なパフォーマンスで、三流の芸 人みたいにぺらぺらしゃべくり、「契約とるぞぉ!」と朝からこぶしを天に突き出す、そんな風でないと社会ではやっていけないのだろうか。葉子は目の前の男 を見ながら考える。私が面接官だったら、私よりはこの男を採るかもしれない、けれど、自分はこういう男のようにはなれないし、なりたくもない、とも葉子は 思う。
「でもさあ、俺、将来は独立したいんだよね。やっぱり面接する方はさあ、死ぬまで働いてもらうつもりで採用するわけじゃん。そうなるとどうしても俺みたい なのは――
 コーヒーを飲むのも忘れて葉子は目の前でパクパク動く口を眺めていた。見ず知らずの私にどうしてこの男は将来の夢なんか語ることができるのだろう、面接 官でもない私に。露出狂? 朝から新手のナンパ? そんな気もしてくる。
「でも、いろいろ考えたうえで、その会社を受けるんだってところを見せれば必ずしも悪い条件じゃないと思うんだよね。だから素でいったほうが相手の心に響 くと思うんだよ、確かに条件は悪くても働きたいって気持ちが強ければさ、そっち優先じゃん?」
「あ、えっと……初めと言っていることが逆じゃないですか?」
 葉子は男が将来独立するとかしないとか、そんな話はどうでもよかった。ただ、面接という場所を腹の探りあいというよりは本音をぶつけ合う場所という風に 考えているのは本当だった。もう少し正確に言えば、そうであることを願っていた。男の話に最初は違和感を覚えながらその結末のところで自分と同じ意見に なっていることに葉子は気がついて変に思う。
「逆って?」
「素で面接官と話すべきなのかどうかって」
「――ああ、そうか、なるほど」
 男は納得した風にアイスコーヒーを音を立てて最後まで吸い上げる。それを見て葉子も思い出したようにぬるくなったコーヒーに口をつける。
「なるほど、改稿の余地ありだな。ありがとう、面接の練習になったよ」
 男はそう言うと席を立ってさっさと行ってしまった。あっけにとられて葉子はその後ろ姿を見送った。葉子もまた行くべき時間だった。
 風が強かった。アスファルトの地面からほこりが舞い上がって葉子の目をうつ。ハンカチの角で目頭をおさえながら歩くと痛みで何も考えられない。さっきの 男の映像はそれでいくぶんかやわらいだが、印象は後味悪く葉子の胸にわだかまった。
 横断歩道のない大通りは歩道橋で渡らねばならなかった。パソコンで印刷した地図を片手に先を急ぐ。ハイヒールの靴音に女としての矜持を葉子は感じる。
 目当てのビルの外壁はやや黄ばんでいた。「明治商事」という社名の彫られた金属プレートはくすんでいる。「シーエス旅行」はもう一つブロックを行った所 に昨年完成したぴかぴかのビルに入っているが、そこは一ヶ月前に葉子は既に受験して落ちている。それが思い出されるので飯田橋からの足どりは軽いとは言え なかった。入り口の自動ドアが開閉するたびに風がうなり声を上げる。葉子は髪の毛をおさえながらビルに入った。
 受付で名前を言ってから案内にしたがってエレベーターで七階まで上がる。エレベーターの中で一人になると葉子は声を出す。体の内側を震わせて、例えば面 接開口一番、声が裏返ったりしないように備えるのと、体の中にためこまれたストレスを吐き出すつもりで。
 エレベーターを降りると矢印の紙が貼ってあり、それをたどっていくと控え室に行き当たった。ドアは開け放たれたままである。入ると同じように面接を受け に来た学生が三人座っていた。みな男だ。黙ってうつむいている。
「あ、おはようございます……」
 おそるおそる葉子が言うと三人とも顔を上げた。めいめい、ソファーに浅く腰掛けて手に会社のパンフレットやメモ帳を開いている。
「おはよう」
 と、一人だけ、黒くふちの厚いめがねをかけた男が笑顔で答えた。あとの二人はすぐにまた手元のページに視線を落とす。葉子は入り口に一番近いソファーに 座った。
「二日の説明会に参加した?」
 すぐにめがねの男が葉子に話しかける。
「ええ」
 葉子は答えながら、ほうっておけば悪い方にばかり傾く面接控え室の雰囲気をなごませる存在を、ありがたく感じた。同じことをしゃべっても喫茶店と控え室 とでは違う。葉子は口の中のコーヒーの残り香を舌でこそぐ。
「けっこう試験むずかしかったよね。グラフの読み取りとか、慣れてなかった」
「そう、私も……何度も手で書いて確認して」
「そうそう、俺もやった」
 目の前の笑顔も、あと数分で他人に戻る。街ですれ違っても顔なんか忘れているからお互い気がつかないだろう。この先どこかに内定しても別に報告の義務も ない。同じ会社に入って内定式で「そういえばあの時の」という再会が演じられる確率なんて本当に万が一だ。けれど、同じ控え室にいる時間のはかなさはどこ か貴かった。もし人生が人と出会い別れることであるならば、その断片が濃縮されてそこにあった。その時だけ、その場だけの雰囲気を保つことにあまりにも葉 子たちは慣れている。しかし、慣れていること、得意であることとそれを望んでいるかどうかは別の問題だ。この控え室にこの見知らぬ四人が集まることはこの 先二度とない。そう思うと葉子は胸が締め付けられるような気持ちになる。
 隣りの会議室からは笑い声が漏れ聞こえてくる。九時を三分ほど回って、女性社員が点呼を取りにやって来た。大学名とともに名前を呼ばれて一人一人返事を する。
「はい、全員おりますね。では、岩風t子さん。最初にご案内いたします。どうぞこちらへ」
 葉子が最初に控え室を出た。連れられるままに歩いていくと木製の立派な扉があらわれた。就職活動はゲームみたいなものだ、ダンジョンをクリアして新しい 扉を開ける、小ボス、中ボスがいて、最後にボスを倒す、などというよくあるたとえ話が葉子の頭をかすめる。
「扉上部の真ん中あたりを、あまり強すぎず二回叩いて中にお入りください」
 と、女性社員はどこまでも丁寧に導く。葉子は言われるままにドアを二回叩いて「失礼します」と言って中に入った。
「なあんだ、女か!」
 ドアを閉める前から葉子は顔面にその痛罵を浴びた。胴間声を発したのはキャメル色に格子縞の入った派手な背広の前をだらしなくあけて椅子にふんぞり返っ て座っている太った男だった。葉子はあまりに絵に書いたような「重役」の男に、今まで言われたこともないような言葉を投げつけられてどうしてよいのかわか らず体をこわばらせる。ともかく大学名と名前を告げて「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「いいからいいから、はやく座れ」
 葉子の指先は震えていた。目の前の人物と意思疎通をはかるという面接の大前提が崩れているところで、どんなことを言えばいいのか葉子はわからなかった。 さっきまでにこにこ笑顔で丁寧に案内してくれた女性社員と、人を人とも思わない雰囲気を部屋中に撒き散らしているこの男と、同じ会社の社員なのだろうか。 葉子は混乱しながら椅子の前に立つ。立ったまま男の顔を上からじっと見つめてしまった。かばんを持つ右の手のひらはぐっしょり汗に濡れている。
「なぁにを突っ立っているんだ、座れと言っただろう。人の話を聞いていないのか、だから女はダメなんだ」
 葉子は慌てて座る。正当とは言えない扱われ方をしていても、今の指摘が正等であることに反論はできない。
「おい、おまえもこの会社に骨をうずめるつもりなんかないんだろう。適当に男を見つけてさっさと家に引きこもるつもりだろう。女はいやなんだよ、すぐ辞め るし陰口たたくし弱音は言うし、使いものならん」
 男は太い万年筆で机の上の履歴書を叩く。葉子は自分の身が鞭打たれているかのような気持ちになる。のどの奥が乾く。さっき飲んだコーヒーが胃の中で胃酸 を誘って、身体が内側からじんわりと溶かされるような感覚を覚える。
「何か言ったらどうなんだ!」
 目の奥が痛んだ。自己PRをしてくださいと言われればいままでどおり答えられる。面接室は言わば学生と面接官との共犯関係を作る場なのだ。アルバイト は、と聞かれれば「コンビニで店員をしていました」で日常生活の会話なら成り立つが、一歩面接室に入ったらアルバイトは、と聞かれれば「コンビニで店員を していました。特にその中で私は接客の面白さを知り……」と自己アピールへの足がかりにしなければならない。そういう暗黙の了解が、多くの場合ある。そし て葉子は目の前の男と共犯関係を作るのは不可能だとしか思えなかった。
「あの……お言葉ですが、女性を採らないのであれば、履歴書を出した時点で落としていただいたほうがこちらとしては助かりますし、お互い非効率だと思うの ですが」
 黒くぴかぴか光る丸い靴先が、面接官の座る机の下から出ている。葉子はそこに視線を落とす。あるいは視線を落とした先に靴先があったのかもしれない。葉 子は独り言をつぶやくように続ける。この場が面接の場であることを葉子はすっかり忘れてしまっていた。
「それに、いまどき女だから、なんて理由で志望者を落としていたらこの先本当に優秀な人材を獲得できないと思います。別に私自身が優秀だと言う気はさらさ らございませんが、少なくとも――」
 そこへ、相手はびりびりと窓ガラスを響かせるばかりの大声で笑い出した。葉子はいつのまにか眉間に寄っていたしわを持ち上げる。
「アッハハハ、わかった。もういい。悪いけど君は不合格ね」
 なにをいまさら不合格扱いにするのだろうか、最初から採るつもりもないのに、と葉子は思って喜怒哀楽を一つの顔の中に凝縮する。
「ハッハッ、でも、一つだけ忠告しておきましょう」
 面接官は笑うのをやめて身を乗り出してきた。
「そう、確かに君の言うとおりだ。いまどき女だからって落とす会社に生き残る保証は無い」
「それなら……」
「まあ待て。いいかい、きみは既にこれが圧迫面接であるという一つの暗黙の了解を忘れている。これはゲームだよ、そしてちゃんとルールがあり、勝ち負けは 決まるようになっている。君は半ば怒りに転じた。もちろん泣き出す子もいる。それは負けになるんだ。ぼくはね、ぼくはだよ、あっ、これは噂に聞いていた圧 迫面接というやつか、それならいっちょ打たれ強い自分を見せてやるか、そういう風に思える人を採りたいと思っている。決して相手のペースに飲まれず、自分 を見失わない。君はたまたま女性だったからわかりやすい理不尽さをぶつけてみたけれど、ぼくは『それならなおのこと、私を御社の女性社員第一号にしてくだ さい』くらいは言って欲しいな」
 葉子はこわばっていた全身から力が抜けるのを感じる。頭に上っていた血が戻ってきたかと思えば耳を赤くした。社会通念の被害者を気取ってまくし立てた自 分を、余裕がなくなって保身にまわった自分を、この世から消し去りたいと思った。
「本気で入ろうとしているようには見えないってことですか……」
「きみは頭も良さそうだからおそらくうちの会社もそれなりに志望度が高いんだと思う。けど、『見える』っていうことは案外大事だよ。仕事をする上でもね。 まあでも、きみは他でならやっていけると思う。うちは営業のノルマがきついから、どうしても採用の段階でこういうことをせざるを得ない。そこは理解して欲 しい」
 それ以上なにを言われても、葉子はこの部屋から一刻も早く逃げ出したい思いでいっぱいで、ただただひざの上で手を握りしめる。
「悪かったね、帰っていいよ」
 面接室を出てまっしぐらにエレベーターに乗り込むと大きなため息が出た。呵呵大笑する面接官の顔が、声が、頭から離れない。しかしその時、葉子はひらめ いたように別の考えにとらわれ始めた。ああして手の内を明かすふりをしてその実、結局は女性を採らないことの口実をこちらになすりつけているのではないの か、という懐疑である。あるのかどうかも確証のない裏をかいてみて、葉子はにわかに体がかっと熱くなるのを覚える。思わず葉子はエレベーターの七階をもう 一度押して面接官に真意を尋ねる衝動に身を任せそうになる。待て……待て……葉子は胸に手をあてて気持ちを落ち着かせる。何度も息をはく。
 エレベーターが一階まで着いてチンと音を立てて扉が開くと、もうそこは二度と来ることはない会社のロビーだった。商談に出たり入ったりする社員がコー ヒーの臭いと煙草の煙をもうもうと立てている。受付で入構証代わりのバッヂを返すと葉子は頭を下げるのも忘れて自動ドアをくぐった。
 どんな結論を今の失敗した面接に下してもそれで結果が変わるわけではない。判断するのは自分ではなく面接官なのだ。葉子は自分にそう言い聞かせながら黒 い思考が自分を支配するのを必死に抑える。同じ道を戻る。ほんの三十分前に時間をつぶしていた喫茶店の前を通る。あいかわらずリクルートスーツ姿の学生が たくさんいる。葉子は店の中に入って「明治商事は女性採らないよ!」と叫んでやろうかとも思った。けれど、ひどく疲れていた。飯田橋に戻ってホームで電車 を待っている時にはもう考えることもおっくうになっていた。
 午後は大学に行った。もう新学期の授業が始まっている。学校を休んで就職活動をすることに、葉子は割り切れなさを感じていたから授業にはなるべく出るよ うにしていた。
 後ろの方の席に座って教室全体を眺めるとリクルートスーツを着ている人は数えるほどしかいない。葉子の友人の中には就職活動を行わない者もいる。と言っ て、世間で騒がれるようなパソコンが得意でベンチャー企業の即戦力になるような人間を葉子は見たことがない。絵を描くのが好きだから卒業してもフリーター をやりながら描き続けると言う者がいたり、その絵がダンスや漫画や小説であったり、特に理由もなく社会に出るのはしんどそうという気分で就職を選ばない者 も少なからずいた。いずれにせよ、葉子は就職活動をしない友達を避けている。軽蔑しているからではない。彼らと同じ雰囲気に飲まれて、せっかく半年近く続 けてきた就職活動を水の泡にしたくないのだ。それくらい、葉子は危ういところに立っている。
 葉子は目の前に座っている着飾った女子学生のあらわになった肩を見ながら、自分は違うのだ、自分は違うのだ、と口の中で繰り返す。なにがどう違うのかは よくわからない。どこも決まらなければ結局同じ道を歩まなければならない。決まらなければ? それは一体いつになったらわかるのだろう。その烙印は一体い つになったら押されるのだろう。日本にある全ての会社に落ちたときに、初めてそう言えるのだろうか。
「おはよう」
 と、葉子に声をかけてきたのはゆきだった。彼女もリクルートスーツである。
「短いんじゃない?」
「そんなことないよ」
 スカートのはしをおさえながら葉子の隣りに腰を下ろす。
「どこ行ってきたの?」
「うん、一般職だけど児島ちゃんも受けるって言うから……あっ、ねえ、明日の昭和生命の説明会行くでしょ。何時の回?」
 ゆきは分厚い手帳をかばんから取り出して広げる。
「午後二時からだけど。あんたも?」
「ううん、葉子が行くなら一緒に受けようかなって。大手町でしょ、そしたら――」
「待ち合わせるなら東京駅の方がわかりやすいから、丸の内の北口に一時半でいいんじゃない?」
「ああそうか、じゃあ待っててね」
 ゆきはピンク色のペンで手帳にしるしを入れる。葉子がのぞきこむと二週間先までカラフルに染まっている。
「なに、あんたずいぶん大手ばっかり受けるんだね」
「え? だってみんな受けてるじゃん。いっぱい採るところのほうがいいんじゃない?」
「そういうものでも――」
 そこへ言語学概論の教官が入ってきた。
 ノートをとる葉子の隣りでゆきはしばらくメールをいじっていたがやがて突っ伏して寝てしまった。葉子はゆきの後頭部を上から眺めながらこうはなれない、 なるまい、と思う。なりたくない、というのとは違う。
 就職活動を進めるうちに葉子は自分自身の要領の悪さを自覚してきている。大学の授業も、概論なら取っている人数が多いから誰かのノートのコピーが試験前 になれば出回る。しかし葉子は自分の手で書いたノート以外は、他人の靴をはくようで使いたくない。結局それが一番自分にとっては効率がいいということか と、自覚したところで直せるものでもないのであきらめているところもある。
 授業中に電話がかかってきて退室するスーツ姿の学生が時々いた。葉子は授業に集中できず、もう何ヶ月も会っていない友人のことを思い返す。ギターケース を抱え頭は真っ赤の斉藤くんは、ティーシャツにジーンズ以外の服装でいるところを見たことのない劇団のさやかちゃんは、いつも同じ授業を二人並んで座って 受けている曽我くんと篠原さんは、どうするのだろう。来年の今はもう、このキャンパスには通っていない彼らの将来を、葉子はどうしても想像できなかった。
 授業が終わった後、葉子とゆきは就職課に足を運んだ。以前ほどではないがあいかわらず狭いスペースに人がひしめいて掲示板を見上げてメモをしている。こ こに来るたびに葉子は病院の喫煙室を思い出す。昼休みになると病院の職員がどこからともなく集まってきて黙々と煙草をふかしてはため息をつく、あの場所を 見たとき、葉子は現実の一端を見たような気がした。ここも同じだ。みんなでため息をついて、あてにならない情報を仕入れて、また戦場へ向かう、そこでは笑 顔を絶やした者の負けだ。
「葉子、葉子、サンテフだよ、すごーい、あたしここの香水好きなんだよねえ」
 ゆきが大声をあげた。まわりの人間が振り向く。そのあわれむような、刺すような視線を、ゆきに名前を呼ばれた葉子も感じた。瞬間、いたたまれず、葉子は いま来たばかりの就職課を足早に出ていく。ゆきはあわてて葉子のあとを追う。
「ちょっと、どうしたの葉子……」
「ね、あんたさあ、ほんとに就職する気あるの?」
 階段を下る途中で葉子は振り返り、とげだらけの声をゆきに叩きつける。狭い空間から逃げ出したのは、あの場所で思わず怒りの声をあげそうになる自分を抑 えるのに必死だったからだ。
「どういう意味?」
 ゆきも相手の顔を上から見ながら表情をこわばらせる。
「遊びで就職活動やってるんじゃないんだよ。人のお尻にくっついて、好きなところだけ受けて、へらへら笑ってさ。そんな就活ってお気楽にやるものなの?  どうしてゆきはそんなに余裕でいられるの? とても、私には、とても本気でゆきが就職しようとしているとは思えない」
 そう言っているうちに葉子の目から涙があふれた。ゆきの姿がぼやける。ゆきが悪いわけじゃない、そんなことは葉子も十分理解していた。けれど、大真面目 に今まで就職活動を続けてきて、面接官や同じ部屋で面接を受けた学生に幾度となく茶化され、表面的な扱いをされ、陰で笑われているような気持ちにさせられ てきて、その自分の隣りであいかわらず危機感もなさそうに就職活動をしているゆきの存在が、葉子には我慢できない限界まで来ていた。
 ゆきはぽつりとつぶやいた。
「葉子まで、面接官みたい」
 ゆきは葉子を追い越して階段を駆け下りて行ってしまった。その時、肩と肩が軽く触れ合った。ひどく重い感触が、葉子の肩に残った。
 その日の夜も葉子は十二時過ぎまで電話がかかってくるのを待っていた。SPIの模擬試験もいいかげん飽きていた。何度も何度も「適性」という得体の知れ ないものを測られるのは、そしてそのために例えば「嘘をついたことがない」という問題には「いいえ」で答えなければ「自分を良く見せようとする傾向があ る」と判断されるいう過剰な論理についていくのは葉子には苦痛だった。仕事に求められることと就職活動で求められることとの食い違いは、採用活動の効率性 という名の下に買い手市場である学生側に負担させられる。
 携帯電話が鳴る。メールだった。劇団の運営に忙しくて大学二年の夏からほとんど授業に出てこなくなった友人のさやかからで、内容は就職先が決まったこと の報告だった。葉子はカレンダーを見上げる。わざと遠ざけていた、しかも葉子の方で勝手に就職は無理だろうと決め付けていたさやかが、自分より早く決まっ た。聞いたこともない会社だったけれど、自分がどこまでのものなのか、どれほどのものなのか、もしかしたらみんなが名前を聞いたことのある会社に入ろうと するのはお門違いなのかもしれない、あるいは逆に外資系で才能をぐんぐん発揮するかもしれない、そんなことはわからない、わからなくて、葉子はあせってい た。自分の認識が甘いということがわかるだけでもいい、それが一つの答えなのだから。けれど誰も葉子にそれを教えてくれない。「きみは他でなら上手くやっ ていけるだろう」と、みんな同じことを言う。「他」ってどこ? 他の会社という意味なのか、会社は無理だから家庭とか自衛隊とか海外協力隊とか公務員とか の全く他の場所のほうが向いているという意味なのか。葉子は「おめでとう」とだけ返信して、携帯電話の電源を切った。部屋の明かりも消して、布団にもぐり こんだ。
 翌日葉子は東京駅でゆきを待っていた。地下のモールに続く階段を修学旅行で来た中学生の男の子がのぼったりおりたりして遊んでいる。ゆきが来るのをあま り期待していなかった葉子はイヤホンで耳をふさぎながら改札を出たところで待っていた。
 平日の昼間でも、背広姿で足早に駅の改札から出て行く人、入っていく人は流れになるくらい多い。それをぼんやり見ていたら葉子に向かって一直線に近づい てくる男がいる。思わず葉子はイヤホンをはずしてみがまえる。
「たちばなさん?」
「え? いえ、ちがます」
 と葉子が答えると後ろから「あ、私がたちばなです」という声がした。振り返るとゆきよりも短いスカートに派手な化粧をした背の高い女子学生が立ってい る。
「ああ、失礼」
 男は葉子の前からさっさと立ち退き、名刺を出しながら言う。
「どうも初めまして。大和地所の沼澤です。えっとね、君と同じ英文学科出身なんですよ。だから直系のOBになるのかな。大木から聞いたけど、ダンスをずっ とやってるんだって? それでそんなかっこう? うちの大学のわりには珍しいねえ、たのもしいねえ、さ、まあとりあえずコーヒーでも飲みながらお話しま しょう……
 じろじろ見るものでもないので葉子はすぐに首をもどしたが聞き耳を立ててしまう。会社がOBを紹介してくれるリクルーター制は葉子の通う大学には縁のな いものであった。学歴の差別はまだ残っている。けれど、それは差別ではなく区別といった方がいいのかもしれない。葉子は大学に入る時点で努力をした人は評 価されてもいいと思う。けれどそれに感情がついていけない。
「ようこ」
 聴覚から視覚へ葉子を呼び戻したのはゆきの声だった。昨日一瞬見せた冷たい顔が別人だったのではないかと思わせるほどの笑顔で。葉子もつられて口角を上 げる。しかし自分のその笑顔が面接のときに作る笑顔と同じだと気がついて葉子はすぐに無表情に戻った。
「行こうか」
 言葉すくなに二人は大手町方面へ向かって丸の内のビル街を歩く。空は今にも雨が降り出しそうな様子である。昼休みが終わって足早にオフィスに戻っていく OLと二人は何度もすれ違った。
「ステキだよね、丸の内OL。あたしもあんなふうになってみたい」
 ゆきがビルの一階に構えるカフェの中をのぞきながら言う。けれど、声のトーンは低い。いつもの打たれて響くような調子ではない。あらかじめおぼえてきた ような台詞だった。
「ゆきなら細身だしああいうスーツ似合うんじゃない? 野暮ったいリクスーじゃゆきのよさは見えないよね、きゅっと腰がしまってて襟ぐりが開いてて――」
 なにを自分はぺらぺらしゃべっているんだろうかと葉子はとっさに思った。それは自分もまたおぼえてきたようなことを言っているような感覚だった。そして それは、やはり面接を受けているときの自分によく似ていた。
 会場はビルの地下にあるホールだった。階段を下りていくと「昭和生命会社説明会」という張り紙がしてある。まだ会場の中には入れないらしくロビーには学 生があふれていた。葉子とゆきは空いているところに移動して手持ち無沙汰に立っていた。周りを見回すと友達同士で来ている人も少なくない。つとめて一人で 行動してきた葉子は会場でそういう人々を見るたびに「本気で就職活動をしているのだろうか」と思っていた。けれど隣りに知っている人間が一人いるというだ けでいやな緊張から気がまぎれるのを葉子は感じていた。一人でいると説明開始まで待っている時間が異様に長く感じられるのだ。しかし今日に限って言えば、 ゆきと二人でいるのは一人でいるより気が重かった。
「そういえばさあ、ヘンな女がいてさあ」
 葉子とゆきの立っている前に立っていた三人組の男子学生が野太い声でおしゃべりを始める。例えば集団面接で一緒になった学生の悪口をあとで言うことの快 感を葉子も知っているが、みんなの聞こえるところでそれを言うことは不快を与える。帰りのエレベーターの中でそれを言う人さえ葉子は見たことがある。
「なんか俺と必ずおんなじところ受けるの。どこ受けるのかって聞いてきてさ、数日たつとあたしも受けたんだけど試験難しかったね、とか言ってさ」
 耳をふさぎたくなった。葉子はゆきのほうを見ないようにした。
「なにそれ、俺様モテますっていう自慢?」
「ちがうちがう、そういう話じゃなくて」
「でもいるよねそういう女の子って。自分の頭で考えられないんだろ。……あ、開いた、中に入ろう」
 開場の時刻になって人の流れができる。入り口から一番遠いところにいた葉子とゆきはゆっくりと人々の後ろについていった。
「気にすることないよ」
 葉子はゆきに言う。ゆきは黙っている。ホールに入っていすに二人並んで座る。ゆきはうつむいたままである。ひざの上に置いたパンフレットの表紙には「本 気の君へ」という文字が印刷されている。
「気にすることないよ」
 葉子は小さな声で、ささやくように言った。そのうち会場がうす暗くなって、説明会が始まった。ゆきは顔を上げなかった。葉子はメモ帳にペンを握ったまま 何も書けず、話を聞くふりをしながら目の端のほうでゆきの様子を気にしていた。
 説明会は会社の概要をまとめたビデオを見たあとで社員が五人ほど出てきて自分の仕事の話をし、質疑応答で終わった。あいかわらず女性の職場での扱いにつ いての質問は多かったが葉子の頭にはほとんど残らなかった。
 外に出ると傘をさしている人が歩いているのを見て二人は初めて雨が降っていることに気がついた。
「ねえ、気にすることないよ、あれは男と女の問題だよ」
 葉子はしつこいと思いながらも、ゆきからなんとか言葉を引き出したかった。自分自身が彼らと同じとは言わなくとも似たような感覚をゆきに対して持ってい たことが、どうしても責められているような気がしてならない。
「あたし、就活やめる」
 ゆきは横断歩道の前で立ち止まった。客待ちのタクシーしか通らない駅前の横断歩道で立ち止まる理由はない。
「……本気で言ってるの?」
 ゆきの顔はかさで葉子からは見えなかった。その声は、ふるえていた。
「本気って? 本気でやれば誰か拾ってくれるの? もうこんな思いしたくないよ……」
 ゆきは何度も鼻をすすった。何度も息を吸って、はいて、気持ちを落ち着かせようとした。葉子はその様子を後ろで見ながら明治商事での一件を思い出す。ゆ きも、同じ思いを必ずどこかでしているはずなのだ。葉子がゆきにやつ当たりをしても、そんな話をゆきは葉子に一度もしなかった。
「あたし、お嫁さんになるよ」
 声の調子がいつものゆきに戻った。黄色くて人に甘える、男の子が好きな声。葉子は何も言わなかった。それを止める言葉など持ち合わせていなかった。
「とにかく、歩こう」
 横断歩道を渡って再び東京駅の北口に戻ると葉子は京葉線で午後、また別の会社に行かなければならなかったのでそこで別れた。ゆきはもう、葉子の後につい てこなかった。バイバイ、と言って手をふって別れた。
 ゆきの後ろ姿が改札の人ごみの中に消えるのを見送って、葉子は乗換えのために北口を出る。傘を開いてレンガだたみの上を歩いていく。雨は降っていたが、 雲のかかる空は明るかった。もちろん傘をさしている葉子には見えなかったけれど。

(つづく)

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